第2章

(1)

 6年前の春、士郎と卯木が同じ日にトランザクション株式会社に中途入社した時、士郎は卯木のことを、随分と恰好付けたものの言い方をするやつだなと思った。
 卯木の提案で「歳もわずかしか違わないことだし、互いに『おれ』『おまえ』で行こう」と決めた後、卯木は士郎にこう言ったのだ。
「入社したその日のうちに言うことじゃないんだが、おまえにだけは言っておくぜ。おれは2年でこの会社を辞める。親父がおもちゃ屋のチェーン店をやっていて、おれが跡を継ぐことになってるんだ。ある時親父がこう言った。少しは他人の飯を食って苦労してこいってね。だから2年間の期限付き。気楽なやつだと思うか?」
 士郎は首を横に振った。
「いや、気楽なのはむしろおれの方だと思うよ。地味な中小企業で働いていたところ、婚約者が出した結婚の条件が上場企業への転職だったんだ。そこへこの会社の求人が転がり込んできたわけだよ。東証一部上場で情報処理の大企業。社員数5,000名。花形のIT業界の人事担当。くらっときたよ。いったいどれほどの応募者があったのか知らないけど、1次面接、2次面接とトントン拍子で話が進んで、採用通知が来たわけさ。小躍りして喜んだね。あとは結婚するばかりだと」
 士郎がそう言うと、卯木はにやりと笑った。そして意地悪く言った。
「で、騙されたと? 話が違うじゃないかと?」
 士郎は表情を強ばらせて即座に否定した。
「そうは言わないよ。まだ入社して半日しか経っていないのに」
「しかしどこか変じゃないか、この会社? 胡散臭いぜ。ぷんぷん臭う」
 卯木がそう言うと、士郎は「うっ」と言葉を詰まらせた。
 トランザクション株式会社は、卯木の言うように、確かにどこか奇異な感じがした。例えば今朝の朝礼がそうだった。社員全員が始業30分前に集合してフロアに整列する。管理本部、人事本部、そして各事業本部が所狭しと配置される、ごった煮の大部屋である。やがてテープが流れてラジオ体操をした後、全員で社歌を斉唱し、経営理念を唱和する。朝から部屋の空気は埃で濁り、向こうの壁が霞んで見える。それから部署ごとに分かれて、その日の当番に当たっている社員が何か所感を述べる。そして本部長の訓話、部長や課長からの指示へと続く。
 士郎たちの配属先の人事本部では、中年女性の人事本部長がヒステリックな口調で訓話をし、社員たちはうなだれて聞くか、その言葉をありがたそうに一心にノートに書き留めていた。
「朝のラジオ体操なら、前の会社でもやっていたよ。工場があったから、本社でも当たり前のようにね」
 士郎はそうは言ってみたものの、朝礼で自分たちが紹介された時の冷ややかな反応のことを思い出すと、内心穏やかではいられなかった。
 士郎は自己紹介してこう言ったのだ。
「私はそれほど優秀ではない、どこにでもいる普通の人間ですが、普通の人間が普通に努力すれば、世の中、必ず成果が上げられるものと信じています。自分にできることを精一杯、一生懸命に頑張りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
 士郎のこの言葉には、自分が中小企業からの転職だからといって、大企業のトランザクション株式会社の中で決して萎縮すまいという意志を込めたものだった。
 士郎のそのあいさつの言葉に、常務取締役人事本部長の川島久美子は露骨にいやな顔をした。蔑んだような薄笑いを浮かべ、ぷいと横を向いたのである。人事部長の田宮浩之もそれに習うように、驚いて立ちすくむ士郎に、冷笑を浴びせかけた。
 卯木の場合はもっと酷かった。卯木はこう言ったのだ。
「人材派遣のこの会社で、是非、人を大切にすることを学びたいと思っています」
 その後の付き合いでも決してお世辞めいたことは口にすることのなかった卯木にしては、これが会社に対する最大限の恭順だったと言っていい。しかしこの言葉が川島の逆鱗に触れた。川島はどぎつい関西弁で卯木を怒鳴りつけた。
「ちょっと待ちいな、あんた。人材派遣って何やねんな。うちの会社のことが全く分かってへんな。うちの会社はな、アウトソーシングの歴とした情報処理サービス業なんや。それを茶髪にピアスの人材派遣なんかと、金輪際一緒にせんといてくれるか。勤怠、マナー、技術力。このどれを取っても、ユーザーさんから『トランザさんの社員を見習うように、いつもうちの社員に言うてきかせてる』とまで誉めてもろうとんねん。今日採用して明日派遣するような、そこいらの人材派遣とは違うんや。よう肝に銘じときっ」
 川島のこの怒号のせいで、人事本部傘下の人材開発部と人事部の社員たちは、その場に凍り付いたように身を固くしたのだった。
 卯木はそのことを随分と根に持った。朝礼の後でしきりに恨み言を言った。
「人材派遣でどこが悪いんだ。人材派遣だって立派なビジネスだろう。何もあそこまで言わなくてもいいもんだぜ」
 そんなふうに憤慨する卯木を、士郎は妙な理屈で慰めた。
「収入が低い、身分が不安定、どちらかと言えば補助的で地味な仕事。派遣社員をやっていてもキャリアは身に着かないよ。一方、トランザクション株式会社はアウトソーシング、つまり請負の会社だから、厳密に言えば人材派遣とは違う。しかし限りなく人材派遣に近い。それは当の社員たちが一番よく分かっている。だから会社はことさら区別しようとするんじゃないかな。言ってみれば近親憎悪だね」
 卯木は苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめ、さらに毒づいた。
「しかしあの川島って女、いったい何者なんだ。あんな下品でけばけばしい中年女が常務取締役人事本部長? 聞いて呆れるぜ。茶髪にピアスの方がよっぽどましだ」
 士郎もそれには同感だった。採用される最終面接で、川島はまるで未開の時代の呪術師のように首からじゃらじゃらとネックレスをぶら下げ、手の指が閉じられないような大振りの指輪を両手にいくつもはめていた。人事担当役員と聞いて想像する上品さとはまるで無縁の女だった。
 朝礼が終わった後も不機嫌の収まらない川島は、人事部の隣の人材開発部の若い女子社員を、激しい剣幕で怒鳴りつけた。どうやら何か資料の不備を責めているようだった。川島のヒステリックな叱責は、その女子社員が泣き出すまで容赦なく続けられた。
「どいつもこいつも役に立たんな、ほんまに」
 川島が吐き捨てるようにそう言って周囲を威圧した時、人材開発部と人事部の社員たちは自分に火の粉が降りかかってこないよう、席でひたすら身をかがめてやり過ごした。人事部長の田宮だけが堂々と顔を上げ、蔑んだように冷たく言い放った。
「ふん、何をやっているんだか」
 驚いてその光景を見守っていた士郎と卯木を、激しく泣きじゃくった女子社員が敵意のこもった目で睨み返した。
「あの目はある種の優越感だったぜ」
 と、卯木はその時のことを言った。
「おれたちに対する? まさか」
 士郎は信じなかった。
「いいや。彼女はああやって叱られながら、恍惚としていたぜ。トランス状態だ。そして『私はこんなに献身的に働いているのよ』っていうような目でおれたちを見ていた。全く気味が悪いぜ」
「いずれにしても、楽な職場ではなさそうだね」
「おや、もう弱音が出たか?」
「いや、これぐらいのことではへこたれないって言ってるんだよ。おれはこのトランザクションに骨を埋めるつもりで頑張るよ。そして結婚して、立派に家族を養っていくよ」
「ふん、頼もしいね。しかしおれはさっきも言ったように、2年間の期限付きだ。2年経ったら、その時どんなに泥沼化していようとも、おれには救援ヘリが来て、戦線を離脱する。これは最初に言っておくぜ。恨みっこ無しだ。その代わり約束しよう。おれはこの会社で出世しようなんて微塵も思っちゃいない。手柄は全部おまえにやる。これだけは信じてくれ」
 卯木はそう言い終えると、腕組みして口を真一文字に結んだ。
 この男、随分と恰好付けたものの言い方をするやつだなと、士郎はこの時思ったのだった。
 その日1日は、ほとんど研修を受けただけで終わった。人事課長の梅本直毅が会社の事業内容、組織、慣習などについてとりとめもなくしゃべるのを、士郎と卯木が2人並んで聞くだけだった。後に思い知ることになるのだが、この梅本という男、長年にわたって部長の田宮に頭を抑えつけられたためにすっかり骨抜きになった、卑屈でどうしようもない男だった。
 研修が終わって2人が早々に帰ろうとするところを、エレベータホールで誰かに呼び止められた。振り返ると人事課の小柳幸子だった。
「一緒に帰りましょうよ。私服に着替えてくるから、下で待っててくださいな」
 小柳は士郎たちよりも少し年下、20代後半と思われる女子社員だった。
 制服から私服に着替えて現れた小柳は、駅に向かって歩き出しながら言った。
「ちょっとしたショックじゃない? あの雰囲気。私は人事課の業務をシステム化するからって採用されたSEなんだけど、ばかばかしくなっちゃったから、もう辞めるの。結局半年しか保たなかった。一旦仙台へ帰って出直すわ」
 それには卯木が答えた。
「異常なんてもんじゃない。何これって感じだぜ。時代錯誤か何かあるんじゃないのか。それともああいうふうにでもしなければ、この会社ではのし上がっていけないのか?」
「ああ、川島常務のことね。彼女は特別なのよ。あの人、この会社の生え抜きなんだけど、社長の愛人だったっていう噂があるわ。会社の株を持たせてもらったり、特進の出世をさせてもらったりの、それは大層なご寵愛振りだったそうよ。その後社外の人と結婚して、今では旦那様がいるんだけど、その後も社長との関係は続いていて、役員にしてもらう時に子どもは産まないっていう約束をさせられたそうよ」
「まさか」
 士郎がそう言うと、小柳はにこやかに笑いながら、
「と思うでしょう? でも、この会社では常識は通用しないの。信じられないようなことが横行するのよ。川島常務の話にしたって、彼女、現に子どもはいないわ」
「まるで中国の宦官の女性版みたいな話だね。事実だとすれば恐ろしいな」
 と士郎が言うと、
「いや、ことの真偽はともかく、そんな噂が囁かれること自体が既に異常だぜ。そんなことがあってもおかしくないと、みんな感じてるわけだ」
 と卯木が言った。
「そうなのよ。とにかくこの会社、普通じゃないの。だからね、加瀬さんが今朝の朝礼で言ったこと、人材開発部の人たちはもう洗脳されてて駄目だけど、少なくとも人事部のみんなは『いいことを言うな』って感心してたのよ。普通の人が普通に努力をして成果を上げるって言ったでしょう。私たちは『なにも要らない、普通になりたい』って、みんな思ってるの。だから加瀬さんの言葉、心に染みたわ」
「ほんとに? でも、田宮部長は鼻で笑っていたよ」
「あの人はだめよ。あれが人事部最大のの阻害要因だから。あの人がいるうちは、どんなに私たちが頑張っても、人事部はよくはならないわ」
 赤坂見附駅に着くと、小柳は半蔵門線だからと言って、丸の内線に乗る士郎や卯木と別れた。その別れ際に小柳は言った。
「退職の時に社内で挨拶をすることは禁じられてるから、今ここでお別れを言っておくわね。ほんの短いお付き合いでしかなくて申し訳ないけど」
 士郎が驚いたように訊き返した。
「え、挨拶が禁じられてるって?」
 小柳は驚くのは無理もないと説明してくれた。
