第5章

(1)

 最初、それは軽いスランプだった。何章か書き上げて次の章に移った時、士郎の言葉は突然枯れた。士郎はそのことを大して気に留めなかった。これぐらいのことは今までにも何度かあった。何かのきっかけを掴んで気分を変えれば、どうということのない程度のものだったはずだ。あるいは思い切って数日休めば、自然に回復したかもしれなかった。
 ところが、そこで立ち止まって原稿を読み返したのがいけなかった。言いようのない苛立ちが士郎の心を羽交い締めにした。原稿用紙の上で言葉がまるで空回りしている。それは小説などという代物ではなかった。様々なエピソードに絡めて、自分の感情をだらだらと書き連ねただけだ。こんなもの、とても他人には読ませられない。
 士郎の心は一気に萎えた。こんなことをして、いったい何になるのか。そう思うと、急に自分がみすぼらしく、情けなく感じた。一旦萎えた士郎の心は、ちょっとやそっとでは元の勢いを取り戻せそうになかった。技術や手段が問題なのではなかった。士郎が見失ったのは書くことの目的であり、それに向かおうとする意欲だった。あるいは物事を表現しようとする根源的な欲求そのものだったかもしれない。その健全な回復がなければ、このスランプからは絶対に抜け出せない。
 そうと知りつつも、士郎は持ち前の勤勉さに頼って、ここから脱しようと無駄なあがきを繰り返した。どこが悪いのかと、何度も原稿を読み直した。重症だった。そして原稿用紙とのにらめっこに数日を空費した。目の前の原稿の上にはモンブランの万年筆がごろりと横たわっている。キャップは外したままだ。それは、万が一、暗く沈黙した脳裏で言葉が一瞬の光を発したとしても、すぐに原稿用紙に書き留められるように備えているのだ。しかし腕組みをして待ちかまえていても、いっこうに言葉は現れず、ペン先は乾き切っていた。
 士郎は消耗し、衰弱していた。そしてとうとう耐えられなくなり、モンブランにキャップを締め、部屋を抜け出した。行く当てなどない。とにかく部屋にいられなかった。
 外に出ると、日差しは真夏だった。そびえ立つような太陽の光に、冷房に慣れ切った肌からじっとりと汗がにじんだ。運動不足のため、膝ががくがくした。少し歩いただけで、胸の中で心臓が暴れ、息が切れた。
 サラリーマンだった頃の習性か、足は自然とバス停に向かった。
 バス停でうなだれ、足下にずり落ちたような自分の影を眺めていると、やがて暢気にバスがやってきた。朝の通勤時とは違って空席が目立ち、客は主婦と年寄りばかりだった。
 士郎が席に座るとバスは走り出し、しばらくの間、車窓に人影のまばらな街の風景が流れた。人々は暑さを避けてどこかに隠れていると思えた。県庁前を過ぎて駅に近づくまで、廃墟に近い様相だった。
 終点の千葉駅でバスを降りると、さすがに駅の雑踏の中に吐き出された。そしてそのまま人の流れに飲み込まれて、切符売場に押し出された。仕方がないので、東京までの切符を買った。他に行くべき先が思いつかなかった。
 上りのプラットホームには千葉駅発の快速列車が既に待っていた。ステンレスの新型車両だった。がらがらの車内には紺色の空席が目立っていた。微かに消毒液の匂いのする車両の、できるだけ隅っこの席に士郎は腰掛けた。そして士郎は考えた。
 さて、どこへ行こう。
 そう思った時、士郎の頭に思い浮かんだ場所があった。薄暗い照明の中に、妖しげな輝きを放つ万年筆たち。冬子に連れて行かれたあの店で、士郎は魔法にかかったように不思議な時間を過ごしたのだった。その魔法に、もう一度かけられてみたいと士郎は思った。
 東京駅でJRから地下鉄丸の内線に乗り換え、赤坂見附駅でさらに銀座線に乗り換えた。表参道駅で銀座線を降りて、地上に出た。その先の道ははっきり覚えていなかった。微かな記憶をたどって、少し奥まった通りにようやくその店を見つけた。
 独りでは入りにくい店だった。前にも感じた通り、小さな美術館といったたたずまいで、植え込みの奥にひっそりとその店はあった。
 士郎が思い切って店内に踏み込むと、床がみしみしと音を立てた。黒い服を着た女の店員が何人か、まるで待ちかまえていたように士郎を迎え入れた。
 そのうちのひとりが言った。
「先日お買いあげいただいたモンブランはいかがですか?」
 例の若い販売員だった。何日も前のことなのに士郎のことを覚えていた。驚いた。しかし士郎は平静を装って答えた。
「よく働いてますよ。いい万年筆です。気に入りました」
 士郎が微笑みを浮かべてその店員を見ると、他の販売員はそっと士郎から離れた。
「今日は何をご用意しましょうか?」
 販売員が言った。
「今日は見るだけです。構いませんか?」
「どうぞ。心ゆくまでご覧になってください」
 士郎が床を踏み鳴らしながら、ゆっくりと店内を回ると、店員も士郎の後をそっと付いてきた。
 まるで古代遺跡の美術品を展示するように、ガラスのショーケースに収められて、たくさんの万年筆が展示してある。どれも有能そうで、手にとってよく確かめてみたい気になる。士郎がそう感じたのを見透かして、販売員が低い声でくすぐるように誘った。
「お気に召したものがございましたら、ご遠慮なくお申し付けください。あちらのテーブルでゆっくりと試し書きしていただけますので」
 士郎は苦笑した。これを魔法と言えばそうとも思える。しかしその正体は非常に巧みな接客だ。これではこの店で2本、3本の万年筆を買わされそうになる。そうと分かっていても不愉快は全くない。心に疼きがあるから、そこを撫でられると心地よいのだ。販売員の言葉に身を任せたくなる。商品にだけ金を払うわけではない。
 万年筆なんて、所詮は比較的単純な構造の、文字を書く道具に過ぎない。重要なのは紡がれた言葉が織りなす物語であり、そこから立ち上る思想である。そのために必要な万年筆は1本でこと足りる。仮に一生かかってペン先を磨り減らしたところで、そう何本も必要としないはずだ。それに、難しい注文を付けなければ、ありふれた安物でも十分だ。長い時間を共に過ごすうちに、ただの物体がかけがえのない相棒と思えてくる。士郎にとってはコケコッコーの万年筆がそうだった。今ではモンブランがそうなりつつある。それさえあれば他には必要ない。排他的に愛情を注いでやって、大切にすればいい。
 しかしそうは思ってみても、目の前の無数の万年筆が放つ輝きにはくらくらするものがある。この目移りするような魅力は何だろう。どれもこれも使ってみたいと思う。たくさんの万年筆を所有することそのものに、何か特別の意味があるような気がする。
 士郎は困ったように苦笑して販売員を見た。
「たくさんあるんですね。底なしの穴を覗くようです」
 すると販売員も同じように困ったように苦笑した。
「どれからお試しになりますか?」
 士郎はゆっくりと首を振った。
「いや、止めておきます。このまま行けば、何か危ない気がするから」
「どうぞ、はまってください。万年筆の世界に」
 販売員の表情が若い甘えを含んで、声色が懇願を表した。今日の彼女には、前回見た巫女のような神々しさはなかった。
 これでは得るものは何もない。士郎はその店から退散するしかなかった。
 電車を乗り継ぎ、バスに乗って部屋に帰ってきた時には、出てきた時と同じく、すっからかんだった。

(2)

 夜になると冬子はいつも柔らかい肉の襞で士郎を包み込んだ。そうやって無条件に繋がることを士郎は好んだ。日中、部屋の中にひとりでいてさえ、士郎は冬子に包まれているような錯覚を覚えた。士郎の手の届くところに、いつでも冬子はいる。そのことがもたらす安堵感は、いっこうに執筆が進まない士郎の苛立ちを、この上なく癒してくれた。もし冬子がいなかったら、士郎は焦燥感に身を削り取られ、壊れていたに違いなかった。
 冬子自身もそのことに満足だった。
 士郎が冬子に覆い被さると、冬子は言った。
「士郎さんのこの重さが、堪らなくいいの」
 だから2人は重なったままで長い時間を過ごした。
「ねえ、私の身体のどこが好き?」
 下から見上げて、冬子が言った。
「そうだな。鎖骨かな」
 士郎が言うと、冬子は笑った。
「あんなところとか、こんなところじゃなくて、鎖骨なのね?」
「そう。あんなところとか、こんなところじゃなくて、鎖骨だよ」
「ふふふ。もっときわどいところかと思った」
「それはさっき終わったばかりじゃないか」
「じゃあ、始まる前に訊けば、答えは違った?」
 士郎は苦笑いして嘘をついた。
「同じだよ。君の鎖骨は、きりっとしていて端正だよ」
 士郎はそう言いながら、冬子の鎖骨を指でなぞった。
「くすぐったいわ」
 冬子は首をすぼめて、士郎の指から逃れた。そして急に真顔になって言った。
「ねえ、士郎さん。外国に行ったことある?」
