第6章

(1)

 物事が前にも後にも進まない膠着状態を指してそう呼ぶことができるなら、士郎たちにささやかな平和が訪れていた。2人がトランザクション株式会社に入社して3年目となるこの時期、得るものがない代わりに、失うものもないかと思えた。
 皮肉なことだが、その年の新卒新入社員が配属されてわずか数週間で退職届を出したことも、人事課の安定にひと役買ったのかもしれない。田宮に言わせれば、育てるための労力を費やし、苦労して戦力化した後で逃げられるよりも、早々に辞めてもらった方が被害が少ないということになる。
 既存の部下たちは、新入社員が逃げ出したことにショックを受けているふうもなく、そんなことには無関心を装って、黙々と自分の仕事を進めていた。誰もが諦め切って日々をやり過ごしている。だから新入社員を引き留めようとか、育てようとは、誰も思っていない。そんな職場に新入社員が定着するはずがない。人事課には澱んだ空気が漂っていた。
 それから1年近くの間、人事課は珍しく安定して月日を重ねた。課長の梅本はそれを暢気に「人事課の黄金期」と言った。低迷してはいても、深刻な危機には陥らない。一見すると比較的平和なその時期は、しかし実際には内部に歪みを蓄積し、やがてそれが激震となって一挙に吹き出すのを予感させた。。
 それは年が明けた頃、またしても中川翔子から始まった。
「加瀬係長と卯木係長には、正直、がっかりしました。2人が入ってきて少しは人事課も変わるかと思ったのに」
 中川翔子が退職届を持って来た時、感情を剥き出しにしてそう言った。
 中川にはまだ杉山に対する未練があった。だから杉山と太田が仲睦まじく過ごしたクリスマスと年末年始が、中川にとってはよほど気に入らなかったと見える。その八つ当たりのような退職届に、士郎はやれやれと溜息をついた。士郎は穏やかに反論した。
「変わらなかったのは、むしろ君たちの方だよ」
 その時士郎の思い浮かべた顔は、もちろん目の前の中川と、そして杉山だった。
 中川は激昂した。
「なによっ。その言い方、田宮部長そっくりだわっ」
 そう言い残して中川は一方的に席を立ち、後ろ手に会議室の扉を乱暴に閉め、出て行った。独り会議室に残された士郎は、中川の退職届を開封した。退職日は年度末の3月31日となっていた。
 士郎は思案した。この退職届はこのまま受け取ろう。中川の存在は害悪が大きい。彼女の現状では、いない方がまだましだ。上司からそんなふうに思われながら辞めてゆく中川が哀れではあるが、これも仕方がない。士郎の心には、むしろ安堵の気持ちが宿った。
 それからしばらくして、杉山と太田がめでたく婚約し、太田の結婚退社が日程に上り始めた。
 そればかりではない。6月に控えた結婚の日程を報告に来た杉山は、まるでことのついでのように付け加えた。
「私も辞めようと思うんですよ。トランザの安い給料じゃ結婚してもやっていけないし、それに人を使い捨てにするようなこの会社じゃ将来が不安ですから」
 それを聞いて、士郎は苦笑した。これではまるで大掃除だ。問題のある社員ばかりが一挙に辞めてゆく。同時期に3人も辞めれば人事課は危機に瀕するが、逆に考えれば再出発のチャンスとも言える。ここまでなら、士郎も卯木も楽観的に考えることができた。2人で「あのカップルがジューンブライドなんていう柄か」と減らず口を叩いた。
 しかしそこへ末永玲子が加わり、様相は一変した。
「梅本課長にはもう1年前から辞めたいって言ってあります。その時の約束で『1年間我慢してくれ、その代わり1年経ったらスムーズな退職を保証する』って、梅本課長はおっしゃいました」
 そんなふうに言われたのでは返す言葉がなかった。それでも士郎は食い下がった。
「一度に4人は無理だよ。考え直してもらえないかな」
 末永はきょとんとした。
「4人もって? 私と中川さんと寺島さんと、他に誰ですか?」
 士郎はそれを聞いて飛び上がった。
「まさか、寺島さんもなのか?」
 士郎の驚きを、末永は不思議なものを見るように小首を傾げて見ていた。
「もう随分前から言ってますよ。加瀬係長、ご存じなかったんですか?」
「知らなかったよ。迂闊だった。しかしこれで5人だ。あと2人は、杉山と太田なんだよ。これじゃぁ、全滅だ。ますます辞めてもらっては困るよ」
 しかし末永は、1年待たされたのだから、これ以上の交渉の余地はないと考えていた。翌日には当然のように退職届が提出されてきた。日付は中川と同じ3月末だった。
 その後、士郎は寺島を呼び、退職の意思を確認した。
 その時寺島は口を尖らして言った。
「こんな職場にずっといたいなんて、誰がそんなことを思います?」
 その言葉を聞いただけで、士郎は引き下がらざるを得なかった。
 士郎はどうしたものかと随分思い悩んだ。その結果、5人の部下たちの退職の意志そのものはどうにもならないと諦めた。人事課の現状を考えた時、部下たちがこぞって辞めたくなるのも無理はないと思える。来る日も来る日も田宮に罵倒されながら、いつ終わるとも知れない深夜までの残業が続く。今を耐えればやがて報われるという保証もなく、過去から現在と同様に、現在から未来に向けても何の希望もない。これでは確かに人生を無駄にしているとしか思えない。
 それよりは5人の退職の時期をコントロールして、スムーズな引き継ぎをお膳立てする方が、よほど実りあるものが得られると思えた。幸いにも杉山と太田の結婚は数ヶ月後である。太田の退職日を結婚ぎりぎりに設定し、杉山を夏の賞与まで繋ぎ止めて、それまでに徐々に退職させれば、深刻な混乱に陥らず何とか持ち堪えられるのではないか。まず最初に2人の中途採用を募集して採用する。中川と末永の仕事はこの2人に引き継がせる。そうこうしているうちに、次の新入社員も配属される。予定では女子2名のはずだ。寺島と太田の仕事はこの2人に受け持たせよう。太田と同じ昨年度入社の柴田も、その頃には3年目になって戦力になってくる。杉山の仕事は柴田だ。そうすれば何とか持ち堪えることができるはずだ。
「第1弾は中川だな。なぜなら…」
 士郎のプランを聞いた卯木は、口を開くと同時にそう言った。
「なぜなら、彼女は何かと害悪をもたらし過ぎる。彼女の退社はむしろ歓迎してもいいくらいだぜ」
 士郎は奮い立って言った。
「コントロールだよ。重要なのは、物事のコントロールなんだ。まず中川と末永。それから1ヶ月おいて寺島。さらに1ヶ月おいて太田。最後に杉山だ。5人の退職をコントロールし抜く。ちゃんと引き継ぎさせて、飛ぶ鳥跡を濁さずってやらせるんだよ」
 卯木はその士郎の気持ちを汲み取るかのように、ゆっくりと深く頷いた。
「コントロールだな。よし分かった。きっちりやろう。それがおれたちのミッションだ」
 卯木と話した後、士郎が課長の梅本に報告すると、梅本は末永と寺島の退職の意志は知っていた。次年度の新入社員2名受け入れには、その後任としての意図があった。その計画を超えて、さらに3名の退職の意思表示があったにもかかわらず、梅本は笑いながら言った。
「そりゃ、みんな辞めたいと思うよね」
 士郎はその人ごとのような言い方に内心激怒した。もしそう思うのなら、もっと何とかしたらどうなんだ。だいたいこの人事課の大半のメンバーが辞めると言っているのに、なぜもっと危機感を感じないのだ。無駄だと知りつつも、士郎は梅本に言ってやりたい気持ちだった。
 梅本が笑っているばかりで何もしようとしないので、部長の田宮へは士郎が報告した。そして田宮に怒鳴られた。
「辞めますと言われて、それで君はすごすごと引き下がってきたのか。はいそうですか、分かりましたと? この会社では社員はそんなに簡単に退社できるのか。他の事業部ではどんなに苦労して社員を引き留めているか、君は知っているのか。それをこの人事課でザルのように社員を退社させて、他の事業部に何と申し開きをするつもりなんだ。こんな退職の仕方をするやつには、びた一文退職金を払わないと、君はそう言ってやったのか」
 そのことで士郎は30分立たされて説教を食らった。しかも退職を言い出した者たちの面前でである。このやりとりによって、部下たちの退職の気持ちは固まりこそすれ、緩和されることは絶対にあり得なかった。
 最後に田宮は言った。
「言っておくがね、君たちがこんな自分勝手な退職を認めると言うのなら、後任の採用はあり得ない。ちょうどいい機会だ。君たちは中途採用でこの人事課の実務を十分経験していないわけだから、君たち2人で引き継ぐんだな」
 立たされっぱなしで足が棒になった後で、ようやく士郎は田宮から解放された。喉がからからだった。士郎が飲み物の自動販売機へ行くと、そこへ末永がやってきて小声で言った。
「何が自分勝手な退職よ。みんなあの人の下にいるのがいやで辞めるというのに」
「全くだ」
「退職金なんて要らないわ。どうせ雀の涙ほどしかないんだから。加瀬係長もご存じでしょう? トランザの退職金なんて、6年勤めて20万円もないんですよ。そんなものと引き替えに、大切な人生をこれ以上無駄にはできないわ。でも、加瀬係長にはご迷惑をおかけするわね」
「なあに、何とかなるよ」
「そう。加瀬係長って打たれ強そうですものね」
「ふ。ところで、次の仕事はもう決まってるの?」
 この質問は、中川翔子にはしなかった。士郎の胸の中に、中川を引き留める気持ちは全くなかったからだ。しかし末永は違う。心から惜しいと思う。少しでも長く引き留めたいと思う。
「仕事というんじゃないんです。ずっとやってみたいことがあって…」
「何?」
「フラメンコ」
「フラメンコって、あのジプシーの踊りの?」
「そう。子どもの頃は、親に偏見があって、やらせてもらえなかったんです。でももう大人だし、結婚すればできないし、やるなら今のうちにと思って」
 士郎は意外に思った。あの情熱的な踊りと末永の静かなイメージが重ならない。しかし安心もした。新しい会社にいつまでに入社しなければならないというのとは違って、数ヶ月なら退職を延期してもらえるかもしれない。そうすれば短期間のうちに5人の退職をコントロールする計画も、ずっと組みやすくなる。
 士郎は5人の退職計画を率直に末永に話した。末永も、ただずるずると引き延ばされるのとは違って、具体性のある計画なので、夏の賞与まで退職を延期することに同意してくれた。
 田宮が宣言した通り、退職予定者たちの後任は採用される気配はなかった。やがて辞めてゆく部下たちの仕事は、とりあえず士郎と卯木が分担して引き継ぐことになった。中川からは士郎が、寺島からは卯木が引き継ぎを受けた。その後の退職予定者については、やがて入社してくる新卒の新入社員に期待するしかなかった。しかしその時、即戦力とはなり得ない新卒の新入社員を一から育て上げるだけの余力が、この人事課に残されるているかどうか、士郎には極めて不安であった。
 年度末に中川が、その翌月には寺島が退職したのを境に、またもや士郎と卯木は平日は1日たりとも家に帰れず、会社に寝泊まりすることが当たり前のようになった。一旦月曜の朝に出勤してくると、次に家に帰れるのはようやく土曜の夜になってからである。この状態は、この時から延々半年間続くことになる。2人とも会社の給湯室に自分用のシャンプーを備え、石けんを塗り込んだタオルで身体を拭いて、何とか清潔を保った。素っ裸になって汚れたワイシャツや下着までも洗濯した。時々巡視にやって来るビルの警備員が、最初は奇異な目で2人を見たが、やがて親しくなり、2人の惨状に同情してくれるようになった。
 さらに、士郎は頻繁に昼食を抜いた。これは田宮の嫌がらせだった。田宮は急に仕事量が増えたからと言って、士郎に対する締め付けを緩めようとはしなかった。士郎が苦しめば苦しむほど自分の権威が上がると思い込んでいた。士郎が仕事を中断して食事に行くことを許さず、「そんなに食事が大切なのか」と怒鳴り、「1食や2食抜いたからと言って死にはしない」と、吐き捨てるように言った。これにはさすがの士郎も閉口した。士郎の身体は頑丈にできている。精神的にもタフだ。反面、心身ともに多量のカロリーを消費する。どんなに食べても士郎の身体に贅肉が付かないのはそのためだ。したがって体質的にスタミナがなく、食事を抜くことによってみるみる血糖値が下がり、立っていられないほどふらふらになる。士郎はこの半年の間に、目に見えて痩せ細っていった。
 痩せたのは外見だけではなかった。あろうことか歯が痩せたのである。その結果、以前に治療した詰め物がぽろぽろ外れ、奥歯にはいくつもの大穴が空いた。かといって歯医者に行かせてもらえるほどの時間はなかった。そのままにしておくと、弱くなった歯はちょっとしたことで折れ、ろくに食べ物が噛めなくなった。
 数ヶ月後には士郎と卯木はまるで野良犬のような風貌になっていた。アイロンのかかっていないワイシャツがよれよれで、襟首にはうっすらと汚れが染みついていた。1週間、同じネクタイを結び続けた。時々髭を剃るのが億劫で、無精髭を生やしていた。そんなことはもはや気にならない。その頃の士郎の言葉を借りて言えば、朝、会議室のテーブルの上で目を覚ました時、心臓が動いているのが確認できればよしとするほかなかったのである。
 卯木にとっては、2度目の期限延長は避けられない状態だった。卯木は自分から士郎に言った。
「延長するぜ。当然だ。おれたちの生き様は、軽くもなければ、安くもない。それをやつらに思い知らせてやる」
 これが闘いだったとすれば、持久戦としか言いようがない。互いに相手よりも先に音を上げまいとして、いつ果てるともない我慢比べが続いた。
 時には2人で「こんなことではいけない」と奮起し、猛然と業務の立て直し図った。しかしそのたびに田宮の理不尽な攻撃を浴び、その目論見はたちまち崩れ去るのだった。そんな時には、2人で歯を食いしばってその悔しさに耐えた。そしていつか必ず反撃してやろうと、改めて誓い合った。とりわけ卯木は焦っていた。
「今年度中にけりを付ける。もう延長はできない。いいか、今年度中だ」
 4月も半ばになって、新入社員たちの入社研修が終了し、各職場に配属となった。人事部配属の新入社員は女子ばかり3人だった。当初は2人と聞いていたのに、知らない間にひとり増えていた。もしかすると、退職予定者が続出する中、田宮が人事課のあまりの惨状に同情して増員してくれたのかと、士郎は思った。しかし、違った。3人のうちのひとりは、人事部の斉藤瑠璃子が急に退社するので、その補充なのであった。
 斉藤はひとりだけ人事課の所属ではなく、人事部の直属で、部長の田宮の秘書のような立場だった。直接には士郎の部下でも、卯木の部下でもなく、梅本の部下でさえもなかった。だから斉藤の退職は、課長の梅本を通じて間接的に聞かされた。
 予想外のことに、士郎は梅本に
「斉藤さんもなんですか。辞めたくなる気持ちは分かりますが、いったいこの人事部はどうなってしまうんでしょうかね」
 と嘆いた。
 卯木は激怒した。
「何だよ。おれたちには後任は無しだとか言っておきながら、自分の部下はちゃっかりいただくってのか。ふざけんなっ。この人事課の惨状をどう考えてんだよっ」
 元々直情的な卯木ではあったが、この時の怒りは尋常ではなかった。声を落とそうともせず、このことをこっそり伝えた梅本に食ってかかるように声を荒げた。梅本が慌てて人差し指を口に当てた。卯木の憤激は田宮にも聞こえたはずだが、田宮は素知らぬ顔をしてパソコンの画面を睨んでいた。
 卯木の怒りが田宮に通じたからなのか、それとも元々その予定だったのか、中途採用者が人事課に2人配属されることになった。トランザクション株式会社では年間に800名の退職者が出る。その穴埋めは新卒だけではまかない切れない。従って年がら年中、中途採用の募集をしている。その中から多少人事の経験のある者が5、6名選び出され、即座に面接が実施された。その過程には士郎も加わった。士郎の人選は奇しくも田宮と一致し、2名が採用となって人事課に配属された。2人とも男で、ひとりは士郎の2つ年下、もうひとりはさらに2つ年下だった。
 この2人は十分に即戦力となった。また、田宮の虐待にもよく耐え、業務に貢献してくれた。2人は賢かった。士郎や卯木ほど深く職場の諸問題にのめり込まず、程よく距離をおいて付いてきた。士郎や卯木ほどの覚悟を持って田宮と対峙しなかったとは言え、この2人がいなければ、最後の決戦に向かうこの時期、士郎も卯木も到底持ち堪えることはできなかった。

