第11章

(1)

 もう少し遅ければ、士郎の心は確実に壊れていただろう。その寸前で、原稿を書き終えることができた。最後に(終わり)と書くと、魂が昇天しそうなほどに疲弊していた。
 ほぼ1年かかった。しかしこれまでと違って、新人賞の締切に焦ることもなく、落ち着いて書き終えることができた。その分、とうとう書き終えたという気分の高揚もなく、何とか締切に間に合ったという安堵もない。完成させたその気持ちは、じっとりと重い。
 最後に丸1日かけて、ひと通り原稿を読み返してみた。読み終わった時、言い知れぬ哀しみが襲ってきた。いったい自分は何をやっているのか。来年は40歳になる。自分の30代はこんなことのために費やされてしまったのか、と。こんなことと言うのは、トランザクション株式会社で舐めた経験のことである一方、作品として書き上がったばかりの小説のできばえのことでもある。決して心躍るストーリーではない。それよりも、苦渋が紙面から滲み出てくるようだ。それがこの作品の最初の読者としての感想であった。結局のところ、7年かかって、自分の手許にはこのひと束の紙片しか残らなかったのだ。
 冬子は相変わらず夜になると隣の部屋で、猫のように息を殺して士郎を見守っていた。もしかすると原稿が完成したことを、気配で察知していたかもしれない。しかし士郎はそのことを冬子に告げなかったし、読ませるつもりもなかった。それが約束を破ることになることを、士郎ははっきりと自覚していた。
 その約束を士郎は今も覚えていた。
「完成したら、一番に読ませてね。約束よ」
 あの時、冬子はそう言った。
「ああ、約束だ」
 士郎はそう答えた。
 しかし、今、士郎はその約束を破ろうとしている。もはや冬子のことを味方とは思っていない。おそらくは愛してもいない。士郎の心はひたすら孤独を志向し始めていた。
 その翌日、士郎はコンビニで長い時間を費やして原稿をコピーし、そのまま郵便局へ持って行って、ずっしりと重い小包を卯木宛に送った。
 卯木とは夏に一度電話で話したきりだった。今でも卯木が士郎の原稿を心待ちにしているかどうか、士郎には疑問だった。
 郵便局を出ると、後頭部に昼下がりの日差しを感じた。いつの間にか地上に春がやってきていた。自分の影を見た。そして士郎は泣きたい気持ちで思った。
「何もかも、なかったことにしてしまいたい。トランザクション株式会社には入社しなかった。田宮とは闘わなかった。早川なんて女は知らない。冬子とは出会わなかったし、小説なんて書かなかった」
 士郎には自分の気持ちが破滅に向かっているとしか思えなかった。だから士郎が3日も経たないうちに卯木からの電話を受けた時、卯木の興奮した張りのある声によって、絶望の淵に救いのロープが投げ込まれたような気持ちになった。
「今、読み終わったところだ。仕事そっちのけさ。原稿は昨日の昼過ぎに受け取った。それから飯も食わずに読み続けたよ。今朝も目が覚めてからずっと読み続けていたんだ。よく書けてるぜ。ひとつひとつのエピソードに、うん、うん、そんなことがあったなって、頷いてた。それにしてもおまえ、黙っていたけど、おれの心の中まで見事に見透かしていたんだな。は、は、まるでおれが自分で書いたようだぜ。もっともおれにはおまえほどの文才はないんだけどな。とにかく出て来いよ。この原稿、日の目を見せてやろうぜ」
 卯木の声は興奮気味で、受話器のスピーカーが割れそうだった。
「じゃあ6時にレストラン『ラ・マルセイエーズ』で」
 と士郎は約束し、電話を切った。レストラン「ラ・マルセイエーズ」と言った瞬間、士郎の心の中に誇りが甦ってきた。耳の中で勇ましい行軍歌が高らかに鳴り響いた。
 士郎は1年前の卯木との約束を果たした。この小説を書き上げることが闘いの第2幕だと、卯木と誓い合ったのを覚えている。とにかく書き上げることによって、士郎は少なくともその約束は果たした。今や卯木は士郎にとっては最も大切な友人だ。その友情を裏切らなかったのだ。
 それに卯木のあの弾んだ声。士郎はこの小説が出版されて多くの読者が読むとは思えなかった。こんな話を見ず知らずの他人が読んで面白いわけはない。しかし卯木は違う。あの過酷な年月を共に過ごした盟友だ。その卯木が読んで喜んでくれた。それだけで士郎は満足だった。
 士郎は電話を切ってから、軽い心で出かけた。
 レストラン「ラ・マルセイエーズ」では卯木が先に来て待っていた。テーブルの上には士郎が送った原稿が置いてあった。その束は分厚く、綴じひもで締め上げられて、表紙が傾斜していた。
 士郎が席に着くと卯木がウェイターを呼び、かつてのように赤のグラスワインと白身魚のフライをオーダーした。
 卯木はもどかしそうに言った。
「昨日から興奮気味だよ。何から話そうか?」
 士郎は落ち着いて言った。
「まずは感想を聞かせてくれないかな」
「ふ、感想か。最高だぜ。さすがだ。リアルなんだよ。描写のひとつひとつが。あのごった煮の大部屋の、向こうの端がかすんで見えるような濁った空気。パソコンから発する焦げ臭い熱気。血しぶきを捲き散らしたような人事課の陰惨な雰囲気。人の気持ちを巧みに萎えさせる田宮の怒鳴り声。早川の冷たく人を見下したような冷笑。おれたちの無力さや切なさ。そんなこんなが目の前に甦ってくるんだよ。そして圧巻は何と言ってもクライマックスの田宮の追放劇。その後の揺れ戻しの村尾の裏切り。さらにおれが辞めて、おまえまでが会社を去る時の哀愁。どれを取ってもよく書けてるぜ。言うこと無しだ」
 士郎は何も言わなかった。卯木が喜んでくれたのはもちろん嬉しかった。しかしそれは内輪受けに過ぎない。卯木も士郎もつらい経験をして、それがトラウマとして重く心の中に沈んでいる。この小説を読むことがそのはけ口にはなったとしても、それでは文学としての価値は低い。
 そのことを、率直に士郎は問うてみた。
「ストーリーの起承転結は構成したつもりだよ。しかし話の規模が小さ過ぎるよ。殺人事件も起こらなければ、銃撃戦もない。どこをどう探しても、国家レベルの陰謀の陰さえない。クライマックスは人事部長の追放で、そんなものは普通の会社では辞令の紙切れ1枚ですむ話だよ。サラリーマンの日々の体験を書き連ねて800枚。退屈な作品じゃないか?」
 しかし卯木は力強く言った。
「おれたちには、おれたちなりの闘い方があっただろう? ひと言で言えばリアリズムだよ。おまえの的確な戦術のおかげでおれたちは勝てたんだぜ。それを杉山が言ったみたいに、田宮を刺し殺してみろよ。そうすればお望みの殺人事件さ。しかしそんな作り物の話に、今さらおれは感動しないぜ。これはリアリズムで勝負する作品なんだよ。これでいいんだ。とにかく、完成おめでとう」
 卯木は満面の笑顔でワインのグラスを差し出し、士郎に乾杯を求めた。
 グラスを合わせた後で、卯木はちょっとした不満を口にした。
「しかし登場人物は全部仮名にしたんだな。小説の中に実名で出ているものと言えば、このレストラン『ラ・マルセイエーズ』だけだぜ。いっそのこと、全部実名で登場させればよかったのに」
 その辺りが卯木の気持ちなんだろうと、士郎は思った。卯木は腹の中のものを全部ぶちまけて、すっきりしたいと思っているのだ。それを世間に晒して溜飲を下げたい、と。その気持ちは分からなくもない。しかしそんなことをすれば余計に惨めな気持ちになる、と士郎には思えた。だから士郎は言った。
「そういうわけには行かないさ。フィクションに仕立てることで、かえって浮かび上がってくる真実というものもあるよ」
「と言うと?」
「それこそリアリズムだよ。よく事実は小説よりも奇なりと言うだろう? それをひっくり返してみるんだよ。小説は事実よりも普遍的である。そうすることによって真実が実際の諸事件から切り離されて、普遍性を持って浮かび上がってくる」
「その真実とは?」
「おれたちが身をもって思い知ったことだよ。例えば、田宮みたいな悪党が単独で存在しているのであれば、あそこまでの害はなかったはずさ。誰からも相手にされないか、つまみ出されるのが落ちだからね。ところが早川のような女が、表向きは善良そうに振る舞いながらそれを支える。裏ではしっかり自分の分け前に与っていたとしても、そんなことはおくびにも出さない。そして周りの者たちはそんな早川を仕事のできる優秀な女性だと褒めそやす。こうなってくると厄介だよね。体制としてできあがってくるわけだ。それに抵抗するのは至難の業だよ。ここに田宮みたいな悪党が生き延びる余地がある。こわもてとでも言えばいいのかな。内心は恐れ、嫌悪しながらも、みんながそれに追従する。それを突き崩すのがどんなに苦しかったか、おれたちは身をもって知っているだろう? するとこの体制は田宮ひとりを排除して、それで終わりとは行かなくなってくる。第2、第3の田宮は常に現れ得るし、また作られもする」