「いいや、ないよ」
「私もなの。会社の同僚はみんな何度も海外旅行をしているけど、私は一度もないのよ。ねえ、士郎さんは、行くとしたらどこがいい?」
 冬子は急に興に乗って士郎を見上げた。
 士郎は眉根を寄せた。これは冬子の誘いだ。下手なことを言えば、冬子をその気にさせるかもしれなかった。だから士郎は答えた。
「今はどこにも行きたくない。とにかく作品を完成させて、肩の荷を下ろしたいんだ」
「ふうん。そうなの」
 冬子はがっかりしたように言った。
 しかし冬子は諦めず、その数日後、今度は少し話を小さくして、再度切り出した。
「ねえ、夏休みが取れるの。1週間ほど。だから気晴らしに遠出しましょうよ。レンタカーを借りて、2人でドライブに行くの。そこで民宿かなんかに泊まって、2、3日ゆっくり過ごしましょうよ。仕事のことなんか忘れて、思いっきり羽を伸ばしてみるのもいいかもよ」
 冬子はしきりに士郎を誘った。
「免許、持ってるでしょ? どんな車がいい?」
 この時ばかりは士郎も数日くらい休んでもいいかと思った。どうせ机にかじりついていても、原稿は少しもはかどらない。まるで少年時代に戻ったように、士郎の頭からは語彙が消えているのだ。
「そうだな。一時借りるだけなら、スポーツカーがいいな。もうこの歳で、これから先スポーツカーに乗ることなんてないだろうからね」
「何よ、士郎さん、まだそんな歳じゃないわよ。スポーツカーでもレーシングカーでも、まだまだ好きな車に乗れるわよ。でも、いいわ。スポーツカーね。うんとスピードの出るやつ」
 その週の土曜日、冬子は昼過ぎに独りでぶらりと出かけて行って、夕方に戻ってきた。そして部屋へ入るなり、いきなり言った。
「買っちゃったわ、スポーツカー。外の駐車場に運んでもらったから、見てごらんなさいよ」
 士郎が慌てて外へ出ると、繋ぎの作業服を着た男が届けられた車の横に立って、士郎を待っていた。男は士郎にキーを渡すと、同僚が運転してきた営業車の助手席に乗って帰ろうとした。
「じゃあ、手続きの方はお願いね」
 冬子がそう言うと、男は汚れた歯を出してにっと笑い、窓から手を挙げて答えた。
 士郎は呆気にとられて営業車が走り去るのを見送った。
「買ったのか? レンタカーを借りるんじゃなかったのか?」
「現金即決よ。名義変更の手続きとかは書類だけでできるから、もう乗ってていいんだって。保険も入ったし、支払も終わったから、もう何も心配はないの。今日から士郎さんの車よ」
「しかし…」
「どう? スポーツカーよ」
 冬子は誇らしげに車を指して言った。
 車はトヨタのセリカだった。色は白。今の型のひとつかふたつ前の、丸いライトが4つ並んだ、見覚えのある顔つきだった。流麗なボディーラインではあるが、どことなくぼってりとした印象もある。前から見ると何か昆虫の幼虫のように見える。車体の後ろに大きな羽が付いていて、その側面に「SSV」と銀色のエンブレムが貼り付けてあった。
 その時冬子は小声で言った。
「お誕生日、おめでとう」
 士郎はその日がそうだったかと、頭の中にカレンダーを思い浮かべて確認した。その途端にカシャッと38の数字が39に変わった。そしてかっと頭に血が上った。その感覚は恥じ入りと思えた。誕生日に女に車を買わせる。ジゴロじゃあるまいし。ろくな者ではない。
 冬子はそんな士郎の気持ちを察したのか、言い訳をするように早口に言った。
「凄くスピードが出るんだって、この車。前の持ち主がちゃんとこまめにオイル交換とかしていたから、コンディションは抜群にいいって店の人が言ってたわよ。これから少し乗ってみる?」
 士郎も恥ずかしさを紛らわすかのように、冬子の言葉に自棄になって反応した。
「しかし、FFでスポーツカーと言われてもなあ」
「何よ、気に入らないの?」
「いや、そうじゃないけど。おれに乗りこなせるかな」
「可愛がってあげなさいよ」
 冬子があまりにはしゃいでいるので、士郎はそれ以上何も言わなかった。冬子に促されて、士郎は運転席に座った。冬子も助手席に乗り込んだ。キーを挿してエンジンに火を入れた。各部の点検もかねて、士郎は近所をひと回りした。
 クラッチのペダルが重かった。信号待ちで発信する時、2度エンストを起こした。エンジンのレスポンスはすこぶるいい。低いギアでアクセルを踏み込むと気持ちよく吹け上がり、後ろの車を引き離してみるみる加速した。
「結構馬力あるね」
「音が大きいわ。少し近所迷惑かしら」
「マフラーを替えてあるんじゃないかな。いや、マフラーだけじゃない。クラッチも強いのに替えてある。それに多分フライホイールも軽いのに換えてあるよ。さっきの信号でエンストしたろ。こいつ、エンジンのレスポンス、よすぎるよ」
「どう、気に入った?」
「ああ、いい車だよ。FFだけど」
「FFだと何が悪いの?」
「路面の轍を拾ってハンドルがふらつく。アクセルオンでアンダーステアだ。でもまあ、図体がでかい割には、きびきび走るいい車だよ」
「ふうん。いいのか悪いのか分からないわ。そうだ。この車で遠出しようよ、明日」
「明日?」
「そう。明日から何日か泊まりがけで」
「月曜日は仕事だろう?」
「休暇を取ることにするわ」
「そんな急に休めるのか?」
「いつ休んでもいいの。夏休みは自分の好きな時に1週間取っていいっていうことになってるから」
「じゃあ、少し出かけてみるか」
 士郎がその気になったので、冬子は無邪気にはしゃいだ。
 車を駐車場に停めて部屋に戻ると、冬子はどこに行こうかと、雑誌を引っ張り出してきて、計画を練るのに余念がなかった。
「ねえ、どこがいいと思う?」
「そうだな。夏だから、とりあえず海か」
「あらやだ、私、水着持ってないわよ」
「いい歳して、泳いだりするもんか。海は見るだけにしようよ」
「えーっ、せっかく海に行くのに」
「2人で手を繋いで、海岸を歩こう。10キロでも20キロでも、いくらでも歩こう」
「いいわ。とすると、伊豆半島? それとも房総半島の方かしら」
「せっかく千葉に住んでいるんだから、房総半島にしよう。房総半島の一番先端。そこまで行ってみよう。そう遠くないだろう?」
「ちょっと待ってね。地図を見てみるから」
 冬子は雑誌の中から地図の載ってあるページを探し出した。
「白浜町っていうところが房総半島の最南端らしいわ。見所はね、春先のお花畑、夏は海女漁、それと海に突き出た野島崎灯台だって。あんまりぱっとしないところね」
「そこにしよう。そういう何もないところにこそ、ほんとの風情があるものだよ。よし、決まり。明日は白浜までドライブだ」
 そういうふうに話を決めた。
 翌朝、冬子の提案で、白浜町へは内房の海岸線を走らず、養老渓谷を経由して山道を走ることにした。その方が距離的には近いし、冬子の見た雑誌には、その道が知る人ぞ知る南房への抜け道だと書いてあったからだ。
 千葉市の隣の市原市で海岸沿いの国道16号線を逸れ、内陸部の大多喜街道を走った。信号の少ない田舎の道をセリカは気持ちよく疾走した。夏の休暇のシーズンだというのに、まだ朝早いからか、車は少なかった。道路の両側に遠くまで水田が広がっていた。
 冬子が助手席で道順を指示した。途中で立ち寄った養老渓谷は、紅葉の季節でもない今、ぱっとしない里山と濁った小川に過ぎなかった。そこは早々に切り上げ、久留里を通過して海を目指した。
 山の中の道路は狭い上に、くねくねと無節操に曲がりくねり、所々勾配もきつかった。士郎は忙しくシフトノブを操作し、ギアを切り替えた。セリカは前輪駆動だからか、車体が重いからか、急カーブでハンドルを切ると、前輪が路面を捉えきれず、ずるずると外側に滑った。
「こういうところがスポーツカーじゃないんだよな」
 士郎は心の中で思った。それをカバーするために、カーブの途中までブレーキを残した。すると車体が前のめりになり、前輪が路面に強く押しつけられてタイヤがアスファルトに食い込み、いやでも方向を変えてくれた。徐々に士郎はこつを掴んでいった。アクセルとブレーキをうまく使い分ければ、セリカはきびきびと走った。調子づいてヒールアンドトウも試してみた。その忙しいまでの操作感は、確かにスポーツカーと言えた。
 士郎がいい気になって車を操作すると、そのたびに隣で冬子の頭がぐらりと揺れた。
「士郎さんって運転が上手だわ。とても忙しそうね。その忙しいところ申し訳ないんだけど…」
 冬子は言いにくそうに言った。
「何?」
「ちょっと停めてくれないかしら。気持ち悪くなっちゃった」
 士郎は苦笑いして、路肩に車を停めた。
「まだこのくねくね道って続くのかな」
「そう思って地図を見てたら、なんだか気持ち悪くなっちゃって。もう地図を見るのは止めるわ。このまま410号線を行けば海に出られるはずだから、あとは士郎さん、お願いね」