「トランザでは毎月たくさんの社員が辞めていくけど、それを露骨に脱落者とか逃亡者って扱うのよ。人を大切にしない使い捨ての会社なんだけど、悪いのは辞めていく社員の方だっていう意識なのね。だから退職者が晴々とした顔で出て行くのが許せないのよ。事業所勤務の社員ならいざ知らず、本社勤務の社員が辞めるとなったら、それはもう、顔さえ見たくない、挨拶無しでこそこそ出て行けってわけ。川島常務の厳命なのよ。じゃあ、また明日。お疲れ様でした」
 小柳はそう言うと、地下の通路を颯爽と歩いていった。
 小柳を見送った後、士郎も卯木もしばらく絶句した。そして卯木が力説した。
「川島がいくら否定してみたところで、この会社はやっぱり人材派遣会社以外の何物でもないぜ。彼女はその中で大層な権力を持っている。社長の愛人だか、元愛人だか知らないけどな。社員をあちこちに派遣して中間搾取で利益を得ておいて、うちは人材派遣じゃない、アウトソーシングの情報処理サービス業だなんて言ってるけど、所詮は社員を使い捨てにする人材派遣業なんだよ。人身売買もいいところだぜ」
「おい、おい。さっきは人材派遣だって立派なビジネスだと言っていたじゃないか。しかし、まあ、おまえの言いたいことも分かるよ。だから人材派遣という言葉はタブーなんだよ。真実であるがゆえにね。しかしタブーのある文化というのは共感できないね。リアルじゃないよ」
「そう。リアルじゃない。ビジネスの世界なんてリアリズムに徹しなければならないはずなんだが、下半身の繋がりも含めて同族支配の会社ではそれも貫徹しないか。ああ、卑屈だ。耐えられないくらいに、卑屈だ」
 と、卯木は天を仰ぐようにして言った。

(2)

 その数日後、仕事を終えて会社のビルを出たところで卯木が言った。
「ちょっと寄っていこうぜ」
 士郎は時計を見た。既に午後10時を過ぎていた。
「終電まであまり時間はないぞ」
「1時間ぐらいあるか?」
「ああ、それぐらいだ」
「それで十分だ」
 赤坂見附駅へ向かう表通りから通りひとつ隔てたところに、ひっそりと目立たず、その店はあった。入り口には薄汚れた青、白、赤の3色旗が垂れ下がり、一応はフランス料理の店らしかった。
「お、ここにしようぜ。レストラン『ラ・マルセイエーズ』。何とも勇ましい名じゃないか」
 卯木が先に立って地下の店内に降りた。客はまばらだった。
 テーブルに着くと卯木は士郎に訊ねもしないで、赤のグラスワインを2つと白身魚のフライを頼んだ。
「魚料理の時は白ワインじゃないのか?」
 士郎がそう言っても、卯木は
「おや、そうか?」
 と言って、意に介さなかった。
 しかしそれで正解だった。1杯数百円の安い赤ワインなのに、それは引っかかるところがまるでなく、するすると喉を通った。白身魚のフライもふっくらと火が通り、薄い塩味で、いくらでも食べることができた。
 卯木はまるで以前からこの店のことを知っていたかのように、当然といった顔つきで言った。
「いい店だろう?」
「ほんとだ」
「レストラン『ラ・マルセイエーズ』だ」
「覚えておくよ」
「それより、驚くべき情報を手に入れた」
 卯木はほとんど飲み干したグラスをテーブルに置いて言った。
「何だ?」
 士郎は卯木を見た。
「川島常務のことだよ。彼女、役員に引き上げてもらう時、子どもを作らないと社長に約束させられたと聞いたよな。しかしそれだけじゃないらしいぜ」
「と言うと?」
「不妊手術を受けさせられたっていうんだ。子宮を摘出したんだと」
 士郎はそれを聞いてぞっとした。
「まさか。それじゃあまるっきり中国の宦官の女性版じゃないか」
「おれも容易には信じられないぜ」
「それはそうだろう。第一、不妊手術とは言っても、何も子宮を摘出する必要はないんじゃないのか? 男のパイプカットと同じで、卵管を結紮すればすむはずだよ」
「まあ確かにこの話にはそういう疑問が成り立つぜ。しかしな、問題は手術の方法じゃない。不妊手術をしたことそのものだ。そこまでして役員になりたいのか。あるいは自分の愛人だからといって、そこまでさせるのか」
「ちょっと待ってくれよ。単なる噂かもしれないよ。推測だけで滅多なことを言うべきではないだろう。もしかすると子宮に何か疾患があって、やむなく摘出したのかもしれないじゃないか」
「それももっともな意見だ。しかしこの間も言ったが、こんな噂がまことしやかに囁かれること自体が既に異常ぜ。彼女がいかに自分の権力にしがみつき、理不尽なまでにその権力を振るい、多くの人間を辛い目に遭わせてきたかを物語っているんだよ」
 士郎はやれやれというように溜息を吐き、
「まあな」
 と言った。
 卯木はまだ収まりが付かないようだった。
「それにな、人材派遣をアウトソーシングだと言いくるめて、澄ました顔をしているあの厚かましさが、おれはとことん気に食わないぜ。実態が人材派遣なら堂々と人材派遣だと認めるべきだ。それをごまかして社員を採用するからややこしい話になる。違うか?」
 卯木は憤りを露わにして言った。それに対して、士郎の反応は冷静だった。
「トランザクションの病巣はそこにはないのかもしれないよ。もっとずっと深いところにまでに進んでいるのかもしれない」
「どういうことだ?」
 卯木は怪訝そうな顔をした。
 士郎はゆっくりと続けた。
「現場の社員をいくら技術者だ、プロフェッショナルだとおだててみたところで、右から左へ派遣されていることには違いないよ。自分たちがほとんど派遣労働者だってことぐらい、いやでも気づくよ。まずもって給与水準がそうだし、やってる仕事がそうなんだから。技術的にも身分的にも決してコアの部分じゃない。そこはユーザーの社員がしっかり握って放しゃしないからね。だから人材派遣だろうが業務の受託だろうが、その特徴は薄利多売だよ。事業の構造上、ユーザーよりも利益を上げることはあり得ないんだ。結局はそのおこぼれに預かっているに過ぎないわけだからね」
 卯木は途端にいらいらして口を挟んだ。
「だからおれはさっきから、トランザクションの在り方はまさに人材派遣だと言ってるんじゃないか。それを契約形態の形式的な違いを楯にとって、業務の受託だ、アウトソーシングだと言ってみたところで、派遣法逃れの違法な人材派遣に過ぎないって言うんだよ。一部上場のアウトソーシングの会社だなどと人を騙して採用している、所詮はいかさま会社なんだよ」
 士郎はうんと一度小さく頷いて続けた。
「ところが、少し様子が違うんだよ。仮説を立ててみたんだ。もしトランザクション株式会社が事実上の派遣会社であるならば、社員は2つに分かれるんじゃないか。一方では会社組織の基幹を担う少数の部分と、他方ではユーザーに派遣されて派遣労働者的に事業所勤務している大多数の部分とにね。就業規則上、あるいは給与規程上、この2つに区別はない。同じ正社員だし、同じ給与体系だよ。しかし事実上と言うか、運用上と言うか、前者はおそらく給与水準が高くて定着率がいい。後者は給与水準が低くて定着率が悪い。そういう傾向があるんじゃないかとね。だから調べてみたんだよ」
 すると卯木は興味を示し、身を乗り出してきた。
「で、どうなんだ?」
 士郎は淡々と続けた。
「確かに本社の方が役職者が多いから、それが影響して事業所勤務者よりも給与水準は多少は高いよ。しかし同役職で比べると、給与規定上、ほとんど差は出ない仕組みなんだ。役職ごとに給与テーブルが設定されているからね。それより退職率なんだよ、問題なのは」
「うん、うん。話が面白くなってきた。で、どうだった?」
「それが変わらないんだよ。本社勤務であろうと事業所勤務であろうと、あるいはヒラであろうと役職者であろうと。だいたいトランザでは毎年800人以上の退職者が出る。社員数5,000人の会社で、年間の退職者が800人ということそのものがまず驚きなんだが、それは置いておくよ。その800名の退職者を、入社年度ごとに、思いつく限りの区分で比較してみたんだ。性別、年齢、学歴、所属、役職、新卒と中途、本社勤務か事業所勤務か。すると結果はどれも同じ。ほとんど差はない。ずばり、4年で半減。ここ近年、社員のどんな属性にも関係なく、一様にこの退職率だよ」
「4年で半減? 随分多いな」
「そう。会社の中のどこで切っても同じ金太郎飴の4年で半減なんだよ。これではまるで放射性元素の原子核崩壊のようだよ。半減期が4年なわけだ」
 卯木は椅子の背に仰け反った。そして溜息をひとつついて言った。
「たまげたね。じゃ、おれたちは原子炉の中で働いているようなもんなんだ」
「く、く、く。面白い言い方をするね。じゃあ、ついでにもうひとつ面白いことを」
「何だ?」
「おれはさっき、どの部署も同じで金太郎飴だと言ったよね」
「ああ」
「実はひとつだけ際だって異常な値を示している部署がある」
「どこだ?」
「東京の人事課。3年で8割が辞めている」
「何だよ、おい。おれたち自身は半減期4年もないのか」
「ま、話を元に戻そう。社員の半減期が4年で、日々崩壊し続けている会社。こんな会社をどう思う? 何と言えばいいんだ?」
 そう言うと、士郎は組んだ手の上に顎先を載せ、楽しそうに卯木を見た。
 卯木はしばらく考えた後、心許なさそうに言った。
「つまりはこう言いたいんだろう? トランザクションをいかさまの派遣会社と批判するのは浅はかな批判で、実態はもっと深刻だ、と。何かもっと根本的な問題がこの会社にはある、と」
「そういうこと。人間そのものが壊れてゆく会社。根本的な何かが原因でね」
「さすがは人事のエキスパートだな。おれなんか人事はほとんど未経験で採用されたから、そういう発想って正直なかったよ。親父の会社の社会保険を少し手伝ったことがあるぐらいで、おれみたいなのがよく人事に採用されたと思っていたぐらいさ。で、おまえの見るところ、その根本的な問題って何なんだ?」
 士郎は作ったような笑顔でにっこりと笑った。
「分からない。それが見抜ければおれは本当に人事のエキスパートなんだろうけど、実は皆目見当が付かない。答えが聞けると期待したか?」
「何だよ、おい。当然じゃないか。自信たっぷりにそこまでしゃべっておいて、結論は分からないのひと言なのか?」
「退職届のファイルをめくれば、退職率ぐらいははじき出せる。さらにそれを統計処理すれば、何らかの傾向も読みとれる。でもそこから先は感性の問題だよ。中に入り込まないと、見えてはこない」
「恐ろしげな話だぜ。そんな話を聞くと、おれは藪を突いて出るもの出してみたくなるね。いったいどんな魔物が出てくるものだか」
 卯木はそんなふうに茶化して言ったが、この時2人の頭の中ではトランザクション株式会社という闇が口を開けて2人を飲み込もうとしているのを想像していたのだった。

(3)

 入社して既に1週間が経とうとしているのに、士郎と卯木の担当業務はなかなか決まりそうになかった。
「君たち2人に何をやってもらうかは、梅本課長から聞いてください」
 入社したその日に、田宮部長は2人を前に並ばせて、妙に丁寧にそう言った。しかしその後毎日のように士郎は梅本に催促するのだが、梅本はいっこうにはっきりした返事をしないのだった。
 担当業務が決まらないからといって、士郎は席に座って1日ぼうっとして過ごすわけには行かなかった。また、自分の仕事がないからと言って、部下たちより早く帰るわけにも行かない。とにかく部下の皆が帰り支度を始める午後10時までは、思いつくままにキャビネットの中から資料を引っ張り出して、様々な分析を熱心に試みた。トランザクションでの社員の半減期が4年だという事実を見つけたのも、その中のひとつだった。