 士郎は淡々と語った。
「ああ、その通りだぜ。おれたちにとって田宮と早川のどちらが恐ろしい毒だったかと言えば、むしろ早川の方だろう」
「あからさまに悪事を働いて私腹を肥やすやつには健全な怒りが湧いてくる。しかし一見善良そうな者が、裏でそのおこぼれに与っていると知ると、その怒りは萎えるよね。そして中には損得だけを考えてその分け前に群がる俗物もいる。あるいはそれに異議を唱えるのは得策ではないと傍観を決め込む者もいる。さらには、口では自分こそ被害者だと嘆きながら、ひたすら闘いの足を引っ張る珍妙なやつもいたよな」
「いた、いた。あれには参った。憎めないやつだったけど、全身の力が抜けちまったぜ」
 卯木は心地よく笑いながら言った。
「そんなこんなを描きたかったんだよ。そんなのはどこにでもいる。トランザにもいたし、他の会社にもいる。だったら何もトランザの社名を出す必要はない。いや、むしろ出さない方がいい」
「なるほどね。それがおまえ流のリアリズムというわけだ」
 士郎はワインをひと口飲み下し、にっこりと笑って頷いた。
「それとあと、この『骨、語る』という題名も気に入ったよ。とにかくあの頃は持ちこたえるので精一杯で、この疲労困憊した身体のどこにそんな力が残っているのかと思ったもんだよ。実は骨で闘っていたんだ、おれたちは」
「そう。それにおれたちがあの闘いの中で守り通したものは、たとえこの身が焼かれても残るはずさ」
「ああ、そうだな。だから『骨、語る』なのか。とにかくいい題名だ。そこで早速なんだが…」
 卯木がただならぬ雰囲気を漂わせて懇願した時、士郎は虚を突かれたようで思わず怪訝そうな顔をした。
「頼む。この作品、おれに預けてくれないか。ここから先はおれの闘いなんだよ。おれはこの作品をどこか大手の出版社から出版させたい。おれたちの経験はおれたちだけの胸に仕舞っておくべきものじゃない。そんな泣き寝入りは絶対にしたくないんだ。おまえは前に言ったよな。あの闘いでおれたちは勝ったと言えるかどうかは疑問だと。その通りさ。田宮を人事部から叩き出してやるなんて言ってたけど、おれたちは既にトランザにさえいない。居残った方が勝ちだと言うのなら、勝ったのはやつらの方だ。それが悔しいんだよ。じゃあ、おれたちは負けたのか? あんなやつらに? いや、まだだぜ。勝負はこれからなんだよ。おれにチャンスをくれ。かつておれはおまえを課長にして見せると言って、それを果たせなかった。だからこんなことを言えば、おまえはまたかと思うかもしれない。でもおれは今度こそ、おまえを世間にちょっとは名の知れた作家にして見せる。それがおれの最後の闘いなんだ。だから頼む。この作品、おれに預けてくれ」
 卯木はテーブルに額を擦りつけんばかりにして士郎に懇願した。
 それに対して士郎は気の抜けたような調子で言った。
「元々おまえのために書いたんだ。おまえにやるよ。その作品は長過ぎるのさ。どこの新人賞にも応募できない。完全に枚数オーバーだからね。だからおまえの好きにしていいよ。もしどこからも相手にされなくても、それならそれで構わない」
「おい、おい。そんな言い方をしないでくれよ。この小説はこれからのおれたちの旗印なんだ。こいつを掲げて闘うんだぜ」
「なあ、卯木よ。おれは思うんだが、おれたちの闘いって、本当にあれでよかったのかな。言ってしまえば、敵と闘うなんて、世の中で2番目に簡単なことなんだよ」
 卯木は眉間にしわを寄せて訊き返した。
「何だよ、その2番目に簡単なことって?」
 士郎はにこりともしない無表情で答えた。
「1番簡単なのは味方と仲良くすることさ。敵と闘うなんてその次に簡単なことだよ。敵と仲良くしたり、味方と闘わなきゃならないことと比べれば、どうってことのないことだっだんじゃないのかな」
 それを聞いて卯木は苦笑した。
「今の言葉、もし闘いもしなかったやつが口にしたんなら、おれはぶん殴る。しかしおまえが言うと背筋が寒くなるぜ。その、世の中で2番目に簡単なことがまともにできないやつが、おれたちの身近にどれだけいたことか。このおれにしたって、思い残したことはどっさりある。だから続きをやりたいと思っているのさ」
 士郎は溜息をついた。そして投げやりに言った。
「実はおれはもうしゃかりきになって小説家になりたいなんて思ってないよ。その作品を書き終えて分かった。もうすっからかん。これ以上は何も書けない。書きたいとも思わない。これから仕事を探して、もう一度サラリーマンをやるつもりさ。それをおまえが負けだと言うのなら、それでもいい。もう負けてもいいんだ、おれは」
 しかしその士郎の言葉に、卯木は不敵な笑いを浮かべた。
「おれは知ってるぜ。それがおまえの恐ろしいところだ。口ではそう言いながら、実際のおまえの行動はどうだった? つい数日前におまえはこの作品を書き上げたばかりなんだぜ。今はすっからかんで当然だ。正直なところ、おれはおまえがこうやって作品を書き上げるとは思ってなかった。悪く思うなよ。おれはおまえを優柔不断なところのあるやつだと高をくくっていたんだ。ところがどうだ。おまえは立派にやり遂げた。恐ろしいやつだと思うよ。おれが田宮なら、おまえのようなやつは敵に回したくないもんだ」
 その卯木の言葉を聞きながら、士郎には分かっていた。卯木は必死になって士郎の心をくすぐり、持ち上げようとしているのだ。実際、悪い気はしなかった。そして思った。こういう友達を何人も持ってみたいものだ、と。
「ところで…」
 と、卯木は急ににやにやしながら言った。
「ところで、あの冬子さんという人はどうしてる? 元気にしてるか?」
 士郎は微かな笑いを浮かべて、それにはすぐに答えなかった。
「結婚するんじゃないのか? 会ったことはないけど、話を聞く限りではいい人だ。おまえもそろそろ年貢の納め時だと思うが、どうだ?」
「いや。実はぎくしゃくしてる。うまく行っていない」
 士郎は冬子があの夜早川と会ったことは言わないでおくつもりだった。
「なぜだ? おまえほどの男なら彼女の価値が分かるはずだ。あの言葉、『泥水をすすってでも這い上がるべきよ』って言うあの言葉が、おれには忘れられないんだ。彼女のことは大切にすべきだ。ちょっとやそっとでは見つからない、男の心を理解できる希有な女だと思うんだがな」
「出会い方が悪かったのかもしれないよ。言ってみれば彼女はおれのスポンサーだろう。パトロンとも言うよ。おれは彼女のひもみたいな状態にあって、男としてのプライドが保てない。けちなことを言うようだけど、これは男にとっては大切なことだと思うよ。だからおれは彼女に依存した生活を終わりにして、もう一度サラリーマンをやろうと思っているんだよ。さっきそう言ったのは、そのためでもあるんだ」
「おい、おい。そんなことは今の一時のことじゃないか。おまえはこれからデビューするんだぜ。それはおれが保証する。万が一本が売れなかったとしても、このおれが後援者になってやるよ。その必要があるのなら経済的な援助だってできるんだぜ。何も彼女は資産家の未亡人というわけではない。ただのOLなんだろう? わずかな貯金を削っておまえを援助しているに過ぎない。やがて立場は逆転するさ。おまえが彼女を支えなければならない時がやってくる。確実にそうなる。目先のことだけを捉えて、ひもだなんて卑下するなよ」
「これは気持ちの問題なんだよ。理屈じゃ駄目だ」
「相変わらず頑固だ」
「さっきは優柔不断と言ったくせに」
「優柔不断で、なおかつ頑固だ」
「言ってることが矛盾しているよ」
「剛胆で繊細。放埒で緻密。楽観的で現実的。どれも矛盾はしていない。それを敢えて矛盾と言うなら、おれはおまえほど矛盾した男を知らない」
「とにかく、彼女とのことはなるようにしかならない」
「では、最後にひと言だけ言わせてくれないか?」
「何だ?」
「おれがおまえにかつて忠告したことを思い出して欲しい。おれはくどいほどこう言ったはずだ。早川眞紀には気を付けろ、と」
「ああ、覚えているよ。あの忠告は正しかった。貴重な忠告だった」
「それだけか?」
「と言うと?」