 再び走り出すと道幅が広くなり、一気に山を下り降りる緩やかなカーブが続いた。気圧の変化で耳が聞こえにくくなる。その後長々と農家の家並みを通り抜け、T字路に出くわすと、目の前の景色が開けて海が見えた。それは紺碧の海ではなく、粘土質の粒子が混ざって白濁したような、房総半島特有の海の色だった。
「海ね」
 助手席でぐったりしていた冬子が元気を取り戻した。
「後は海岸沿いを走るだけだよ」
 確かに道路は海岸沿いを通っているのだが、まだ海は時々ちらりと覗くだけだった。
「あれは椰子の木かしら?」
 冬子は海と反対側の風景を指さした。
「さあ」
 見ると、葉が枯れてみすぼらしい椰子の木のような原始的な植物が、大木となって並んでそびえ立っていた。
「南国って感じがするわね」
「まあ、夏だしね」
「あの建物は何かしら?」
「巨大なアンテナっていう感じだね。まさかFMの放送局ってわけでもないだろうから、漁業関係の無線局じゃないのかな」
 さすが海辺の町だけあって、そこからの風景は、漁港に漁船が停泊していたり魚市場があったりして、いかにも漁村という感じがした。
 千倉町から隣の白浜町に入ると、道路はアルミの柵ひとつ隔てて海岸と接していた。反対側には間近にこんもりとした低い山が迫っている。海と山に挟まれた狭い土地に、畑と民家と民宿が並んでいる。
「ねえ、あそこに助平旅館ていうのがあるわ。おっかしい」
 冬子がぷっと笑って指さした。
「どこ?」
「ほら、あの看板」
 冬子がそう言った途端に、車はその看板を通り過ぎた。その時士郎は視野の片隅にその文字を捉えた。
「おい、おい。今のは平助旅館って書いてあったぞ。助平旅館なんて言ったら、きっと叱られるぞ」
 冬子は真っ赤になって笑いを堪えていた。
「確かに助平旅館って書いてあったわよ」
「なんなら引き返して確かめてみようか?」
「ううん、いい」
「もしあれが本当に助平旅館だったとして、あそこに泊まりたいと思う?」
「いやよ。ちょっと露骨過ぎて、引いちゃうわ」
「そうだろう? だから平助旅館なんだってば」
「もういい」
「それより、例の野島崎灯台っていうのが向こうに見えてきたけど、着いたら車停めて行ってみる?」
「そうね。遊歩道があるはずよ」
 駐車場に車を停めて、2人は灯台までの小道を歩いた。時刻は昼前になっていて、家族連れがカメラを携えて何組か歩いていた。太陽の光が明るく降り注ぎ、きれいに手入れされた植え込みに士郎は目を細めた。灯台は小さな岬の先端に建っていて、その周囲は巨大な岩がごろごろした海岸である。
「どうってことないな。中世の城ってわけでもないし。救いは海の近くにあるっていうことか」
「灯台なんだから当たり前じゃないの。それに中世のお城によくあった塔に似てなくもないわよ。もしかしたらお姫様が幽閉されているかもしれないわ。士郎さん、登って行って助け出してあげれば?」
「お姫様ならここにいるよ」
「私のこと? 歯が浮いてみんな抜けちゃうわよ」
 遊歩道を1周して戻ってくると、小さな芝生の一画があって、大きな金色のトビウオのモニュメントが建っていた。それは左右にヒレを大きく広げ、海に向かって力強く空を切っているような姿だった。
「『かっとびくん』ですって」
「『かっとびくん』?」
「ここに書いてあるわ。西暦2,000年を記念して、ですって。この町の漁協が町の発展と子どもたちの未来を祈念して建てたって」
「ふ、ふ。いいね、そういう志って。過疎地の田舎だからって大人しくしてはいないぞって、この『かっとびくん』が主張しているわけだ。町の実力者の銅像なんか建てるよりずっといい。ここの漁協も味な真似をする。いいセンスだよ。ところで、これからどうしよう? 駐車場の近くに土産物屋が並んでいたよ」
「まずはお昼ご飯よ」
「店を探そうか?」
「なら、館山まで行ってみましょうよ」
「遠いのかな」
「すぐ隣の街よ」
 助手席の冬子の指示を受けながら、士郎はゆっくりと車を走らせた。その方が近道だと言うので、海沿いの国道を走らずに、丘陵地を突っ切る県道を走った。そうすれば館山市の背後に出ることができる。道路の両側を低い山と雑木林に挟まれ、少しでも開けたところには狭い耕作地があり、時々ぽつんと民家があった。
「ほら、ここはもう館山市なのよ」
「全然市街地じゃないね」
「ね、停めて。あんなところにレストランがあるわ」
「どれ?」
「イタリアの国旗が看板になってるでしょ?」
 その小さなレストランは、道路脇の狭い敷地にぽつんと立っており、プレハブの安っぽい造りだった。大きな窓が付いていて、レースのカーテン越しに店の中のテーブルが見えた。店の前に狭い駐車場があった。イタリア国旗の彩りに塗られた菱形の看板に「ブリッコ」と店の名が書いてあった。
「ねえ、士郎さん。ここで食事にしようよ」
「開いてるのかな? 随分地味だけど」
 車を駐車場に停めて降りてみると、店の入り口にバスケットが置いてあって、「営業中」と書いた板切れが入れてあった。
 扉を開けて店の中を覗くと、調理場から若い料理人が人なつこい笑顔を覗かせて、士郎と冬子を招き入れてくれた。狭い店内には小さなテーブルが4つしかなく、そのうちのひとつには先客があった。士郎たちは明るい光が満ちた窓際の席に案内された。その店はさっきの料理人が独りで切り盛りしていた。彼はその店のシェフであり、オーナーであった。だからそれ以降、士郎たちは彼をマスターと呼んだ。そのマスターが茶色い革表紙のメニューを持ってきた。彼はまだ20歳そこそこと思えるほどであり、髭の剃り跡が青々とした清潔そうな好青年だった。
 メニューの中に今週のコースというのがあって、肉のコースと魚のコースがあり、それぞれ1,500円だった。士郎が肉のコースを頼み、冬子は魚のコースを選んだ。前菜、スープ、サラダと、料理が順番に出された。前菜の小魚のマリネは作り置きではなく、ほのかに暖かかったし、風味豊かなコーンスープは、一口飲んですぐにこれは缶詰で仕入れた業務用のなんかではなく、ちゃんとした自家製だと分かった。サラダのドレッシングには、おそらくにんじんが主体と思われる野菜が細かく刻み込まれていて、その上品な甘みで士郎と冬子を唸らせた。
 士郎がテーブルから首を伸ばして覗き込んだ厨房では、清潔そうなステンレスの設備に囲まれて、マスターが効率よく独りで立ち動いていた。夏の暑い時期ではあったが、店内には軽く冷房が効かせてあって、マスターは汗ひとつかかず軽やかに舞うように厨房とテーブルを行き来していた。士郎の目にはこのマスター、若いけれどもよほど修行を積んだに違いないと映った。
「これで1,500円ですって。メインの料理が出てきたらどんなことになるのかしら?」
「この辺りは物価が安いのかな。それにしたって、ちゃんと利益なんか出てるのかね、このお店?」
「東京じゃ、考えられないわ。3,000円はするはずよ」
 マスターがメインの料理をテーブルに運んできた時には、士郎も冬子もすっかりこの若者を一流の料理人と認めるようになっていた。
 士郎と冬子が手放しでマスターの料理に舌鼓を打っていると、奥のテーブルに陣取っていた先客が、陰気な声でマスターを呼んだ。黒ずくめの服装をした40過ぎぐらいの男と、その連れの女であった。男の声は厨房にいるマスターには届かず、男は2度、3度としつこく呼んだ。
 マスターは厨房から出てきた。その時、先ほどまで自信にあふれていると思えたマスターの顔に、子どもがいじめられる時に浮かべるような困惑の色が浮かんでいた。
「何だよ、これは?」
 男は食べていたパスタの皿を押しやり、口元をナプキンでぬぐうと、皿の中身をフォークの先で突いた。そして、テーブルの脇に立ったマスターを、白目がかった目で睨み上げた。連れの女も食べるのを止め、男に同調するように、フォークを置いた。
「ミートソースです」
 マスターは引きつった笑顔で言った。
「ミートソースです、っておまえ、よく言えたな。あ?」
 男は人差し指を鉤型に曲げてマスターの顔を近づけさせると、低い声と大げさな身振りで何かを囁いた。それに対してマスターは恐縮し切って頷くばかりだった。
 やがて男は立ち上がり、連れの女共々、不愉快そうに帰って行った。彼らが座っていたテーブルにはたくさんの料理が食べ残されていた。
 その様子をじっと見ていた冬子が言った。
「あの人たち、何者なのかしら。いやな感じね」
「ああ、本当だ。見ているこちらが不愉快な気分になる。しかしマスターにも彼らに逆らえない事情が何かあるようだね」
「何かしら」
「例えば、あれはマスターの料理の師匠」
「師匠が弟子に厳しい注文を付けたにしては、さっきのあれは随分陰険だったわよ。それに他の客の目の前でやるかしら」