(2)

 夏の賞与が終わってほっとひと息吐いた頃、人目をはばかるように、役員の人事異動がひっそりと貼り出された。年度替わりでもない中途半端なこの時期に、である。そのタイミングはいかにも不自然だった。さらに、そういったことは朝礼で発表されるのが通例だが、当日の朝礼でも、翌日の朝礼でも、それに関する言及はなかった。まるでこのことについて口にすることが、注意深く避けられているようだった。
 だから士郎がその発表に気づいたのは、迂闊にも翌日の午後、経理部の鷹山係長に言われてからだった。
「いよいよですね」
 エレベータ前ですれ違いざまに、鷹山がにやりと笑って言った。
「え?」
 士郎はぽかんとして、鷹山の顔を見た。
「掲示板、見たんでしょう?」
「いいえ。何か?」 
「川島常務が人事本部を外れるじゃないですか」
「本当ですか?」
「知らなかったんですか?」
 鷹山は呆れたように士郎の顔をのぞき込んだ。
 士郎は慌てて掲示板へ走った。
 確かに鷹山の言った役員の人事異動が貼り出されてあった。3行あった。文字の列を目で追った。社長の息子の岡田専務が副社長に昇格。人事本部長の川島常務は専務に昇格、同時に事業統括部へ異動。後任の人事本部長は村尾取締役。発表はそれだけだった。紙片の下半分が間の抜けたような空白となっていた。
 士郎は食い入るように発表を見つめ、目の前の事実の意味を推し量っていた。
 士郎の後を追ってきた鷹山が、背後に立って小声で言った。
「勝負あったということですよ、これは」
 士郎が振り返ると、鷹山はわけ知り顔で笑った。
 人事部に戻るなり士郎は卯木に耳打ちした。卯木は怪訝そうな顔をした。そして自分の目で確かめるために掲示板へ向かった。しばらくして卯木が戻ってきた時、狐につままれたような顔をしていた。
 士郎は自席に着いてからも、ずっとこの異動について考え続けた。そこに何らかの変化の可能性を嗅ぎ取ったからである。午後いっぱい、士郎は情勢の分析に没頭した。目の前の仕事のことなど上の空だった。そして最後に明確な結論を得た。これは千載一遇のチャンスではないのか。それが紙切れ1枚の地味な顔つき、雲の上の役員人事という出で立ちで、士郎の前に現れたのだ。危うく見逃すところだった。時間がない。動かなければ。頭の中に稲妻が走り、雷鳴が轟いた。
 とりあえず卯木に耳打ちした。
「あとで『ラ・マルセイエーズ』で」
 卯木は士郎から声がかかるのを待ちかまえていたかのように頷いた。
 午後10時。士郎たちが職場を離れることを許される最も早い時間だった。「ラ・マルセイエーズ」のテーブルに着いても、士郎はそわそわと落ち着きなく、頭の中に細部を描くことに余念がなかった。煮詰めれば情勢は二面的である。強さと弱さが交錯する。それが絶妙なバランスで目の前にある。だから針の穴を通すような的確な戦術が必要だった。
 卯木が士郎の思考を遮った。
「どう思う? これはチャンスじゃないか? 村尾さんを味方に付けて、田宮を押さえ込めるかもしれないぜ」
 士郎は小刻みに瞬きをしながら視線を移し、上気した顔を卯木に向けた。そして熱い息を吐くように言った。
「いや、もっと行けると思う」
 卯木は固唾を呑んだ。
「どうしようってんだ?」
 士郎はきっぱりと言ってのけた。
「田宮を人事部から叩き出す」
 卯木は思わず士郎の目の中を覗き込んだ。
「どうやって?」
「そういう局面を創り出す」
 士郎はぎゅっと目をつむり、手の甲を額に押しつけた。
 しばらくの沈黙があった。その後、士郎は卯木を相手に言葉を交わしながら、新たな戦術を描き始めた。卯木は士郎のそのやり方をよく心得ていた。対話によって2人の間に事物が浮かび上がってくる。ダイナミックに現情勢が分析され、そこから抽出された対立軸を手がかりに、事象の連鎖が解体される。事実の断片はいったん細部まで吟味された後、再度精緻に組み立てられる。その時には2人が取るべき戦術が、しっかりとその中に組み込まれているのだ。
「鷹山係長がこう言ったんだ。『勝負あったということですよ、これは』って。いったい何の勝負のことだろう? 誰と誰との?」
 士郎の問いかけに対して、卯木は次々と答えてゆく。
「そりゃ、ジュニアと川島のことだろうぜ」
「そうだよね。で、勝ったのはどっち?」
「当然、ジュニアだな」
「なぜ、そう言える? ジュニアも川島も、そろって昇格したのに?」
「つまり、その、いわば川島は棚上げされたんだな」
「うん、そうだ。専務に昇格と同時に事業統括部へ異動。あそこは何と呼ばれている?」
「姥捨て山」
「だから確かに棚上げされたと言えるわけだ。そこで勝負あったというわけだね」
 ここまではしっかりと論理的に構成できる。卯木にとっても自明のことである。しかし、それに乗じて田宮を人事部から叩き出すとなると、そこに至る論理に飛躍がある。先の結論を急ぎたいのを堪え、卯木はじっくりと士郎との問答に付き合った。
 そもそも、川島が社長の愛人であるというあの噂が真実であったとして、社長の実の息子と権力争いをして勝てるわけがない。いかにジュニアがお坊ちゃん育ちでパワーゲームの手練手管には疎いとしても、バックには社長夫人を始めとした岡田家の結束があるのだ。
 事実この間、社長夫人でありジュニアの母親である初老の女が、しばしば会社を訪れていたという話がある。士郎自身も、社長夫妻が寄り添ってエレベータで階下に降りるところに居合わせたことがある。夫に寄り添う夫人の姿は上品でそつのないものと見えた。こういう女こそ実は恐ろしい。ヤクザの女親分のような川島など、ひとたまりもない。
 所詮川島は、ある一定の期間だけ権力の座を占めることを許された、いわば脇役に過ぎない。ジュニアが30代後半にさしかかって、社長自身が老いてゆこうとする時、親子の間での権力継承はもはや時間の問題と言えた。それは物事が収まるべきところに収まりつつあるというだけの話である。
 士郎はそのような論評を問いかけの中に混ぜ込み、ひとつひとつ卯木の同意を求めていった。
 卯木は辛抱強く士郎の問いかけに答え、先の議論を手繰り寄せようとした。そしてある時点で先を急いで言った。
「あのいけ好かない女も、これで一巻の終わりだな。いい気味だぜ」
 しかし、それに対して士郎はぴしゃりと言った。
「違う。まだだよ」
 卯木は目を剥いた。
「どう違う?」
「人はそれぞれに自分の思惑を持って生きてる。社長の思い通りには行かない。実際、これから権力をはぎ取られる川島が、なぜわざわざ専務に昇格なんだ? 棚上げというやり方そのものが、これから一筋縄では行かないことを予言しているよ」
「問題なのは、川島のやつ、抵抗するかだぜ」
「そこだ。当然するだろう。『大阪コネクション』の力は侮れないよ。それでも勝てないとなれば、せめてむしり取れるものはむしり取って去っていこうとするだろうね。川島というのはそんな女だよ。後任の村尾さんには、やつらの抵抗を抑える役目を、ずっしりと重く背負わされていると思うよ。田宮を抑えるどころの話じゃないかもしれない」
 卯木はそれを聞いて、身震いして見せた。
「よせやい、縁起でもない」
 しかし士郎は首を振った。
「村尾さんは若い。おれたちよりも2つか3つ年上なだけだろう? 川島より若いし、田宮よりも優にひと回り若い。なおかつ、おれたちよりも後で入社してきた新参者。そんな若造が川島を追い落として後釜に座り、田宮を追い越していきなり上に立つんだよ。しかも今回の人事で明らかになったように、彼はジュニア側の人間と目されて当然だよ。川島からも、田宮からも、きっと目の敵にされる。村尾さんにとっては苦しい闘いになるだろうね、これは」
 卯木は考え込んだ。そして言った。
「うーむ、分かるぜ。恐らくそうなるだろうな。だから村尾さんが田宮と闘うんではなくて、むしろやつの方ににじり寄ることだってあり得ると言いたいんだろう? すると今回のことは、おれたちにとってチャンスとばかりは喜べないわけだ」
 すると士郎はまたもやぴしゃりと言った。
「違う。この上ないチャンスだ」
 卯木は混乱した顔つきで、悲鳴に似た声を上げた。
「おい、おい、おまえの言ってることが分からないぜ。さっきから二転三転してる。いったいどっちなんだ?」
 士郎は卯木を翻弄して楽しんでいるかのように、いたずらっぽい目をして言った。
「チャンスだよ、間違いなく。おれたちも参戦しよう。ただ情勢を推し量って、いいものが転がり落ちてくるのをずっと待っていても、得られるものは何もない。おれたち自身がひとつの勢力として参戦して、おれたち自身の手で田宮をこの人事部から追放するんだよ。しばらくは両者の力関係が均衡すると思う。これが重要なポイントだよ。おれたちにとってはチャンスだ。これまで準備してきたことを一挙に実現しよう。最後の決戦だよ」
 卯木は酔ったような気分で士郎の言葉を聞いた。士郎がこれほど好戦的な言い方をしたのは初めてだった。それだけで、この闘い、勝てるような気がした。卯木は士郎の言葉に飛びついた。そして腕まくりをし、舌なめずりをするように言った。
「よし、決まった。参戦だな。やってやろうじゃないの」
 士郎が正しく見抜いていたとおり、卯木の気質の中には、物事に酔って一面的な行動に走る傾向がある。それは直情的な卯木の魅力でもあったが、同時にそれは物事をぶち壊しにしかねない危険な欠点でもあった。士郎はこの時の卯木の心情の中に、むやみに突っ走ろうとするものを察知して、一抹の不安を覚えた。わざわざ二転三転の遠回りな問答をして、複雑な情勢の両側面を描いて見せたのも、卯木の極端な行動をあらかじめ抑制するためであった。
「そこで戦術の話なんだけど」
 と、士郎はひと呼吸置いた。
 卯木は身を乗り出して続きを待った。
「針の穴を通すほどのことをやらなければならないよ。全てを一点に集中させるんだ。つまりおれたちは村尾さんの援軍として参戦し、村尾さんとの同盟で田宮を追い落とすんだよ。間違っても村尾さんを田宮の側へ追いやるような真似をしちゃいけない」
「そんなの当たり前だぜ。村尾さんと喧嘩するようなばかな真似はしない。敵はあくまでも田宮だ。そんなことは言うまでもないことさ」
 卯木は単純明快に言った。
 しかし士郎は表情を曇らせた。これは卯木が言うほど簡単なことではない。打てば響くようにそのことが卯木に伝わらなくて、士郎は歯がゆい思いがした。
「いいかい? 村尾さんの立場に立って考えてみようよ。彼は川島という強敵と対峙するんだ。しかも川島の攻撃を受けながら、今まで以上に人事部を機能させていかなければならないわけだ。ちょっとの失敗が命取りだよ。だから田宮を懐柔できるならそれに越したことはないだろう? 田宮抜きの人事部がちゃんと機能するかどうか怪しいんだからさ。今、人事課は崩壊寸前の状態なんだ。田宮を頼ることも十分に彼の選択肢のひとつだよ」
 卯木はそんなことは分かっているという素振りで言った。
「確かに理屈の上ではそうだろうけど、田宮の性格を考えればそれはありえないぜ。田宮にとって村尾さんは自分の権力を脅かす存在さ。大人しく村尾さんの配下に収まるはずがない。見てろよ。やつはきっと暴れるぜ。田宮はそんな男だ。村尾さんにとってもそんな田宮が邪魔でしかたないはずさ。最終的には田宮は叩き出されるしかない」
 士郎はくどいほどに言った。
「もちろんそうなるだろうし、そうさせなきゃならないよ。でも物事をそんなふうにコントロールするのは簡単じゃない。実際に闘いに突入すれば、そこからの逸脱はいくつも起こる。大切なのはコントロールなんだよ。村尾さんは強すぎてはいけない。強い村尾さんは力ずくで田宮を組み敷き、そこにおれたちの出番はない。これでは田宮の追放には向かわない。かと言って、弱すぎてもいけない。弱い村尾さんでは田宮に勝てない。今まで通り、田宮の天下が続く。だから強すぎず弱すぎず、その微妙なバランスの上で、村尾さんと田宮の対立が深まり、そこへおれたちが参戦して田宮の追放をお膳立てしなければならないんだ。おれたちの存在感でもって、村尾さんにそれが最善の解決策だと示す。相当に難しいよ、これは。分かるだろう?」
 しかし卯木は士郎の懸念をまともに受け止めようとはしなかった。
「心配しすぎだよ。それより明日から具体的に何をするか、それを相談しようぜ」
 卯木は士郎の懸念をよそに、あくまでも物事を単純に捉えていた。士郎はそんな卯木の軽薄さを横目で量りながらも、戦術の話を続けた。
「まず、おれたちの手で田宮抜きの人事部の体制をデザインしよう。それを村尾さんに示すんだ。そして、おれたちを取るのか、田宮を取るのか、そういう選択肢を設定する。それをじっくり考えてもらおう。そのためには準備が必要だな。体制固めをしなきゃ」
 卯木は興に乗ってきた。
「いいねえ。影の内閣みたいなものだな。なんだかすでにおれたちが人事権を掌握したような気になる。やろうぜ、それを」
 士郎は卯木が先走ろうとするのを手で制した。
「待ってくれよ。そのためには実現すべき条件がある。それが先だよ」
「つまり?」
「人事課のメンバーの団結だよ。すでに中川と寺島、それに太田が退職した。今月末には杉山と末永が続こうとしている。もう時間がない。この2人の退職届を撤回させて、人事課のメンバーを団結させるんだよ。この戦術はかつて試みて手痛い失敗を喫したものだけど、あのころと今とでは情勢が違う。もう一度、今度は成功させなければならないよ」
 それを聞いて、卯木はにやりと笑った。
「それなら勝算はあるぜ。遠い将来に備えてというんじゃなくて、目の前の決戦に臨むんだからな。いかに杉山といえども、今度は乗ってくるぜ」
「うん。それから、タイミングの問題があるよ。村尾さんと田宮の対立が深まるのをじっくり待って、そこで村尾さん側に参戦しよう。この対立はおれたちが煽ってやればいい。おれたちみんながことさら田宮を無視して村尾さんの指示に従えば、田宮の神経を逆撫でしてやることができるだろう? 田宮は小心者で愚かだから、逆上して派手なドンパチをやらかしてくれるかもしれないよ」
「お、いいねえ。あるいは田宮が村尾さんの悪口を言ったら、そのまま村尾さんに伝えるとかな。そういうのはおれに任せておけよ。くそまじめなおまえには似合わないから、ここはおれの出番だぜ。これでもか、これでもかってやってやるぜ」
 卯木は鎖を解かれた猟犬のように突っ走ろうとしていた。士郎の不安は拭えないが、今は間違いなく突っ走る時である。長い間閉じこめられてきた2人の情熱を、一気に解き放つべき情勢が訪れていた。
 士郎は差し出された卯木の手を力一杯握りしめた。