「おまえはあの忠告を最後まで聞き入れようとはしなかったよな。おまえの言った、早川を田宮から引き剥がして味方に付けようっていう戦術に、最後の局面までこだわり続けたんだ。それは止めるとおれに約束したにもかかわらず、おまえはおれを裏切って早川と接触し続けた。おれには最初から分かっていたんだぜ。あの時おまえの目の中に裏切りの予感を感じてたんだ」
「何のことを言ってるんだ?」
「とぼけるな。時間精算だ。村尾が人事担当役員に就任した時、まず手を着けるべきところは何かと訊かれて、おまえは時間精算だと言った。有給休暇が時間外勤務と相殺されて、年間1億数千万円の時間外手当がネグレクトされている。こんな違法なことはやめにしたいとおまえは言った。それに対して村尾は言ったよな。今年度は様子を見るが、来年度から是正することになったって」
「ああ、言った。覚えてる」
「だったら、なぜすぐ準備に取りかからなかった? あの時村尾の指示を楯にとって、翌年には一気にひっくり返してやることができたはずだ。しかしおまえはそうしなかった。田宮と論争を始めたよな。当然田宮は反論してくる。覚えているか? 田宮の反撃にもたついているおまえにいらいらして、あの時村尾はこう言った。『文句があるんなら直接おれに言ってこいと、そう田宮さんに伝えておけ』と。あの言葉には笑わされたぜ」
「ああ、そうだった。笑ったよ。腹を抱えて笑った。あの強気なのか逃げ腰なのか分からないところが、村尾の特徴だった。彼はああやって世の中を泳ぎ渡っていくやつだった」
「しかしな、おまえもおまえだよ。自分が今までやってきたことが違法だなんて、誰がすぐに認めるもんか。あれは全く不毛な論争だった。時間を無駄にしたんだ。田宮を説得できると思ったのか? あの田宮が心を入れ替えて自分の非を認めるとでも?」
「まさか」
「そうだよな。おまえは田宮を説得しようとしたんじゃない。おまえが説得しようとした相手は早川眞紀だ。おまえは田宮と泥沼の論戦を繰り広げる一方で、必死になって早川を自分の説に引きつけようとした。その結果、どうだった? 早川はのらりくらりとおまえの突きつけた論点をかわして時間稼ぎをした挙げ句、あろうことか『大阪コネクション』に根回しをしたよな。おまえの主張を葬るために、『そんなことをすれば大変なことになる、いくらコストがかかるか分からない』って陰で論陣を張ったんだよな。わざわざ藪をつついて蛇を出したようなものだよ、あれは。そのせいで時間精算の是正は、少なくともおれのいる間にはできなかった。そうじゃなかったか?」
「ああ、その通りだ。全て認めるよ。おまえの言う通りだ。最終的に決着が付いたのはおまえが退職したずっと後、おれがトランザを辞める直前だった」
「おれの忠告は間違っていたか?」
「いいや。間違っていたのはおれの方だった。おれは人を見る目がなかった。早川をもっとましな人間と信じて疑わなかった。彼女も田宮の被害者のひとりなんだと、頭から思い込んだ。全く愚かだった。全てお見通しだったわけだ、恐ろしいやつだよ」
「恐ろしいのはお互い様だぜ。しかし男同士のコミュニケーションっていうのはこういうものだろう? 明け透けで品のない女のおしゃべりとは違うんだよ。言葉にならない思いが伝わるんだ。しかしおまえが今言った『人を見る目がない』って言うのは、今も当てはまるんだぜ」
「あ?」
「おまえに足りないのは女を見る目なんだよ。何が言いたいか分かるか? おれは何も過去のことを持ち出しておまえをやり込めようなんて思っているわけじゃない。冬子さんのことだよ。早川で一度懲りたと思うんなら、今度こそおれの忠告を聞き入れてくれ。悪いけど、女を見る目ではおれの方が一枚上手だよ。おまえは独身だけど、おれには女房子どもがいるんだ。驚くなよ。11歳でも女はやっぱり女なんだ。そいつらと毎日一緒に過ごしているんだぜ。おまえは女が分かっていない。だけどこれは仕方がない。おれと張り合おうなんて思わずに、諦めておれの忠告に従ってくれ。冬子さんを大切にしろ。他にいない。もう巡り会えないぞ、あんな女は」
「会ったこともないくせに」
「おまえの話を聞けば分かる」
「どんなもんだか」
「おれを信用しろ」
 卯木はしつこく士郎に忠告を続けた。そのしつこさが友情に根差したものだと思うと、士郎は心を動かされもした。しかしこの時既にそれは手遅れだったのかもしれない。

(2)

 卯木に預けた原稿のことは、士郎はその翌日には忘れ去っていた。まるで小説の完成の目的は、ひたすら卯木を喜ばすためだけのものであったかのようだった。
 とにかく、士郎は仕事を探すことにした。冬子の経済的援助で暮らした1年の間、遥か上空から真っ逆さまに落下しているような感覚だった。このままでは必ず眼下の地面に激突する。しかしそれまでには十分な時間があり、士郎が仕上げた小説はその落ちてゆく不思議な感覚の中で書き上げられたものである。今それを書き終えた後で、迷わずパラシュートを開かねばならない、と士郎は考えた。
 冬子とのことはそれから考えても遅くはあるまい、と言うのが士郎の弁明だった。何も再びサラリーマンをやることが卯木を裏切ることにはならないし、冬子との縁を切ることにもならない。ただ冬子に生活を握られていることを止めるだけである。互いに生活を独立させた時点で、2人の関係を考え直せばいいのだ。そのためには冬子には一旦この部屋から出て行ってもらわなければならない。
 その夜、士郎は冬子が仕事から戻るのを待ち受けて、言った。
「小説は完成したよ。友人の卯木という男が、おれのエージェントを買って出てくれて、原稿はそいつに託した。だから君との契約は終了だよ。1年間、ありがとう」
 士郎の喉から、自分でもぞっとするほど冷たい声が出た。われながら、何と身勝手な言い草なんだと思った。
 冬子はその言葉を予感していたように、平静を保って言った。
「おめでとう。売れればいいわね、その小説。それで士郎さんはこれからどうするの?」
 まるで士郎の心の中を探るような言葉だった。
 士郎はうろたえた。なぜなら、これから2人の関係をどうするのかを、士郎の方から冬子に問いかけるつもりだったからだ。そうやって士郎は責任の少なくとも半分を冬子に負わせようとしていた。冬子はその士郎の狡さを見逃さず、先手を打って言ったのだ。つくづく聡明な女である。士郎は言葉に詰まった。
 沈黙の中で2人は見つめ合った。士郎は瞳の奥を冬子に覗き込まれ、何事も隠せないと観念した。
「もう小説は書かない。もう一度サラリーマンをやって、ひっそり地味に暮らすよ。今おれが求めているのは、闘いでもいなく、文学でもない。勝ち負けのない、人並みの人生なんだよ」
 それは本来ならば冬子の待ち望んだ言葉かもしれなかった。しかし今、そこには士郎の心に潜む底知れない冷たさが感じられた。冬子はじっと士郎の瞳を凝視した。
 冬子の視線に無言の圧力を感じた士郎は、結局「この部屋を出て行って欲しい」という言葉を言えなかった。それを敢えて口にしなくても、やがて冬子の方から出て行くつもりなのだろうという予感もあった。そう考える自分の狡さにちくりと胸が痛む一方、冬子はそんな女なのだという言い訳をも考えていた。
 士郎が黙っているので、冬子は諦めて隣の部屋へ行った。士郎はその夜遅くまでを、机の前ですっからかんになって過ごした。
 その翌日、士郎は就職活動を始めるための準備に取りかかった。まず真っ先にスーツを新調した。ワイシャツとネクタイも新しく買い揃えた。革靴も買った。鞄も買った。腕時計も、駅前の量販店に吊してあった安物だが、ビジネスマン向きのシンプルなものに替えた。そして文房具屋へ行き、日付の入った手帳と、履歴書の用紙を大量に買った。それから床屋にも行った。それから裾上げの終わったスーツを受け取り、一旦部屋に戻り、全て新品に着替えてから出直した。写真屋で履歴書に貼り付ける写真を撮ってもらうためだ。写真は大量に用意した。
 そして人材紹介会社のインタレスト株式会社に登録して、仕事の紹介を待つ。思えばトランザクション株式会社に村尾や笹本が入社してきたのは、インタレストを通じてのことだった。それに士郎が別の用件でインタレストと接触した時、笹本の密告で村尾に転職活動を疑われたことがある。士郎の目には、インタレストに任せておけばよほどうまく仕事の斡旋をしてくれるものと映った。
 士郎が登録のためにインタレストを訪ねると、キャリアコンサルタントと称する、30歳を少し越えたぐらいの女が士郎を待っていた。若宮と名乗ったその女が、パーティションで仕切られた個室で、士郎と面談しながら求職用のプロフィールを作っていった。士郎は若宮の質問に答えて、希望の職種はこれまでと同じ人事か総務、希望の勤務地は首都圏としておいた。