「じゃあ、高名な料理の評論家。この店を評価しにやってきたけど、気に入らなかった」
「どこが気に入らなかったのかしら。美味しいものを素直に美味しいと言えないならば、大した評論家じゃないわね」
「とすると、何だろう。ねえ、マスター。さっきの人たち、何者なの? 随分居丈高な態度だったけど」
 士郎が訊ねると、彼らが汚した皿を片づける手を止めて、マスターは言った。
「近くのリゾートホテルの黒服なんですよ」
「黒服って?」
「フロア責任者です。マネージャーですよ」
「そんなに偉いの?」
「何でも、東京の大きなホテルから引き抜かれたとか」
「それで思い上がってるってわけ?」
「さあ、どうでしょう」
 それをきっかけに、士郎はマスターと気軽な会話を交わすことができた。士郎たちがその腕を認めた通り、彼は数年間イタリアに行って本格的に料理の修行を積んだと話した。
「こっちは道場破りの武者修行みたいな気持ちで行くじゃないですか。でも向こうのシェフってね、気軽に厨房を見せてくれるんですよ。誇りがあるんでしょうかね。けちけちしないんですよ。もちろん秘密にしていることはあって、そんなのは教えてくれないですけど、盗めるもんなら盗んでみろって。でも、こっちだって観光客じゃないんだから、ちょっと見れば分かることもあるんですよ。そうやってあちこちのレストランへ行って、随分ネタを仕入れてきましたよ」
「ふうん。若いのに立派だよね」
 士郎と冬子はすっかりマスターの応援団の気分になった。
「ちょっと待っててくださいね。裏へ行ってデザートを摘んできますから」
 しばらくして戻ったマスターは、デザートのアップルパイの皿に摘み立てのブルーベリーを添えて出してくれた。
「ジャムじゃない生のブルーベリーって初めて食べたよ」
「意外にあっさりしてるわね」
「裏の畑に植えてあるんです。たくさんあるから、よかったら持って帰ってください」
 帰りがけにマスターはプラスチックの容器にブルーベリーの実をたくさん入れて手渡してくれた。
 車の中で冬子が言った。
「ねえ、いいところね」
「全くだ。久しぶりに娑婆に出た気がするよ。やっぱりいいもんだな」
「何よ、娑婆って?」
「この春まで6年間、強制収容所みたいな会社で働いていたからね。その年月は損なわれてしまったんだよ。ずっと、人生って何て辛いものなんだろうって思ってた。やっと生き返った気がする」
「ねえ、どこか民宿を探して、今夜はそこに泊まりましょうよ」
「じゃ、助平旅館にでも泊まろうか?」
「いやだわ」
 元来た道を引き返し、もう一度車で海岸沿いをゆっくりと走り、その後で駐車場に車を停めて2人でぶらぶら歩いた。その辺り一帯は思い描いていたような砂浜ではなく、険しい岩場が延々と続いていた。だから波打ち際を歩くことはできず、海岸沿いの町道を歩き、ガードレールの内側から海を眺めた。
 少し沖に大きな岩が海中から頭を出して波に洗われ、その周りにおびただしい数のカモメが群れて飛び交っていた。波が打ち寄せて退いた後に、岩場に取り残された小魚がぴちぴちと跳ねている。それをカモメが夢中でついばんでいるのだった。
「凄いな、あれ。イワシか何かだな」
「こんな浅場じゃなくて、もっと深いところに行けばいいのに。そうすればカモメに食べられずにすむのに」
「海の中にも恐ろしいのがいるんじゃないか?」
「何がいるの?」
「カジキマグロとかサメとか、その、イワシをつけ狙っているのがさ」
「魚の一生も楽じゃないのね」
「何万っていう卵で産み落とされて、生き残るのは2匹か3匹っていう世界だからな」
「人間でよかった?」
「とりあえず」
「じゃ、人生を楽しまなきゃ」
「そうありたいね」
 ずっと海岸沿いの道を歩くと、大きな空き地に車が数台停まっていて、そこに灰白色に塗った洒落た建物が建っていた。建物の前に「ペンション・ラグーン」と書いた看板が立っている。
「ここに泊めてもらおうよ」
 冬子が言った。
 建物の隣に小さな小屋があって、開け放たれた窓から人の姿がちらほら見えた。
 士郎が小屋の扉を引くと、中にいた者たちが一斉に士郎を見た。
「すみません。今夜泊めていただけないかと思って」
 すると日に焼けた、長身で、髪が渦を巻いた男が、まるで素っ気なく言った。
「うちは釣り客専用の宿だから」
 しかし、それを打ち消すように、やはり日に焼けた小太りの女が言った。
「何よ、泊めてあげなさいよ。いくらでも部屋は空いているんだから」
 すると男はばつが悪そうに、「はい」と言った。
 女がそこの女将さんで、男は釣り船の船長だった。
「うちは素泊しかさせてあげられないけど、いいわね? とにかくそんなところに立っていないで、お入りなさいよ」
 と女将さんが言った。
 小屋の中は事務所のようになっていて、奥にレジがおいてあり、部屋の中央に大きなテーブルが据えられていた。テーブルの上には釣り雑誌が散乱していた。
 士郎と冬子がテーブルに並んで座ると、
「平和田君、コーヒー」
 と女将さんが指示して、さっきの船長がコーヒーを入れてくれた。
 小屋の中には何匹もの猫がいて、早速士郎の周りに集まってきた。
「猫には好かれるんですよ」
 膝の上に飛び乗ってきた猫の顎先をくすぐりながら士郎が言うと、
「その子はシルバー。他にもたくさんの猫がいるわよ」
 と女将さんが言った。
「ここは船宿ですか?」
「そう。沖磯に渡す渡船屋をやってるの。それとルアー船も。関東じゃ、うちはぴか一の名門よ」
「さっき岩場にカモメが群れてましたよ」
「イワシが入ってきてるのよ」
「やっぱりイワシですか。相当追いつめられてました」
「いるのよ、海の中には凶暴なのが。海の中からはそいつらが追い回し、空からはカモメがつけ狙うんだから、イワシも大変よ」
「何ですか、その凶暴なのって? サメとかですか?」
 平和田船長が答えた。
「イナダの新しい群れが入ってきているみたいだから、そいつらじゃないのかな。結構浅いところにもやってきて、盛んにイワシを追い回すよ」
 士郎がそんなことに興味を示したのを見て、女将さんが誘った。
「そうだ。あんたたち、明日、船に乗ってごらんなさいよ。釣りぐらい、したことあるでしょう?」
「子どもの頃はね。しかし何が釣れるんですか?」
「ヒラマサとかブリ、カンパチなんかのとんでもないのがいるのよ、この辺りには」
「とんでもないのって?」
 すると女将さんは黙って部屋の奥の壁に飾ってあるケースを指さした。ケースの中に収まっているのは、両腕を一杯に広げたほどもある魚の剥製だった。
「あれ、数年前にうちのお客が釣った世界記録のヒラマサなのよ。1メートル30センチ。重さ30キロあるわ。あんなのがうようよしているのよ、ここのほんのちょっと沖に。どう、やってみる?」
 ヒラマサという魚は初めて聞いた。ケースの中の剥製はブリじゃないのかと思えた。士郎が大魚の泳ぎ回る海の中を想像していると、横から冬子が言った。
「ねえ、やってみようよ、士郎さん。面白そうじゃない。明日も灯台じゃつまらないわ」
 すると、女将さんが言った。
「あんたたち、灯台に行って来たの?」
「ええ」
「じゃあ、あの不気味なもの、見てきた?」
「不気味なものって?」
「あったでしょう? でっかいトビウオみたいなやつが」
「ええ。みたいなやつって、どこから見てもトビウオと分かりますけど」
 女将さんは短くなったタバコを指の間に挟んだまま、額を手のひらで覆った。
「あちゃ、ちゃ。で、ちゃんと建ってたわけね? 素人が寄って集ってあんなもの作るから、いつか折れるんじゃないかと心配しているわけよ。実はあれ、うちの亭主たちが作ったの。うちの亭主がここの漁協の組合長をやっているもんだから、取り巻き連中と話が盛り上がっちゃって、じゃ、作っちゃえって乗りで。だけど、どうでもいいんだけど、何で金色なんだ? ねえ、平和田君」
 いきなり話を振られた平和田は慌てて同意した。
「ええ、ほんとに。あれじゃまるでシイラですね」
 それを聞いて、士郎はびくっと身体を固くした。
「シイラ? 今、シイラとおっしゃいました?」
「ええ、それがどうかしました?」
「シイラ、釣れますか?」
「シイラなんかでいいなら、いくらでも釣れるけど。でも珍しい人だな。うちの船のお客はみんな目の色変えてヒラマサを狙うのに」
「船、乗せてください。明日、是非。お願いします。ずっとシイラを見てみたいと思っていたんです。この数年間、ずっとこの日を待ちわびてきました」
 冬子が目を丸くして横で聞いていた。
 女将さんがタバコの吸い殻を灰皿に押しつけ、口を尖らせて煙を吐いて言った。
「じゃ、決まりね。明日は朝5時半に船を出すから、よく眠っておくのよ」
「道具を持っていないんですけど、それはどうしましょう?」