 とは言っても、資料を読みあさって時間を潰すのにも限度がある。士郎の心の中に、日々を無為に過ごしていることに対する焦りと、罪悪感に似た感情が芽生えてきた。それは卯木も同じだった。
「おかしいよな。何でおれたち2人を遊ばせておくんだろう。もしかすると適当に泳がせておいて、おれたち2人の適性を見極めようとでも考えているんだろうか?」
 卯木も半ば呆れて、昼休みに2人で食事をしながら、そんなふうにつぶやいた。
「まさか。そんな余裕のある会社ではないと思うんだけどね」
「おれもそう思うぜ。そもそもおれたちが採用されたのは、ここ数ヶ月の間に人事課で何人かの社員が辞めてしまったからだと聞いたんだ。社会保険なんて、今、担当者がいなくて処理が止まっているって話だぜ」
 卯木は社会保険の担当は自分がするものと決め込んで、大いに憤慨した。
 士郎は言った。
「おれたちは人事課の係長として採用されたわけだろう? 普通なら社会保険だ、給与計算だというような仕事のさせ方はしないはずだよ。もっとトータルな幅があるはずなんだ。でもこの会社ではどうなのかな。現に、人事課とは言っても、その実態は社会保険も含めた給与計算課に過ぎないわけだからね。本来の人事の仕事はしていないと思うんだよ。採用は隣の人材開発部に採用課があるし、教育は教育訓練課がある。人の配置は各事業本部がそれぞれ独自にやっている。人事政策とか人事制度っていう考え方はこの会社にはなくて、やっているのは、ひたすら人件費を低く抑えることだよ。年間800人の退職者だって、考えようによっちゃあ、人件費の抑制策になっているよね。退職金は雀の涙。一部上場だから、求人すれば応募はどっさり。社員の回転をよくして、安くたくさん売る。薄利多売。ここでは確かに社員が商品なんだ。だから人事課の仕事っていうのは、言葉を悪く言えば、ある意味では商品管理なんだよ」
「やっぱりそうだろう。人身売買、社員が商品なんだ」
 卯木は、だから言ったじゃないかと言うように、目を剥いた。
 士郎はそれには取り合わず、話を元に戻した。
「だから結局のところ、おまえが社会保険の責任者、おれが給与計算の責任者っていう辺りが、妥当なところなんじゃないのかな。ところで、おまえの担当は社会保険でいいのか?」
 卯木は照れくさそうに笑った。
「と言うか、それしかできない」
「じゃ、この分担でどうかと、梅本課長に伝えるよ。いいね?」
「ああ。そうしてくれ。こっちから動かないと埒が明かないぜ」
 士郎は早速午後にその考えを梅本に伝えた。
 梅本はその申し出に難色を示した。
「うーん、もうちょっと待ってくれませんか。今、調整中なので」
「調整というと、何が問題なんですか?」
「いろいろと手続きがあるので、それを飛ばして物事を決めても、うまくは行かないでしょう。下手をすれば『何を勝手なことをやってるんだ』ということにもなりかねない。張り切って入社したのに、担当業務さえ決まっていない苛立ちは分かりますが、もう少しだけ待ってくれませんか」
 梅本は机の上の資料を指先で弄びながら、困り切って懇願するような笑みを浮かべた。
 その時士郎は梅本の困惑の背景に、ひと筋縄では行かない何かがあるなと感じた。それでも士郎は引き下がらなかった。
「では、仮のものでも構いません。正式な業務が決まるまでの間、何かご指示をくださいませんか」
 すると梅本は一瞬表情を強ばらせ、すぐにまた元の困惑の笑みを浮かべながら言った。
「ですから、少し待って欲しいんですよ。今、田宮部長と相談しているところなんです」
 士郎はそこに梅本の困惑の根源を感じ取った。ストップをかけているのは部長の田宮なのだ。だから歯切れが悪いのだ。しかし、ではなぜ田宮がストップをかけるのか、疑問は残る。それを梅本に訊ねることは気の毒なのかもしれなかった。
 士郎は自席に戻った。少し気が晴れていた。何か仕事をさせて欲しいと申し出て、課長の梅本に断られたのだ。無為に過ごしていることの罪悪感は薄まった。
 そこで改めて自席から周囲を見回した。
 窓際に人事本部長の川島の席がある。川島は人事本部の中でも人材開発部を主に管轄している。このところ、毎日のように新卒や中途の採用面接があるために、朝礼後から夜まで自席にいることはほとんどない。人材開発部の机の列の半数近くは席を外していた。席に残った社員も、忙しそうに応募者との電話連絡に追われていた。
 視線を人事部に戻した。川島の席から少し間隔を置いて、人事部長の田宮の席がある。川島が田宮の上司となるわけだが、この2人が親しげに話しているところを見たことがなかった。もちろん川島が席を外しがちだからというのもある。しかしそれだけではあるまい。年齢は田宮の方が少し上のはずだ。川島が社長の愛人だから役員に引き上げられたという噂は、当然田宮の耳にも入っているだろう。田宮は妙にプライドが高く、居丈高で、扱いにくい人物である。川島のことを快く思っているはずがない。川島の方でも田宮には距離を置き、この男を部下に持つことがやりにくそうに見える。
 時々川島は人事部の社員の言動を見とがめ、ヒステリックな関西弁で怒鳴りつけることがある。怒鳴られた社員はその勢いに圧倒され、いく分理不尽とも思えるその叱責に唇を噛んで耐えることになる。これは川島のデモンストレーションだ。田宮を直接自分のコントロール下に置くことができないので、時々生け贄のように人事部の社員を叱責し、自分の影響力を行使する。入社初日に卯木が「人材派遣」という言葉を口にして川島に怒鳴りつけられたのも、今から思えばそのひとつだった。
 そんな時田宮は、もちろん自分の部下を庇いはしない。冷笑を浮かべて蔑んだように見下している。田宮の性格をひと言で言えば、残忍もしくは酷薄ということになるだろうか。
 ほとんど自席にいない川島とは対照的に、田宮は四六時中自席にいて人事部の社員の一挙一動に目を光らせている。そのため人事部の社員はびくびくしながら頭を下げ、ひたすら業務に勤しんでいる。一見すると総勢10人足らずのこのエリアだけ、空気がどんよりと澱んだ印象さえ受ける。しかし実際には皮膚が帯電しそうなほどに神経が張りつめ、火花が飛ぶほどの緊張感に包まれているのだった。
 同じ人事部の机の列の、少し離れた卯木の席に目をやると、2人の視線がぶつかった。卯木も同じように溜息を吐くような気持ちで、自分の周囲を眺めていたのだった。その卯木が目配せをして、士郎の視線を田宮の席の方に誘導した。
 士郎が目をやると、課長の梅本がひと束の書類を手にして、田宮に話しかけているところだった。背後から見る梅本の腰と首の動きから、梅本の緊張が手に取るように読みとれる。それはある種の卑屈さと言ってもいいかもしれなかった。梅本が身に着けたこの卑屈さは、その後の数年間にわたって、士郎や卯木にも取り憑こうとして、2人を大いに悩ませることになる。
 その時、突然のように田宮が怒鳴り声を上げた。
「それが係長にさせる仕事なのかっ。30を過ぎた10年選手が、新入社員に毛の生えたような仕事をするのかっ」
 それは野太く空気を震わせる、迫力のある声だった。田宮は手刀で机を打ちながら激昂していた。
 人事部の机の列に電気が走った。部員たちの顔に何かの表情が一瞬走り、すぐにそれは無表情に包み込まれて沈黙した。その時ちらりと見えた彼らのあの表情を何と呼べばいいだろうか。恐怖だろうか、嫌悪だろうか。あるいは梅本に対する憐憫なのか。それとも自らの置かれた運命に対する諦観なのか。
 士郎にも卯木にも、田宮と梅本の話しているのが、自分たちの担当業務だということがすぐに分かった。士郎は全身の血液が頭に流れ込むのを感じた。聴覚が研ぎ澄まされ、自分の鼓動と血流が聞こえた。
 梅本は聞き取れない声でぼそぼそと何かを言った。そしてそれに対して田宮は再び手刀で机を打った。
「だ、か、らっ。何度言わせれば気がすむんだっ。日々の業務の1個1個はこう、週間のスケジュールはこう、月間のスケジュールはこう。そういったことをひとつひとつ積み上げていくんじゃないのか。そしてそれに対して必要な人員はこう、適正な配置はこう。そうやって組織ができていくんじゃないのか。それを君は既成事実を作って押し切ろうと言うのかっ」
 田宮はそう言うと、まるで梅本を射殺すような目で睨み付けた。
 梅本は田宮の席の前に立ち、両手を前に組んで押し黙った。
 しばらく沈黙が続いた。田宮は梅本を無視してパソコンの画面を見つめていた。それから目の前に梅本を立たせていることなど忘れたかのように、外出の身支度を始めた。そして鞄を手に持つと、残された梅本に威嚇するような一瞥をくれ、社外セミナーへ行ってくると言い残して出て行った。
 梅本はやれやれというように深い溜息を吐くと、自席にどっかと腰を下ろして、手に持った資料をばっさりと机の上に放り出した。
 そこへ士郎と卯木が駆け寄った。梅本の机の上には、月間のスケジュール表らしきものと、人事課の業務担当表らしきものが何種類か、下書きの状態で散乱していた。
「いったい、どうなってるんですか?」
 卯木が大いに憤慨して言った。
 梅本は困り果て、憐れみを乞うような目で2人を見た。
「どうもこうもないですよ。この間、ずっとあの調子なんだから。スケジュールはどうした、仕事量の測定はどうした。既にお2人が入社しているのに、いったいどういうつもりなのか、こっちが訊きたいですよ」
 梅本は椅子の背もたれにだらしなく身を預け、まるで悲鳴を上げるようにして言った。
「しかし、私たち2人の入社が既成事実とは、随分酷い言い方ですね。田宮部長は私たちの入社を快く思っていないんですか?」
 士郎がそう言うと、即座に卯木が反論した。
「しかし、最終面接には田宮部長も同席していたぜ」
「それはそうだけど、なんだか田宮部長の言い方が気になるんだよ。本当は必要もないのに、渋々われわれの入社を認めたんだとでも言いたげな」
 すると梅本が慌てて否定した。
「それはないですよ。田宮部長も応募者は何人来ているんだと随分気を揉んでいたし、それに多くの候補者の中から最終的にお2人を選んだのは田宮部長ですから。ただね、あの人にはどうにも気難しいところがあって、とてもひと筋縄では行かないんですよ。だからこの件に関しては、申し訳ないけど、もうしばらく我慢してもらえませんか」
 そう言うと、梅本はせっせと作りかけの書類の続きに取りかかった。
 士郎と卯木は、梅本のまるで生気のない目を見るに忍びなく、自席に戻った。
 定時になっても田宮は社外セミナーとやらから戻って来なかった。ただそれだけのことで、人事部の社員は急に活き活きとし始め、どんよりとした職場の雰囲気が、いつの間にか軽快なものに変わっていた。
「田宮部長のいない今日ぐらいは早く帰りましょうよ」
 そう言ったのは中川翔子だった。
「賛成」
 末永玲子も寺島美智子も口々に言った。
「じゃあ、今夜はみんなで卯木係長と加瀬係長の歓迎会ということで」
 と、チーフの杉山信男が言った。
「それに、小柳さんの送別会も」
 と、中川翔子は手を叩きながら喜び、
「卯木係長、加瀬係長。女の子たち、これから着替えてきますから、1階のエレベータホールで待っていてください」
 と言った。
 その時、田宮の秘書のような立場の斉藤瑠璃子が、顔を曇らせて言った。
「でも、田宮部長の留守中に勝手にそんなことをしたら、後でどんな目に遭うか分からないし…」