「希望の年収はどれぐらいですか」
 そう聞かれて、士郎はトランザクション株式会社での年収を遥かに上回る金額を伝えた。
「750万円以上です」
 それは士郎が調べた、士郎の年齢での大卒の全国平均年収だった。
 それを聞き、若宮は眉を曇らせた。士郎の前職であるトランザクション株式会社での地位が係長でしかなかったこと、退職時の年収が思い切り背伸びをしても550万円でしかないこと、とりわけトランザクションを退職してから1年余りの空白期間があること、さらには士郎がもうすぐ40歳にもなるのに未だに独身であることなどを取りざたして、この転職は条件が厳しいと言った。
 その言葉に、士郎は不愉快というよりも、悲しくなった。自分はこの女によってまな板の上に載せられている。この女は士郎自身が忘れてしまいたいと思っていることを、鋭利な言葉でほじくり返そうとしている。しかもそれはこの若宮が悪いのではなくて、強いて言うならば士郎自身が悪いのである。7年前にトランザクション株式会社に入社した自分が悪かったのであり、その時婚約者に愛想を尽かされた自分が悪いのである。いわば目の前に見たくもない鏡を置かれ、そこに映っている自分のみすぼらしい姿に悲しくなったのである。この時の士郎にとって、自分自身と向き合うことほど苦しいことはなかった。
 登録をすませ、インタレストを後にすると、士郎の気持ちは深く沈んだ。自信や誇りが消し飛び、悲観的な気分になった。誰とも会いたくなかった。目を伏せてそっと部屋に帰りたかった。しかし部屋で冬子と顔を合わせるのもいやだった。だからどこにも行く場所がないような気がした。
 ふと、卯木ならこんな時、何と言って励ましてくれるだろうかと思った。彼なら必ず士郎の価値を見出してくれるだろう。それを思うと少し勇気が湧いたが、それは最後の切り札に取っておかなければならないような気がした。若宮が言ったようにこの転職は条件が厳しいのなら、これから先もっと落胆するようなことがいくつも起こるだろう。もう持ち堪えられないというその時まで、卯木に相談するのは置いておこうと思ったのである。
 それよりも、今はインタレストと担当の若宮に希望を繋いだ方がいいような気がした。インタレストに限らず、人材紹介会社に職を紹介してもらうのは無料であるが、人材紹介会社も歴とした営利企業であり、求人企業側からしっかりと報酬を受け取っている。その報酬というのは成功報酬制であり、紹介した求職者が採用された場合、年収の30%に相当する金額を請求する仕組みなのである。さらにはキャリアコンサルタントという職種の給与体系は、歩合制の部分が大きく、斡旋を成功させれば成功させるほど収入が増えると聞く。もちろん最低保証額というものがあるらしいが、その金額は低く、キャリアコンサルタントを職業としてやってゆくためには、いやでも一定人数以上の転職を成功させなければならない。だからインタレストも若宮も、士郎を首尾よく売り込もうとするはずなのである。
 実際、若宮は精力的に働いてくれた。2日後には、インタレストからの大きな封筒で、2社の求人が郵送されてきた。こんな会社が求人しているが応募してみるか、と言うのである。士郎が若宮に電話して「是非、応募させて欲しい」と答えると、数日後、若宮から電話がかかってきて1次面接の日程が伝えられてきた。
 面接日を待つ間にも、インタレストからの封筒が配達されてきて、次々と新しい求人企業が紹介された。士郎は手当たり次第に「応募する」と答えていった。士郎の方から全く選り好みしないことはいかにも安売りの感があったが、その一方で、数多くの面接でスケジュールを埋めて忙しくすることが、士郎にとっての救いになるような気がしたのだった。
 いくつ面接を受けても、面接日には朝から緊張した。早めに出向いて、たいていは駅で時間を潰した。時間になって企業を訪問する時にはすっかり観念した状態で、自らまな板の上に上がる気分だった。トランザクション株式会社の前の会社で、士郎自身が採用担当を経験したこともあって、履歴書に基づいて自分がどう料理されるかも分かっている。なぜ前の会社を辞めたのかということを中心に、厳しい質問によって解剖されるのだ。
 今の士郎なら理解できるが、たとえ精一杯のことをやってきたとしても、必ずしも自分の意志通りの人生が送れるわけではない。それを合理的に説明せよと求められても、そういう運命だったとしか答えられないこともある。なぜ40歳にもなろうというのに結婚していないのですか、などと質問されたら、ぐうの音も出ない。
 そこで過去のことはさておき、これからの自分を考えることにする。するとここでも袋小路に迷い込んでしまう。これから自分が何をしたいのか、うまく説明できない。それよりも何がしたくないのか、口を衝いて次々と出てきてしまう。田宮のような異常な上司の下では働きたくない。職場で自らの生存をかけた深刻な闘争はしたくない。何日も会社に寝泊まりしたくない。忙しい仕事ではあっても、できれば昼食は抜きたくない。そして自分の身の回りで、人間のあまりに醜い姿は見たくない。要するに士郎の望みは、ただただ平穏に普通の生活がしたいというだけだった。しかしその気持ちを面接官に理解させようなどとは、そもそも無理な話である。そんなことを言えば、やる気のない人物と評価されてしまう。
 結局、1ヶ月の間に10社ほどの面接を受け、最後の1社を除いて、全て1次面接で落とされた。若宮は気を遣ったのか、不採用の連絡は電話ではなく、封書で送ってきた。開封すると「残念ながら、今回はお見送りということでした」と書いてあった。
 2次面接までいった最後の1社というのは、店頭市場に株式を公開しているネットワーク機器のメーカーだった。固有の技術を持っている技術者の集団で、士郎がこんな会社で仕事がしたいと強く望んだ会社だった。トランザクション株式会社での苦い経験から、中間搾取の人身売買のような会社はまっぴらだという強い思いが、士郎にはあった。そうならないためには、独自の製品を売るか、固有の技術を売らなければならない。その会社にはそれだけのものがあると思われたのである。士郎は今度こそという思いで、その会社の面接に臨んだ。
 1次面接には社長自らひとりで出てきた。あまり若いので2代目かと思ったが、彼がその会社の創業者だった。年齢は士郎よりもひとつ年上で、自ら技術者でもあった。彼の振る舞いはあまり経営者らしくはなく、はにかみながら朴訥と会社の生い立ちを話してくれた。
 今からほんの数年前のこと、その分野の機器は当時日本国内では生産されておらず、アメリカのメーカーからの輸入に頼っていた。彼は大学を卒業後、専門商社に入社し、その分野の機器を担当していた。しかしアメリカからの供給が不安定な上に、製品の品質、アフターサービスともによくなかった。そこで自ら製造することにして、勤めていた商社を辞めて独立した、と言うのだった。会社は創業の勢いに乗って、見る見る成長した。そしてあっという間に株式の店頭公開を果たしたのである。
 士郎はこの社長とは気が合うと思った。がつがつしたところがなく、控えめで実直だった。気難しくなく、飄々としていた。本当にこの男がこの会社を興したのかと思うほどだった。だから士郎は思った。これはきっと謙虚さというものではなく、この人は妙な処世術など身に着けなくても生きていけるのだ。実力があるから虚飾を必要としないだけなのだ、と。この時士郎は心の底からこの男の下で働きたいと思った。
 面接が終わっても、士郎はまるで恋でもしたかのように、その会社のことを思い続けていた。その思いはますます募り、翌日の午前中には既にその会社に入社したかのような気持ちになって、空想の世界で働いていた。そこへ若宮から電話がかかってきた。
「おめでとうございます。2次面接のご案内です」
 士郎は喜んだ。そして自信が湧いてきた。この勢いでさっさと再就職を決めてしまおう。そしてもう一度サラリーマンをやるのだ。今度はトランザクション株式会社のような異常な世界ではなく、きっと普通の職場に違いない。社長も若く、社員も皆若いから、ずっと楽しく働けるに違いない。何より会社は伸び盛りである。人の足を引っ張って悦に入るような暇な社員はいないはずである。
 2次面接には社長ともうひとり役員が現れた。社長はその男を管理部長だと紹介した。そして後のことはこの男と話して欲しいと言い残すと、席を立った。