「大丈夫ですよ、貸し竿があるから。リールも付いてる。ラインも巻いてある。あとはジグをいくつか買ってくれば、いつでも行けますよ」
 平和田船長がそう言うと、女将さんが命じた。
「あんた、今からアタックにでも連れて行ってあげなよ。もう沖磯のお客はみんな引き上げたんだろ?」
 「アタック」というのは館山市内の大きな釣り道具屋で、さっき食事をしたレストラン「ブリッコ」を通り過ぎ、市街地をかすめて通るバイパス沿いにあった。平和田船長は士郎と冬子をマイクロバスに乗せて、そこへ連れて行ってくれた。士郎と冬子は平和田が勧めるままに、いくつものルアーと小道具を買い込んだ。
 釣り道具屋から帰ってくると、士郎は灯台近くの駐車場で降ろしてもらって、セリカを回収した。士郎が事務所へ戻ると、平和田は買ってきたルアーの針を砥石で鋭く研いでおくように言った。さっきアタックで平和田が小さな砥石を購入するように勧めたのはそのためだったのかと、納得して士郎は頷いた。
「針で指を突いて怪我をしないように、ゆっくりやってください。その間に私はお部屋の準備をしてきますから」
 士郎が一心に針先を研ぐ作業に没頭している間に、冬子と女将さんが楽しそうに世間話に興じていた。冬子と女将さんはすっかり意気投合した。この小さな町で暮らしているうちにいつの間にか読書するしか楽しみがなくなってしまったという女将さんにとって、士郎と冬子という突然の客は心弾ませるものであったらしい。とりわけ士郎が小説を書いていることには興味を示した。
「ねえ、ねえ。今書いてるのって、どんな話なの?」
 士郎は作業の手を止めて女将さんと目を合わせたが、力無く笑っただけだった。
 平和田船長が戻ってきて、士郎と冬子を部屋へ案内した。小屋の隣の灰白色の建物の2階、海に面した窓の大きな部屋だった。窓の外では傾いた陽が空を赤く染め始めていた。西日の差し込む部屋の中にはシングルベッドが2つとテーブルが置かれている。
「ではゆっくりくつろいでください。うちはいつもは食事は出せないんですけど、女将さんがお2人を気に入ったそうで、家族の食事にご招待するって言ってます。7時頃に呼びに来ますから、それまで下のお風呂でも使ってください」
 平和田船長はそう言うと部屋から出て行った。
「いい部屋ね」
 冬子は荷物をテーブルの上に置き、清潔そうな寝具のベッドにどさりと腰をかけ、眩しそうに目を細めて言った。窓から西日が射し込み、冬子の顔を黄金色に輝かせた。
 士郎はベッドに倒れ込んだ。布団はよく陽に干されていて、ふかふかしていた。
 先に冬子が風呂をすませた。次いで士郎が風呂を終えて出てくると、平和田が食事に呼びに来たと冬子が言った。
 2人でペンションの建物を出て先ほどの事務所へ行くと、テーブルをずらりと囲んで5人が席について待っていた。
「紹介するわね。うちの旦那。ここの社長で、町会議員で、なおかつ漁協の組合長。それから、看板娘のゆっこ。改めて船長の平和田君。そして明日加瀬さんたちと一緒に船に乗る常連の三島さんよ」
 女将さんがひとりずつ紹介すると、士郎は丁寧に頭を下げ、よろしくお願いしますと言った。
 社長は終始照れたような笑みを絶やさない、寡黙な男だった。この男が灯台の広場に志高く「かっとびくん」を建てたとは見えない、穏やかな印象があった。釣り客の三島は、日焼けした皮膚の下で何か濃く煮詰まった気配の、逞しい若者だった。娘のゆっこは母親に似てぽっちゃりと小太りの、はにかんだ少女だった。恥ずかしがると母親の背中に隠れるような素振りを見せた。
「こちらは加瀬さんご夫妻。旦那さんは小説家よ」
 女将さんがそう言ったので、
「いえ、まだ卵です」
 と士郎は訂正した。
 士郎と冬子は勧められるままに席に着いた。目の前のテーブルには、まるで床の間に飾るような大きな皿に、とてもこの人数で食べるとは思えない大量の料理が盛りつけられていた。即座に平和田が茶碗に飯をよそってくれる。どうやらそれは白米ではない、玄米との中間物のようなものだった。聞けば自家製の米である。
 平和田船長は何でもやる働き者だった。朝は渡船の客を沖磯に渡し、それからルアーの釣り船を出し、戻ってくると沖磯の客を迎えに行く。さらには洗濯や食事の準備までが平和田の受け持ちであった。平和田がよく働くので、女将さんは優雅に読書にふけることができるのだろう。
「加瀬さんが今書いているのは、どんな話なの?」
 食事が始まると、女将さんはまたもや興味深そうに訊いた。
 士郎はしばらく考えた後、今度は
「狼と羊」
 と謎めかして答えた。
「狼と羊?」
 女将さんはおうむ返しに聞き返した。
「そうです。狼と羊。狼と羊のどちらが強いかがテーマです」
「で、どっちが強いの?」
「普通は狼が羊を食う。従って狼の方が強いわけです。一般的なものの見方ではね。しかし少し観点を変えてみる。つまり、こういうことです。狼は羊を食って生きている。だから羊がいないと狼は生きていけない。しかし羊は違う。草を食って自分の血や肉を作り出すことができる。羊は狼がいなくても生きていけるわけです。だったら本当は羊の方が強いのではないか、と。それが今書いてる作品ののテーマです」
 女将さんは黙った。代わりに社長が唸った。
「うーむ、面白い発想です。そうやって物事を見ると、世の中が逆転する」
「そう。世の中がひっくり返るのです」
 士郎は微笑みを浮かべてそう言いながら、しかし実際には自分が書いている文章が日記に毛の生えたようなものであることを思い浮かべて、内心がっかりしていた。とてもこんなふうにまとめ上げられたものではなかった。そう思うと、焦りに似た感情が士郎の心に染みを作った。士郎の気持ちは萎え、それっきり無口になった。
 食事が終わると、ひとり娘のゆっこが何かわがままを言って家族を巻き込み、騒がしくなった。それが潮時だった。士郎と冬子は丁重に礼を述べて部屋へ引き上げた。
 部屋で2人きりになると、冬子が言った。
「さっきの狼と羊の話、なかなか面白かったわよ。そんなことを考えていたのね。私も初めて聞いたわ」
「いや、考えていたわけじゃない。あの場の即興だよ」
 士郎が素っ気なくそう言うので、冬子はそれ以上何も言えず、黙って部屋の明かりを消した。その途端に窓の下の海岸から波の音が押し寄せてくる。そして2人別々のベッドに横たわり、しばらく互いの息の音を聞いた後、どちらが先ともなく眠りに落ちていった。

(3)

 翌朝早く、平和田が2人を起こしに来て、マイクロバスで港へ連れて行ってくれた。平和田は既に沖磯へ渡船の客を運んで、ひと仕事した後だった。
 車を運転しながら平和田は言った。
「ぐっすり眠れましたか?」
「ええ、とても。ふかふかの布団、真っ暗な窓の外、それにお腹が一杯。潮の音を聞いているうちに気持ちよくなって、起こしてもらうまでぐっすり眠りました」
 士郎がそう答えると、冬子が「くすっ」と笑った。
「士郎さんたら、寝言を言うんですもの」
「え、ほんと?」
「何事かと思った」
「何て言った?」
「こっちが訊きたいわよ」
「何時頃?」
「士郎さんが眠ってすぐ」
 士郎の寝言のせいで、冬子はよく眠れなかったらしい。港に着くまでのわずかな間に、しきりにあくびを噛み殺していた。
 港には既に三島が先に来て待っていた。突堤にくたびれたジープが停まっていて、既に身支度を終えた三島は、ジープの脇に立ってタバコを吹かしていた。
 平和田がジープの後ろに車を停めて、船を指さした。
「あの船です。NABURA号って書いてあるでしょう?」
 それは古い中型の漁船で、太いロープで突堤の鎖と繋がっていた。何度もペンキを塗り直したために、所々船縁が盛り上がっている。
 平和田は軽い身のこなしでNABURA号に乗り込み、煙突の先端から蓋を外した。そしてキャビンに回り込んでエンジンに火を入れる。するとNABURA号は咳き込んだように黒煙を吹き上げた。ディーゼルのエンジンがドルン、ドルンと重く転がるような唸りを響かせる。平和田は蛇の首を持ってとぐろを解くようにロープを外し、ぽーんと岸壁に投げ上げた。
 3人の客を乗せて、ゆっくりとNABURA号は出発した。突堤を離れて港を出る時、堤防の壁に「港内徐行」とオレンジのペンキで大きく書いてあった。それを後にして港から出ると、平和田は船の速度を上げた。沖に向かって走ると、波を乗り越えるたびに、どたんばたんと船底が海面を打った。風は微かだったが、沖から大きなうねりがゆっくりと押し寄せてくる。突進する船に驚いて、何匹ものトビウオが飛び出し、海面すれすれに滑空した。高速にヒレを振るわせているのか、その時ブーンという音が聞こえる。初めて間近に見たトビウオに感激し、士郎はどきどきしながら、ヘミングウェイの『老人と海』のシーンを思い浮かべていた。