 中川が意地悪く、斉藤を突き放すように言った。
「じゃあ、あんただけお留守番する?」
 斉藤はうなだれた。その斉藤の顔を覗き込むようにして、末永が優しく言った。
「大丈夫よ、みんな一緒に行くんだから。もし叱られても、一緒だから怖くないでしょ?」
 すると斉藤はこっくりと頷き、皆の後について職場を離れた。
 士郎と卯木は杉山に背中を押されるようにしてエレベータに乗った。
 女子社員たちが着替え終わり、全員が揃ってビルを出る時、士郎が言った。
「おや? 梅本課長がいないけど」
 すると中川翔子が、日頃の人事課の陰気さからは想像できないような陽気さで言った。
「いいの、いいの、梅本課長はお留守番で。だってあの人たちは会社に住んでいるんですもの。私たちが早く帰って、きっとわが家でくつろいでいるわ」
 すると皆は歩きながら一斉にぷーっと笑った。
 士郎も卯木も、それが何の冗談なのか分からず、きょとんとした。
 居酒屋に集まったのは、梅本を除いて、当時の人事部総勢7名だった。乾杯する時、杉山が言った。
「ようこそ人事課地雷原へ」
 ビールを一口飲み下して、卯木がにやりとした。
「新兵は地雷を踏みやすいから気を付けなくちゃな。しかしおれたち入社してもう1週間以上が立つのに、担当業務さえ決まっていないみたいだぜ」
 すると杉山が言った。
「タミ公とウメちゃんが、そのことで銃撃戦の最中ですからね」
 その言葉に反応して、寺島美智子が言った。
「ちょっと、こっちに弾が飛んできそうで怖いんですけど」
 杉山がそれを茶化してさらに言った。
「大丈夫だよ。飛んでくるのは鉄砲の弾じゃなくて、枕投げの枕だから」
 すると斉藤瑠璃子がぷっと吹き出して言った。
「今頃2人でやってるのかしら?」
「まだだよ。始まるのはいつも夜中の1時頃だから」
 士郎と卯木はその話をまたもやきょとんとしながら聞いていた。
 卯木がたまりかねてその会話に割って入った。
「何だい、その枕投げって? それにさっきは梅本課長が会社に住んでるとか言ってたけど?」
 杉山がにやりとして言った。
「ウメちゃんだけじゃないですよ。タミ公も一緒に住んでるんですよ」
「あのビルにそういう宿直室のようなものがあるのか?」
「あるわけないでしょう。2人で深夜まで仕事して、2時か3時頃になると自分の席で椅子に仰け反って寝るんですよ」
 それを聞いて士郎は開いた口が塞がらなかった。
「それ、本当なのかい? 信じられないよ。いったい何のためにそんなことをするんだろう」
 すると杉山は表情を曇らせ、ぶっきらぼうに言った。
「知らないですよ、そんなこと。あの2人が仲良しだからじゃないですか?」
 それを聞いて中川翔子が騒いだ。
「きゃあ、おぞましい。でも本当は梅本課長は無理やり田宮部長に付き合わされているのよ。可哀想な梅本課長」
 しかしそれには杉山は賛成しなかった。
「そうかな。あの2人はどっちもどっちって気がするけど。ウメちゃんなんて夜中に仕事をするもんだから、昼の間はぼうっとして、時々仕事中にこっくりこっくりしてるぜ」
 士郎が言った。
「じゃあ、なぜ田宮部長は家に帰らないんだろう。ちゃんと疲れを取って、すっきりした気持ちで翌日出勤した方が、いくらか仕事もはかどるだろうに。こう言ったら失礼かもしれないけど、なんだか気難し過ぎるよ、あの人。きっと疲れてるんだよ」
 すると今まで黙っていた末永玲子が言った。
「あら、加瀬係長はご存じなかったんですね。田宮部長は東京には住まいはないんですよ。大阪の人事課から出張扱いで東京にいるんです。だから会社から毎日ホテル代が出てるんです。田宮部長はそれを節約するために、ホテルに行かずに、会社に寝泊まりしているだけなんじゃないかしら」
 それに同意するように小柳幸子も言った。
「そう、そう。言ってみればある種の空出張なのよ。わずかばかりのお小遣いを手に入れるために、梅本課長を人質にして立てこもってるの。ばかだとしか言いようがないわ」
 再び末永が言った。
「それに、それでも夜中にまで仕事してるんなら本当にご苦労様って思うけど、でも2人でやり合ってることは、スケジュールがどうの、報告がどうのって、四六時中そればかり。確かにスケジュールは大切だとは思うけど、あんなふうに実際の仕事からかけ離れたところで空中戦のようにやり合っても仕方がないと思うんだけど」
 末永がまだ言い終わらないうちから、小柳は口を尖らせて言った。
「第一、私たちのスケジュールを壊してるのは、田宮部長その人なんですよ。梅本課長を呼びつけて1時間、2時間、わけの分かんないお説教のために平気で時間を浪費するし、機嫌が悪くなると何日も書類にハンコ押してくれないし。それに仕事に必要な情報を与えてくれなかったくせに、後になってまるで私たちが確認もせずに勝手に進めたみたいに言うし。違うでしょ、ほんとはあんたが情報を握って私たちを困らせたのよねって。あんたのおかげでみんな迷惑してるのよって」
 士郎も卯木もしばらく唖然として聞いていた。とは言っても、2人とも田宮がそんな人物だということに驚きはしなかった。そんなことは彼の風貌を見ればだいたい察しが付いた。それよりも、普段は怯えて首をすくめたように沈黙している人事課のメンバーが、実はこれほどまでに田宮を憎んでいるというのが新鮮だった。もっと言えば、皆の感性が意外にまともだったので安心したのである。
 士郎が言った。
「つまりは、物事をまともに前に進めようとせずに、いたずらに掻き回して、自分が偉いと錯覚を起こしているんだね」
 卯木も言った。
「それだけじゃない。本当は自分が邪魔をしているくせに、部下のできが悪いから自分ががみがみ言って鞭打たないと動かないと言いたがる、自作自演のマッチポンプでもあるわけだ」
「そうだね。どうしようもないやつだよ。先が思いやられるな。いったいどうすればいいんだろう。ね、杉山君。どうしようか?」
 士郎が話を振ると、杉山は鼻の穴を膨らませながら、
「刺す」
 とだけ言った。
 斉藤瑠璃子がそれをからかった。
「また杉山さんったら、できもしないくせに。陰では威勢がいいんだから」
 すると杉山は目を剥いてもう一度言った。
「いいや、刺す。本当に、刺し殺す」
 士郎も卯木も、それだけの気概があるのなら、案外この人事課も持ち堪えられるんじゃないかと思ったのだった。

(4)

 翌日、田宮の機嫌は最悪の状態だった。朝礼直後から梅本を相手に怒鳴り散らした。
「ちょっと私がいないと、仕事を放り出して飲みに行かせるのかっ。君たちにはそんなに余裕があるのかっ。仕事はスケジュール通り進んでいるのかっ。私はそんな報告は聞いちゃいないよ」
 梅本は諦め切って黙って突っ立っていた。
 士郎と卯木が呼ばれた。てっきり昨夜のことを責められるものと思った。どんな理不尽なことを言われるのか、言われる前から身の毛のよだつ気がした。士郎と卯木は身構え、梅本の横に並んで田宮と向き合った。
 田宮はぎろりと2人に目を向け、荒々しく言った。
「いったい君たちはいつまでお客さん気分で遊んでいるんだ。このトランザクションがそれほどのゆとりのある会社だと思っているのか。君たちはこの会社にいったい何をしに来たんだ」
 士郎は唖然とした。自分たち2人の担当業務が決まらず、いわば待機させられていたのは、この田宮が決定を遅らせていたからだと聞いた。それを今になって、いつまで遊んでいるんだはないもんだ。一夜のうちにいったい何があったと言うのか。
 士郎がその疑問を解きほぐそうと口を開くよりも先に、直情的な卯木が口火を切った。
「私たちは梅本課長から、担当業務が決まるまで待機するように言われました。決して遊んでいたわけではありません。そんなことを言われるのは極めて心外です」
 卯木のその言い方が、田宮の怒りに油を注いだ。
「だったら君たちは、梅本課長が死ねと言えば、死ぬのか」
 田宮はそんなことを、目を逆三角形に強ばらせ、本気で言ったのだった。さすがの卯木も唖然として口をつぐんだ。
 田宮は勝ち誇ったように言った。
「どうなんだ、加瀬係長」
 田宮は卯木を黙らせたので、今度は士郎に向かって言った。
「君たちは、梅本課長が死ねと言えば、死ぬのか」
 士郎は唇を噛みながら首を振った。そして絞り出しように言った。
「いいえ」
 田宮は表情ひとつ変えず、続けた。
「おかしいじゃないか。自分の都合の悪い指示には従わず、自分の都合のいい指示には従うのか」
 もうこうなってくると、士郎にも卯木にも返す言葉がなかった。口を利くのもためらわれる。惨めな気持ちになっていた。
「梅本課長」
 田宮は今度はぎょろりとした目を梅本に向けた。
「君はこの2人に待機を命じたのか」
 梅本は一瞬言葉を飲み込み、そして意を決して言った。
「はい」
 田宮は手刀で机を打ちながら激昂した。
「君は何を勝手な指示を出しているんだっ。誰がそんなことを君に命じたんだっ」
 梅本は声を震わせた。
「しかし田宮部長。私は田宮部長から、人事課の業務を分析せずに、2人に適当に業務を割り振るのは認めないと言われました」
 すると田宮は残忍な薄笑いを浮かべた。
「では訊くが、君は業務の分析をきちんとしたのか」
「いいえ、まだできていません」
「なぜ、しないんだ」
「今、やっています」
 梅本は泣きそうになっていた。梅本にしてみれば、業務のひとつひとつの工数を緻密に積み上げて田宮に提示するたびに、作業の進め方の些細なことで何度も駄目出しを喰らい、いっこうに物事が前に進まないという思いが強い。まるで田宮は時間稼ぎのように梅本の作業にけちを付け、それを終わらせないのだ。
 田宮は言った。
「君たちはまるで私が決定を遅らせているかのように言うが、お門違いもいいところだろう。君たちがやるべきことをやらず、それで遅れているんじゃないのか。頼むからひとつひとつのことをきちんとしてくれよ。なぜそうしようとしないんだ。え、どうなんだ梅本課長。違うのか」
 梅本は消え入るような声で言った。
「申し訳ありません」
 田宮は梅本にそう言わせてひと通り満足すると、机の引き出しの中から、1枚の紙片を取り出した。そしてそれを机の上に置いた。
 士郎も卯木もそれを覗き込んで、唖然とした。それは士郎と卯木の名前も入った、人事課の業務分担だった。田宮があれだけこだわった業務分析などはそこにはなく、ただ単に組織図が書いてあるだけだった。田宮部長の下に梅本課長、そこから2股に枝分かれして加瀬係長、卯木係長とあり、それぞれの下に数名の部下の名前が入っていた。そして士郎の名前の脇には給与計算全般、卯木の名前の脇には社会保険・福利厚生と記されてあった。紙片の中身はそれだけだ。それを田宮はもったいつけて大切に引き出しに仕舞ってあったのだ。
 士郎も卯木も全身から力が抜けていくのを感じた。そしてその虚脱感の後に哀しみが湧いてきた。やがてそれは憤慨へと変化していく。
 昼休みに2人で食事に出た時にも、卯木は大いに毒づいた。
「何、あれって感じだぜ」
「く、く、く。全くだよ。最初から決まっていたんだね。それをもったいつけて、いったい何日空費したんだろう。田宮さんも好きだね」
「けっ。あれが一部上場企業の人事部長なのかね。聞いて呆れるぜ」
「しかし、大した権力だよ。彼には誰も逆らえない」
「そんなことで喜んでいるのか、あのおっさんは」
「ま、何はともあれ、これでおれたちの役割もはっきり決まったよ。もう遊んでいるなんて言われない。一件落着だね」