 管理部長は社長と同年輩の、冷たい目をした男だった。社長が立ち去ると、その男は気乗りがしないという様子で士郎の書類をめくり、さっさと片づけようとでも言うように、いくつか質問を投げかけてきた。それはいつもの質問だった。なぜ前の会社を辞めたのか、なぜ辞めてから1年間の空白があるのか、なぜこの歳になるまで結婚していないのか、である。
 いっそのこと「大きなお世話だよ」と言い残して席を立った方がましだった。しかしこの面接をぶち壊しにはしたくなかった。ぐっと堪えるしかなかった。士郎は仮面のような笑顔を浮かべた。その時既にいやな予感がしていた。こういう切り口で攻められると、自分に罪があったとして、ただひたすら赦しを乞うことしかできない。その心境からあがいて這い出ようとして、せいぜいいくつかの言い訳を口にすることができるだけである。村尾や笹本がトランザクション株式会社に入社する際にやったであろう、絵空事の嘘八百を並べて相手を煙に巻くなどという芸当は、不器用な士郎にはできるはずもなかった。
 2次面接の結果は聞かなくても分かっていた。士郎は失恋したかのように気持ちがしぼんだ。そして劣等感に苛まれた。自分には何の価値もないような気がした。何もかも投げ出して、一からやり直したい気持ちだった。
 2日後にはインタレストから封書が来ていた。覚悟はできていた。開封すると、果たして「残念ながら、今回はお見送りということです」と記してあった。いつもなら新規の求人紹介が同封されているのに、この時は便せん1枚だけしかなかった。もしかすると若宮から見放されたのかもしれない。士郎はそう考えて、いっそう暗い気持ちになった。士郎の方から次の紹介を催促した方がよかったかもしれなかった。そうでなければやる気を疑われて、本当に若宮から見放されるのではないかと思った。しかし士郎の方から若宮に電話するだけの勇気はなかった。
 息を止めて深い水底に沈んでいくような気がした。このまま息を止め続けたら、楽になるだろうか。断末魔の苦しみはこないだろうか。全て白紙に戻せるのなら、その方がいいのではないか。
 その翌週、思いがけず郵便受けにインタレストからの封書が入っていて、士郎はすがるような気持ちで開封した。中には新規の紹介が入っていた。それは四谷にある小さなシステム開発会社だった。総務課長を募集している。最寄りの駅は四谷三丁目、トランザクションのある赤坂見附の隣の駅だ。思わず方角が悪いなとつぶやいて苦笑したが、首を振ってそれを打ち消し、意欲を取り戻した。そして早速若宮に電話して、応募の意志を伝えた。
 その時若宮はこう言った。
「もう一度、転職の進め方を2人で相談しましょう」
 相談ってなんだろう? 若宮の肩書きはキャリアコンサルタントだから、何かカウンセリングのようなことをしてくれるのだろうか。確かに今、自分は自信喪失で心細くなっているから、若宮に励ましてもらうのもいいかもしれない。士郎は若宮の申し出をそのように理解し、まるで医者に診てもらうかのように日時を約束して、電話を切った。
 約束の日時にインタレストを訪問すると、若宮は酷く士郎の自尊心を傷つけた。
「もう10数社紹介しましたが、どの企業からも同じ評価が返ってきているんですよ。お分かりですか?」
 士郎は面食らった。どの応募に対しても、若宮からは「残念ながら、今回はお見送りとのことです」の一文しか聞かされていない。きっと応募先の企業からもそんな曖昧な回答だったんだろうと思っていた。士郎に対する具体的な評価がインタレストに返ってきているとは、今初めて聞いた話だった。
 だから士郎は言った。
「評価が返ってきているとは知りませんでした。それはいったいどんな評価なんですか?」
 すると若宮の顔が一気に気色ばんだ。若宮は手許の書類を乱暴にめくりながら、士郎に投げつけるように読んだ。
「前向きな意欲が感じられない。物事に対して受動的である。転職の目的がはっきりしない。これがしたいという意志が感じられない。質問に対する回答が言い訳がましい。どうですか? どれもこれも同じではありませんか? この結果に対して、何かおっしゃれることがありますか?」
 士郎には答えることができなかった。
 若宮は全く困ったものだという顔をして、士郎に一瞥をくれた。
「いいですか、加瀬さん。私の就職ではない、あなたの就職なんですよ。あなた自身がやる気になってくれないと、仕事を紹介している私の立場がないんですよ。そこのところを理解していただきたいんです。違いますか? どうなんですか?」
 若宮は士郎の回答を迫った。
 士郎は一刻も早くその場から解放されたかった。
「ご迷惑をおかけしました。先日紹介していただいた1社を、これが最後と思って頑張ってみます」 
 インタレストのビルを出る時、士郎の自尊心はずたずたに切り裂かれていた。頭の中で何かがわんわんと鳴り響いていた。
 駅に着いて人混みに紛れると、多少気分は落ち着いた。頭の中では若宮の言葉が、何度も繰り返し士郎の自尊心を踏みにじっていた。これほどまでにやり込められるとは思わなかった。士郎は地下鉄の車両の中で視線を落とした。そして粉々になった自尊心のかけらをつなぎ合わせることに熱中し始めた。
 若宮のあの豹変振りはどう考えても不自然だ。彼女は怒っていたが、あれは彼女の本心ではなくて、きっと士郎を奮い立たせるためのポーズに違いない。この間の面接で連続して落とされているから、士郎が落ち込んでいるに違いないと考えて、わざと反発するように挑発したのではないか。彼女はコンサルタントという肩書きを付けた人間だから、それぐらいのことはするだろう。
 しかしそんなことをしても何の意味もない。暖かい励ましの言葉の方が、よりよい効果があったはずだ。こんなことなら卯木に相談した方がずっとよかった。卯木なら何も言わなくても士郎の価値を分かってくれただろう。だから敢えて卯木には愚痴をこぼさなかったのだ。遠くから見守ってもらうことだって、友情の現れのひとつだろう。卯木にはそうやって命綱を握ってもらうのだ。やはり卯木には愚痴をこぼすべきではない。士郎はそう思い直した。

(3)

 その後、若宮から新規の紹介は途絶えた。これまでなら次々と紹介があって、常に複数の面接でスケジュールは埋まっていた。ところが、刻一刻と最後の面接日は迫ってくるのに、今回は追加の紹介がないのである。この1社でお終いなのだろうか。士郎が先日「これを最後と思って」などと言ったのを真に受けて、紹介を見合わせているのかもしれない。あるいは本当に若宮はこれで自分を見限ろうと言うのか。そう思うと士郎の心に焦りが生じた。
 その会社は1次面接の日、最初に筆記試験を課した。それは何か知能テストのようなものだった。士郎はこの手のものならばわけなく好成績を収めることができた。そして引き続いて総務部長の面接を受けた。
 総務部長は、骨張った手をした、30代後半か40代前半と思われる女だった。上品な身なりで美人だが、気位の高そうな、つんとした感じがあった。途端に士郎の本能が警報を発した。これは人を見下すことによって優越感を維持しようとする種類の人間だ。士郎のような男は格好の餌食にされる。肉食系で危険だから近づくな、と。しかしこの会社に入社することになれば、間違いなくこの女が士郎の上司である。やれやれ、この女とはうまくやらなければならない、と理性が働いた。
 それは面接と言うよりは、何か調書を取っている感じだった。士郎は総務部長の求めるままに断片的な事実を話しただけである。彼女はその断片を勝手につなぎ合わせて、一方的に納得した。士郎としては何ら主体的な意見を述べたわけでもなかったし、特別の姿勢や意欲を表明したわけでもなかった。面接としてはそれでお終い、落とされる要因は考え付く限りどこにもなかった。士郎はこれで本当にいいのかと信じられない面持ちで、追い立てられるように総務部長によって送り出された。
 それから数日間、士郎は煙に巻かれたような気持ちで過ごした。あの面接には何の失敗もなかったのだから落とされるはずがないと思える一方、もしかしたら最初から相手にされていなかったから彼女はあんなおざなりな面接をしたのだという疑念が交錯した。どう考えても明確な解答は得られず、士郎は2つの考えを行ったり来たりしながら過ごした。その間、インタレストからは1通の封書も届かず、「残念ながら…」もない変わりに、新規の紹介もなかった。
 週が明けると、若松から電話があった。
「おめでとうございます。2次選考のご案内です。応募者が多いようなので、1次選考に時間がかかったようです。ですので、本来ならば次は社長面接をと考えられていたようですけれども、もう一度、今度は討議面接を課すとのことです」