 時刻はまだ午前6時過ぎだが、その時点で既に太陽は高く昇り始めている。三島はキャビンの縁を掴み、船縁に立ち上がって、一心に前方の海面を見ている。二言、三言、三島と平和田が言葉を交わした。そしてその直後、平和田は船を減速させ、風上に船首を向けて停止した。平和田は無言でキャビンを出て、船尾の帆を張った。そしてキャビンに戻って大声で怒鳴った。
「はい、いいよー。水深32メーター、反応は下から8メーター。さあ、頑張って行ってみようかあ」
 三島はその声を合図に、船縁に立って仕掛けを下ろした。何メートルかおきに染め分けられた釣り糸がリールから吐き出され、竿の先から海中へとするすると伸びてゆく。そのうちふっと糸が緩む。ルアーが海底に着いたのだ。すかさず三島は竿をしゃくり、リールを巻き始める。竿をしゃくるのとリールを巻くのにはリズムがある。ある程度のところまで巻き上げてくると、再びリールから糸を出して仕掛けを底まで沈める。そしてまたリズムを付けて竿をしゃくりながら巻き上げるのだ。
 三島の動作を観察していた士郎の背後から、平和田が両手に貸し竿を持って差し出した。
「さ、加瀬さんと奥さんはこれを使って。ロッドは常に水平になるようにね。立て過ぎるとティップに無理な力がかかって折れるよ。気を付けて。それから魚がかかっても無理に巻かないで。強く魚が引くと自然にラインが出てゆくように設定してあるから。後のことは三島さんを真似て。彼はうまいから」
 平和田は操船のためにキャビンを離れることはできなかった。三島は自分の釣りで忙しそうだった。士郎と冬子は貸し竿を受け取った後、見よう見まねでやってみるほかなかった。いきなり魚がかかったらどうしようと、2人で硬くなって身構えた。
 しかしその心配は必要なかった。三島を真似て同じようにやってみたが、魚はいっこうにルアーに食いついてこかなかった。士郎にも釣れなかったし、三島にも釣れなかった。
 すっかり陽が高く昇り、遮蔽物にのない洋上で容赦なく頭上から照りつけた。肌がちりちりと焼けるようではあるが、海面を吹き渡る微かな風のために暑くはなかった。冬子は寝不足のためか、腰掛け板に座り込んでこっくり、こっくりと眠り始めた。
「酔った?」
 士郎が心配したが、冬子は平気そうな顔をして首を横に振った。
「逆よ。あんまり気持ちいいものだから、眠くなっちゃった。士郎さん、頑張って釣ってね。晩ご飯はお刺身にしましょう」
 平和田は船を風と潮に乗せてポイントの上を何度か流したが、あまりに釣れないので、頻繁にポイントを変え、そのたびに船を沖へ沖へと進ませた。最後には水深80メートルと言った。そこまでくると仕掛けを海底に送り込むだけでも時間がかかった。
 三島が船縁に上ってキャビンの平和田と何か話した。おそらくもっと浅い場所に移動しようと言ったのだろう。その直後、平和田は船を東へと大きく移動させ、水深40メートルほどのポイントに付けた。
 そこで三島は釣り方を大きく変えた。仕掛けを垂直に沈めるのではなく、ぽーんと投げて斜めに引いてくるようにしたのだ。それがよかったと見える。その何投目かで、何と言ったのか聞き取れない叫び声を上げて、三島は全身大きく仰け反った。
 士郎は慌てて三島の方を見た。竿がぐにゃりと曲がり、竿先が海中を指して震えている。魚は断続的に強く引いた。そのたびに竿先からするするっと糸が出る。士郎は糸が切れるのではないかとはらはらした。
 平和田が士郎に向かって叫んだ。
「加瀬さん、食いが立ってる。休んじゃだめ。釣って、釣って」
 しかし士郎はそれどころではなかった。興奮して三島の竿先から目が離せない。いったい何が上がってくるのか、まだか、まだかという思いで待ち受けた。
 魚は何度も疾走を試みた。そのたびに三島はリールを巻くのを止めて、竿を前に突き出すようにした。はらはらしながらそれを見ていて、糸が切れるよりも先に士郎の神経がぷっつりと切れそうだった。
 やがて三島がリールを巻く手が、ゆっくりと一定になった。竿先は呼吸をするようにゆっくりと上下に動いている。魚は明らかに疲れていた。三島が釣り竿を持ったままで、船縁から身を乗り出し、海中を注視した。
「見えたっ」
 三島のその声を合図に、平和田が柄の付いた大きな網を持って、横走りにキャビンの脇をすり抜けた。
 銀青色に輝く紡錘形の魚が、左右に身を揺らしながら、徐々に上がってきた。口の脇に三島のルアーがへばりつくように、しっかりと針が刺さっていた。三島は竿を操作して魚をうまい具合に網の中へと誘導した。
「ほうっ」
 平和田が気合いとともに網を持ち上げると、魚は空中でじたばた暴れた。体側に黄色の帯の付いた大きなブリだった。
「推定4キロってとこかな」
 三島は平和田から魚を受け取ると、口から針を外しながら、それほど嬉しそうではなかった。
「ブリですよね?」
 士郎が興奮しながら駆け寄って言うと、三島は穏やかに笑った。
「素人目には区別が付かないですけど、ヒラマサっていうんです、これ。ブリよりも見た感じほっそりしていて、体色が濃い。決定的なのはこの唇の端が丸い点です。ブリはここが尖っているんです」
 三島は魚の唇の端を指さして、丁寧に教えてくれた。士郎が見ると確かに角が丸くなっている。
「しかし、凄い大物ですね」
 士郎は子どものようにはしゃいで言ったが、三島は笑いながら首を振るばかりだった。
 この時なぜ三島がさほど喜んでいなかったのかを、士郎は後で聞いて知った。
「ヒラマサはブリとそっくりなくせに、ブリよりも遥かに引きが強いんです。でもせめて5キロを超えないと、手に負えないと言う程でもない。ここの海で8キロのヒラマサを釣り上げたことがありますけど、半端じゃないです。これが本当に骨と肉でできた生身の魚かって思いますよ。疲れを知らず、まるで鋼鉄とプラスチックでできていて、永遠に底へ底へと突進するようにプログラムされているみたい。凄い勢いでリールが逆転して、強力なモーターか何かで巻き取られたみたいにラインが出て行きましたからね。8キロのヒラマサでさえそうなんですから、30キロなんてかかったら、どうなっちゃうんだろうと思いますよ。あの剥製見たでしょう? それと比べれば3キロや4キロのヒラマサなんて可愛いもんです」
 この後、三島のアドバイスで士郎も真下に仕掛けを沈めるのを止め、少し投げて斜めにルアーを引いた。三島はルアーが沈むのをじっくりと待ったが、士郎ははやる気持ちを抑え切れず、いく分せっかちにルアーを引いた。その違いのために、士郎の針にはヒラマサが食いつかず、表層の別の大魚が食いついた。
 それは身に危険を感じるほどの手応えだった。とっさに糸が船のスクリューに巻き込まれたと思った。竿が折れるとも思った。破裂した竿の破片が飛んでくるかと、思わず身をかわした。しかし士郎の竿は深い弾力を発揮して持ち堪え、リールのスプールが唸りを上げて回転し始めた。10メートルごとに染め分けられた糸の色が次々と変わった。
 海面に刺さった糸が細かな気泡を作って走った。その先を目で追った時、海面を背びれが疾走するのを見つけた。士郎はようやくそれが魚と分かった。そのあまりの勢いに士郎は不安になり、思わずリールに目をやった。スプールはぞっとするほど痩せて、糸の残りは見る見る減っていた。その時、士郎の視野の片隅で銀色の巨大な魚が跳ねた。後でテイルウォークという言葉を知って、なるほどと思うような、海面を炸裂させる激しい跳躍だった。
「加瀬さん、シイラだ。メーターオーバー。でかいぞ」
 三島が叫んだ。
 平和田も叫んだ。
「加瀬さん、前へ行って。先端へ。船で追いかけるから。でないとラインがみんな出ちゃう。早く、早く」
士郎は船縁から竿を突き出し、摺り足で船の中を移動した。船の前部の柱にもたれて眠っている冬子の脇を通り過ぎる時、大声で冬子を起こした。
「おーい。釣れた。起きろ。魚が釣れた」
 冬子は目を覚まし、士郎が慌ててロープやバケツにつまずきながら、無様に尻を突き出して船の中を移動するのを見た。
 その時平和田がいきなり全速力で船を発進させた。ぴんと張っていた糸がやがて緩み始めた。それを見た平和田が大声で怒鳴った。
「ラインを弛ませちゃ駄目だ。巻いて、巻いて。リールを巻いて」
 三島も怒鳴った。
「ロッドを立てて。ラインを張って」
 士郎は平和田と三島が交互に怒鳴る喧噪の中、揺れる船の上で膝を痛いほど舷側に押しつけて姿勢を保ち、必死になってリールを巻いた。たちまち腕が疲れて重くなった。それでも士郎はしゃにむに巻き続けた。その時平和田は船の速度を落とした。
魚は水面直下、快速の疾走を止めた。その代わり海中にぐいぐいと力強く引き込んだ。魚がいるであろう辺りを見ても、海面にさざ波が立っているだけだった。糸がぴんと張り、確かな魚の手応えが伝わってきた。魚の重い抵抗のために、リールのギアが歯噛みしそうなほどぎくしゃくした。