(3)

 今回の役員人事に川島の権力を剥ぎ取ろうという意図があることは、本社の誰の目にも明らかだった。川島が新たに配置される事業統括部はビルの最上階にあり、通称「姥捨て山」と呼ばれている。過去に功績はあるものの、今では時代について行くことのできないロートル役員たちが捨て置かれる部署である。70歳を過ぎた2人の前副社長を始め、老いた数名の役員が机を並べ、気楽な余生を楽しんでいるように見える。そこへまだ40代の川島が放り込まれるのである。棚上げ以外の何ものでもない。
 多少とも事情を知る社員の中には、社長にとっていよいよ川島が邪魔になり、情け容赦なく切り捨てられようとしているとさえ言う者がいた。そんな敵意ある言葉も、誰ひとりとして咎めようとはしない。それだけ川島に反感を持つ社員は多かった。理不尽な罵声を浴びせかけられた者は、決してその恨みを忘れはしない。川島の配下でもない社員にとって、川島の凋落は嘲笑の対象でしかなかった。
 川島自身は怒りを露わにし、今回の人事に激しい抵抗を示した。しきりに自派の役員を集め、今回の決定を呪い、聞こえよがしに後任の村尾をこき下ろした。部下にも八つ当たりした。その様は正視に耐えないほど醜かった。士郎も多少の被害を受けた。それは川島お得意のデモンストレーションである。愚かな行為だ、と士郎は思った。川島と一蓮托生となる者はそれによって結束を固めるであろう。しかしそうでない者はかえって川島に反感を持つばかりだ。川島は自分の置かれた情況を客観的に見ることができず、被害者意識に凝り固まり、周囲が自分に同情すると信じて疑わなかった。所詮はそんな女である。
 そんなふうに1週間ほどが過ぎた。相変わらず人事本部内には役員人事に関する何の言及もなかった。ましてや後任の村尾が人事本部内に紹介されることもなかった。士郎があの発表は幻だったのではないかと不安になるほど、その件に関しては沈黙が守られた。それはいつまで続くのかわからない、息詰まるような膠着状態だった。
 その膠着状態を士郎と卯木は最大限に利用した。
 まず士郎は梅本課長を試すことにした。田宮に聞こえないように声を潜め、とぼけた調子で梅本に訊ねた。
「村尾取締役はなかなか着任されないですね。何か理由でもあるんでしょうか?」
 すると梅本はそんなことにはまるで無関心であるかのように、投げやりに答えた。
「向こうでの引継ぎに時間がかかっているとのことですね。そのうち来るんじゃないですか」
 今度は卯木が単刀直入に梅本の考えを確かめた。
「梅本課長はどう思っているんですか? 村尾取締役が来ることによって、この人事課は変わりますかね。それとも川島常務と村尾取締役の交替は、単に帽子を取り替えたぐらいのものなんですかね」
 すると梅本は拗ねたような言い方で言った。
「変わらんでしょう。誰が来たって同じですよ」
 士郎と卯木は、その言葉を聞いて気持ちが暗くなると同時に、それが課長たる者の言葉なのかと憤った。変わらないなどと客観的に言うのではなくて、これをチャンスと見て変えてやろうというぐらいの気持ちはないのか。
 卯木はきっぱりと言った。
「よし。おれたちが何か行動を起こす時、梅本さんは抜きだ」
 士郎も言った。
「ああ、そうしようよ。あんなんじゃあ、役に立たないばかりか、足手まといだよ」
「これまで虐げられてきただけに、可哀想だがな。しかしどうしようもない。もう壊れてる」
「ああ。自ら闘おうとしない者を救うことはできないよ」
 次に士郎は杉山の説得に取りかかった。それには数日かかった。
 最初、杉山は憤りを露わにして士郎に食ってかかった。
「なんでぼくたちがそこまでしなければならないんですか。あほらしい。そんなのは経営者の仕事でしょう。いくらうちの経営者が能なしぞろいだからと言って、ぼくたちが骨を折るようなことじゃないでしょう。悪いですけどそんな給料はもらってませんよ」
 これを聞いて卯木が激昂した。
「杉山。おまえ、田宮を刺し殺すだの、家に火を点けるだのってほざいていたのは、口先だけだったのか。そんな度胸もないくせに、かっこつけただけなのか。ここで立ち上がらないんなら、おまえ、男じゃねえぜ。明日っから座ってしょんべんしたらどうなんだ?」
 士郎は卯木を手で制し、杉山への説得を続けた。さっきの杉山の卑屈な物言いに、士郎は逆に説得できる可能性を見いだしていた。それを卯木のように頭ごなしに杉山の気持ちを否定してはならない。
 杉山自身の中に矛盾がある、と士郎は見ていた。田宮との闘いが「あほらしい」のであれば、士郎に自分の気持ちをぶつけるのも同じく「あほらしい」はずだ。しかし杉山は士郎には食ってかかったのだ。ではなぜ田宮に食ってかからないのか。今までは田宮には勝てないと思いこんでいたから、負け犬根性に逃げ込んできた。闘って辛い思いをするよりは、被害者のままでいたかった。しかし現在の情勢は違う。田宮の権力は脅かされている。杉山はこのまま被害者であり続けることさえできないかもしれないのだ。今や蹴飛ばそうと思えば届くところに田宮の頭がある。それでもなお杉山は士郎の脛を蹴って満足できるのか。
 だから士郎は穏やかに言った。
「自分が今まで何を望んできたのか、じっくり考えてみてくれないか。そのチャンスが訪れた時、君はどうすべきなのか。明日、もう一度話をしよう」
 そう言って士郎は杉山を帰した。
 卯木は不思議なものを見るような顔で、士郎の言葉を聞いた。卯木の見ている前で、士郎の言葉は杉山の心に苦もなく浸み入ったのである。
 その翌日、それでも杉山は退職届を撤回しなかった。その代わりに士郎の戦術を熱心に聞いて、意見を述べた。そこに杉山の卑怯さと臆病さが表れていた。「よし、やろう」とはっきり参加を宣言すれば、主体的な責任が生じる。なし崩し的に参加することで、いつでも手を引けるようにしておこうというのだろう。杉山はそんな男であった。
 士郎の戦術を聞き、まず杉山は言った。
「基本的に、今までと変わっていませんね」
 それには卯木が答えた。
「そのとおり。逆に言えば、以前この戦術を持ち出したのは、こういう情勢がやがて訪れることを見越してのことだったんだぜ」
 卯木の言葉は杉山に対する皮肉を微妙に含んでいた。
 しかし杉山は動じなかった。杉山は士郎や卯木に対して自分の立場が優位にあると見切っていた。乞われて迎え入れられようとしているのだ。そのことが杉山のプライドをくすぐっていた。
 士郎が卯木の言葉を補足して言った。
「あの時は今ほど情勢が熟していなかった。でも今は違う。だからもう一歩踏み込んで、田宮抜きの人事部の体制を、おれたち自身の手でデザインしようと思うんだよ。こんなふうな体制を組めば、田宮なんかいなくても人事部は立派に機能しますよっていう配置をね。だから退職届の撤回はとても大切なことなんだよ。つまりこの体制の中で、君を当てにしていいのか、どうなのかっていうことなんだ」
 士郎は敢えて杉山に手の内を明かした。その上で杉山の明確な意志表示を待った。その答えによって、ひとつの判断を下すつもりでいた。杉山に責任ある役割を与えていいのかどうか、である。責任ある役割とは、例えば、士郎に代わって給与計算の責任者を任せるということである。士郎は、できれば給与計算の役割は部下に任せて、自らは田宮が抜けた穴を塞ぐ役割に専念したいと考えていた。
 しかし杉山は明確な意思表示を避けた。そのことに士郎はがっかりした。
 そこで士郎は、その翌日、杉山への問いを変えた。敷居を一段階下げたのである。
「杉山君。君には今の時点で私の考えていることをほとんど示したよ。そろそろ君の立場を明らかにしてほしいんだ。われわれのこのミッションに君も加わるか?」
 この問いかけは、退職届を撤回するという明確な答えを求めたものではないにしても、少なくとも退職を保留するとか延期するという言葉を期待したものだった。
 杉山は澄ました顔で言った。
「やってもいいですよ」
 士郎はまたしても失望した。思えばこの男と4年近く付き合ってきたが、失望の連続だった。士郎は諦めた。杉山に責任ある立場は任せられない。単なる一参加者として扱うしかない。
 後で卯木と話すと、卯木も同じように憤っていた。
「何だよ、あの偉そうな言い方は。何様だって言うんだ?」
 士郎も言った。
「がっかりだ。30点の内容だよ」
「何だよ、30点って?」
「『やらせてくれ、チャンスをくれ』が100点満点の答え。単に『やる』で60点。『やってもいい』とか『手伝ってやる』で30点。『やらない』で0点。おれはあらかじめそういう点数で考えていたんだよ。その結果、30点だ。あいつにはいつもがっかりさせられるよね」
「まあ、今回ばかりは、逃げなかっただけましだぜ」
 と、最後に卯木は風船から空気が抜けるように言った。
 杉山の場合とは別の意味で、末永の説得も難航した。末永はトランザクション株式会社を退職して、フラメンコをやるのだという強い意志を持っていた。それに士郎の懇請に応じて、すでに一度退職を延期してくれていた。しかし士郎がそれ以上に説得が難しいと感じたのは、末永がすでに自分の闘いを始めていたからであった。
 末永は言った。
「私ね、今27歳なの。まだ人生をやり直せるわ。トランザのことなんか忘れてやるの。それに田宮部長のことも。そんな会社は存在しなかった、そんな人間はこの世に生きていなかった。本当は私だって会社を爆破してやりたいとか、田宮部長を殺してやりたいとか思うわよ。でも、そんなことで自分の身を傷つけるのはいやだわ。だから記憶の中で消してやるの。それが私の闘いなの」
 末永は強い言葉を使った。爆破するとか殺すとか、目の前の若い女が口にしたのでなければ、テロリストの言葉かと思える。しかし士郎にも卯木にも、末永の気持ちは十分に分かる。
 記憶から消してやる、それが自分の闘いだと末永は言った。そんな末永を説得する方法を士郎は見いだせなかった。ただ闘いに加われと言うなら、話は単純だ。しかしすでに自分の闘いを始めている者に対して、それを脇に置いてこちらの闘いに加われというようなことを言っていいのか。それぞれの道を別々に歩んだ方がいいのではないのか。
 士郎は目の前の末永の気高さに心を打たれていた。卯木も無言だった。士郎はやっとのことで末永を繋ぎ止めようとする言葉を口にした。
「君の気持ちは分かったよ。それでも君に残ってもらいたい私の気持ちは変わらない。ただ、われわれのこれからの闘いが、今の君の気持ちにどう応えることができるのか、ひと晩じっくり考えてもらえないかな。そのうえで、明日もう一度時間を割いてほしいんだ」
 末永は笑ってこっくりとうなずいた。
 その翌日、士郎は行き詰まって卯木の意見を求めた。
「どうすればいいんだろう?」
 そう問われても、卯木に答えることはできなかった。
「杉山のように情けないやつなら怒鳴りつけてやるんだが、そこへいくと彼女は立派だぜ。でも、逆に説得が難しいよな。彼女の心の琴線に触れる言葉が見つからないぜ」
 ところが午後になって事態は急展開を見せた。
 末永が士郎の席の背後を通り過ぎようとした時、折り畳んだ紙片を士郎の机に置いた。こんな時には、すぐに開いて読んではならない。田宮にそれを見とがめられ、「今の紙は何だ」と追及される。しばらく無視し、時間をおいてから引出にしまう。さらに時間をおいて引出から取り出し、つまらないものを眺めるような振りをして読むのである。
 士郎が念入りに田宮の視線を逃れてその紙片を読むと「地下倉庫でお待ちしています」と書いてあった。士郎の胸は高鳴った。この人事課では、こんなふうに自らの意志で行動する時、悪いものは出てこない。田宮に抑えつけられた結果、怯えて意志を失うのが普通である。末永はそれを跳ね除けようとしているのではないか。期待が膨らんだ。
 その時点で士郎が顔を上げて末永の姿を探すと、人事部内には見あたらなかった。先に地下倉庫へ降りたに違いない。士郎は席を立って、室内のキャビネットの中の書類を探す振りをした。そして書類が見つからないから地下倉庫へ探しに行ってくるという素振りで、わざわざ課長の梅本に行き先を告げ、途中で総務部に寄って地下倉庫の鍵を受け取ってから部屋を出た。ちょっとした行動が命取りになりかねない。士郎は怪しまれないよう、慎重に行動した。
 地下に降りると、暗闇の中で末永が士郎を待っていた。
 士郎が扉の鍵を開けると、末永はするりと身を隠すように倉庫に入り、振り向きざまに言った。
「やるわ、私。退職を延期する」
 士郎は照明のスイッチを入れ、心にゆとりを持って訊ねた。
「ありがとう。でも、考え直してくれたのはなぜ? 何があったの?」
 末永は士郎に見つめられて目を伏せ、答えた。
「杉山さんに誘われたの」
「杉山?」
「そう。『本当ならおれたちはいい仲間になれたはずなのに、田宮部長のせいで台無しだ。でも、もしかするとやり直せるかもしれない。そしたらおれは退職を取り消す。だからもう一度一緒にやらないか』って」
 杉山がそんな気持ちだったとは驚いた。末永を誘ったことは紛れもなく杉山自身の意志である。杉山の意志がようやく目覚め始めたのではないか。そうであるなら杉山をもう少し信頼してやってもいいのかもしれない。
「よし、やろう。体制ができあがってきた。役者が揃いつつあるんだ」
 結論を得ると、士郎は末永を先に上がらせ、約10分の間隔を置いて自分も上がった。その時適当な資料を持って上がり、それを探しに行っていたのだという演出を忘れなかった。
 人事部に戻った時、田宮はいつもと変わらず気むずかしい顔をしてパソコンの画面を睨みつけていた。士郎の目には、その様はたいそう間抜けなものと映った。田宮には首を洗って待っていてもらおう。
 卯木に報告すると、卯木は呆れた。
「自分ひとりでは不安だから、末永を巻き込もうとしたんじゃないのか。情けないやつめ」
 士郎は杉山を擁護した。
「しかしおかげで弾みがついたよ。おれたちでは末永さんを説得することはできなかった。悔しいけど杉山のおかげだな。やっぱり苦労を共にした年月の絆は強いんだよ。おれたちにはそれが足りない」
 卯木は苦い顔をして士郎の言葉を聞いた。
「で、次に何をする?」
 士郎はその言葉を待っていた。
「部下たちは心からおれたちに共感していない。これは悲しいよね。でも、好かれていようがいまいが、おれたちがやるべきことは決まっているよ。お膳立てとコントロール。さしあたってここに共感は必要ない。まずは舞台を用意して、役者たちをそこへ上がらせよう」
「つまり?」
「決起集会をやろう。全員を舞台に上げる」
 それを聞いて卯木は喜んだ。
「お、いいね。やろうぜ。うんと加速をつけて、一気に突っ走ってやる」
「いよいよ、決戦だよ」
 2人はこんな言葉を口にする瞬間を辛抱強く待ち望んできた。いざその瞬間が訪れた時、あと一瞬でもその訪れが遅れていたら、確実に心が破裂していただろうと思えた。

(4)