 士郎は首が繋がってほっとした気がした。
「討議面接というのは初めてですが、どのような面接なんですか?」
 念のために士郎は訊ねた。
「テーマを与えて応募者同士に討議をさせ、それを面接官が観察するんです。高度な面接方法ですから、初めてですと戸惑われるかもしれませんね」
「ああ、大丈夫ですよ。その手のものならば、難なくこなしますよ」
 士郎が珍しく強気を示したので、若宮はおや、と思ったに違いない。息を吸って何か言いたそうだったが、士郎の方から電話を切った。
 とにかく転職活動など早く終わらせて、実際の仕事に邁進するに限る。そして世の中を嘆いたり人に失望したりするのを止めて、人生をやり直すのだ。できればそこそこの出世もして、少し晩婚だが家庭も持って、他人から蔑まれないように人並みに生きよう。そしてもう転職などという気を二度と起こすまい。士郎はそう心に誓った。
 討議面接の当日、士郎は入念に髭を剃った後、新しいワイシャツを下ろし、クリーニングしたばかりのスーツに袖を通した。そして手帳とボールペンを鞄に入れた。財布の中にいくらかの紙幣が入っていることを確認し、最後に腕時計を手首に巻いた。
 その時士郎は時計の風防ガラスが水滴で曇っているのに気が付いた。時計の内部に水が入ったのだ。生活防水のはずなのにと舌打ちしたが、安物だから文句も言えまい。電池交換の費用で新品が2、3個買えるような、ほとんど使い捨ての代物である。時刻なら携帯電話の画面でも確認できるが、面接の場でまさか携帯電話を盗み見するわけにも行かない。仕方がないのでオメガのゼンマイを巻いた。
 それはしばらく放置されて止まっていたが、眠りから覚めて再び動き始めた。分厚い金属の感触がひんやりと冷たかった。風防にはざっくりと深い傷が入っている。それは冬子を追い出そうとしたあの晩、士郎がこの時計を投げつけた時に付いたものだ。傷は目立つ。しかし今日の討議面接は面接官と対面ではないはずなので、見とがめられることはないと思えた。
 嫌な予感がした。部屋を出る前に小石につまずいた気がした。それを振り払うように、自分に気合いを入れた。
「よしっ」
 士郎はそう声に出して言って、部屋を出た。
 面接の会場となったのはその会社の会議室である。プリンター付きの大きなホワイトボードがあり、ここで何かの式典を行うための演台が隅に寄せられていた。中央に折り畳みの会議机がロの字型に設置され、椅子の数で今日の応募者が4人であることが分かった。士郎は3番目の到着だった。先に来ていた2人がじろりと士郎を観察した。あとひとり、応募者がやってくる。士郎は静かに椅子に腰掛けて、全員が揃うのを待った。
 最後のひとりは集合時刻に2分ほど遅れてやってきた。こめかみに汗の滴がひと筋流れている。おそらく駅から走ったのであろう。他の2人の視線が敵意と同情を含んで彼に集中した。
 士郎以外の3人は30歳前後で同じくらいの年齢だった。そこへ年かさの士郎がひとり混じった格好だ。士郎は少し居心地が悪かった。
 全員が揃ったところで総務部長が言った。
「皆さんお揃いになったようですので、早速始めたいと思います。本日は討議面接に取り組んでいただきます。まず資料をお配りしますので、それをご覧ください」
 総務部長は骨張った手で1枚の紙片を配った。そこには討議のテーマが記されてあった。
「リーダーシップに関して。なぜリーダーはメンバーの主体的参加を促さなければならないのか。またそのためにはどのようなことに心がけなければならないか」
 応募者は4人とも食い入るように紙片に見入った。
 そこへ、会議室の扉が開いて、ダブルのスーツを着た初老の男が入ってきた。男は応募者の顔ぶれを見渡して言った。
「社長の松村です。本日は大変ご苦労様」
 応募者の4人は椅子を鳴らし、慌てて起立した。
 松村はそれを手で制し、会議室の隅に用意されたパイプ椅子に腰掛けた。
「私はここでじっくりと拝見しておりますから、どうぞ皆さん、存分に実力を発揮してください」
 そう言ったきり、松村は沈黙した。
 総務部長が続けて言った。
「始める前に、参加いただく皆さんを簡単にご紹介しておきます。こちらから時計回りに、加藤さん、木村さん、加瀬さん、そして渡辺さんです」
 紹介された者がそれぞれ軽く会釈した。
 総務部長が手に持つ紙ばさみにはおそらくその日の進行が準備されており、それに従って順を追って進められた。士郎は思った。この女は仕事の進め方が細かく、ハプニングを嫌うようだな。それに気位が妙に高いというのが加わって、この女が上司だというのはやりにくそうだ。
「時間は30分間です。今から30分以内に、代表の方から討議結果を社長の松村に報告してください。では、始めてください」
 総務部長のその言葉と同時に、士郎はオメガのクロノグラフをスタートさせた。プッシュボタンを押す時、静まり返った会議室にコクッと小さな音が響いた。
 一瞬の沈黙を破って、士郎の正面に座った加藤が口火を切った。
「では私が議長を務めさせていただきます。異存はございませんか?」
 3人は黙って頷いた。
 既に競争は始まっていた。まずは議長の役割を早い者勝ちで獲得するのが、討議面接の最初のポイントだった。加藤にそれを奪われて、右隣の木村の表情が強ばった。遅刻してきた渡辺は、既に自分は失格と感じているのか、集中力を欠いていた。士郎も加藤にしてやられたとは思ったが、ここで議長は自分がやるなどと争ってもしかたがない。議長の役割を加藤に任せて、士郎は他の役割を担えばよいのである。
 誰からも異存が出なかったので、加藤はほっとしながら、発言のルールについて指示した。
「発言のある方は挙手してください。私が指名しますので、それから発言をお願いします。この討議が終わりましたら、私が代表して社長に報告いたします。時間があまりありませんので、スムーズな議事進行にご協力をお願いします」
 すかさず木村が手を挙げた。加藤が渋々「木村さん、どうぞ」と言った。
 木村は発言を焦って、時々喉に息を詰まらせながら、早口にしゃべった。
「議題がリーダーシップについてですから、皆さんそれぞれに経験を積んでこられたと思うんです。そこでそれぞれの体験談などを交えながら意見交換をして、それから出された意見のまとめに入り、最後に社長にご報告することにしてはいかがでしょうか」
 木村の発言にむっとしながらも、加藤は強ばった笑顔を浮かべながら言った。
「そうですね。私たちは前職ではそれぞれリーダーとしての役割を担ってきたわけですから。ではまず私から経験を述べたいと思います。私の経験ではリーダーシップというものは、自分から自発的に取り組むべきものです。これは前の職場での経験ですが、私がリーダーを務めたプロジェクトの進行が遅れて、ひとりで焦ったことがありました。スケジュール管理の情報をメンバーにうまく伝えていなかったことが原因だったわけです。その経験から私が学んだことは…」
 加藤の発言は長かった。その後で木村が再び手を挙げた。
「全く同感です。リーダーに必要なのは目配りと気配りだと思うんです。その点に関して私の経験では、それができていないプロジェクトではメンバーが積極的になれずに、能力を発揮していないことが多いように思うんです。従ってリーダーはメンバーの積極性を引き出すことが必要で…」
 木村はまるで加藤と発言の量を競い合うかのように、長い発言をした。
「ただいまの木村さんの発言では、リーダーの役割として…」
 加藤は木村の発言をまとめようとして、木村の言ったことをほとんどそのまま引用した。
 士郎はオメガの文字盤を見て、まずいなと思った。1周で30分を計測する小さな針が、ダイヤルの真下に近づいている。スタートから既に15分近くが過ぎているのだ。このままではまとめに入る前に時間切れになる。
 明らかに加藤は議事の進行には不慣れだった。時間の配分のことが彼の念頭にはない。それにもたもたし過ぎで、自分自身の発言が長過ぎる。それに同調して木村の発言もまた長過ぎる。このまま2人に好きなようにやらせていては、全員が共倒れに終わってしまう。それではこの4人の中からひとりも合格者が出ない。その結末は最もつまらない。
 士郎が時計を見て時間を気にし始めると、加藤の表情が曇った。このペースで行けば時間がないことを加藤も認識した。それなのに加藤はまだ木村の発言を解説しようとしてしゃべり続けている。この男、しゃべり出したら止まらない。簡潔な発言ができない。それが自分自身でも分かっていて、四苦八苦している。