「加瀬さん、もう大丈夫だ。この魚、捕れるよ」
 平和田が自信を持って請け合った。
「駄目、駄目。油断しちゃ駄目です。後で泣きます。しっかり、確実に」
 三島が慌てて否定した。
 士郎は膝ががくがくして、もはや立っていられなかった。腕が重く垂れ下がりそうになるのを、天を仰ぎながら堪えた。
 引き出された糸の大半をリールに回収した。魚は近くにいる。時々横走りに走った。士郎は舷側から身を乗り出し、その姿を見た。水面から何メートルだろうか。海中で魚体は青白い輝きを放っていた。ふてぶてしく精悍だ。魚を見慣れていない士郎の目には、とてつもなく大きいと映った。
 魚はまるで喘ぐように、ゆっくり胸びれを動かしていた。時々思い出したように身を揺すり、たったひとかきで軽々と糸を引き出した。しかし疲れ切った魚体には、もはや疾走するだけの力は残されていなかった。魚は水面に横たわり、弱々しく弧を描いた。
 異様な風貌の魚であった。額が高く盛り上がり、その稜線は口に向かって垂直に落ち込んでいた。頭部は団扇のように扁平で、何のためにこんな形をしているのか不思議に思えた。きっと額に水を切る役割でもあるのだろう。
 いつの間にか平和田が大きなたも網を構えて横に立っていた。
「もう大丈夫。ランディングするから、魚をこっちに誘導して」
 平和田は落ち着いて優しく言った。
 士郎は言われた通りに、竿先で魚を大和田の差し出すたも網の方へ誘導しようとした。魚はまるでいやいやをするように首を振った。そのたびに魚の頭がどたんばたんと水面を叩いた。士郎は魚の重さに手こずり、何度も体勢を立て直した。やがて士郎はこつを掴んだ。竿で魚を吊り上げようとするからうまく行かないのだ。水面を滑らせるように魚を引き寄せると、無理なく平和田のたも網の方へ誘導できた。
 何度目かのトライで、平和田は見事に魚を網ですくい上げた。海に落ちた子どもをすくえるほどの大きなたも網だったが、それでも魚の尾びれが網の縁からはみ出した。優に1メートルはある。
「三島さん、悪いけど針を外してあげて」
 平和田はそう言い残すと、キャビンに駆け上がり、エンジンを吹かした。煙突から黒煙が吹き上がり、船は速度を上げた。士郎が魚に手こずっている間に、近くで操業中の釣り船に接近し過ぎてしまったのだった。立派な大型の船だった。平和田は無線で「ええ、シイラです。はい、おかげさまで」と挨拶していた。
 三島は道具箱の中から、鶴のくちばしのように長いペンチを取り出し、魚の口から、こじり取るようにして針を外した。硬そうな顎には鋭い歯が密集して生えており、そのひょうきんな顔つきとは裏腹に、獰猛な性質を窺わせた。
 彼方の水面で跳ねた時には銀白色だと思えた魚体が、この時には真っ黄色に変色していた。まるで熱帯の果物のような色だと、士郎は思った。所々に青く縁取られた斑点があり、光沢のある濡れた表皮が深い色彩を放っていた。
 魚にさっとメジャーを当てた後、三島は言った。
「1メートル20センチ。よく頑張りましたね。ナイスファイトです。ところでこの魚、どうします? 持って帰りますか、それともリリースしますか?」
 三島はそう言いながら、折り畳みナイフの刃を起こし、厳しい形相で士郎を見た。
 士郎は即座に理解した。魚釣りというものは、遊びとは言え、これは生命のやりとりなのだ。釣り上げたこの魚を生かすのか殺すのか、三島は士郎の意志を問うているのだ。
 士郎はその一瞬、船上でぐったりとしているシイラを見た。士郎はシイラの肉の味を知っていた。フライにするとほくほくと甘みがあって、本来ならば白ワインでやるべきところであろうが、赤ワインとも相性は悪くなかった。それを士郎はあの辛い日々、レストラン「ラ・マルセイエーズ」で存分に味わったのだった。そのことを思い出した時、士郎の心は破裂した。迷う余地はなかった。
「逃がしてやります。ぐったりしているけど、生き返りますか?」
 三島の表情は和らいだ。ナイフの刃を再び折り畳みながら言った。
「さっきのファイトで疲れているだけです。水に戻してやれば泳ぎ出しますよ」
 それを聞いて士郎は反射的に網の中の魚を抱きかかえようとした。それを三島が制止した。
「魚の体表をあまり触っちゃ駄目です。ぬめりが剥がれて傷つきやすいから。片方の手で尻尾を掴んで、もう片方の手で顎の下辺りを支えるんです。時間が経ってしまうと人工呼吸が必要な場合もあるんですけど、この魚なら大丈夫でしょう。頭からそっと海の中に滑り込ませてやれば」
 士郎は言われた通りにしようとしたが、腕がまだ鉛を詰めたようになっていて、握力が回復していなかった。わずかな時間さえ魚の重さを受け止められず、がっくりと腕が落ちた。図らずも魚は乱暴に海に放り出されたわけだが、空気中に引き上げられているよりもずっとましだったはずだ。溺れることなく泳ぎ始めると、滑り降りるように海中に姿を消した。
 冬子が士郎の隣でそれを見守った。そしておずおずと言った。
「ねえ、何が起こったの? 少し眠っていたから、分からなかったわ」
 士郎は素っ気なく答えた。
「シイラだよ」
 その続きをしばらく待った冬子は、士郎がそれっきりしゃべろうとしないので、不満そうに言った。
「それだけ? ねえ、ちゃんと説明してよ」
 しかし士郎はしきりにだるい腕を撫でさすりながら、もはや釣り竿を手にしようとはせず、板にどっかりと座り込んで黙った。
 冬子が士郎の表情を覗き込み、心配そうに言った。
「ねえ、怒ったの?」
 しかし、士郎は虚ろな声で短く答えたきり、しゃべろうとしなかった。
「あ、いや。ちょっと、思い出しただけ」
 冬子はその時、士郎の頭の中に何かインスピレーションが舞い降りたのに気が付き、はっとして口をつぐんだ。
 太陽が高く昇り切り、釣りの時間は終わろうとしていた。士郎は満足して、船が港に帰り始めるのをじっと待っていた。
 三島は2匹目を狙って、せっせと竿をしゃくっていた。キャビンの中では平和田が目を細め、タバコに火を点けていた。時々吹き渡ってくる微風が士郎の頬の熱を冷まし、そっと水面を撫でさすって水面下の世界を称えているような気がした。
 最後のひと流しだと平和田が言った後も、三島は諦めずに竿をしゃくり続け、やがて大きく仰け反って竿を煽ったが、針にかかって上がってきたのは鮮やかなオレンジ色をした木の枝のようなものだった。
「さ、港へ帰るよぉ」
 平和田がそう叫ぶと、三島は潔く仕掛けを巻き取り、士郎と並んで板に腰をかけた。
 船が走り始めると、舳先から波しぶきが降りかかってきた。冬子がそれをいやがって、士郎の陰に身をかがめた。
 三島が言った。
「おめでとうございます、加瀬さん。初めてにしては、今日の獲物は大した大物でしたよ」
「ありがとう。魚の力があんなに強いとは、知らなかった。すっかり楽しませてもらいましたよ。あのシイラに感謝しますよ」
「うん、シイラは楽しいですよね」
「その割には、三島さんは別の魚を狙っていましたね。なぜですか?」
「ヒラマサはヒラマサで楽しいからですよ。単に力の強さだけで言うなら、もしかするとシイラの方が上かもしれませんね。でも、どちらが難しいかと言えば、私はヒラマサの方が上だと思うんですよ。シイラは表層を走って跳ねるだけですけど、ヒラマサは底へ底へと潜りますからね。当然海底にはごつごつとした岩なんかがあるわけで、それをかわしながら魚とファイトするわけでしょう? 海底深く姿が見えないだけに、かえって刺激的ですよ」
「なるほど。知的な刺激があるわけですね? 想像力という」
「そう、その通りです。ね、加瀬さんももうひと晩泊まって、明日は一緒にヒラマサをやりませんか? きっと面白いと思いますよ」
 しかし士郎は微笑んで辞退した。
「もう帰ることにします。仕事が待っているので」
「ああ、確か小説家だって言ってましたよね。どんな本を書いているのですか?」
「まだどんな本も書いていませんよ。強いて言えば、本になるのかどうかも分からない、もしかしたら単なるインクの染みかもしれないような代物です」
「またご謙遜を。しかし、もしそうだとしても立派ですよ。私なんか、たった原稿用紙3枚の読書感想文が書けなかったですからね、夏休みの宿題の。何百枚も書ける人の頭の中を一度覗いてみたいですよ」
「かえって長い文章の方が楽ですよ。短編の方が遥かに難しいんじゃないかな。ましてや原稿用紙3枚なんて、とても書けたものじゃない」
 そう言うと、士郎は唇を固く結び、深く沈むような表情をした。その様子に冬子が慌てて割って入り、話題を変えようとした。
「ね、士郎さん。帰りにまた『ブリッコ』に寄っていこうよ。あそこの食事、美味しいわよね。あのお店、すっかり気に入ったわ」