 さっそく次の日曜日の午後、士郎の呼びかけで、人事課のメンバーは次々と新宿の喫茶店に集合した。場所を新宿にしたのは、田宮はもちろんのこと、トランザクション株式会社の誰の目にも触れたくなかったからだ。卯木はそこまでする必要はないんじゃないかと言ったが、士郎は最大限の警戒を怠らなかった。
 最後に杉山が集合時間に20分遅れてやってきた。遅刻とは言え、20分なら、杉山にしては上出来である。来ないつもりかとやきもきしたが、喫茶店の扉がカラン、コロンと音を立てて開いた時には、内心ほっとした。
 課長の梅本には声をかけなかった。新入社員の2人も、まだ少し荷が重いだろうという判断で、対象から外した。士郎と卯木、杉山と末永、柴田、そして中途採用の坂木と水島、総勢7名が集合した。日曜日にこうして私服で会社以外の場所に集合してみると、これから始まる舞台の役者が揃った感があった。
 士郎がコーヒーをひと口飲み下し、ぎこちなくカップを置くと、皆の視線が集まった。
「今日集まってもらったのは、他でもない。これからのわれわれのことを決めるためなんだ。つまり人事課をどうするかってこと。それをわれわれ自身で決めよう」
 たちまち卯木が悲鳴に似た声を上げた。
「おい、おい、回りっくどいぜ。今日は田宮追放にむけた決起集会なんだろう? 景気よくいこうぜ」
 士郎は出鼻を挫かれ、しどろもどろになった。
「いや、まだ、そう決まったわけでは…」
 すると柴田が恐ろしい形相で言った。
「ぼくは最初っからそのつもりですよ。坂木チーフと水島チーフもそうでしょう?」
 すると坂木と水島は緊張した面持ちで微かに頷いた。
 杉山はにやにや笑いながら聞き、末永はそんな杉山を非難めいた目で見ていた。
 後から聞いた話だが、杉山は、坂木と水島、そして柴田と末永に「加瀬係長は弱腰だから、みんなで逃げないように圧力をかける必要がある」などと言っていたのだった。士郎はそれを聞いても、卯木ほどは怒らなかった。それよりも杉山の主体的な参加を歓迎した。
 士郎は仕切り直して言った。
「じゃあ、話は早いね。いよいよ田宮を叩き出す。そのチャンスがようやく巡ってきたんだ。だからその戦術を話し合いたい。今日集まってもらったのはそのためだよ」
「で、どうするんですか?」
 柴田が先をせかした。
 士郎はゆっくりと噛み砕くように言った。
「戦術は今までと変わらないよ。田宮がいなくてもこの人事課がちゃんと機能するように体制を作る。さらに田宮が果たしていた役割をわれわれで担う。だから問題は人事課にとどまらない。人事部全体をわれわれで乗っ取るんだ」
「そんなことがどうしてできるんですか?」
 末永が確かめるように言った。その口調に懐疑の響きはなかった。
「機が熟したんだよ。川島常務が人事本部長を解任されることは知っているだろう? 新しく人事本部長に就任した村尾さんにとって、扱いにくい田宮を残して今まで通りやってゆくか、思い切って田宮を排除して新体制を構築するか、選択肢があるはずなんだ。その時、田宮を排除してこのわれわれを選んでくれと、村尾さんにアピールするんだよ」
「村尾さんが私たちの味方に付いてくれるとは限らないですよ」
 坂木が士郎の腹を探るように言った。
 士郎は確信を込めて言った。
「もちろん、今のままではね。しかし、われわれの動き方ひとつで、主導権を握ることはできる。田宮は小心者で保身が強いから、ことさら村尾さんの支配を嫌って抵抗すると思うんだ。2人が対立するように煽ってやればいい。やがて村尾さんの手に負えない情況になる。その時われわれが村尾さんの援軍として登場すれば? 村尾さんは間違いなくわれわれを味方に選ぶよ」
 柴田が口笛を吹き鳴らした。
「さすがですね、加瀬係長」
 士郎はすかさず釘を刺した。
「しかし簡単な話じゃないよ。これから、日々、いろんなことが起こる。それらのひとつひとつに的確に対処してゆく。綿密に情況を分析しつつ、即座に決断して行動に移す。道は細い。左右のどちらにぶれてもいけない」
 それを杉山が茶化した。
「ごちゃごちゃ考えている前に、早く刺し殺しましょうよ」
 それを卯木が、間髪を容れず、たしなめた。
「おい、杉山。おまえ、まだそんなことを言ってるのか」
 杉山はふてくされて言った。
「ふん、冗談ですよ」
 士郎はそこに危険な兆候を嗅ぎ取って、予めその芽を摘もうとした。
「いいかい? よく聞いてくれ。最初の段階では均衡が必要なんだよ。村尾さんは田宮の尻に敷かれるほど弱くてはだめだ。でも逆に、田宮をものともしないほど強くてもだめなんだよ。そのどちらに傾いてもわれわれが主導権を握ることはできない。田宮と村尾さんの間には均衡が成り立って、膠着状態が生じることが望ましいんだ。この段階に至るまでは、おれたちは静観するしかない。余計な手出し、口出しはしない方がいい。なあに、すぐにあの2人は対立するよ。そこからがおれたちの出番だ。村尾さん側について、田宮のやつを総攻撃してやろう。でも、今は何もしない方がいい。分かるだろう?」
 士郎は杉山を諭すつもりで言ったのだが、深く頷いたのは末永と水島だった。杉山は士郎に反論されてむっとし、柴田は2人の対立に気を揉む素振りを見せた。坂木は卯木の顔色をうかがっているようだったが、卯木は沈黙を守った。
「でも、それじゃあ、今日は何のために集まったのかしら? つまり加瀬係長は、私たちに『しばらく待て』っておっしゃりたかったの?」
 末永が落ち着いた眼差しを士郎に向けた。そこに非難の色合いは感じられなかった。むしろ深い思慮が感じられた。
 それを潮時と見て、士郎は鞄から資料を取り出し、皆に1部ずつ配った。
「これを見てほしいんだ。時が来れば村尾さんに渡すつもりで作ったんだけど、みんなにも同意をもらっておきたかった。今日の本題はむしろこっちなんだよ」
 士郎はそこでひと呼吸置いて、皆が資料のページをめくるのを見守った。
 資料は10枚ほどの紙片がホチキス止めされたものだった。表紙には『提案書』と大きく印字されていた。皆がばさばさとページをめくるのが落ち着くと、士郎は内容の説明を始めた。
「最初のページは結論だよ。田宮部長抜きにどうやって人事課部機能してゆくか、その組織体制図を作ってみた。と言っても、みんなも感じるように、田宮部長は邪魔な存在だったから、消えてくれるだけでありがたい。でも彼がやっていた全社の人事考課とか、昇進昇格、給与改定、賞与とかの業務は、誰かが替わってやらなければならない。それは私がやるよ。その代わり、私が今までやっていた給与計算の責任者は水島チーフにやってもらいたい。社会保険と人件費管理の責任者は、卯木係長に替わって坂木チーフにお願いしたい。卯木係長は闘いが終わった後、トランザを卒業して、家業を継ぐことになる」
 士郎が次のページを説明しようとした時、杉山が遮った。
「梅本課長はどうするんですか? 名前が載ってないですけど」
 末永も言った。
「それに、今日のこの集まりにも、声をかけていないみたいだし」
 それには卯木が答えた。
「闘う意志のない者を加えるわけにはいかないだろう。下手すりゃ秘密が漏れるぜ」
 杉山は不快感を露わにした。
「正々堂々とやればいいじゃないですか、こんな陰謀みたいなことをしなくても。陰でこそこそと何をやったって、何も変わんないですよ」
 危うく険悪な雰囲気になりそうだったが、末永がぷっと吹き出したから救われた。
「おかしいわ、杉山さん。正々堂々とやるチャンスなら、今までいくらでもあったのに」
 末永の無邪気な言い方のために、誰も傷つかずに済んだ。杉山も照れたように前髪を掻き上げ、黙って引き下がった。
 士郎は末永の疑問には答えておいた。
「梅本課長には、真っ先に声をかけたんだよ。もちろん、秘密の決起集会をやるなんて言わなかった。これをチャンスと見て、闘う気があるのかどうか、暗に訊ねてみたんだよ」
「そしたら?」
 末永が分かり切ったことを敢えて訊ねるかのように、わざとらしく士郎を促した。
 士郎は卯木に視線を送った。
 卯木は溜息混じりに答えた。
「誰が人事本部長だろうと変わりゃしないってさ」
 予想通りの答えに、末永も溜息をついた。
「だめね、あの人」
 皆が納得したので、士郎は資料の続きを説明した。
「2ページ目からは、田宮部長がいかに邪魔で悪い存在かという、実例と証拠だよ。まずは人事課の定着率。過去からずっとほぼ3年で8割のペースで社員が辞めている。むろん、田宮の仕打ちに耐えきれなくなって、みんな辞めていってるわけだ。次のページは、参考までにトランザ全体での退職率。こちらはほぼ4年で半分のペース。トランザ自体が定着の悪い会社だけど、人事課はさらに悪い」
 皆は図表とグラフで構成されたページに眺め入った。
 杉山が妙な関心を示して、士郎に訊ねた。
「このグラフ、エクセルで作ったんですか?」
「ああ、エクセルで作って、パワーポイントに貼り付けた。それが何か?」
「今度、ぼくにやり方を教えてください」
「ああ、いいよ。簡単だよ」
 すると、柴田も言った。
「加瀬係長、ぼくにも。パソコンでこんな資料を作って、かっこよく仕事ができたらいいなって、憧れてたんです。なのにトランザに入社してから電卓ばっかり。なんだよこの会社、これでほんとに情報処理の会社なのかよって、ずっと思ってました」
「ああ、いいよ。じゃあ、田宮との闘いが終わったら、真っ先にパソコン教室をやろうか?」
 士郎はいい雰囲気になってきたと喜んだ。
「で、話を元に戻すけど、次のページからは、田宮が何年間にもわたって懐に入れてきた、空出張の出張旅費に関する資料だよ。その総額は恐らく4千万円から5千万円に上る。卯木係長が経理部から入手した伝票のコピーもつけてある。それに付き合わされておれたちがどれだけ会社に寝泊まりさせられたか、タイムカードのコピーもつけてある。というふうに、村尾さんにはこの2つの事実、つまり人事課の定着率と空出張についてを、田宮の弊害として示すんだ。そして最後のページは、村尾さんへのメッセージだ。田宮部長の人事部からの追放を提案しますってね。そしてこの余白に…」
 士郎は上着の内ポケットからコケコッコーの万年筆を取り出して言った。
「みんなでサインしよう」
 士郎はそう言うと同時に万年筆のキャップを外し、資料の最後のページにさらさらとサインした。
 コケコッコーの万年筆は士郎から卯木の手に渡され、卯木もサインした。そして次々と全員のサインがそこに記された。万年筆の演出効果は抜群だった。それは人事課のメンバーの気持ちが初めてひとつになった瞬間だった。そして誰もが余計な口を利いてそれをぶち壊したくなかった。だから7名は互いに黙ってうなずき、目と目でその意志を確かめ合ったのだった。

(5)