 士郎が手を挙げた。
 加藤は怯えた目で士郎を指名した。
「討議の進め方で提案があります。今、討議開始から既に15分、与えられた時間の半分が経過しました。しかし討議の進行は遅れています。そこで挙手による発言を止めにしませんか? 発言者は自由に発言する。ただし簡潔に。ルールはひとつだけ。人の発言を遮らない。これで進めませんか?」
 士郎がそう言うと、加藤は救われたように頷いた。木村も頷いた。士郎が渡辺を見ると、渡辺も頷いた。
 士郎は続けた。
「これまで加藤さんと木村さんが口々におっしゃったのは、メンバーの能力をフルに発揮させるために、リーダーがメンバーの主体性を尊重する姿勢が必要だと言うことですよね。私も賛成です。メンバーが他人任せだったり、白けてしまっていては、いい仕事はできない。この点に関して渡辺さんの考えはいかがですか?」
 指名された渡辺は、ようやく討議に参加できる機会が巡ってきて、身を乗り出した。しかし渡辺は発言を焦るあまり、汗の浮いた顔を真っ赤にして、激しくどもった。
「ほら、ほら、渡辺さん。リラックス、リラックス。汗でも拭いて」
 士郎が笑いながら言うと、渡辺は恐縮してポケットからハンカチを取り出し、照れくさそうに笑って汗を拭きながら発言を続けた。
「皆さんの言うのはその通りだとは思うんですが、逆にリーダーが率先して物事を進めないと、かえってメンバーは白けるんですよね。その辺りのさじ加減が、本当に難しいと思うんです」
 士郎はにやりとした。これで議論が噛み合う。すかさず木村の発言を促した。
「さっき木村さんが目配り、気配りっておっしゃってましたよね。渡辺さんのおっしゃるさじ加減と通じるものがあるのでは?」
 すると木村は士郎の指名に勢いを得て、得意げに言った。
「そうです。相手によりけりなんですよね。メンバーの性格をよく把握して、使い分ける必要があります。そのためには目配り、気配りなんですよ」
 そこで士郎は割って入り、木村の発言を切った。そうしなければ木村の発言は長引く恐れがあった。
「つまり、同じプロジェクトのメンバーでも、放っておいても参加してくる者と、参加を辛抱強く促さなければならない者とを、区別しなければならないと? この点に関しては加藤さん、どう思います?」
 もはや加藤は士郎主導の議事進行に大人しく従った。
「ええ、その通りだと思います。チームメンバーは十人十色で、本当に個性が多彩ですから」
「そうなんですよね。とするとリーダーは、メンバー間の調整なんかにも相当気を遣わないとなりませんね」
 士郎がそう言うと、渡辺がおずおずと言った。
「お互いの悪口を言わさないとか」
 渡辺の言葉に、加藤も木村も深く頷いた。その仕草には実感がこもっていた。それが渡辺を喜ばせた。
 渡辺が笑っているだけだったので、士郎が渡辺の言うべき言葉を代弁した。
「ははあ、みんな同じような苦労をしていますね。互いに批判ばっかりしてるんじゃなくて、もっと協力し合えよっていうことですね。共通の目的のために協力し合って障害を乗り越えること。これがメンバーの主体的参加っていうものですよね」
 その後、全員が数回ずつ発言して、その議論が噛み合うように、士郎は采配を振った。
 そっと時計を見ると、あと5分で30分になるところだった。士郎はとっさの判断で、討議をうち切ることにした。
「では、議論をまとめましょう。リーダーはプロジェクトの成功に責任を持つ。従ってメンバーの能力をフルに発揮させること。その能力をプロジェクトの目的に沿わせること。これがリーダーに課せられた任務である。その際リーダーが為すべきことは、単にメンバー個々人を参加させるに止まらず、メンバー相互の良好な関係にも気を配らなければならない。それがなければ主体的な参加とは言えない。そのためにプロジェクトの目的やスケジュール管理など、メンバーにしっかりと周知させておかなければならない。と、こういうことではないでしょうか?」
 加藤も木村も渡辺も、一様に頷いた。
「では加藤さん、代表して社長にご報告をお願いします」
 士郎に指名されて、加藤がしどろもどろになりながら、社長に報告した。
 その間、士郎はオメガの文字盤を注視していた。クロノグラフ針が12時の位置を通り過ぎ、30分計がちょうど一周した時、加藤は「以上で報告を終わります」と言った。与えられた30分を2秒超過していた。士郎がボタンを押してクロノグラフを停止させ、さらにリセットボタンを押して針をゼロに戻した時、カシャッと小さな音がしたが、誰もそれには気づかなかった。
 帰りの地下鉄の中で、士郎はしきりにオメガの傷ついた風防を撫でていた。クロノグラフの演出効果は抜群だった。今日はおまえに救われたよ。士郎は手首の時計を撫でながら心の中でそう思った。
 その翌日には若宮から電話があり、採用内定を伝えられた。おや、最後に社長面接があるはずだがと思ったが、きっとあの討議面接が社長面接も兼ねていたのかもしれないと考え直した。
 若宮はひたすら「おめでとうございます、本当におめでとうございます」と繰り返した。そしてその後で気になることを言った。
「そこで、最後に社長様が面接というか、お話があるそうなんです。採用の条件とか、入社に当たっての心構えとかをお話ししたいそうです」
 若宮に指定された日時に士郎が再度訪問すると、若宮から聞いた通り社長が士郎を待っていた。
「先日はお疲れさまでしたね。加瀬さんの力量はよく分かりましたよ。是非その能力を当社で発揮してもらいたいのですがね」
 社長の松村は探るような目で士郎を見ながら、もったいぶったように徐々に話を進めた。
「加瀬さんの希望の年収なんですがね、困ったことに当社では部長クラスの年収に相当するのですよ。総務課長として採用する場合、とても750万は出せない。他の課長たちとのバランスを考えると、650万が限度です」
 士郎は黙って聞いていた。
「加瀬さんには是非、ゆくゆくは総務部長として、経営を担って欲しいと思うのです。そこでお訊きするのですがね、私どもの総務部長、あれをどう思いますか?」
 そう訊ねられて、士郎は言葉に困った。松村は彼女を気に入らないのか、まるで士郎と交替させるかのような口振りである。降って湧いたような話で戸惑った。士郎は慎重に答えた。松村のもったいぶったしゃべり方が、意地悪く相手の腹を探るようで、警戒すべきものに思えたからである。
「とても上品な方に思えましたが」
 すると松村はにやりと笑った。
「実はね、あれは私の妻なんですよ」
 それを聞いて、士郎は余計なことを言わなくてよかったと胸をなで下ろす一方、人をなぶりものにするような松村の態度が気に入らなかった。
「しかしね、今後、株式の店頭公開などを進めていこうと考えた時に、夫婦で会社を経営しているのは、対外的にまずいのでね。そこでなんだが、加瀬さんには是非ともあれの後を頼むことにして、それまでは不満もあろうがしばらくあれの下で我慢して欲しいんだが、いかがなもんだろうか?」
 士郎は松村に不信感を募らせた。この夫婦には何か確執があるのではないか。松村の遠回しな話し方からそんな気がした。そうであるならば、妻の総務部長だって黙って引き下がりはすまい。この2人の間に挟まれて、士郎が苦労をするのは目に見えている。それに、年収の話を最後の今頃になって持ち出してくるのも、納得が行かなかった。
 そうは言っても、この期に及んで士郎に選択の余地がないのも、厳然とした事実だった。不満を楯に転職活動をやり直す気力もなかった。ここで決めてしまうのが最もよい選択ではあった。だから仕方なく士郎は社長の示した条件を呑むことにした。
 その代わり士郎は入社までの数週間を、職探しのプレッシャーから解放されて、久々に心にゆとりを持って過ごすことにしたのだった。

(4)

 もはや士郎の心は何事に対しても痛まず、静かであり、平穏であった。強いて言えば、この7年間に対する後悔だけがそこにあった。しかしそれも来月から始まる新しい仕事に忙殺されれば、きれいにぬぐい去ることができるような気がしていた。
 何をしてこの数週間を過ごそうかと思った。その時、例のやりたいことのリストが頭に思い浮かんだ。その中から選んで、読みそびれていた本を片っ端から読んでやろうか。それとも、ひたすら映画でも観ようか。しかし、片っ端からとか、ひたすらとか、そういう妙な力の入れ方が、自分の陥りやすい罠だと感じて、止めた。今この状態で、それだけの気力はとても続かない。無理をすれば自分自身が壊れそうだ。