「そんなもの、今決まったわけじゃない。誰がどう考えたところで、他に決めようがないじゃないか。あのおっさんがもったいぶって紙を出す前から、おれたちの役割分担なんて決まってたのさ。とにかくおれは納得できない。こんなやり方には納得できない」
 そう言うと、卯木は拳をテーブルに強く押しつけた。
 午後になって、士郎は早速自分の担当業務について調べ始めた。給与計算とは言っても、計算そのものは最終の段階のほんの一瞬のはずだ。そこに至るまでの間に、入社、退社、異動、勤怠、各種手当の異動等のデータを処理しなければならない。それには数日をかけて処理しているはずだ。その一連の作業を、誰がどのように処理しているのか、士郎は把握していなければならない。
 そこで士郎は最も効率のよい方法で、その過程をたどってみることにした。それは本来の手順とは逆にたどることだ。まず給与計算結果をざっと眺め、概要を掴んでおく。次にそれを構成する要素となるデータを眺める。そして最後にそのそれぞれのデータの元になる書類を眺める。こうすればトランザクション株式会社での給与計算の手順も、担当者の役割分担も、手早く概要が掴めるはずだった。
 士郎は部下の杉山信男に声をかけた。
「ねえ、杉山君。先月の給与計算結果を見たいんだけど、どこにある?」
 すると杉山は無言でのっそりと立ち上がり、士郎をキャビネットに案内して扉を開けた。
「多分半年分くらいはここにありますよ。もっと古いのは地下の倉庫です」
 見るとキャビネットの中には厚さ10センチほどの分厚いファイルが乱雑に積み上げられていた。その乱雑さは、まるでそのファイルが忌み嫌われているかのように、そこに投げ込まれていると言ってもいいぐらいだった。
 士郎はその中から最新のファイルを拾い上げ、杉山に礼を言って席に戻った。
 ファイルのページをめくって、士郎はうんざりした。社員5,000人の給与計算結果が、1人3行でびっしりとストックフォームに印字され、それが500ページ近くもある。これをいくら眺めてみても、頭に入るものは少ない。
 士郎は再び杉山に声をかけた。
「ねえ、杉山君」
 すると杉山は「今度は何なんだ」とでも言いたげに眉間にしわを寄せた。
「これ、データでないのかな。コンピュータから打ち出したものだから、元のデータがあると思うんだけど」
 すると杉山は不機嫌になり、
「いったい何をしようって言うんですか」
 と言った。
「給与計算結果を眺めてみたいんだよ。どんなふうに給与計算をしているのかを掴みたいんだ。そのためにはお尻から遡って行くのが一番いいと思ってね」
 杉山は軽く舌打ちをして、面倒臭そうにフロッピーディスクをパソコンに挿し込み、データをコピーした。そしてフロッピーディスクを抜き取ると、士郎に釘を刺して言った。
「やばいデータですから気を付けてくださいよ」
「もちろんだよ」
 士郎は素直にそう言ったが、内心穏やかではなかった。杉山が士郎に対して何かと反抗的な態度を取るのだ。やれやれ先が思いやられる、と士郎は思った。
 士郎はそのフロッピーディスクを、買ったばかりの自分のノートパソコンに挿した。今では信じられないことだが、トランザクション株式会社では社員が仕事に使うパソコンは自費で購入することになっていた。その話を梅本から聞いた時、士郎は極度に驚き、そして憤慨したが、結局は素直に従うことにした。それはまだもらってもいない給与の1ヶ月分以上の出費となった。しかし数年後にパソコンの価格が急速に下がった時、今度は会社はセキュリティーを強調して、私物のパソコンを社内に持ち込むことを禁止したのだった。後にこの通達が流された時、会社は自費でパソコンを買わされた社員たちから大いに嘲笑を浴びることになる。
 真新しい士郎のノートパソコンは、モーター音をさせてデータを読み込んだ。やがて画面に表示されたのは、単に数字の羅列したテキストデータだった。それが何かのコード番号であることは容易に想像できた。士郎は妙に態度に棘のある杉山からコード一覧表を借り、ひと繋がりに並んだ切れ目のないデータを表計算ソフト上で区切り直して、コード番号のひとつひとつを言葉に変換していった。そして数時間がかりでようやくデータを読みとれる形に完成させた。
 その時士郎は作業に熱中するあまり、田宮が背後から覗き込んでいるのに気が付かなかった。
 自席に戻った田宮は杉山を呼んだ。
 呼ばれた杉山は、一瞬ぎゅっと目をつむり、覚悟を決めて田宮の席の前に立った。
「なぜ給与マスターのデータが人事課にあるんだ」
 杉山は観念して言った。
「私が加瀬係長にお貸ししました」
「だったら君はなぜそれを持っていたんだっ」
 田宮に睨み付けられて、杉山の身体が強ばった。
「私が橘さんからいただきました」
 田宮はその場で3階の情報システム室に内線をかけ、若手社員の橘を呼びつけた。
 橘は血相を変えて即座にエレベータに乗ってやってきた。
 田宮は橘に対して穏やかに言った。
「私の許可なく人事のデータを持ち出すのは止めていただけませんか」
 橘はその場の雰囲気から、もはや言い訳を試みるのは不可能と見て、「はい」とだけ答えた。橘はそれだけで解放された。
 橘とともに杉山も自席に戻ろうとした。それを田宮は机を叩いて制止した。
「誰が戻っていいと言ったんだっ。私の話はまだ終わっていないんだよっ」
 杉山はびくっと身体を仰け反らし、足を止めた。そしてよろよろと田宮に引き寄せられるようにふらついた。
 田宮は杉山を前に立たせておきながら、しばらく杉山を無視して何かパソコンに向かって打ち込んでいた。杉山は田宮に許されるのを待って、ただ黙って立っているしかなかった。
 田宮は部下を叱る時、よくこのような叱り方をした。黙って立たせるのである。席に戻ることも許さず、弁明することも許さず、ただ黙って自分の前に立たせるのである。そして自分自身はというと、立たせた相手を睨むでもなく、非難するでもなく、しばらく無視して何か他の仕事をするのである。これでは立たされた者は取り付く島がない。士郎はつくづく感心した。これは相手に精神的ダメージを与える、考え抜かれた方法であった。
 士郎は成り行きを見守っていたが、いつまで続くか分からないその膠着は、立たされた杉山だけでなく、距離を置いてそれを見守る士郎にとっても耐え難いものになってきた。士郎は意を決して立ち上がった。
「田宮部長」
 士郎は杉山の隣に立って言った。
 田宮は不機嫌そうに、濁った目を向けて士郎を見た。
「田宮部長はおそらく私が見ていたデータのことで杉山君を叱っていらっしゃるんだと思うのですが、申し訳ありません、あれは私が杉山君に頼んでコピーさせたものなんです」
 その時士郎は田宮の目の中に残忍な光がちらつくのを見た。
「だから? だから杉山を許してやれと言うのか。誰が命じてコピーしたかが問題なのか。杉山が自分の意志でコピーしたのなら悪くて、君が命じてコピーしたのなら悪くないと言うのか。いったい君は何様なんだ」
 士郎は異質な世界に触れた不快感を覚えた。田宮とは言葉が通じ合わない。このまま行けば、どこまでも田宮の言いなりになるしかなかった。
 士郎は再度抵抗を試みた。
「いえ、そうではありません。私が悪かったんです」
 その言葉に田宮はいっそう激昂した。
「だ、か、らっ。誰がデータをコピーしたことを叱っているんだ。私は、なぜ杉山が給与マスターのデータを持っていたかを問題にしているんだよ。え? いったいなぜなんだっ」
 田宮はそう怒鳴って、分厚い手のひらで机を叩いた。
「それは私には分かりません」
「だったら呼ばれもしないくせにしゃしゃり出てくるなよっ。君はそれで杉山を庇ってやってるつもりなのか。大した師弟愛だね。お見それしました、本当に」
 士郎には返す言葉がなかった。やむなく士郎も黙って立つことにした。こうなったら持久戦だと思ったのだった。
 それはいつ終わるとも知れない、長い沈黙に思えた。士郎は精神が削り取られていくのを感じた。耐え難い苦痛だった。だから心の中で自分を励ました。ものは考えようだ。黙って立ってるだけでいいのなら楽なもんだ、と。しかしそれは随分自虐的な励まし方だった。そう思った時、士郎は自分の置かれた情況が滑稽でおかしくなった。
 士郎のその微かな表情を、田宮は見逃しはしなかった。
「何がおかしいんだ」
 士郎は慌てた。
「いえ、何もおかしくありません」
「今、君は笑ったじゃないか」
 それは背筋が寒くなる程、冷たい言い方だった。
「いいえ、とんでもありません」
「しらばっくれるのか」
「いいえ」
「いいえじゃないだろう」
「はい」
「はいだと? 君は私をばかにしているのか」
「いえ、決してそんなことは」
 士郎は自分がまな板の上で転がされているような気分になった。いつ田宮の包丁が自分の脇腹に突き立てられるか知れない恐怖を感じた。士郎は無意識のうちに肘で脇腹を押さえた。
 それにしても、このまま「笑った」「笑わない」の押し問答を続けるのも苦痛だった。士郎がそう思った時、田宮の態度が変わった。頑なに守りに入った士郎に興味を失くしたのだった。
「ふん。にやけた男だな、君は」
 田宮はそう言い捨てると再び沈黙に入った。
 今度は士郎は瞑想するかのように、努めて表情を殺した。ものを考えようとするから、それが表情に出るのだ。だから何も考えないのがいい。これは教訓だ。今後田宮に立たされることがあったら、この手で行こう。士郎はそう心に刻んだ。隣の杉山を盗み見すると、杉山はもうとっくにそうしているようだった。
 士郎と杉山が田宮の前に立たされている間に、何度か内線電話がかかってきて、田宮は受話器を取って話をした。士郎は無意識のうちに聞き耳を立てていた。士郎にじっと見られて田宮は気のせいか動作がぎこちなくなった。まるで士郎と杉山が2人で田宮を監視しているように見えた。田宮は露骨に不快感を顔に表した。そしてこの持久戦から逃げ出した。椅子の背に掛けた上着を取ると、2人に何も言わずに、席を立って出て行ったのだ。
 のしのしと出て行った田宮を見送って、杉山は深い溜息をついた。
「やってられませんよ、全く」
「しかし、このまま立って待ってなきゃいけないのかな」
「まさか。加瀬係長、このまま待っているつもりなんですか?」
「どうしようか」
「私は付き合いませんからね」
 杉山は金縛りを解かれたようにぐにゃりと身体を揺らすと、うなだれて頭を掻きながらフロアから出ていった。
 士郎はその後を追った。そして杉山の背中に向かって話しかけた。
「こんなことになるとは思わなかったんだ。すまなかった」
 杉山は振り返りもせず、歩きながら答えた。
「だから言ったじゃないですか。やばいデータですから気を付けてくださいって」
「ああ。でもやばいというのは個人情報だから、外には漏らすなという意味だと思ったんだよ。迂闊だった。すまない」
 士郎が本当に申し訳なく思って謝り続けると、杉山はエレベータホールで下りのボタンを拳でドンと突き、くるりと振り返って笑った。
「普通はそう思うでしょ? でもここはトランザクション株式会社、しかも人事部人事課ですよ。常識が通用するわけがない」
「ああ、覚えておくよ」
 エレベータが到着して扉が開いた。2人は乗り込んだ。杉山は地下3階のボタンを押した。
「どこへ?」
 杉山は暗い目をして言った。
「秘密の場所です」