 相変わらず川島は人事本部長席にしがみつき、後任の村尾にその席を明け渡す気配はなかった。その姿はまるで村尾が着任したら喰い殺してやろうと待ちかまえている猛獣のようだった。だから村尾が人事部へ降りて来ないのも無理はなかった。わざわざ川島と対決して傷を負う必要はなかった。
 村尾はこれまで人事部のひとつ上の8階にある事業企画開発部で、子会社の立ち上げや買収、そして上場準備の指揮を執ってきた。これはこれで魅力あるポジションだった。人事本部長への就任はステップアップであるとしても、下手に急いでつまずくのは得策ではなかった。村尾はそういった身の処し方を十分心得た男だった。
 その村尾から士郎に内線電話があって、8階へ呼ばれた。士郎は階段を上りながら胸を高鳴らせた。村尾とはもちろん初対面ではない。しかし例の役員異動が発表されてからは初めての接触だった。
 士郎が入ってゆくと、村尾は手を挙げて、親しげに手招きした。
「おう、こっち、こっち。そこのブースに入って、待っててくれよ。おおい、亜美ちゃん。コーシーを2つ頼む」
 士郎はその言葉を、まるで別世界に来たように聞いた。人事部で「コーシー」などと言えば、それだけで田宮から言いがかりを付けられそうだ。どうということのないちょっとした言葉が田宮の逆鱗に触れる。3年間以上、田宮の下で苦しみに耐えてきた結果、士郎の心にはもはや自由に軽口を叩く陽気さはなくなっていた。
 士郎が指示されたブースに座って待っていると、亜美ちゃんと呼ばれた若い女子社員が紙コップのコーヒーを2つ持って来てくれた。士郎が強ばって頭を下げると、逆に女子社員はかえって恐縮した。
 しばらく待つと、村尾がやってきて、向かいに座った。歯並びのよい口元に爽やかな笑みを浮かべたところなど、士郎や卯木よりも若く見えた。
「すまん、すまん、こっちから呼び出しておきながら、ずいぶん待たしちまって。ちょっと打ち合わせが入ってね」
 士郎は村尾の軽い挨拶に感動さえした。上司と部下の間で交わされるこのようなありきたりの言葉さえ、士郎には自由の風を嗅いだように思えるのだった。
「おい、おい、どうしたんだ? 生きてるか? さては寝てないんだろう。また田宮さんにいじめられたのか? あんまり無理すると、身体を壊すぞ、おい」
 村尾にそう言われて、士郎は涙を堪えさえした。ここは自由だ。1階隔てただけの同じ社内なのに、こうも空気が違うものなのか。
「いえ、大丈夫です」
 士郎が堅苦しくそう言ったので、村尾は肩をすくめた。
「ま、いいや。来てもらったのは他でもないんだけどね、おれが人事担当になったのは知っているだろう? こっちの引き継ぎがもたついて、まだ下へは行けないんだけどさ。しかしどんな人たちがいるのか把握はしておかなきゃならないから、人事部のみんなの履歴書を持ってきて欲しいんだ」
 それを聞いて、士郎はぎょっとなった。田宮に無断でそんなことをしたら、ばれた時に大変な目に遭う。それこそ1時間直立不動で立たされても、まだ許されないだろう。士郎は躊躇した。そして口ごもった。
「それは、田宮部長が何と言うか…」
 それを聞いて村尾は苦笑いした。
「そう言うと思ったよ。しかし、君も相当田宮さんに痛めつけられたと見えて、すっかり縮み上がってるんだね。いいかい? 私は役員で、田宮さんよりも立場は上なんだよ。その私が持ってきてくれと言うんだ。何をためらう必要があるんだ?」
 村尾が言うのは正論であった。そして士郎はその時、この展開はもしかすると面白いことになるかもしれないと思った。うまくいけば田宮が村尾に食ってかかって、2人の間の対立が一気に激化するかもしれない。だから士郎は素直に村尾に従うことにした。
「失礼しました。申し訳ありません。すぐにお持ちします」
 士郎はそう言って、いったん階下の人事部へ戻った。そしてキャビネットからこっそりと人事課のメンバーの履歴書を抜き取り、ファイルに隠して、盗み出すようにして8階へ持って上がった。
 村尾は今度は机で何かの書類に見入っていた。そして素っ気なく「そこへおいといてくれ」と言った。
 士郎は言われたとおりにファイルを置き、無言で立ち去った。
 事態が急展開したのは、その日の夜になってからだった。村尾がふらりと人事部にやってきて、親しげに士郎に声をかけた。
「おう、ごくろうさん。まだ頑張ってるのか」
 虚を突いたような村尾の出現に、田宮を始め、人事部全員の視線が釘付けになった。人事部だけではない。両隣の人材開発部と経理部の視線も集まった。もしここに川島常務がいたらどのようなことになるかと思うと身の毛がよだつ。しかし川島の席は空席だった。きっと今夜も自派の幹部たちを引き連れて街に繰り出し、今回の役員人事に対する恨み言をぶちまけているのだろう。
 固唾を呑むような皆の注目の中、村尾は履歴書のファイルを士郎に差し出した。そして言った。
「これ、ありがとう。参考になったよ。しかし加瀬さんは国立のいい大学出てんだな。ここにはもったいないぐらいだよ」
 士郎はぎょっとなった。
 まず士郎が人事部の書類を田宮に無断で村尾に見せたことがばれた。これでたっぷり1時間は説教を喰らうことになるだろう。しかも村尾が直々に返しに来るという演出までついた。しかし内心士郎はしてやったりとほくそ笑んだ。これをきっかけにして田宮が村尾に噛み付くように操縦してやればいいのだ。
 ただし士郎の大学のことは全く余計だった。田宮には学歴コンプレックスがある。若い頃国立大学を受験して失敗し、私立の大学から国家公務員の採用試験を受験して失敗した。やむなくまだ採用枠の残っていた民間企業に入社し、10数年勤めて結局そこでも厄介払いを喰らい、まだ上場前で無名だったトランザクション株式会社に拾われたのである。そのつまずきの始まりが国立大学に入れなかったことだったと、田宮は思い込んでいる。その劣等感から田宮は国立大学を目の敵にして、ことさら他人の学歴を否定する。この劣情の矛先は都合よく村尾には向かわず、ひたすら士郎に突きつけられることになる。だから学歴のことは村尾に言ってほしくなかったのである。
 ところがそんな士郎の懸念をさえ吹き飛ばすようなことが起きた。
 村尾は士郎に背を向け、人事部内をひととおり見回した後、振り向きざまにこう言った。
「どうだい、加瀬さん。これからラーメンでも食いに行かないか?」
 その天真爛漫とも言える村尾の言動に、士郎はあっけにとられた。村尾は士郎の返事を待たず、ぶらぶらと歩き出した。士郎は慌てた。そして席を立って村尾の後を追おうとした。その時である。甲高い田宮の罵声が火を噴いた。
「いい加減にしないかっ」
 士郎の身体はその場に固まり、目だけで村尾の背中を追った。驚いたことに村尾は田宮の罵声には何の反応も示さず、何も聞こえなかったようにぶらりと出て行ったのである。
 取り残された士郎は茫然とした。
 そこへ田宮のねっとりとからみつくような攻撃が始まった。
「加瀬係長っ。今のは何だ。持って来たまえ」
 士郎は履歴書のファイルを持って田宮の机の前に立った。そしてゆっくりとそのファイルを差し出した。
 田宮はそれを受け取り、引きちぎるような勢いで開いた。そして怒鳴った。
「君はこういうことをするのかっ。私に何の断りもなく、書類を勝手に持ち出し、部外者に見せるのかっ。しかも個人情報じゃないか、これはっ。誰がこんなことをしていいと言ったんだっ」
 田宮は激昂し、目を充血させながら怒鳴った。
 士郎はそれを比較的冷静に聞いていた。そして田宮の質問に答えた。まるでそんなことを訊くのがはなはだ愚かであるというような口調で。
「村尾取締役です」
 そう言ったきり、士郎は黙った。そして田宮の目をまじまじと見つめた。
「何だとっ。村尾取締役だとっ。では聞くが、村尾取締役は私に無断で持って来いと言ったのかっ。え、どうなんだっ」
 不思議なことに、この時田宮が激昂すればするほど、士郎は澄んだように冷静になれた。
「はい。無断でとはおっしゃいませんでしたが、『私は田宮部長よりも上の立場だ、その私が持って来いと言っているんだ』と厳しくおっしゃいました」
 すると田宮は手で弄んでいたゼムクリップをゴミ入れに叩き付け、乱暴に論理を飛躍させ始めた。
「だったら君は村尾取締役が死ねと言えば死ぬのかっ」
 今までなら、このような田宮の暴言の前に、士郎は言葉を失ったであろう。しかしこの時、士郎は不思議なものを見るような眼差しで田宮を見据え、しっかりした口調で平然と答えた。
「村尾取締役がそんなばかげたことを命ずるとは思えませんが」
 そう言った後、士郎は田宮に向かって微笑みさえ浮かべた。
 田宮の激昂は極限に達した。
「君は私をばかにしているのかっ」
「とんでもありません」
「だったら、そんなばかげたこととは何だっ」
「お気に障ったでしょうか?」
「ふざけるのもいい加減にしろっ。村尾取締役にいい大学だなどとおだてられて、いい気になってるんじゃないよっ」
「それは私の言葉ではありません。ご不満なら、そうおっしゃった村尾取締役に申し上げるべきではありませんか?」
 そのようなやりとりが延々と続くと思われた。しかし士郎には負ける気がしなかった。士郎が冷静なのに対して、田宮の激昂は尋常ではなかった。先に消耗するのは田宮の方に決まっていた。
 最後に田宮は吐き捨てるように言った。
「ああ言えば、こう言う。こう言えば、ああ言う。全く不愉快だよ」
 そして席を立つと、のしのしと足早に出ていった。
 士郎は背中に残業中の全社員の視線を感じながら、田宮のいなくなった席に向かってわざとらしく肩をすくめて見せた。そしてくるっと振り返り、さわやかな笑顔を作って皆に言った。
「さ、帰ろうか」
 まだ午後10時前だった。課長の梅本がひとりぽかんとして見守る中で、人事課の全員が帰り支度を始めた。そして嬉々として部屋を出ていった。人材開発部の社員たちは黙って目で追い、経理部の社員たちは拍手してそれを見送った。
 エレベータが到着して皆が乗り込んだ。そして扉が閉まった途端に歓声が上がった。誰もが士郎を賞賛し喝采を浴びせた。
 士郎は厳かに言った。
「自分自身を解放する時がやってきたんだよ」
 そう言いながらも、士郎の脳裏に明日からの田宮の反撃がよぎると、部下たちほどには饒舌にはなれなかった。

(6)

 その翌日の朝礼直後、士郎は内線電話で村尾に呼ばれた。
「昨日は相当大変だったようだね。どうだい、今、上に上がってこれるか?」
 士郎はすかさず言った。
「卯木係長も同行させていいですか?」
 村尾は気易く承諾した。
「いいとも」
 士郎はこうなる展開を先読みし、準備しておいた封筒を手に持った。そして卯木の背を叩いて耳打ちし、田宮に制止する隙を与えず、足早にフロアを飛び出した。
 村尾はミーティングブースで2人の到着を待っていた。
 勧められるままに士郎と卯木が席に着くと、即座にコーヒーが運ばれてきた。そして村尾が朗らかに笑いながら言った。
「昨日は大変だったようだね。田宮さんからとっちめられたのか?」
 士郎は黙って曖昧にうなずいた。
 代わりに卯木が言った。
「酷かったですよ。最後には『村尾取締役が死ねと言ったら君は死ぬのか』って絶叫しましたから」
 それを聞いて村尾は嘲笑を浮かべた。そして言った。
「実はね、見せたいものがあって、君たちを呼んだんだ」
 村尾は脇に置いてあったノートパソコンを開いた。
「こんなメールが来たんだ。読んでみろよ」
 そう言いながら村尾はノートパソコンを2人に見えるように据えた。
 メールは田宮からのものだった。「村尾取締役から私の部下に頭越しに指示を出されるのはご遠慮願いたいと考えます」と書いてあった。
 読み終わって卯木は憤った。
「何が『私の部下』なんだよ。おかしいですよ。自分は梅本課長の頭越しに私たちに奇天烈な指示を出しておきながら、村尾取締役には『ご遠慮願いたい』なんて」
 士郎の反応はそれより冷静だった。
「村尾取締役、このメールの発信時刻に気づかれましたか?」
 村尾はパソコンの画面を自分に向き変え、のぞき込んだ。
「午前1時39分だ。こんな時間にメールを送るなんて、いったい何時まで会社にいたんだ?」
士郎はにやりと笑った。
「村尾取締役が私をラーメンに誘った後、田宮部長は激昂し、私にいわば因縁をふっかっけ始めました。それでも午後10時前にはすべて終わっています。時間は十分にあったはずです。このメールは決してかっとした勢いではなくて、冷静になってよく考えた上でのものでしょう」
 村尾はうなずきながらそれを聞いた。
「つまり?」
 士郎は口元を歪めて言った。
「挑戦状ですよ、村尾取締役への。自分の領分を脅かすなという。今、川島専務ががんばって人事本部に居座っていますから、田宮部長もそれに習って、村尾取締役の介入を跳ね返したいと考えているのではないでしょうか」
 すると村尾はにやりと笑った。
「ま、そんなところだろうね。それはそうと、君たちは田宮さんのことをどう思っているんだ?」
 村尾は斜めの視線で2人の反応をうかがいながら、本音の答えを促した。
 卯木が言葉を発しようとしたのを士郎が遮り、無言でテーブルの上に封筒を置き、村尾の方に滑らせた。卯木もその中に何が入っているのか、即座に理解し、黙った。
 村尾はそれを受け取り、資料を取り出してさっと目を通した。そしてにやりと笑って言った。
「あとでじっくりと読ませてもらうよ」
 士郎と卯木は席を立った。
 階段を降りながら、士郎は満足げに言った。
「うまくいきすぎだよ。展開が早い」
 卯木は目の前の展開に圧倒され、「ああ、本当に」とだけ言った。
 田宮と村尾を対立させることには十分に成功した。もともと立場に対立があるのだから、感情的にも対立するのに時間はかからない。何かきっかけがあれば、その火花はたちまち炎に燃え上がる。士郎の思惑通りにことが運んだとしても、それは魔法でも何でもない。
 ただし、士郎の予期しなかった余計な事態も招いた。それは田宮の士郎への八つ当たりである。田宮は士郎に対してますます攻撃的になった。その様相は今までとは明らかに違った。今までの田宮は自分の権力を笠に着て、弱い者をいたぶるように部下を虐げてきた。しかし今や田宮は恐怖にすくんで、自分の立場を脅かす士郎に本気で牙を剥こうとしていた。
 田宮の戦術は相変わらず幼稚だった。書類に頑として決済印を押さず、物事を滞らせるのである。田宮はますます気むずかしく振る舞うようになり、理解に苦しむような禅問答で士郎を苦しめた。今までにも増して、人事課の業務は滞った。その結果、士郎は今なお会社に寝泊まりさせられ、毎日のように昼食を抜かなければならなかった。勝利が近づいているという実感は薄らいだ。
 士郎は苦々しい思いで、卯木にこぼした。
「このままじゃ、まずいな。相変わらず川島が人事本部長に居座っているし、事態の膠着の度合いは増すばかりだよ。田宮もその気になって、本気になっておれをつぶそうとする。ピンポイントの的確な攻撃だよ。確かにおれがつぶれれば、田宮の地位は安泰なものになるだろうからね」
 卯木は心配そうに士郎の顔をのぞき込んだ。
「相当つらそうだな。しかし昼飯だけは、田宮を振りきってでも、確保したほうがいいぜ。でないと、おまえ、本当に身体を壊すぞ」
「ああ、そう思うよ」
 士郎も全く同感だった。そこで一計を案じた。
「こういうのはどうだろう。おれがもし、空腹のために職場で倒れたとしたら? 救急車で病院に運び込まれたら? これは田宮にとって打撃にならないか?」
 たちまち卯木は目を輝かせた。
「ナイス。みんな、何事だと思うぜ。当然そのことは上層部の耳にも届くわけさ。田宮の失点ってことになるぜ」
 卯木は興に乗って続けた。
「さらにこの芝居、部下たちも加えてやったらどうだ? このところ田宮の反撃に押され気味だっただろう? みんなの士気が下がってるかもしれないぜ。ここらでひとつ、こっちからの再反撃として、みんなでひと芝居やらかすのさ。そうすれば楽しいイベントになるんじゃないか?」
 しかしそれには士郎が難色を示した。
「敵を欺くにはまず味方からと言うだろう? みんなには全て終わってから明らかにしようよ。どっきりカメラ方式だよ。それでも志気を高める効果は変わらないだろう?」
 これには卯木も納得した。
 さっそく翌日、この計画は実行に移された。午後3時を少し回った頃、その日も食事を抜いた士郎は、ふらふらとフロアの中央に歩み出た。そしてドスッと鈍い音を立てて倒れたのである。
 柴田がいち早く気づき、慌てて士郎を抱きかかえようとしながら、大声で叫んだ。
「梅本課長っ、大変です。加瀬係長が倒れました。救急車を呼んでくださいっ」
 柴田に腕を引っ張り上げられながら、士郎はぐったりとして、床の上でごろりと転がった。その顔面は蒼白になり、視界がかすんでいた。
 すかさず田宮が怒鳴った。
「梅本課長っ、どこに電話しようとしているんだっ」
 梅本は受話器を持ち上げながら答えた。
「救急車を呼びます」
「ばかか、君はっ。タクシーだ、タクシーを呼べっ」
 士郎は意識がもうろうとしながら、痺れる唇で言った。
「柴田君、おれ、今日は健康保険証を持っていないんだよ」
 柴田は裏返った声を張り上げた。
「心配しないでください、加瀬係長。そんなものは後でも大丈夫です。しっかりしてください」
 士郎は、柴田も3年目になって、随分しっかりしてきたなと思った。
 タクシーを待っている間に、周囲の注目が士郎に集まり始めた。しばらくしてタクシーがビルの下に到着した時には、両脇を抱きかかえられるようにしてエレベータに乗せられる士郎を、同じフロアの全社員が並々ならぬ好奇心をもって見送ったのだった。
 タクシーには課長の梅本が一緒に乗り込み、赤坂病院まで士郎を連れて行った。診察室の丸い回転椅子に腰掛けさせられた頃には、士郎はすっかり正気を取り戻し、医師の問診にはっきりと答えることができた。それどころか「寝不足の上に、空腹で死にそうだから、先生、点滴を打ってください」と自ら頼んだほどだった。
 結局、2時間以上かかって点滴を打ってもらい、その間気持ちよくぐっすりと眠った。そして帰りに課長の梅本から豪勢な食事までごちそうしてもらった。そして悠々と職場に戻り、田宮の席の前で報告した。
「ご心配をおかけしました。あまり空腹だったものですから、貧血を起こしたようです」
 すると田宮は動揺を隠し切れず、うろたえながら頷いた。
 その日は堂々と帰宅することにして、士郎が帰り支度を始めると、卯木がやってきて耳元で囁いた。
「みんなに集合かけてるから、先に会議室で待っててくれ」
 言われたとおりに士郎が会議室で待っていると、それほど待たずにみんながやってきた。
 真っ先に柴田が言った。
「すっかり騙されましたよ。加瀬係長も人が悪いなぁ」
 坂木と水島も言った。
「本気で心配しました」
 最初から士郎の演技を知っていた卯木は笑った。
「ナイスな演技だったよ。田宮のやつすっかりうろたえてたぜ」
 末永も言った。
「加瀬係長が出ていかれた後、田宮部長ったら『何でもない。何でもないないから、さっさと仕事にもどれ』って見境なく怒鳴ってたのよ。あれじゃ、まるで、自分で騒ぎを大きくしてるようなものだわ」
 杉山は精一杯勇ましく言った。
「さっきもタミ公のやつ、『みんなで揃ってどこへ行くんだ』なんて言うから、『何をばかなこと言ってんですか、加瀬係長の具合を聞きに行くに決まってんでしょう』って言ってやったんですよ。そしたらタミ公のやつ、なんて言ったと思います? 『行ってらっしゃい』ですよ。あのタミ公が『行ってらっしゃい』って。ふん、あんな間抜けな言い草もないですよ」
 さらに卯木が最大限の讃辞を述べた。
「とにかく最高の演技だった。胸の空く思いだったぜ」
 しかし士郎は平然として言った。
「演技じゃなかったのさ。本当に倒れたんだよ」
「え?」
 卯木が目を見開いた。
 士郎は照れくさそうに明かした。
「いつもあの時刻になると、本当に空腹のあまり倒れそうになるんだよ。いつもはそれを堪えて席で安静にしているんだけど、今日はわざと立って歩いたんだ。胸を張って、大股にね。そうするとたちどころにくらっときたよ。本当に目が見えなくなって、頭の中は真っ白、胸の中で心臓がもがいて、唇も指先も痺れて感覚がなかった。あれは演技なんかじゃない。本当だったんだよ」
 部下たちも絶句した。
 士郎は続けた。
「で、効果はあったわけだね? おれの捨て身の戦術は」
 卯木は自信を持って請け合った。
「効果あったなんてもんじゃないよ。あの後人事課の周囲でひそひそと話題になってたし、他のフロアからも、加瀬係長はいったいどうしたんだと、口々に訊かれたよ。だから言ってやったんだ。田宮部長に意地悪されて、昼飯食わせてもらえなくて、空腹のあまり倒れましたってね。そしたらみんな口を揃えて、可哀想に、田宮部長も酷いことをするって言ってたよ。これで一挙に田宮に対する風当たりはきつくなった。もしかしたらこの話、既に上層部にも届いてるかもしれないぜ」
 それを聞いて士郎は楽しげに、しかしあくまでも冷静に言った。
「梅本課長があのまま救急車を呼べばよかったのに。田宮のやつ、そういうところは知恵が働くようだね。でも、まあ、効果があったんならいいけどさ。ミッションは成功だよ」
 その翌日、士郎が出勤してくると、騒ぎはますます大きくなっていた。赤坂見附駅から社屋のビルに歩いてくる途中、出会った社員の誰もが士郎に「もう大丈夫なのか」と声をかけた。そして口々に田宮を非難した。
 人事課の2人の新入社員をこの一連のミッションから外したことも、想定外の効果を発揮していた。本気で士郎のことを心配した彼女たちは、自分の職場では上司の虐待で先輩社員が昼食を摂らせてもらえず、空腹のあまり倒れたと、何か大事件のように他部署の新入社員たちに吹聴したのである。これが社内に一気に噂を広める役割を果たした。
 朝礼が終わって席に着くと、またもや村尾から内線電話で呼ばれた。
 今度は士郎は田宮の席の前に立って報告した。
「村尾取締役から呼ばれたので、行ってきます」
 すると田宮は苦々しい顔をして言った。
「ああ、行ってらっしゃい」
 士郎が出向くと、村尾は厳しい表情で待っていた。
「おい、話は聞いたぞ。あんまり無茶をするなよ。健康管理も仕事のうちなんだぞ」
 士郎は素直に詫びた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
 すると村尾は表情を緩めて笑った。
「とは言っても、今回の責任は田宮さんにある。彼にはメールを打っておいたよ」
 そう言って村尾はノートパソコンの向きを変え、士郎に画面を見せた。
 士郎が送信済みのメールを読むと、その内容は非情に厳しいものだった。
 仕事が終わるまで昼食を取らせないというような部下への虐待は、深刻な人権蹂躙との誹りを免れ得ないから即座に止めること。加瀬係長が病院に担ぎ込まれた事実を報告しなかったことは、組織の長としての資質を著しく欠いた怠慢であり、極めて遺憾であること。人事部では連日会社に寝泊まりするような異常な事実があると聞くが、これが事実かどうかすみやかに報告すること。署名は人事本部長、村尾敏明となっていた。
 メールの本文から目を移し、送信記録を見ると、送信時刻は昨日の午後8時過ぎとなっており、岡田副社長つまりジュニアにもCCが送信されていた。こんなメールを受け取れば、田宮は自分の身の危うさに震え上がるに違いないと思えた。
 さらに村尾は言った。
「それから、例の君のレポートを読んだよ。じっくりとね。私は人事部を今のまま放置するつもりはない。しかしね、ああいうことは係長の仕事じゃないな。課長がすべきことだよ。この件に関しては、課長の梅本さんはどういう態度を取っているんだ?」
 士郎はありのままを答えた。
「一度梅本課長にお訊きしてみたことがありますが、彼は『人事本部長が誰に替わっても、この人事部は変わらない』と悲観的でした。自ら変えようとしない限り、何事も変わらないと私は思います。ですから私たちが行動する時、梅本課長は除こうと決めました」
 村尾は溜息を吐いて言った。
「じゃ、上2人は外すか」
 その言葉を捉えて、士郎は思わず訊き返した。
「今、何とおっしゃったんですか?」
 村尾は同じ言葉を繰り返さず、別の言い方をした。
「私は君たちの味方だよ。田宮さんに君たち人事課の社員を預けておくことはできない。もっと言えば、田宮さんにこれ以上このトランザの人事を預けることはできない。それが私の考えだよ」
 村尾はそう言って士郎に握手を求めてきた。
 士郎は嬉しくなって、がっちりと村尾の手を握りしめた。
 握手の後で、士郎はいたずらっぽく笑って、村尾を挑発した。
「しかし、村尾取締役に田宮部長を排除することができますか? 手強いですよ」
 すると村尾も笑い返した。
「まあ、見ていてくれよ。これから君たちに、闘いとはどのようにするものなのか、そのお手本を見せてやろう。したたかにやるんだよ、したたかにね」
 士郎と村尾とのこのやりとりは、即座に卯木と部下たちに伝えられた。
 卯木は言った。
「驚いた。物事が全て、こう、おまえのシナリオ通りに運ぶとはな。いや、驚いた。ほんとに驚いた。大したもんだ」
 しかし部下たちの心には懐疑の念もあった。それも無理はない。本当ならば人事本部長の席を去るはずの川島がいつまでも居座り続け、後任の村尾はいつまで経っても8階のフロアから降りてくる気配さえないのである。その間に田宮は相変わらずの虐待で部下を困らせ、田宮、梅本、そして士郎と卯木が会社に寝泊まりする情況は続いていた。
 杉山が言った。
「こうやって加瀬係長からお聞きする話と、目の前の現実の間に、ギャップがありすぎですよ。いったいどっちが本当なのか」
 士郎は余裕のある笑顔で答えた。
「物事には、水面下で静かに進行する局面があるんだよ。しかしそれは次の激動の準備を内包しているんだ。とは言っても、この膠着状態はあまり長引かせると厄介だよな。そろそろ次の戦術を考えようか。みんな、次の日曜日、例の場所で集まれるかな?」
 待ってましたとばかり、全員が再度の集会の開催に賛成した。