 ぶらぶらと無為に数日を過ごしていると、そこへ卯木から電話がかかってきた。
「どうだ、調子は?」
 卯木は言葉を放り投げるように言った。相変わらずだなと士郎は苦笑した。
「新しい仕事が決まったよ。来月からもう一度サラリーマンをやるよ」
「冬子さんは?」
「いるよ」
「うまく行ってるのか?」
「さあ」
「おい、おい、何だよ。まだそんなことを言ってるのか。ま、それはいいや。話があるんだが、出てこれるか?」
「どうせ、暇だよ。月末まで、どうやって過ごそうかと思っていたところだよ」
「じゃあ、6時に『ラ・マルセイエーズ』でいいか?」
 士郎が「いいよ」と言った途端に、卯木は「じゃあな」と言って電話を切った。卯木はせっかちで興奮気味だった。そんなに息せき切って、いったい何の話だろうかと、士郎は怪訝に思った。
 6時ちょうどに士郎がレストラン「ラ・マルセイエーズ」に着くと、既に卯木がテーブルに座って待っていた。テーブルの上には分厚い封筒が載っていた。
「何だい、その封筒は?」
 卯木はにやりとした。
「見てくれよ、おまえの原稿、ワープロで打ったんだ」
 卯木が封筒から取り出した紙の束を見て、士郎の顔が照れくさそうに赤くなった。
「初めてだよ、おれの原稿が活字になったのは」
「だろう? おまえ、この時代に原稿用紙に手書きだから。苦労したぜ、800枚以上あったからな」
「話って、これのことか?」
「焦るなよ。これから話すから」
「その前にオーダーは?」
「もうしてある。いいから、黙って聞けよ。おまえの原稿、出版社に持ち込んだんだよ。そしたら担当者が、手書きの原稿じゃ読みづらいって言うんだ。だからワープロで打ったんだよ。朝から晩まで、2週間かかったぜ。仕事なんかそっちのけさ。最後には女房にも手伝わせて、2交替制で打ったんだぜ」
「手書きじゃ読みづらいって言うのは、持ち込み原稿を断るための口実だったんじゃないのかな」
「その時はそうかもな。でもな、再度同じ担当者に、今度はきっちりワープロ打ちした原稿を持ち込んだんだよ。そしたら彼は受け取ったんだ。読ませてもらうってな。そして昨日電話があった。今度は長いって言うんだ。400字詰に換算して、600枚程度に削れって言うんだよ」
「それもきっと口実だよ。そうやって出版するのを拒んでいるのさ。多分、読んでいないよ、その人。読んだ上で長いと言っているわけじゃないんだよ」
「そうかもな。しかし、おれは諦めないぜ。むしろ脈ありと見た。これからいろんな注文が出るだろう。そりゃ、追い返す口実かもしれないさ。しかしその注文を全て、ひとつひとつクリアしていったら? 最後には読まざるを得なくなるだろう。そこまで行けばこっちのもんだぜ」
 卯木の目が輝いていた。士郎を見つめるその視線から、士郎は身を隠したかった。そして思った。もういいんだ。実現しないなら、最初から夢など見ない方がいいんだ。それよりも地道に生きたい。裏切られることのない、長くて細い道をゆっくりと歩きたいんだ、と。
「そこで話って言うのは、他でもない。この原稿、おまえの手で200枚削ってくれ」
 卯木は大まじめで、そう言った。
 士郎は目を伏せた。
「もう、止めにしようよ、こんなことは」
 士郎が力無くそう言った時、ウェイターが白身魚のフライと赤ワインを運んできた。卯木は無言でウェイターが去るのを待った。そして言った。
「その気持ち、分からなくもない。おれがおまえよりも先にトランザを辞めて、2年間を過ごした気持ちが、それだったよ。もう何もかも忘れてしまいたい。きれいさっぱり初期化してしまいたいとな。しかし、本当にそれでいいのか? 誰にとっても大切な一度きりの人生なのに、少なくともその一部を奪われたんだぜ。しかも30代という、男にとって最も輝かしい重要な時期をだ。このまますごすごと引き下がって、それでおまえは本当に今後の人生を生きていけるのか?」
「もう疲れた。許して欲しいんだよ」
「いったい誰に何を許してもらわなければならないんだ?」
 理詰めで迫り来る卯木の攻め方に、士郎は何も言えなかった。
「じゃあ、こうしよう。この状態、おれにはとても居心地が悪い。なぜならおまえはこの作品を書き上げた。今のおまえの状態がそれに相応しいものじゃないにしても、おまえは立派に自分の仕事を為し遂げた。ところがおれは、おまえを言葉で攻めてはいるが、何も為し遂げていない。ああだ、こうだと、口先だけだ。だから、おれにもひと仕事させて欲しい」
「あ?」
「この作品に対する編集権をおれにくれ。おまえがやらないと言うのなら、おれの手で200枚削る。他にも注文が出れば、おれの手で書き直す。そのための編集権だ。今からこの作品を出版するまで、全ておれに任せろ。いいな?」
 士郎はうなだれるように頷いた。
「よし、契約成立だ。乾杯と行こうぜ」
 2人はグラスを合わせた。そしてその夜、卯木は高揚の絶頂にあり、士郎を付き合わさせて、ボトルで追加注文した赤ワインを1本空けた。
 店を出る時、卯木はワープロで打った原稿の束を士郎に押しつけた。
「おまえも1部持っておけよ。これから2人で世に出る記念だ。でかい花火を打ち上げて、奴らの鼻を明かしてやろうぜ」
 士郎は受け取った封筒を小脇に抱え、赤坂見附駅のホームで卯木と別れた。その時、心からの友との間に生じた気持ちのすれ違いに、どうしようもなく寂しい思いがしてならなかった。田宮の虐待に晒されていた時も、転職活動の中で自分を見失っていた時も、これほどの孤独は感じなかった。
「我は知る、テロリストのかなしき心を、か」
 士郎はそっと声に出して呟いた。それはかつて士郎が卯木に贈った言葉だった。その言葉が卯木に届かず、今、自分に返されてきたような気がした。
 JRの千葉駅からバスに乗り、アパートの近くの停留所で降りた時、既に午後10時を回っていた。坂道を登り切って駐車場のフェンスを回り込むと、2階建の木造アパートが現れて、その1階に士郎の部屋の窓が見える。部屋の明かりは点いていなかった。
 ポケットから鍵を探り出して、部屋の扉を開けると、部屋の中は暗くしんと静まり返っていた。冬子はいなかった。明かりを点けると、一瞬消えた孤独が再びちくりと士郎の胸を刺した。
 台所の食卓の上に紙切れが置いてあった。それを視野の片隅に捉えながら、食卓を回り込んで、流しの蛇口をひねった。ワインに酔ったせいか、喉が渇いた。喉を鳴らして、ゆっくりとコップ1杯の水を飲んだ。
 そしてそのまま奥の寝室へ行き、部屋の空気に冬子が残した香りを嗅いだ。そして押入の襖を開けた。いつもそこに入っていた冬子のスーツケースがなくなっていた。そっと窓を開けた。間近に駐車場の暗闇が見えた。いつもの場所にセリカがなかった。机の引き出しを開けた。ダンヒルのライターの横に、オメガの腕時計が鼓動を止めてたたずんでいた。コケコッコーの万年筆はあったが、モンブランはなかった。
 もう食卓の上の紙に何が書いてあるのか、読まなくても士郎には分かっていた。それを読むだけの力が、士郎の心にすぐには湧かなかった。
 全て士郎が望んだことだった。冬子と関係を取り結んだのも、会社を辞めたのも。冬子と一緒に暮らし、そして追いつめたのも。卯木に原稿を委ねたのも、編集を任せたのも。そして今日、冬子が消えたのも。どれも、これも。
 たとえそれを言い出したのが士郎自らではなかったとしても、士郎はそれに乗って目一杯の利益を享受した。白状すれば、心のどこかではそれを望んだのだ。その結果が辛いものだったとしても、それは誰のせいでもない、士郎自身のせいだった。
 士郎は孤独によって裁かれる覚悟を決めて、食卓の上の紙片を読んだ。
「士郎さん。原稿の完成、おめでとうございます。それから、就職、おめでとうございます。私の役目はこれで終わりです。新しいお仕事、頑張ってください。冬子」
 モンブランの万年筆は、文鎮代わりに紙片の上に置いてあった。冬子がどれほど前にこの置き手紙を書いたのか分からない。士郎はモンブランのキャップを開けて、冬子が触れたであろう部分にそっと指を添えた。最後に2人の心が重なり合ったような気がした。
 その刹那、嗚咽が士郎の喉を突き破りそうになった。士郎は思わず天井を仰いで、押しとどめた。耐え難い苦痛に唇が痺れ、そのまま胸を引き裂かれそうだった。
 できることなら、全てなかったことにしてしまいたい。
 ひたすら悲しい。自分の人生を消し去りたいなどと思うことは。しかし士郎の干からびた心は、もはや1滴の涙さえ、絞り出すことができなかった。

(終わり)