 杉山は士郎を恨んでいなかった。それを感じて士郎はほっとした。その時初めて田宮との持久戦に勝ったというささやかな自負の気持ちが湧いた。
 エレベータが地下3階に到着すると、杉山は薄暗い通路を足早に奥に向かって進んだ。通路の左右の所々に扉があった。薄気味の悪い陰気な場所だった。
 杉山は一番奥の扉の前で立ち止まり、その扉を力一杯蹴飛ばした。すると扉は弾んだように開き、跳ね返った。大きな音が響いたが、周囲に人の気配はなかった。
「建て付けが悪いんで、蹴飛ばすと、たわんで開くんですよ」
 杉山はそう解説した。
 部屋の中は、段ボールとかびの匂いのする、薄暗い倉庫だった。暗闇に次第に目が慣れてくると、スチールの棚に段ボール箱が並んでいるのが見えてきた。段ボール箱は棚からあふれ、床の上にも直に積み重ねられている。何段にも積み重ねられた下の箱は押しつぶされ、中の書類が露出していた。
「人事課の倉庫なのかな」
「いえ、そういうわけじゃないですよ。他の事業部も使っていますよ」
「給与関係の資料もあるんだろう?」
「ええ、もろにありますよ。一応、段ボールはガムテープで閉じてあるので、まあいいということですかね」
「ふうん。田宮部長はデータのことではあんなにうるさいのに、この倉庫は随分杜撰なんだね」
「ああ、あれですか」
 そう言いながら杉山はタバコをくわえ、火を点けた。ライターの炎が杉山のふてぶてしく気取った横顔を浮かび上がらせた。杉山はふうっと見えない煙を吐き出した。タバコの匂いが充満した。
「あれはタミ公の嫌がらせですよ。大阪の人事課にはあのデータを自由に使わせているのに、東京の人事課には絶対に許さないんですよ」
「しかし、人事課で社員のデータが使えないとなると、仕事がしづらいだろう?」
「しづらいなんてもんじゃないですよ」
 杉山はすぱすぱとせわしなくタバコの煙を吸いながら言った。
「ぼくたちが月間にいったいどれぐらいの残業をしているか、知っていますか? 控えめに申請して60時間から70時間ぐらい、でも実際にはその倍はしていますよ。毎晩10時、11時まで。もうへとへとなんですよ。残業手当なんか要らないから、もっと早く帰してくれって言いたいですよ」
「うむ。それは何とかしなくちゃな」
「どうするんですか?」
「田宮部長に話してみるよ。データを活用して、もう少し効率のいい仕事の仕方をさせて欲しいとね」
「ふっ。無駄ですよ、全くの無駄。あのタミ公がそんなことを許すわけがないでしょう。きっとこう言いますよ。君たちは地下倉庫の書類の管理さえできないくせに、大切なデータを委せられないってね。もう過去に何度もそれでやり合っているんですから。ぼくらはもうとっくに諦めましたよ」
「じゃあ、この倉庫の整理が先決だというわけだね」
「言っておきますが、加瀬係長、それも簡単じゃないですよ。ひと月の間にいったいいくつの段ボール箱が増えるか知っていますか? 1つや2つじゃないですよ」
「と言うと、いくつぐらいなんだろう?」
「15個ですよ、15個。毎月、毎月、使いもしない紙の資料を情報システムで印字させて、どうしようもないですよ。紙の無駄。時間の無駄。無駄、無駄、無駄。みんな無駄なんですよ」
「じゃあ、もう紙の資料を出すのを止めたらどうだろう。資料は全てデータでやりとりすればいいんだ。それで困りはしないんだろう?」
「もちろんですよ。もう止めてくれって、ずっと前から思ってますよ」
「じゃあ、そうしようよ」
「はん。まあ、やってみてください」
 杉山はまるでお手並み拝見とでも言うように、不敵に言った。そして短くなったタバコをコンクリートの床に投げ捨てると、ことさら乱暴に踏みつけ、蹴飛ばして棚の下に滑り込ませた。
 士郎は話題を変えた。
「ところで、田宮部長に見とがめられたあのデータ、人事部の中に田宮部長の名前がなかったんだけど、なぜだろう? 人事部直下には斉藤さん1人しかいなかったよ。もしかして田宮部長って役員なのかな?」
 すると杉山は全身で不快感を表して言った。
「まさか、あんなのが役員なわけないじゃないですか。あのデータ、副社長より下はちゃんと入っているんですよ。やつが人事部にいないのは、大阪の人事課の所属だからですよ。まだ削除していないなら大阪の人事課を見てください。タミ公の名前がちゃんとありますよ」
「大阪の人事課だって? 本社の人事部長が支社の人事課に所属しているのか? もしそうだとすれば、課のトップなんだから課長じゃないのか? それとも大阪の人事課の課長は、人事部長が兼務しているということなんだろうか」
「変でしょう? それにはちょっとしたからくりがあるんですよ。社員の所属部署を管理しているのは人事部ですからね。自分の所属を東京の人事部じゃなくて、大阪の人事課にしておくのは簡単ですよ」
「しかし、何でまた? そんなことをして意味があるんだろうか」
「大ありですよ。田宮部長は大阪から出張扱いで東京に来ているんです。そうすることによって彼は出張旅費を稼いでいるんですよ。会社からはホテル代を出させておいて、実際にはホテルに泊まらずに会社で寝泊まり。ホテル代が浮いて、結構な小遣い稼ぎになっているんじゃないですか? それに付き合わされている梅本課長やぼくたちは悲惨ですよ。ああ、本当にもう、刺し殺してやりたいくらいです」
「ああ、この間みんなが言ってた話だね。しかし、それって犯罪じゃないか」
「まさか本気で刺し殺しやしませんよ」
「違うよ。田宮部長の出張旅費の詐取のことだよ」
「やっぱり罪になりますか?」
「会社の金を騙し取っていることになる。着服、横領だよ」
「そうか、犯罪か。あの野郎、口ではとても立派なことをほざいていながら、己のやっていることは犯罪なのか。ね、加瀬係長。何とかタミ公のやつを告発できませんかね」
「できないことはないだろうけど…」
「やってください。ね、加瀬係長。やってくださいよ」
 杉山は暗闇の中で士郎の両肩に手をかけ、揺さぶった。

(5)

 深夜のレストラン「ラ・マルセイエーズ」のテーブルで、士郎と卯木は向かい合った。2人の前には、初めてこの店に来た時と同じように、赤ワインのグラスと白身魚のフライがあった。この店の料理、他はまったくだめだ。しかし白身魚のフライだけはいける。絶品と言っていい。卯木も士郎もすっかりこの取り合わせが気に入っていた。魚料理だから白ワインという発想は、2人の頭からはすっかり消えてしまったほどだった。
 ワインを飲み下し、士郎は言った。
「結局、田宮部長は折れてはくれなかったよ」
「ああ。聞き耳立てて、聞いていたよ。こうやって耳をダンボのようにしてな。おれだけじゃない。人事課のメンバーはみんなあの時、固唾を呑んで見守っていた。あの情況で田宮を説得できなかったとしても、誰もおまえを責めやしないぜ。むしろよく頑張った」
「しかしあれじゃあ、永遠に堂々巡りだよ。データを活用したいと言えば、地下倉庫の書類整理はどうなったんだと言う。紙の資料を出すのはもう止めたいと言えば、自分たちが使わないからと言って勝手に不要だと決めつけるな。今のままでは悪循環で前に進まないと言えば、大阪の人事課はきちんとできているのに、東京の人事課はなぜできない。おれたちの進むべき道が、何かあらかじめ周到に塞がれているとさえ感じたよ」
 士郎は困り果てて溜息をついた。
「ああ言えばこう言うというやつだな」
「もっとも、彼が言うのは間違ってはいないんだけどね。確かに人事課の書類整理は本当に杜撰だよ。あれではマル秘の人事情報が見たい放題だよ。だから彼の言うのが正論だとは思う。しかし現実的ではないんだ」
「そう。正論でもって妨害する。最も厄介な人種だぜ。これからどうする?」
「どうするって、どうしようもない」
「いや、まだ試してみる手があるだろう?」
「何だ?」
「地下倉庫の整理、おれがやろう」
「知ってるのか? 悲惨な情況だよ」
「おれに委せておけよ」
 卯木は自信たっぷりに言った。それを士郎は頼もしく思った。
 その後の付き合いの中で士郎が厚い信頼を置いたように、卯木は口にしたことは実行する男だった。その翌日から、卯木は毎日地下倉庫に詰めて、段ボール箱と書類の整理に明け暮れた。それがどんなに重労働であるか、昼休みに汗だくになって戻ってくる卯木の姿を見れば、容易に想像が付いた。
 卯木は根気よく地下倉庫に通った。士郎は拝むような気持ちでそれを見守った。データを活用することによって人事課の業務を効率化するためには、地下倉庫を整理するしかないのだ。それをハードルにして田宮は人事課をコントロールしようとしている。善意に捉えれば、そう考えられないこともなかった。部長と人事課の互いの信頼関係を築き上げるためには、それは避けては通れない関所のようなものだと士郎は思った。
 卯木を地下倉庫に見送るいっぽう、士郎は給与計算のフローを描くことに余念がなかった。
 トランザクション株式会社における給与は、末締めの当月25日払いだった。時間外手当と欠勤控除が翌月に精算される。ここまでは普通のやり方だ。しかしトランザクション株式会社では社員の出入りが激しいため、毎月大量に発生する退職者については、見込みの勤怠に基づいて欠勤控除を当月中に計算していた。退職者だけではない。当月入社した者も、欠勤がちな者も、少しでも給与が余計に支払われ過ぎないように、見込みの勤怠によって当月中に精算された。しかしそれはその時点での見込みに過ぎないので、実際には1日か2日の誤差が生じる。その部分はやはり翌月精算となる。いっぽう、大多数の社員に対してはこの見込みの計算は行われず、一律に満額の給与が支払われ、欠勤があった場合は翌月に精算となる。だからこの時点で給与計算のフローは2つに分かれる。見込みの計算をする者と、しない者である。この仕組みが大層複雑なものとなっていた。
 士郎はこの計算の仕組みと、そこから生じる事務作業のフローを理解しようと、枝分かれしてゆく処理の各段階でのアウトプットをたどった。これは重要なポイントだ。トランザクション株式会社での給与計算の仕組みの要とも思えた。だから士郎自らは卯木とともに地下倉庫へ降りて段ボールと格闘するわけには行かず、祈るような気持ちでそれを卯木に委せるしかなかったのだ。
 卯木が地下倉庫の整理を始めた数日後、突然のように田宮が声を荒げて言った。
「梅本課長。卯木係長はどこで何をしているんだ。このところ姿が見えないが」
 梅本は慌てて席を立ち、田宮の席へ向かいながら、恐縮し切ったように答えた。
「地下倉庫で書類の整理をしています」
 田宮は前に立った梅本にぎょろりと目を向けた。
「君が命じたのか」
「命じたと言いますか、卯木係長が自ら買って出てくれました」
「買って出てくれましただと? それがそんなにありがたいことなのか。今、地下倉庫の整理がそんなに重要なのか」
 梅本は言葉に窮した。余計なことを言って火に油を注ぐようなことはしたくない。かと言ってせっかくの卯木の発意を無駄にしたくもない。そういう梅本のジレンマが、聞き耳を立てている士郎にありありと読みとれた。
「どうなんだ。なぜ黙っているんだ。今やるべきことは地下倉庫の整理なのか、それとも別のことなのか。課長の君が答えることができないのか」
 田宮の言葉の中に残忍さが鎌首をもたげ始めた。
 梅本が答えられない理由も士郎には分かっていた。そして案の定、田宮はそこをねちねちと突き始めた。
「いったい君たちのスケジュールはどうなっているんだ。スケジュール表を見せてみろ」