(7)

 士郎の昼食は完全に確保されるようになった。昼になると、驚いたことに田宮が猫なで声で言うのである。
「加瀬係長、食事に行ってください」
 士郎はそのことを随分気味悪がった。
 卯木はそのことそのものを憤った。士郎と一緒に食事に出て、盛んに毒づいた。
「何だよ、ありゃ。おまえに言われなくても、飯ぐらい行くぜ。なあ?」
「そう言われれば、そうだね。田宮もああやって取り繕っているつもりなのかね。おれが食事に行けるのは、彼が食事を命じているからだとでも。つまり、命じなければ食事に行かないからだと。だったら、これは面白くないね。少しやり方を変えてみよう」
 士郎はその翌日からそれを実行した。田宮が士郎に食事に行くように言う前に、士郎は自ら「食事に行ってきます」と言ったのである。田宮は一瞬驚いたような顔をしたが「ああ、行ってらっしゃい」と言った。こうして士郎は自らの意志で食事に行く権利を確立したのだった。
 士郎が昼食のことで田宮を押し返している間、田宮は水面下で村尾に対して反撃を試みていた。金曜日の夕方、士郎と卯木は村尾から呼ばれて、そのことを知った。
「田宮さん、こんなメールをよこしてきたよ」
 村尾は愉快そうに言って、士郎と卯木に田宮からのメールを読ませた。
 田宮からのメールは村尾への敵愾心にあふれていた。
 引継が行われていない以上、人事本部長は引き続き川島専務であると考えており、加瀬係長が病院に運ばれたことは川島専務にちゃんと報告してある。まだ着任もしていない村尾取締役が人事本部長として振る舞うのは、いたずらに組織を混乱させるだけなので差し控えていただきたい。
 読み終わった卯木は田宮を嘲った。
「何だよ、父親から叱られて、母親の後に隠れて泣いてる子どもじゃないか」
 士郎は送信記録を見て言った。
「副社長へのCCがありませんね」
 すると村尾は容赦なく言った。
「副社長には私から転送しておいたよ。しかし、そこが田宮さんのだめなところなんだ。私が副社長にCCを送って指示を出したら、田宮さんも副社長にCCを送って私に反論すべきなんだよ。それを正々堂々とやらないから、田宮さんは組織を私物化していると言われるんだ」
 都合のいい展開だった。士郎と卯木は内心笑いを堪えきれないのを必死で我慢し、黙って神妙にうなずいた。
 村尾は続けた。
「しかし、川島さんにも困ったものだよ。逆上して会社を2つに割ろうなんて、ばかな考えを起こさなければいいんだがね。ま、この件は社長に任せて、しばらくは静観だね。いいかい、君たちはこんなことに惑わされず、日常の業務をしっかりと進めてくれよ」
 士郎も卯木も「了解しました」と敬礼でもしたい気持ちだった。
 村尾から聞いた話は、大いに士郎の参考になった。これからしばらくは村尾の関心は川島の去就に注がれることになる。その間、田宮に対する闘いは士郎たちに委ねられることになる。
 日曜日に新宿の喫茶店に再度集まった人事課の7名は、時間をかけて情勢を分析するところから始めた。全体像を把握している士郎が、まずは詳細な報告をした。そして皆が口々にその中からポイントとなる点を抽出し、下絵が描かれていった。その間、士郎はむしろ発言を控え、議論の行く末を見守った。
 士郎の報告の後、末永が口火を切った。
「これは膠着状態と言えるのかしら。確か前回集まった時には、うまく膠着状態を作り出して、村尾取締役の側に立って参戦するっていうシナリオだったわよね」
 柴田が言った。
「がっぷり四つに組み合っていると言ってもいいんじゃないですか?」
 坂木も言った。
「田宮部長は大人しく譲るつもりはないようだし、村尾さんだって上手く岡田副社長を味方につけて田宮部長と争う決意のようだし。もう十分でしょう」
 水島は別の側面を指摘した。
「むしろ問題は川島専務が居座っちゃってることなんじゃないですかね」
 すると末永が懸念を口にした。
「でも、川島専務とまでは喧嘩はできないわよ」
 柴田が疑問を投げかけた。
「川島と田宮は裏で組んでるのかな」
 それには末永が答えた。
「あの2人、仲は悪いけど、当面の利害は一致してるわ」
 水島も言った。
「つまり、村尾さん憎しという点で、ですね?」
 卯木が議論を進めようとして、新しい論点を提起した。
「それで、これからどうする? おれたちにできることは、今この時点で、何かないのかな。おれなんか、闘いに参加したくて、うずうずしてるんだけど」
 柴田も言った。
「ぼくもですよ。何か田宮のやつをぎゃふんと言わせるような」
 士郎が黙っているので、卯木が促した。
「おい、どうなんだよ。何とか言えよ」
 士郎はいい頃合いだと見て、考えていた結論を言った。
「第1段階は、とっくに通り過ぎてしまったよ。簡単にね。あっという間だった。今から思えば、ラーメン事件と昼飯事件がそうだろうね。2人の対立は膠着状態に陥ったよ。そして第2段階のおれたちの参戦も完了した。あの提案書を見せて、村尾さんと握手を交わしたんだ。この時点でおれたちは既に参戦している。今は第3段階とも言える局面で、再び膠着状態が訪れているよね。ただしこの膠着状態は、村尾さんと田宮の間ではなくて、むしろ村尾さんと川島の間だよ。だから、ここでの戦術はこうなるんじゃないかな。川島は村尾さんに任せる。田宮はおれたちで血祭りに上げる」
 それを聞いて、柴田が口笛を吹き鳴らした。
「どうやるんですか?」
「ここまでくれば、なんでもありさ。杉山君、どうしようか? 君はどうしたい?」
 士郎はひと言も発しようとしない杉山に発言を促した。
 杉山は小声で言った。
「刺す。刺し殺す」
 皆笑った。言った本人の杉山も笑った。しかし士郎は笑わなかった。
「いいんだよ、それで。刺し殺してやろう」
 杉山が真顔になった。
「ほんとにやるんですか?」
 士郎は平然と言った。
「もちろん刃物は使わないよ。田宮の行為を告発しよう。執拗な個人攻撃を仕掛ける。田宮が音を上げるまでね」
 驚いた卯木が士郎に訊いた。
「おい、おい。どうしようって言うんだ? そんなことができるのか?」
 士郎はにやりと笑った。
「田宮が懐に入れている月々40万円の金があるだろう? 空出張のさ。あれは実態は単身赴任だよ。出張の実態がない以上、あの金は出張旅費じゃない。給与所得だよね。ところがそれを出張旅費の名目で受け取っているから、1円も課税されていない。これは脱税だよ」
 柴田が言った。
「つまり、税務署にちくってやろうというんですね?」
 士郎は笑った。
「そのとおり。こんなやり方、今まではやりたくなかったよ。なぜなら、税金を払ってるかどうかなんて、おれたちにとってはどうでもいいことだからね。それよりも会社の金を着服していることを裁きたかった。でも、ここまでものごとが煮詰まってくれば、もうこだわっていられない。やれることは全てやろう」
 卯木が言った。
「じゃあ、時間精算の違法性を労働基準監督署に通報するというのは?」
 士郎は言った。
「いいね。それもありだよ」
 杉山が興に乗った。
「こんなのはどうですか? タミ公とカエル女の不倫を暴く」
 卯木が即座に反応した。
「お、いいね。どうせなら証拠を揃えて、奥さんに送ってやろうぜ」
 柴田も言った。
「証拠となると、尾行でもしますか?」
 坂木が言った。
「尾行までしなくても、電話の交信記録とか、電子メールのログを入手すればこと足りるでしょう?」
 末永は隠していた事実を明らかにして、皆を驚かせた。
「私ね、田宮部長にセクハラされたことがあるの。地下倉庫で、後ろに立って、べたべた触ってくるの。あそこって薄暗くて不気味でしょう? ぞっとして、走って逃げちゃった。それからね、日頃部下の失敗に容赦のない人がね、私がミスをしたら『お尻、ペンペンしちゃうぞ』なんて言うのよ、あの顔で。笑っちゃうわよね。このことを社長に手紙で書いてやるわ」
 皆黙った。もう十分だった。
 その日の集会を締めくくるように、士郎が言った。
「分担を決めよう。今日出た具体的な戦術は、卯木係長を中心にして、杉山君、柴田君、末永さんの4人で進めてくれ。おれと坂木チーフ、水島チーフの3人は、さらにその次の戦術を準備するよ。つまりそれは田宮部長抜きの人事部の体制を作ること。例の村尾さんにも手渡っている提案書の通り、田宮後の人事部の新体制を作っていく。こういう分担でどうだろう?」
 皆が賛成し、喫茶店を出て、駅まで走った。
 最初に走り出したのは杉山だった。
「まだ若い」
 杉山は言った。
 卯木も言った。
「おれだって、まだ若い」
 2人が競走を始め、皆でその後を追った。

(8)