「ああ、そうしよう」
 士郎はそう言ったきり、再び黙り込んだ。

(4)

 冬子と2人でささやかな休暇を過ごしたその翌日、昼前になってようやく士郎はベッドから抜け出した。部屋に冬子の姿はなかった。その前の晩に彼女が言った通り、残った休暇を返上して出勤したようだ。
 腕に微かな筋肉痛があった。士郎は軽く腕をさすりながら、シイラの印象を思い出していた。大物だった。1メートル20センチと三島は言った。これぐらいかと腕を広げてみる。信じられないほどの大きさだ。これでは魚屋の店先には並ばないのも頷ける。それにしても不格好な額だった。顔つきはひょうきんなのに獰猛そうな歯をしていた。表皮は黄色く金属質の輝きがあった。大きな尾びれが二股に分かれていた。士郎のルアーに食いついた後、あの尾びれで水をかいて疾走し、そして跳躍した。そのどれもが、あのレストラン「ラ・マルセイエーズ」での白身魚のフライとは容易に結びつかなかった。
 「ラ・マルセイエーズ」のシェフは、あの時、シイラのことを口ごもってサバの仲間だと言った。だから士郎はサバのような大きさと形を想像していたが、まるで違った。分類上はその言葉に嘘はないのだろう。しかしあれならカジキマグロの仲間だと言ってくれた方がまだ近い気がする。
 シェフがサバの仲間だと、まるで言い訳するように言ったのには、やはり理由があった。そのことを平和田船長が教えてくれた。
「房総ではね、昔からシイラのことを死人喰いといって、忌み嫌うんですよ。美味しい魚なのにね。ハワイではマヒマヒといって高級魚だし、マクドナルドのフィレオフィッシュにもシイラが使われているって聞きますよ」
 死人喰いなどと言っても、シイラが本当に死人を喰うわけではない。シイラには海面の漂流物に付く習性があって、流木や流藻の下にはたいていシイラが付いている。たまたま水死体が流れてきた時にも、シイラはその下に付いていたのだろう。だからシイラが死体を喰っているという迷信が生じたのかもしれない。いずれにしても、あまり気持ちのよい話ではない。「ラ・マルセイエーズ」のシェフはそのことを知っていて、食材にシイラを使っていることを表に出したくなかったのだ。だからサバの仲間だと簡単に説明して、その話題を終わらせたかったに違いない。
 あのシイラを最後に海に帰してやる時、魚の目には悲しみも喜びも浮かんでいなかった。士郎との格闘に疲れた巨大な身体を、ただ静かに海中深く沈めていった。彼は今もあの海域に棲息しているのだろう。そのことを思うと、士郎はあのシイラが自分の残した分身のような気がした。
 久しぶりにヘミングウェイの『老人と海』が読みたくなった。本棚から見つけだし、ベッドに寝転がって、一心にページをめくった。短編だからすぐに読めた。この本をこれで何度読み返したことになるか知れなかった。士郎は、買った本は必ず本棚に残しておく。しかし実際に後で読み返す本は極めて少ない。『老人と海』はその少ない中の1冊だった。
 読み初めてすぐに士郎は苦笑した。物語中にシイラが何度か登場するのだ。今回読み返してみるまで、そのことに士郎は全く気づかなかった。漢字で表記されていたからそれをシイラと読めなかったのだ。特に2度目に登場した場面では、魚の気配で海面がざわざわとする様子が克明に描かれていた。
 それにしてもヘミングウェイは見事だった。『老人と海』を本棚に戻して、士郎は襟を正したくなった。できればいつか原語で読みたいと思った。さすがにまだそこまではしたことがない。いつか実行しようと溜め込んであるリストに、そのことも付け加えておくことにした。読みたい本、見たい映画、行きたい場所。そのリストが今や相当長くなっている。気持ちは焦るが、全ては為すべきことを為し終えてからだと自分に言い聞かせた。
 その時、昨夜の冬子の言葉が思い浮かんだ。
 休暇を返上して明日から出勤すると言い出した冬子に、ベッドの中で士郎は言ったのだ。
「せっかくの休暇なんだろう? ゆっくりすればいいじゃないか」
 すると冬子はうっすらと笑って首を横に振った。
「いいのよ。物事には勢いっていうものがあるでしょう? これはその勢いなのよ」
 その潔い言葉は、士郎の耳に心地よく響いた。
 士郎もその言葉に習うことにした。引き出しから書きかけの原稿の束を取り出すと、思い切って引き裂いた。相当の厚さがあったが、満身の力を込めると、それは呆気なく2つに裂けた。そしてそれをさらに裂いた。もはや厚過ぎて一度では裂けなかった。小分けにして、何度も裂いた。最後には紙吹雪のようになった紙片の山を、何の躊躇もなくくずかごの中に放り込んだ。
 次に、インクが乾き切ってしまったモンブランに、新しいインクをいっぱいに吸わせた。
「よし。書き直しだ」
 そうつぶやいてひと息吐くと、士郎の心に力が甦ってきた。記憶に深く刻み込まれた傷はまだ鮮血を滴らせ、ひりひりしていた。そのことをしっかりと確認し、士郎は新しい原稿用紙に力強い文字で書き刻んだ。
『骨、語る』
 書き直しの原稿には、そう題を付けた。
 そこへ電話がかかってきた。卯木からだった。
「どうだ、原稿は進んでいるか?」
 卯木はいきなりそう言った。相変わらず単刀直入な男だった。
「珍しいな。おまえから電話がかかってくるなんて」
 士郎はとぼけた。
「時にはかけるさ。待ってるだけじゃ、つまらないからな。気持ちの上ではおれたちは共犯者なんだよ。おまえにそう認めて欲しくてな」
 卯木はぶっきらぼうな言い方で、士郎の心をくすぐった。そして続けて言った。
「実は昨日も、一昨日も、何度かかけたんだぜ。ずっと留守だったから不安になってな。ほんとに原稿書いてるのかってな」
 士郎は少しいたずらをしてみるつもりで言った。
「実はたった今、やっと題を書いたばかりだ。本文はまだ1行もない」
 卯木は一瞬沈黙した。そして言った。
「やっぱり。難航しているのか?」
 士郎は笑って本当のことを言った。
「おい、おい。そのやっぱりっていうのは何だよ。本当は200枚ぐらい書いたんだけど、一から書き直すことにしたんだよ。心配することはないよ。ちゃんと書き上げるよ。それより、執筆を進める上で、重要な取材をしたよ。2日ほど留守にしてたのはそのせいなんだ。何か分かるか?」
 士郎は楽しげに言った。
 卯木はしばらく考えて答えた。
「田宮と早川の不倫現場を押さえたとか?」
 士郎は鼻で笑った。
「そんなものはどうでもいいことさ。あの2人の関係は最後まで謎でいい。断定的な書き方はしないよ。冬子は『30過ぎたら火のないところに煙は立たない』なんて言ってたけど、そんな程度のことだよ。それよりも『ラ・マルセイエーズ』でのおれたちの定番と言えば?」
 卯木は反射的に即座に答えた。
「白身魚のフライに赤ワイン」
「そう、その通りだよ。で、その白身魚の正体は?」
「シイラとかいうサバの仲間」
「シイラがどんな魚か、見たことあるか?」
「いや、ない。もしかしたら気づかずにどこかで見ているのかもしれないけど、そんな魚はおれの記憶にも、知識にも、全くない。ただ、『ラ・マルセイエーズ』で食べたあの魚のフライは絶品だということしか知らない」
「そのシイラを、昨日、釣った」
「釣った? じゃあ、2日間釣りに行ってきたのか?」
「そのつもりで行ったわけじゃないんだけど、成り行きでそうなったんだ」
 士郎はそのいきさつを詳しく説明した。そしてシイラという魚がいかに美しい色彩を身にまとい、そしていかに猛々しいか、さらには針にかかった時にはいかに目にも留まらぬ速さで疾走し、華麗な跳躍で釣り人を翻弄するかを語った。そして最後にヘミングウェイで締めくくった。
「おまえも『老人と海』を読んだと言っていただろう? あの中にシイラは何度も登場しているんだよ。おれも何度か読み返していたのに、そのことに今まで気づかなかったよ」
「本当か。しかし前にも言ったけど、あれを読んだのは学生時代だったからな。随分昔の話さ。今ではあらすじもはっきり覚えちゃいないよ。おれももう一度読み返してみるぜ、『老人と海』を。それより、おれもシイラを見に行きたいな。あの魚には特別の思い入れがあるぜ」
「じゃあ、原稿を書き終えたら、来年の夏に2人で釣りに行こう」
「お、いいね。今から予定に入れておくぜ。忘れるなよ」
 士郎は例の溜め込んだリストに、また1行を書き足すことになり、にやりとした。これで楽しみが増えたというものだ。
 電話を切ってから、士郎はうまく再出発できそうな気がした。こういうのは悪くない情況だ。書こうとする気持ちが厚く、太くなった。鍵となったのはシイラだった。「ラ・マルセイエーズ」とヘミングウェイが、シイラによって繋がって、士郎の執筆に肥えた土壌を提供したのだった。