 来た、と思った。その月ももう半ばだと言うのに、梅本と田宮の間でスケジュール表の決定が遅れ、その問題はとことんこじれていたのだ。
 日ごとに梅本はスケジュール表を持って田宮の席の前に立った。それに対して田宮は理不尽な言いがかかりを付け、何度も突き返した。
 ある時はこう言った。
「部下のひとりひとりに、それぞれの担当業務のスケジュールを出せと言えばすむことじゃないか。いったいなぜそんなことができないんだ?」
 しかし、梅本が言われた通りにすると、今度はこう言うのだった。
「君は部下に好き勝手にスケジュールを決めさせるのか。君が部下に仕事を命じるのではないのか。人事課の課長はいったい誰なんだ」
 時には梅本も抵抗した。
「田宮部長がそうしろとおっしゃったんじゃないですか」
 すると田宮は残忍な薄笑いを浮かべて言うのだった。
「君は課長なんだろう。主体性というものはないのか。何でも人の言いなりになって、自分は言われたままにしただけだと開き直るのか」
 全く聞くに耐えない禅問答だった。いや、言葉のひとつひとつの意味は明瞭だった。それだけを取り出せば、けだし正論とも聞こえる。しかしそれが一系列のやりとりとなると互いに矛盾し始める。しかも、問題はスケジュール表であって、スケジュールそのものではない。延々と続くスケジュール表を巡るやり取りが、人事課のスケジュールそのものををぶち壊しにしている。とはいえ、スケジュール表がなくても人事課の日々の業務は、それぞれの担当者のもとで独自のスケジュール感に基づいて、黙々と進められていたのだった。
 昨日、田宮は自分の言葉に酔ってエスカレートし、机を叩きながらこう言った。
「君たちはスケジュール表ひとつ作るのにいったい何日かかっているんだ。大阪の人事課はきちっきちっと月末には翌月のスケジュール表を送ってくるんだよ。少しは大阪の早川係長を見習ったらどうなんだ」
 聞くに耐えないと思ったのは士郎だけではなかった。人事課の部下たちは田宮に抗議するように頑なに押し黙り、皆揃って机を片づけ始めた。それは今さら残業を拒否するというものでもなかった。時刻は既に午後9時を回っていた。皆へとへとに疲れ切っていた。いつもなら10時まで居残りさせられるのを、いつもより1時間早く切り上げたに過ぎない。明日になれば消えてなくなるようなささやかな抵抗でしかなかった。それでも部下たちにとっては、それは奮い立った抗議の意思表示だった。「仕事を途中で投げ出して帰るつもりなのか」と、田宮がいつものようにと怒鳴るなら怒鳴るがいい。おまえにはもう従わない。そういう頑なさがあった。
 田宮はその人事課の抗議の帰宅を快く思わなかった。その翌日の今日になって、それを根に持った報復に出た。その矛先が卯木に向いた。
「加瀬係長。卯木係長に上がってくるよう伝えてください」
 田宮は士郎に丁寧な言葉で、しかし底から冷えるような冷たさで言った。
 士郎は地下倉庫へ降りた。薄暗い通路の先に、倉庫から漏れ出た明かりが灯っていた。
「ああ、分かった。すぐ行くよ」
 事情を説明しようとする士郎を制して、卯木は明るく言った。まるで田宮から呼ばれることをとっくに知っていたかのようだった。
「どうしたんだ?」
 その明るさを訝しんで士郎が問うと、卯木は棚に置いてあった資料の束をつかみ上げて言った。
「面白いものを手に入れたんだ。後で『ラ・マルセイエーズ』にでも行って話そう」
 卯木はその資料の束を、途中でトイレに寄って、掃除用具入れに隠しておいた。
 エレベータで上に上がると、卯木は大股に田宮の席へ行き、田宮が呆気にとられるほどの朗らかさで言った。
「お呼びでしょうか、田宮部長」
それに対して田宮は陰気に言った。
「誰が君に倉庫整理をするよう命じたんだ」
 卯木はあっけらかんとして言った。
「誰も命じません。自ら必要と思ってやりました。もちろん梅本課長の許可はいただきましたが」
 田宮は濁った目を卯木に向けた。
「君のスケジュールはどうなっているんだ」
「はい。今月の給与計算が終わったら退職者の離職票を作る予定ですが、それまでは比較的暇です」
 卯木は、隣で士郎がほれぼれとする程、堂々と答えた。田宮のような扱いにくい人間を相手にして、卑屈でない態度を取るのは、誰にとっても難しかった。しかし卯木の直情さは田宮に決して劣らなかった。それが田宮にとっては気に入らなかった。田宮は自分の貪欲や小心を、極端な直情で必死になって隠していた。卯木の生粋の直情と比べれば、田宮のそれは見劣りがするのだった。
「暇だなどと勝手なことをほざくのは止めてくれませんか」
 田宮は妙なアンバランスを含んだ言い方をした。
「どういうことでしょうか?」
「暇かどうかを判断するのは君ではないと言ってるんだ」
 田宮は声を荒げた。
 その時、卯木は意外なほどあっさりと引いた。
「そうですか。それは申し訳ありませんでした」
 田宮はそれ以上卯木を追及しようとしなかった。卯木が謝ったので、そこで満足しておく方が得策だった。その代わり、田宮は梅本課長をねちねちと攻撃し始めた。
「まだ入社したばかりで右も左も分からんような者に、君は倉庫整理を委せっきりにするのか?」
 梅本は答えられなかった。
「君たちのスケジュール表では、今日は倉庫整理となっているのか」
 そう訊かれても梅本は無言だった。
「何を黙っているんだ。君たちのスケジュール表を見せてみろ」
 梅本は鈍い動作で自席に戻り、作りかけのスケジュール表を持ってきた。
 田宮は、他ならぬ自分が承認しないために、未だに正式なものとはなっていないそのスケジュール表を、あたかも既に確定したものであるかのように振り回した。
「どこだ。どこに書いてあるんだ、今日は倉庫整理だと」
 誰もが白け切った目で、田宮の太い指がスケジュール表をつまみ上げ、振り回すのを眺めていた。田宮は物事を解決しようとして部下を問い詰めているのではなかった。その反対に、物事がまともに進まないように寸断して攪乱するのだった。そしてそのことそのものが田宮にさらに付け入る隙を与え、田宮の権力は無限に演出され続ける。部下はもはや黙り込むしかなかった。人事課のメンバーはそれをこっそりと「黙秘権」と呼んでいた。
 夕方になって、3人の沈黙はようやく田宮を諦めさせた。田宮はそれ以上士郎たちを追及しようとはせずに、早くスケジュール表を作って持ってくるように梅本に命じて、3人を解放した。
 やれやれという気持ちで士郎は席に戻ったが、卯木は気もそぞろで落ち着きがなかった。
 午後9時を過ぎた頃に、田宮は再びスケジュール表のことで梅本を責め始めた。
「いったいいつまで待たせるつもりなんだ」
 田宮の苛烈な追及の前に、梅本はそうなる運命を背負って、もはや黙り込むしかなかった。その様子を見て、人事課の社員たちはまたもや帰り支度を始めた。昨日と全く同じだった。
 卯木が士郎の耳元で囁いた。
「見せたいものがあるんだ。面白いぜ。『ラ・マルセイエーズ』へ行こう」
 1階のエレベータホールで部下たちと別れ、卯木はわざわざ階段で一旦地下に降りた。そして地下3階のトイレの掃除用具入れに隠しておいた資料の束を回収すると、再び地上の出口からビルを出た。レストラン「ラ・マルセイエーズ」に着いた時は、まだ10時にもなっていなかった。
 赤ワインと白身魚のフライを頼んでおいて、卯木は早速話を始めた。
「聞いて驚くなよ。田宮のやつ、大阪の人事課の早川係長とできてるらしいぜ」
 士郎はきょとんとして聞いた。
「できてるって?」
「ばか、決まってるじゃないか。男と女の関係だよ。しかも不倫だぜ」
「おいおい。唐突だな。何でそんな話が出てきたんだ?」
「おれが地下倉庫にこもって作業していたら、人事課のメンバーが入れ替わり立ち替わりやってきて、いろんなことを教えてくれたんだ。本当に入れ替わり立ち替わり、まるでみんなで示し合わせて順番を決めたみたいにさ」
「ふうん」
 士郎はその様子を思い浮かべながら、卯木が楽しそうに言うのを聞いていた。
「しかし、みんなおれたちに相当な期待をしているぞ」
「期待?」
「そう。おれたちは救世主なんだとさ。人事課荒野にパラシュートで降りてきた救援部隊ってわけさ」
「へえー、おれたちが? たった2人で?」
「いいことを教えてやろう。おまえが入社初日に朝礼で言ったこと、相当な波紋を呼んだらしいぜ。もちろん、いいことを言ったって意味だがね」
「ああ、あれか? 普通の人が普通に努力をすれば、必ず成果が上がると信じているって言った?」
「そう。トランザクションも人事課も、相当異常なようだぜ。みんな思ってる。普通になりたいって」
「ああ。異常だというのは分かるよ。不必要なテンションがかかり過ぎだよね。しかもつまらないことに」
 士郎がそう言うと、卯木はにやりと笑った。
「その通り。そこで田宮と早川の関係なんだ。この資料を見ろよ」
 卯木は封筒の中から例の紙の束を取り出した。
「全く無防備だよな。こんな重要な機密資料が段ボールに詰められて、平気で放置されているんだからな」
 卯木が最初に示したのは、東京と大阪の人事課の社員たちの人事考課のデータだった。点数がリストになって印字されている。
「こっちが東京、こっちが大阪。まあ、見比べてみろよ」
 士郎は卯木からリストを受け取って、しばらく見入った。
 まずは東京の人事課の分だった。
「梅本、85点。杉山、87点。中川、92点。末永、98点…。ふうん。みんなそこそこいい点数が付いてるじゃないか」
 士郎がそう言うと、卯木は大阪の人事課分のリストを指して促した。
「じゃあ、こっちを見てみろよ」
 士郎は今度は大阪の人事課の分を見た。
「早川、115点。遠藤、113点。亀谷、103点…。何だ、こりゃ? 100点満点じゃないのか?」
 卯木はにやりと笑った。
「みんなが口々に、田宮部長は大阪の人事課をえこひいきしているって言うもんだから、本当かどうか調べてみたんだ。そしたらこの通りだよ。その点数はパーセントだと思えばいい。梅本課長は立場と役割に対して85パーセントしか貢献していない。早川係長は115パーセントの貢献をしている。そういう意味だ。課ごとの平均は本来100パーセント。そのことはこの人事考課の手引書に書いてある。まず部門評価っていうのがあって、課ごとに昇給率や賞与の掛け率が決まる。その次に個人評価で差を付ける。そして社員ひとりひとりの最終評価は、部門評価と個人評価の掛け算で計算される。そういう仕組みなんだ」
「しかし、課ごとの平均は100パーセントって言ったけど、これはそうはなっていないよ。どう見ても東京の平均は91か2。いっぽう大阪の平均は110近い。変だな」
「そこなんだよ。東京の人事課と大阪の人事課は既に部門評価で差が付けられている。だから個人評価でさらに差を付ける必要はない。個人評価の役割は課内の偏差だ」
「すると、田宮が東京の点数を削って、大阪に足したって言うのか?」
 士郎がそう言うと、卯木はにやりと笑った。
「他に何がある?」
 それに対して士郎は苦笑した。
「あのこわもての田宮部長が可愛いもんだね。自分の女の点数を高く付けて喜んでるなんてさ。しかもそれは東京の人事課のみんなが知ってるわけだ。いい歳して恥ずかしくないんだろうかね」
「恋は盲目なんて言うじゃないか。しかし大阪の早川係長ってのはどんな顔してるのかね。見てみたいもんだぜ。聞くところによると、色白でぽっちゃりした、可愛らしい女だなんて言うんだが、本当かね。写真か何かないもんかな」