 士郎は給与計算の責任者を水島に引き継ぐため、詳細なマニュアル書を準備し始めた。それと同時平行で、田宮が業務の至る所に仕掛けたブラックボックスの解明も急いだ。田宮が大人しく業務を引き継いで人事部を去るとは思えない。その切り札がブラックボックスである。これは無言の脅しだった。自分をこのまま人事部長として残すか、さもなくば自分を更迭して人事部の業務を混乱に叩き込むか、2つに1つを選ぶがよい。それが田宮の戦術だった。確かに今のままでは、急に田宮がいなくなれば、人事部の業務が混乱するのは目に見えている。しかしブラックボックスが解明されれば、田宮の切り札は消えてなくなるのである。
 士郎の言うブラックボックスとは、人事考課、昇級昇格、給与改定、そして賞与といった、田宮が担当した大がかりな処理の中に、これでもかと言わんばかりに、地雷のように埋め込まれていた、田宮だけが知っている謎の部分のことである。それらは、あるものは係数であり、あるものは条件ごとの計算式の変化であり、あるものは計算式を適用する際の順序であった。これらのものは、それを知る者にとってそれほど難しいものではあるまいが、知らない者にとっては、迷い込んだら出られないほどの恐ろしい迷路となる。できれば士郎はそれを予め解明しておきたかったが、田宮はその手がかりをひた隠し、ひとりで抱え込んで、大事に守っていた。
 士郎がブラックボックスの解明に頭を悩ませていた頃、卯木を中心として、田宮への具体的な攻撃は着々と進められた。そのために卯木たちはいつも4人で嬉々として相談し合っていた。
 火曜の午後には、戦術のひとつであった税務署への通報が実行に移され、卯木から士郎に報告された。
「わざわざ裏通りの公衆電話まで行って、麻布税務署に電話してやったぜ」
「で、税務署の反応は?」
 士郎は固唾を呑んで訊いた。
「うーん、いまいち。こう言われたよ。『確かに脱税の摘発は税務署の重要な任務だけど、その金額によって優先順位もあるから、ご要望に添えるかどうかは分からない』とさ。声の印象が随分若くて軽い感じがしたから、あのぼくちゃん、精力的に動くとは思えないぜ」
 卯木はがっくりと気落ちしていた。
 士郎は言った。
「いいんだよ。こんなのは機関銃の弾なんだから、全部が急所に命中しなくても。税務署だってお役所さ。脳天気なんだよ。それより次々やってやろうよ」
 すると卯木も元気を取り戻した。
「実は今日の夕方にも、柴田が職安へ退職者の資格喪失届を出しに行って、三田労働基準監督署へ立ち寄ることになっているんだ。例の時間精算についてぶちまけてくる」
 士郎は言った。
「労働基準法違反であることは間違いないんだけど、労基署がそれだけの情報で動くかどうかだよね」
 果たして士郎の予測したとおり、三田労働基準監督署も、柴田の告発だけでは重い腰を上げようとはしなかった。
 帰ってきた柴田は憤慨して言った。
「応対した担当者が『マニュアル書のような、何か証拠となるような資料はないのか』って言うんですよ。証拠を残さずこっそりやるから不正なのに。お役所ってほんとにばかですよね」
 士郎は苦笑した。
「税務署も労基署も動かないのか。ま、仕方がないね。そもそも、密告があってすぐにお役所が動くようなら、トランザみたいな会社は一瞬たりとも存在できないよ」
 卯木が舌打ちして言った。
「残るは不倫スキャンダルとセクハラ事件だけだぜ」
「末永さんのセクハラ告発は最後にしようよ。それをやれば彼女自身も傷を負うことになるだろう?」
「じゃあ、不倫スキャンダルか」
 すると柴田が無念そうに憤って言った。
「世にあるスキャンダルがなぜこうも下半身がらみなのか、今回のことでよく分かりましたよ。脱税とか法律違反とかでは、誰も動かないからですよ。お役所なんて、ほんとに当てにならない。ところが下半身マターだとみんなが簡単に飛びつく。だからスキャンダルと言えば下ネタなんだ」
 卯木はそんな柴田を妙な理屈で慰めた。
「人間だって動物なんだから、本能には勝てないのさ。最後にものを言うのは食い物のことや下半身のことなんだよ。そもそも肉欲がなければ、田宮だってもう少しましな上司だったと思うぜ。肉欲に溺れた者は結局下半身でつまずくのさ」
 その後、卯木のチームは田宮の妻に郵送する文面の作成に頭をひねった。翌週になって卯木がワープロで打った文案を士郎に見せた。
 あなたのご主人、田宮浩之は部下の独身女子社員と不倫している。彼が不当に着服している月40万円もの出張手当は家計に入れられているのか。あなたに覚えがないなら、ご主人はその金を不倫のデート代に使っている。ご主人の不倫を止めさせろ。さもなくばこの事実を全社に公表する用意がある。トランザクション株式会社倫理委員会。
 こんな文面を士郎に見せて、卯木は得意げに言った。
「どうだ、これで? ミステリアスで、効果抜群。こんなものを受け取れば、田宮の奥さんは疑惑に取り憑かれて、田宮を自宅に縛り付けようとするだろう」
 士郎は苦笑いをした。
「これ、誰の文章だよ?」
「おれが下書きを作って、みんなで手を加えたんだ。よくできてるだろう?」
 しかし士郎は苦言を呈した。
「これじゃあ、誰が出したか、すぐにばれるじゃないか。もうひと捻りはないのか?」
「じゃあ、どうすればいいんだよ。なんて書けばいい?」
 卯木にそう言われて、士郎は内ポケットから万年筆を取り出した。そして紙片の裏にさらさらと書いた。
 突然のお手紙で失礼いたします。僕は職場の先輩に恋をしました。こんな気持ちは初めてです。彼女のことを思うと夜も眠れません。ところが彼女は上司であるあなたのご主人と道ならぬ恋をしています。ご主人にはあなたという妻がいます。彼女の想いは実らない。僕は彼女のことを想い、幸せを願っています。どうかあなたのご主人をあなたの元に繋ぎ止めてください。あなたの幸せな家庭を壊さぬよう、また僕の恋路の邪魔をせぬよう、ご主人に自分の義務を思い出させてください。あなたのご主人の恋敵より。
 士郎の書いた文章を読んで、卯木はぷっと吹きだした。
「この『僕』って、いったい誰のことだ? よくこんなもの思いつくな。しかし、くさい。くさすぎるぜ。さすがは新人賞落選作家だ」
「これなら奥さんの心に疑惑が生じても、田宮には見せないよ。純粋な青年の心を踏みにじることになるからね。ところがさっきの脅迫めいたやり方をすれば、きっと奥さんは田宮に見せる。『あなた、こんなものが届いたわ』ってね。目的は田宮の家庭を壊すことじゃない。田宮を家庭に縛り付ければいいんだよ。そうすれば権力闘争どころじゃなくなる」
 卯木はにやにやしながら、士郎の書いた紙片を折りたたみ、スーツの内ポケットに仕舞い込んだ。そして言った。
「みんなに見せて、どっちを送るか決めるよ」
 一方、士郎たち3人のチームは、秘密裏に業務の引継を開始した。士郎は給与計算の詳細なマニュアル書を完成させ、水島に手渡した。また、人事課の業務全体のフロー図を作って、水島と坂木に説明した。水島も坂木も、士郎からそれぞれ給与計算と社会保険の責任者に指名され、背中にじっとりと汗をかくようなプレッシャーを感じていた。
 確かに今は士郎も卯木も自分の責任を果たすために、頻繁に会社に寝泊まりの生活を余儀なくされてはいる。しかし、端から見ていて身の毛のよだつようなその苦労も、田宮抜きの人事課で考えれば、どうと言うことのないありふれたものとなる。士郎はそう言って2人を励ました。
「でも、実際に田宮部長が人事部からいなくなるなんて、信じられないですよ」
 坂木は懐疑的になっていた。
 水島も言った。
「そもそも、川島専務がいまだに人事本部に居座っているじゃないですか。本当に村尾取締役が人事本部長に就任するのかどうか、雲行きが怪しくなってきましたよ」
 士郎自身は、川島専務がこのまま人事本部に居座るなどということがあり得るとは、微塵も考えていなかった。異動の通知が全社に貼り出されたのだ。川島のなりふりかまわぬ抵抗は、いわば自らの墓穴を深く掘っている行為としか思えなかった。それよりも士郎たちの側に成果が乏しいことが、坂木や水島を懐疑的にさせているのではないかと考えた。その点では、田宮への直接の反撃を担当する卯木たち4人のチームは、たとえ成果が乏しくても、具体的な戦術に没頭できる分だけ懐疑の念とは無縁だった。反面、士郎たち3人のチームは、いわばその時が来るのに備えて待機することが任務となっている。待ちぼうけもあり得るのではないかと懐疑的になりがちだった。
 しかし、たとえ水面下ではあっても、着実に機が熟していることを示す事件が起こった。とうとう川島が9階の事業統括部へ撤退したのである。それまでヒステリックなまでに人事本部長の地位にしがみついていたのが、人材開発部の社員を総動員して荷造りさせ、自分の椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで去っていった。引っ越しには30分もかからなかった。人事本部の両隣の経理部や総務部はもちろんのこと、少し離れた営業管理部や各事業本部でも、いったい何が起こったのかと、そのどたばたを見守った。川島は衆目の集まる中、ひと言の挨拶も残さず、尻を振りながら出ていった。
 士郎は分析した。おそらく川島に誰かが何かを言ったのだ。そうでなければ川島自らが人事本部を去るはずがない。川島にそんなふうにしてものが言える人物と言えば、まず社長以外には考えられない。社長がいつまでも人事本部長席にしがみつく川島に引導を渡したのだ。川島の後ろ姿を見送りながら、士郎はそう考えた。
 士郎が視線を戻した時、士郎の横顔を睨み付ける田宮の憎々しげな視線にぶつかった。士郎は平然として田宮から顔を背けた。
 その後しばらくして、村尾から内線電話があった。
 士郎が8階に出向くと、村尾は勝ち誇ったような顔をして言った。
「川島さんは大人しく出ていったかい?」
 士郎は笑いを堪えながら答えた。
「相当頭に来ていたのか、ひと言の挨拶もなく、ぷんぷんお尻を振りながら、さっさと引き上げていきましたけど」
 村尾は高らかに笑った。そして真顔に戻り、きっぱりと言った。
「次は田宮さんの番だ。あの資料を使うけど、いいな? あれはいい資料だよ。田宮さんは木っ端微塵。君たちは黙って見てろ。くれぐれも自重して、敵に隙を与えるなよ。業務に集中して、人事部をしっかり守るんだ。分かるな?」
 士郎は固唾を呑んだ。
「はい」
 村尾はにやりと笑った。
「2週間だ。2週間後に役員会がある。そこで決着をつける。おれはもうしばらく人事本部を留守にして、いろんなお膳立てをしなければならない。その間は、いいか、君がしっかりと留守を守ってくれ。いいな?」
 士郎は胸を張り、答えた。
「この日を待ち望んできました。任せてください」
 席に戻った士郎は、村尾の口にした言葉を反芻していた。2週間後の役員会で決着をつけると村尾は言った。たかだか人事部長の更迭にまさか緊急動議は必要あるまい。とすると事前に根回しをしておいて、役員会で正式に決定するということだろう。ではあの資料を使うとはどういう意味か。役員会の資料としてあのまま使うのか。これもまさかだろう。そうではなくて事前の根回しに使うのだ。
 村尾は自重しろとも言った。これはどういう意味だろうか。村尾に十分な自信があるから大船に乗った気持ちで任せておけという意味だろうか。それともデリケートな力関係にあるから、下手な動きでぶち壊しにするなという意味だろうか。
 士郎の決断は早かった。全てを凍結する。中止ではない。いつでも再開できる体勢で、動きを一時停止するのである。
 このことを卯木と話した。卯木はやりかけの作戦に未練を示した。
「やって害があるということはないんじゃないか?」
 士郎は言った。
「田宮を追いつめすぎるのは危険かもしれないよ」
「なぜ? 追いつめれば追いつめるほどいいんじゃないのか? それに、おれは田宮がそれほど追いつめられているとは思えないぜ」
「村尾さんが前に出ようとしている。これは理想的な展開だよ。2人の間の対立はますます深まる。ところが、おれたちが田宮を追いつめれば、村尾さんは調停者として振る舞うかもしれない。そこで田宮が村尾さんに恭順を示せば、村尾さんは田宮をコントロールしてやってゆくことに自信を深めるだろう? そうなったら、田宮の追放はなくなるかもしれない。これはおれたちには面白くない」
 卯木は不満だった。
「そんな小難しいことを考える必要があるのか? 鼻持ちならないやつだからぶっ飛ばしてやる。それじゃだめなのか?」
「なにもわざわざ村尾さんと田宮の争いに割って入ることもないよ。おれたちの戦術は村尾さんの後押しをすることだったはずだよ。その村尾さんが自重しろと言うのならそれでいいんじゃないのかな。それよりおれたちの本当の勝負は、田宮抜きで人事部の業務を持ち堪えさせることなんだよ」
 卯木の理解が得られなくて、士郎は悲しそうな顔をした。
 それを見て卯木が折れた。
「まあ、おまえがストップをかけるのなら、それには従うけどさ。しかし杉山を止めるのはことだぜ。あいつ、今になってようやくエンジンがかかっているんだ。ここでブレーキを踏めば、あいつは二度と走らないと思うぜ」
 この時、士郎は物事をコントロールすることに、ひと筋縄ではゆかないさじ加減の難しさを感じていた。

(9)

 数日後、士郎の抱いた懸念は現実のものとなって立ち現れた。村尾がいつになく厳しい口調で士郎を呼び出した。
「ちょっとこっちへ上がって来いよ」
 士郎が村尾の前に立つと、村尾は士郎に席を勧めようともせず、士郎を見上げて言った。
「おれは君にくれぐれも自重するように言ったはずだぞ。忘れたわけじゃないだろうな?」
 士郎は言った。
「はい、おっしゃいました」
 士郎が声を絞り出すようにして答えると、村尾は畳みかけた。
「じゃあ、これはいったい何だ。読んで見ろ」
 村尾はノートパソコンを士郎の方へ向け、画面のメールを読ませた。
 それは田宮から村尾宛に送信されたものだった。
「村尾人事本部長殿。大阪で私の留守を守る妻から連絡があり、自宅に脅迫状が郵送されてきたとのことです。私が職場で不倫をしているとか、会社の金を着服しているとか、根も葉もないことが書き連ねられているそうです。妻も私も大いに困惑しており、このような脅迫が続くようなら警察に通報せざるを得ません。内容から考えれば社内の者の犯行と思われますので、まずはご報告申し上げます」
 このメールに関しては、村尾と士郎との間に、受け取り方の大きな相違があった。村尾はこれを田宮からの反撃と考え、脅威を感じた。士郎はこれを田宮が村尾に示した恭順と考え、危機感を覚えた。
 それにしても士郎はショックを受けた。あれほど言ったのに、卯木はあの作戦を止めなかった。しかも士郎が難色を示した脅迫バージョンを送ったのだ。この件で村尾からの叱責は仕方がないとしても、こんなことで卯木との仲に亀裂が入ることはやりきれなかった。
 士郎の悲しみを湛えた表情を村尾は機敏に読みとり、士郎に対する口調を変えた。
「君たちが田宮さんからどんな仕打ちを受けてきたかは知ってるよ。だから君たちが田宮さんのことを憎むのも無理はない。しかしね、ここは職場なんだよ。自ずと規律が求められる。感情のままに行動していいわけではないんだよ。そんなことをして得るものは何もない。むしろ逆効果だ。今回のことがいい例だよ。田宮さんをやりこめようとしたんだろうが、逆に田宮さんに反撃の口実を与えただけだよ。こんなことはもう止めて、もっと前向きに頼みたいんだ。おれの言いたいことは分かるだろう?」
 士郎は黙ってうなずいた。
 村尾は続けた。
「もう少しおれを信じて、任せてくれないか。心配しなくても物事は君たちの希望通りに進んでいるよ。君が作ったあの資料、すでに主だった役員には見せたんだ。そして最終的には社長にも見せるつもりなんだよ。今までのところ、田宮さんのことをよく思っている役員はひとりもいない。みんな口を揃えて言っているんだよ。人事部長を替えなければ今後の会社の発展はありえないって。おれもそう思っているよ」
 そして村尾は再び語気を強めた。
「だから再度約束するんだ。業務に集中しろ。戦争ごっこはもうお終いだ。いいな?」
「はい。分かりました」
 士郎はそう答えて、村尾の元を辞去した。
 人事部に戻った士郎は卯木と会議室へ入った。
 卯木はあっけらかんとしていた。
「どうしたんだよ、浮かない顔をして?」
 士郎は村尾から言われた言葉を伝えた。そして卯木を問い質した。
「あの手紙、本当にストップしたのか?」
 卯木はきょとんとしていた。
「ああ。ストップした。杉山を納得させるのは骨だったが、最後には末永も柴田も一緒になって杉山を説得して、どうにか納得させたぜ」
「杉山が勝手に投函したってことは?」
「まさか」
「じゃあ、なぜ手紙が届いた?」
「もしかすると、本当に杉山のやつ…」
「他には考えられないだろう」
 卯木は唇を噛んだ。
 卯木は士郎を残して会議室を出ると、杉山、末永、柴田の3人を連れて戻ってきた。
 杉山は最初からふてぶてしく拗ねたような態度で言った。
「いったい何なんですか。今忙しいのに」
 卯木が口火を切った。
「田宮の奥さんへの手紙、あれは中止することにしたんじゃなかったのか。なぜ勝手に投函したんだ」
 末永も柴田も唖然とし、揃って杉山を見た。
「えっ、出したんですか?」
 と柴田が言った。
「どっちを?」
 と末永が言った。
「どうやら脅迫バージョンのようだ」
 卯木が答えた。
 士郎は諭すように言った。
「主体的に闘うのはいい。杉山君、君は立派な参加者だよ。しかしひとりで闘っているわけじゃない。チームを組んで、みんなで闘っているんだ。決めたことには従わなければだめだよ。勝てる闘いも勝てなくなる」
 しかし杉山は頑なになって反論した。
「加瀬係長も、卯木係長も、闘う気なんかないんじゃないんですか? 口ではそれらしいことを言ってるけど、ほんとは田宮の反撃が怖くて竦んでいるんでしょ? ぼくは闘いますからね。田宮と差し違えてでも、闘いますからね」
 それだけ言うと、杉山は会議室を出ていった。
 残された士郎は溜息を吐いた。
「なぜこうなるのかな。いつもおれたちは団結できない。互いにちぐはぐな動きで足を引っ張り合うんだ。ここまでくれば、勝ちたくないんだとしか思えないよ。もはや田宮と差し違えるような情勢ではないのに。田宮の追放は秒読みに入っているんだ。おれたちは勝てるんだよ。なぜそれが分からないのかな」
 士郎が嘆いても、誰も何も答えなかった。
 士郎は自分に言い聞かせるような口調で柴田に言った。
「柴田君、君もいつかは部下を持つだろう。今後のために覚えておくがいい。団結ほど強いものはない。しかし団結ほど脆いものもない」
 末永と柴田が会議室を去った後も、士郎と卯木はしばらく残った。
「まずい情況なのか?」
 卯木が心配そうに言った。
「まずいと言えば、まずい。まずくないと言えば、まずくない」
「と言うと?」
「さっきも言ったけど、われわれの団結はすぐに壊れる。大切なのは、田宮のたがが外れても、人事課は空中分解せずに規律が保てるのかということ。これは今も目の当たりにしたとおり、非常に心許ない。しかし今回の杉山の暴走が、現在の情勢に悪影響をもたらしたかというと、それほどでもない。村尾さんは田宮のメールを恭順とは受け取らずに、反撃と受け取っているようだからね。田宮の追放はどのみち時間の問題だよ」
「しかし杉山のやつはどうしようもないぜ。ほんとにコントロールが効かない。みんなであれだけ言ったのに」
「ま、彼の負け犬根性はちょっとやそっとでは治らないよ。救ってやりたかったけど、救いきれないな。これでわれわれのチームも解散さ。あとは村尾さんの腕前を見せてもらおうよ」
 士郎がこの時言ったように、田宮の追放を目的とするチームとしての活動は、その日を境に自然に消滅した。杉山の勝手な行動が皆を白けさせたというのも理由のひとつではあったが、それだけではなかった。田宮の振る舞いに著しい変化が現れたのである。
 まず、声を荒げて怒鳴り散らすことがなくなった。これだけでも大きな変化なのに、部下を睨み付けるその目から血走ったものがなくなり、どんよりと濁っているだけなのである。まるで生気がない。そしてこそこそと小声で電話している時間が長くなった。その電話の相手は恐らく大阪の早川係長だろうと士郎は推測した。早川に慰めてもらわなければ、田宮はもはや日々を持ち堪えることもできないまでに衰弱している。田宮の年齢を考えれば、早川は恐らく最後の女である。それが田宮の唯一の支えだった。

(10)

 役員会の当日、その日は長い1日となった。2人とも、気が変になりそうだった。士郎は異常に気持ちが高ぶり、わけもなく叫び出しそうになって、慌てて口を押さえた。卯木は恐ろしい形相で空を睨み、はあ、はあと、肩で息をしていた。やがて村尾から何らかの連絡が来るであろうと思うと、仕事が全く手に着かず、言いようのない興奮と不安に襲われた。
 夕方になって、士郎の席の内線電話が鳴った。士郎はかっさらうように受話器を取った。
「はい、人事課です」
 熱い息が漏れた。
「ああ、加瀬さんかい? 村尾だ。たった今、役員会が終わったよ」
 受話器の向こうで、弾む声がした。それだけでうまく行ったことが分かった。
「お疲れさまでした」
 喜びの予感に胸を震わせながら士郎が言うと、村尾は歌うように明るく言った。
「今、忙しいのか? こっちへ上がってきてくれよ」
「今すぐに。ところで卯木係長と2人で行ってもいいですか?」
 士郎がそう言うと、村尾は快く承諾した。
 士郎と卯木は弾けるようにして7階の大部屋を飛び出した。そのあまりの勢いに、背後で田宮が何か苦言めいたことを言ったような気がした。しかしそんなことはもはやどうでもよかった。こうなったら田宮など糞食らえだ。後足で砂を引っかけてやりたいぐらいだった。
 息せき切って村尾の席の前に行くと、村尾は2人に応接ブースの席を勧めた。士郎と卯木は固唾を呑んで、村尾の言葉を待った。
 村尾は何でもないことのように、淡々と言った。
「あの資料はよくできていたよ。数日前に社長に見せたら激怒したんだ。『わしはそんなことを許可した覚えはないぞ』ってね。鶴のひと声。それで決まりだよ。ただし、社長は片方で心配もしておられる。田宮部長抜きで人事部が保つのかどうかね。だから今日決まったのは、田宮部長には冬のボーナスの後、一旦大阪に引き取ってもらって、春の給与改定まではやってもらう。それは新任の部長との引き継ぎも兼ねてっていう含みだ。そうやって数ヶ月様子を見ながら、もし田宮部長抜きでもやっていけるとの社長の判断があれば、その後は人事部を外れてもらう」
 士郎がすかさず訊いた。
「どこへ異動するんですか?」
 村尾は苦笑いした。
 士郎は村尾の額にうっすらと汗がにじんでいるのに気づいた。
「それはこれからじっくり検討するよ。なんだかんだ言っても、長年にわたって会社のために尽力したという功績はある。それなりの花道を用意しなければな」
「田宮部長こそが諸悪の根元だと思うのですが」
 卯木は不機嫌そうに言った。
 それを村尾は諭すように言った。
「君たちの気持ちは十分分かっているよ。さっきも、東京の人事課は大阪の人事課の2倍以上の仕事を、1.5倍の人数でやってきたんだと言ったら、他の役員の皆さんも頷いていたよ。これからは私が君たちを悪いようにはしない。だから頑張ってくれよ。田宮さんを首尾よく追い出せるかどうかは、今後の君たちの活躍次第なんだからな。君たちにとっては、これは絶好のチャンスなんだ。分かるだろう?」
 村尾にそう言われて、卯木も悪い気はしなかった。一気に田宮を人事部から叩き出すことができないにしても、とりあえず東京の人事課からいなくなってくれるのであれば、文句はなかった。大阪の人事課よりも東京の人事課の方が頑張っていると、役員会で認めさせたのも小気味がよかった。それに何よりも、田宮を追い出すために頑張れと、村尾ははっきりと言ってくれたのである。今の時点で村尾にできることはここまでだ。これだけでも、今までのことを思えば、信じられない。
 その夜、2人は7時前にはレストラン「ラ・マルセイエーズ」にいた。
「こんな時間にこの場所にいるなんて信じられないぜ」
 卯木が言った。士郎も同感だった。
「もう田宮なんか怖くない」
「生きてこの日を迎えることができるなんて、これほどの幸せをおれは今まで味わったことがないぜ」
 卯木が興奮して絶叫するように言った。士郎も同じく興奮して言った。
「全くだよ。今まで、生きてるだけまだましだなんて、さんざん言ってきたけど、今日は違う。生きてることは素晴らしい」
「今日は思いっきり贅沢がしたいな」
「同感だね。ばかみたいに高いワインを頼んで、大いに飲もう」
 そう言って士郎は店で一番高い3万円以上もするワインをボトルで頼んだ。
 2人のグラスにワインが注がれた時、士郎が言った。
「何て赤いんだ。まるでおれたちの血の色のようだよ」
「くうっ、詩人だね」
 乾杯してひと口ワインを飲んだ時、士郎の目に涙があふれた。
 卯木はやれやれというふうに肩をすくめて言った。
「今日は見逃してやろう。誰にも言わない。特別の日だからな」
「なあ、卯木」
「何だ?」
「葉巻が吸いたい」
 士郎の言葉に卯木は絶句した。
 士郎はそれ以上何も言わなかった。優に1分を超える沈黙があった。
 卯木が根負けして舌打ちをして言った。
「分かったよ。買ってきてやるよ」
 卯木は店を飛び出して行った。そして長い時間士郎を待たせて、ようやく戻ってきた。
「見ろ。ベルビーまで行って買ってきたぜ。1番高いのをくれと言ってな。それとダンヒルのライターだ。値段は訊くなよ。目の玉が飛び出るといけないからな。しかしその葉巻に火を付けるには、これぐらいでないとな」
「ありがとう。おれ、嬉しくて、どうにかなってしまいそうだ」
「とんだ散財だぜ。しかしおれもまんざらではないわけだよ。今夜は何をしても楽しい。何か無茶苦茶なことをしたい気分だ」
 士郎は卯木が買ってきた葉巻を、試験管の形をしたアルミの筒から取り出した。そしてそのままくわえたが、吸い口を切らなかったので吸えなかった。
「これどうやって吸うんだろう?」
「吸う方の先を切るんだよ。おまえ、葉巻吸ったことないのか?」
「ああ、普通のタバコさえ吸ったことがない」
 士郎はテーブルのかごの中に入っていたナイフを使い、まるでステーキを切るようにして葉巻の先端を切った。切り口がぐちゃぐちゃになった。それを見て卯木が手で顔を覆った。
「おまえなあ」
 士郎は改めて葉巻を手に持って、ダンヒルのライターで火を付けようとした。しかし葉巻の先になかなか火が点かなかった。
「あぶってどうする。吸うんだよ。炎を吸い込むようにするんだ」
 卯木がいらいらして言った。
 言われた通りに士郎が何度もすぱすぱと葉巻を吸ってようやく火が点いた時、強い香りの煙がもうもうと立ち込め、煙が肺に入って士郎は激しく咳き込んだ。
「げほっ。あまり美味くないな、これ」
「おい、おい。もったいないな。それ高いんだぞ」
 卯木がそう言うのも構わず、士郎は葉巻を灰皿に押しつけて潰した。
「まあ、いいや。そのダンヒルはおまえにやるよ。今日の記念に取っとけ」
「ふう。で、何から話そうか?」
 士郎は改めて卯木に向き合った。
 卯木は横を向いて身体を揺すって笑った。
 その夜、2人は止めどなく話した。どれも他愛のないことばかりだった。
「山が動いた感じだ。信じられない。動くはずがないと思って、うんうん押したら、本当に動いた」
 士郎が今の心境をそう表現すると、卯木は自分の知る山の名をありったけ挙げた。
「富士山、エベレスト、モンブラン、マッキンレー、キリマンジャロ」
 士郎はそれを即座に混ぜ返した。
「富士山の雪、エベレストの雪、モンブランの雪、マッキンレーの雪、キリマンジャロの雪」
「何で雪なんだ?」
「ヘミングウェイの小説に『キリマンジャロの雪』ってのがある」
「今日は話が飛ぶな。何の脈絡もなく。まあ、いいか」
「脈絡がないわけじゃないよ。ヘミングウェイは大切だ。『人間は負けるようにはできていないんだぞ』と言って、サンチャゴ老人は巨大魚と闘った。おれはずっとその言葉を胸にして、闘ってきた」
「ああ、『老人と海』だろう、カジキマグロと闘った?」
「違う。サメと闘ったんだ」
「そんなはずはない。ラストの場面で何も知らない観光客が、巨大なカジキマグロの尻尾を指して『サメの尻尾ってあんなに見事だったかしら』って言ったはずだぜ。おまえは勘違いしている。あれはカジキマグロの尻尾だ。ヘミングウェイはおれもちゃんと読んだから間違いない。老人が釣ったのはカジキマグロだ」
「だからそうじゃないよ。老人が巨大なカジキマグロを釣り上げた後で、サメに襲われたんだ。せっかくの獲物の肉が次々と食いちぎられていった。サメと闘う時に言った言葉が『人間は負けるようにはできていないんだぞ』だよ」
「おお、そうだった、そうだった。あれを読んだのは学生時代だったと思うけど、随分ともの悲しい話だと思ったよ」
 卯木は心地よく酔いの回った顔を、顎先で組んだ手の甲に載せ、ゆっくりと左右に傾けていた。
 士郎は急に真顔になって、冗談とも本気とも取れるように言った。
「もしおれたちのこの勝利が、カジキマグロを釣り上げたばかりだったとしたら? もしこの後サメに襲われる運命にあるとしたら? 世界中のどんな革命の後にも必ず反動がやってくるだろう? フランス革命の後でロベスピエールは殺された。ロシア革命の後は列強が軍事介入した。キューバ革命の後はアメリカの経済封鎖だ。おれたちも同じような運命にあるとしたら?」
 卯木は笑って相手にしなかった。
「止せやい。そんな縁起でもない。おまえ、まだ信じられないんだろう? おれたちは勝ったんだ。勝負は付いた。田宮の負けだよ。やつには惨めに人事部を去ってもらう。これで一件落着。あとは言うこと無しのバラ色の人生なんだよ。それだけおれたちは頑張ったんだ。報いられて当然だぜ。ああ、運命の女神よ。あなたのその目はしっかりと見開かれている」
「この後、おまえはどうする?」
「しばらく様子を見て、静かに消えるよ。やるべきことはやりました、後は加瀬君に任せて私は家業を継ぎますってな。どうせなら梅本課長にも消えてもらおうぜ。あの人は何もしなかった人だからな。そしたらおまえは課長だぜ。春の人事異動を待って、おまえが人事課の課長になって、2人でまたこの店で祝賀会を開いて、それからさよならだ。楽しみだねえ。これから半年の間、おれはゆっくり骨休めしながら、それを待つのさ」
「しかし田宮は大人しく消えるかな。もうひと悶着ぐらいありそうだよ」
「だとしたらむしろこちらの思うつぼじゃないか。その時は息の根を止めてやろうぜ。人事部から追放するだけじゃすまない。このトランザから出て行ってもらうのさ。心配しなくても大丈夫だ。もう勝負は付いたんだからな。社長が激怒して、田宮を人事部からはずせと言ったそうじゃないか。このトランザでは社長に逆らえるやつなんているもんか。『おまえはクビじゃ』って言われるのが落ちさ」
 卯木はまるで士郎の心配性を楽しむように、陽気になっていた。
 その後2人でどんな話をしたか、はっきりとは覚えていない。ひたすら楽しいことを探し出して2人で笑ったはずだ。しかし士郎はこの時から妙な違和感を感じていたことだけは記憶に残している。確かに士郎自身も酔って大いに笑った。しかしその一方で醒めて冷え切ったもうひとりの自分が、難しい顔をして心の中にたたずんでいるような気がしてならなかった。それがしきりに警報を発しているような気がした。いったい何があると言うのか。手放しで喜んでいいはずの夜なのに。
 ところが士郎の予感した通り、これで勝ったと思ったのは大間違いだったのである。