「あの田宮と関係を持つっていうんだから、相当な玉じゃないのかな。しかも不倫なんだろう? しかし田宮なんかのどこがいいのかね。理解に苦しむよ」
「きっと田宮のやつ、精力絶倫なんだぜ」
「あの男のそんな姿は、ちょっと想像したくないな」
 卯木は他の資料も見せた。
「これなんか笑えるだろう? 『超・超・超・超非常事態宣言!』だってさ。何年か前の役員会の資料だぜ」
「ふうん。随分扇情的な資料だね。危機感を煽って難局を乗り切ろうっていうわけだ。いったいその頃何があったんだろうね。しかし現場がこうなら分かるが、役員会だろう、これは?」
「地下倉庫で聞いた話なんだが、このころ、『百日戦争』ってのがあったらしいんだ」
「『百日戦争』?」
「社長が言ったんだと。『おまえら、これから百日間、休み無しで働け』ってさ。そのひと声で、地獄のようなしごきが社内で始まったんだとさ」
「へえ。あの社長、ぽっちゃりした童顔で、いかにも人がよさそうな気がするけど、それは意外だな」
「どうしてどうして。そこはやっぱりオーナー社長だよ。これも地下倉庫で聞いた話だが、あの社長、秘書に足の爪を切らせていたらしいぜ」
「足の爪?」
「ソファーの前に秘書を跪かせてさ、胸にこう足を抱かせて、爪を切らせるんだとさ。足先がおっぱいに触れて、いかにも卑猥な様子だったってよ」
 卯木はそういいながら、反らせた胸の辺りで爪を切る真似をした。
「おぞましい話だよ。時代錯誤を感じるね。オーナー社長なんてろくなもんじゃないね」
「これを見ろよ。それ以来、こんなのが常態化してるんだぜ」
 卯木は別の資料を見せた。それは本社の社員の名前が並ぶ予定表だった。
「こうやって週末ごとに全社員の休日の予定を訊くんだよ。『勤務出勤ですか、それとも任意出勤ですか』ってね。これやってるの、うちの梅本課長だぜ」
「勤務出勤とか任意出勤って、何のことなんだろう?」
「ぶっちゃけた話、本当に休日出勤扱いなのが勤務出勤。そうならないのが任意出勤。任意出勤の場合は社員が勝手に出勤しているんだから、会社は休日出勤手当は払わないっていう意味らしいんだ。しかし、こんなのありかよ」
「驚いた。そんな無茶苦茶なことをしているのか。それはちょっと酷いね。人材開発部の井畑副部長なんて、毎週任意出勤で、休みは1日も取ってないよ。いや、井畑副部長だけじゃない。ほとんどの社員は土日に出ても、全部任意出勤じゃないか。勤務出勤なんて数えるほどしかないよ」
「井畑さんの場合はどうしようもないな。彼女は川島常務のお膝元だからな。相当なプレッシャーがかかっているんだろう。しかしこんなことをいつまで続けるつもりなのかね。違法だろう?」
「ああ。訴えられたら大変だよ。会社としては本人が自由意志で任意に出勤した、業務命令は出していないなんて言うんだろうけど、そうするように社員に圧力をかけたとか、黙示の指示があったとかって見なされるよ。まずもって事業として異常だよ。歪んでる」
 卯木はそれを聞いて、士郎と見解が一致したので安心したのか、満足げに肩の力を抜いた。そして言った。
「な? やっぱりトランザクションは奴隷制の会社なんだぜ。川島なんかが必死になって『うちはアウトソーシングの歴とした情報処理サービス業なんや』なんて言うのは、その実態を隠したいからさ」
 卯木はそれだけ言うと、満足げに口を閉じた。

(6)

 初めての給与計算は、結局わけの分からないまま終了した。事前に蓄えていた作業のフローに関する机上の知識など、何の役にも立たなかった。部下たちはそれぞれが思い思いに作業を進め、士郎のところには何の報告もなかった。だから、終了したばかりの計算が正しいのかどうか、測ってみる尺度が何もなかった。
 士郎は不快な気分になった。それは自分が埒外に置かれていると感じるからだ。部下たちは士郎に対して垣根を作り、その中の閉じた世界で動いている。このままではそれをコントロールできない。給与計算に関する限り、この人事課の仕事の仕方は、まるで昆虫だ。神経節で動いているに過ぎない。中枢神経が働いていないのだ。その働いていない中枢神経が、要するに自分だ。そう考えると士郎はますます不快な気分を募らせた。
 いやな予感が最初からあった。しかし実際に火を噴いたのは、全く予想外のことだった。
 給与支給日の前日となるその月の24日、経理部から多額の現金が出た。給与を現金で支給する社員たちの分である。百数十名分、2,000万円程度あった。現金でと言っても、本当に現金を手渡しで支給するわけではない。結局は給与支給日の朝、銀行のATMを使って振り込むのだ。通常の社員であれば、情報システム室で作成する給与振込用のフロッピーディスクにデータが入っている。そのフロッピーディスクは、社員の給与振込口座のある各銀行に、支給日の4営業日前に届けられる。しかし現金支給者のデータはそこから除外しておき、ぎりぎりまで振込を保留にしておいて、何かあった時に即座に支給をストップできるようにしておくのだった。
 フロッピーディスクでの振込によらず、そうやって当日の朝ぎりぎりにATMで振り込むのは、その月の退職者、入社者、欠勤がちな者、そして給与の一部に何か疑義があって少しでも時間稼ぎをして追及しようとする対象者だった。毎月そういった対象者が100名以上は発生する。その中の大半は退職者である。退職者の給与をぎりぎりまで保留しておくのは、トランザクション株式会社の給与が月末締めの当月25日払いであり、どうしても見込みで給与計算をしなければならないためである。予定外の欠勤でもあれば、次月に精算しなければならない。その時退職者は会社が払い過ぎた給与を返却せず、踏み倒すかもしれない。トランザクション株式会社では、退職者は会社への恩を仇で返す不埒者という扱いだったので、そういったことに不信の目を向けて、あらかじめ対策を講じてあるのだった。
 経理部から現金を受け取った杉山は、他のメンバーとともに会議室にこもって翌日のATM振込の準備をした。現金を数えて封筒に詰め、対象者の給与振込の口座番号を書いておく作業だった。
 この作業には士郎も参加し、給与支払の実務の一端を体験してみた。その中で士郎は、杉山という男が、作業の手際がよくて細かな点にもよく気の付く、有能な人材であることを認めた。反面、杉山には大所高所から物事を見ることができないのと、自分を客観視することができないという欠点があることも知った。
 作業は順調に進んだ。それとともに士郎の不安は小さく縮んでいった。細心の注意を備えた杉山のことだ。給与計算の中にそれほどのミスがあるとは思えなかった。翌朝、士郎は安心して、杉山たちが封筒に小分けにした約2,000万円の現金を持って銀行に向かうのを見送った。
 事態が火を噴いたのはその時だった。
「加瀬係長」
 田宮が士郎を呼んだ。
 士郎は「はい」と答えて田宮の席の前に立った。
「小柳さんの給与はどうなっていますか」
 田宮は比較的穏やかに言った。その穏やかさに士郎は油断した。
「はい。彼女は今月の15日付の退職でしたから、日割で給与が払われているはずですが」
 その途端に田宮の目つきが変わった。
「はずですというのは何ですか」
 士郎は慌てた。
「申し訳ありません。すぐ確認します」
 士郎はキャビネットの扉を開け、放り込まれたように斜めに横たわっている給与明細の控のファイルを取り出した。このファイルが数ある給与関係のファイルの中で最も分厚い。厚さは20センチほどある。1ページに2人分しか印字されていないからだ。その中から人事課の小柳のページを見つけだし、ぐいと広げるとファイルの留め金が弾けた。
 小柳の給与は間違いなく日割されていた。退職日がその月の15日だったので、給与は半分の額である。士郎はほっと安心して田宮の前に立った。これでもし日割がされておらず、満額の給与が払われでもしていたら、それこそ大騒ぎになるところだった。
 田宮は士郎から重いファイルを受け取り、乱暴に机の上に置くと、裂けるほどに力を込めて押し広げた。そしてしばらく無言で小柳のページを眺めた。
 士郎の胸はまだどきどきしていた。そして田宮が次に言った言葉がそれに追い打ちをかけた。
「何ですか、この有休5日というのは」
 田宮はぎろりと剥いた目を士郎に向けた。
 士郎は答えに窮した。何ですかと訊かれて答えられるような代物ではなかった。有給休暇は有給休暇である。まさか有給休暇の定義を聞かれているわけではあるまい。士郎は沈黙した。
「小柳さんの給与は、現金にしてあるんでしょうね」
 田宮は冷たく言った。
「はい。昨日、現金で経理部から出してもらって、先ほど杉山君たちがATMで振り込むために銀行へ持って行きました」
 その時である。田宮は机を叩いて士郎を怒鳴りつけた。
「ばか者っ。全員呼び戻せっ」
 士郎はどぎまぎした。田宮が何を問題にしているのかまるで分からなかった。
 田宮はさらに怒鳴った。
「何をもたもたしているんだっ。さっさと呼び戻さないかっ」
 士郎はとっさにエレベータに向かって走り出そうとした。
 その背後から田宮は罵声を浴びせかけた。
「君が使い走りに行くのかっ。斉藤にでも行ってもらえばすむことだろう。少しは考えたらどうなんだっ」
 士郎はもはや田宮に言われるままだった。田宮の口から自分の名が出て、斉藤瑠璃子が席を立った。士郎は斉藤に目で頼んだ。斉藤はこっくりと頷くと、小走りにエレベータホールへ向かった。
 杉山たちが戻ってくるまでの間、士郎は必死になって考えた。しかし目の前の事実関係の中に、田宮が怒鳴り散らすほどのものが見つからなかった。
 田宮は士郎を怒鳴りつけた後、困惑して立ちつくしている士郎には目もくれず、何食わぬ顔で何か他の仕事をしているようだった。
 しばらくすると杉山たちは、いったい何事だと言わんばかりの不服そうな顔をして戻ってきた。何が起こったのかわけが分からず、とりあえず周囲を見回しているいる杉山たちを、田宮は一喝した。
「君たちはいったい何を勝手なことをしているんだっ。退職者の給与は何のために現金にしているんだっ。それがいつから見境なくATMで振り込んでいいことになったんだっ」
 杉山は自分が何を責められているのか分からず、ぽかんとした顔つきで田宮の顔をまじまじと見つめた。そして、おずおずと言った。
「いったい何のことをおっしゃっているんでしょうか?」
 この言葉が田宮の怒りの炎に油を注いだ。
「何のことじゃないだろう。小柳だ。小柳の見込勤怠を出せっ」
 杉山はいきなり田宮に居丈高に言われてむっとしながらも、寺島に目配せして小柳幸子の当月分の勤怠表を出させた。
 それを田宮は受け取り、パンと指で弾くと、底から震え上がりそうになるような凄みを効かせて言った。
「これはいったい何だ、え? この有休5日というのは。いったい誰がこんなもの認めたんだ」
 杉山はむっとして黙り込んだ。それを見て田宮は勝ち誇ったようにさらに言った。
「小柳のこの勤怠表には梅本課長のハンコすらない。課長が承認しないものがなぜ勝手に処理に回されるんだ。杉山君、君はいったい何様なんだ。梅本課長よりも君の方が偉いのか。思い上がるのも程々にしないか」
 途端に杉山の形相が変わった。杉山は反論した。
「その勤怠表は小柳さんが梅本課長に提出したものです。私はそれを梅本課長からいただきました」
 この時士郎は、田宮の旗色が悪くなったと感じた。しかし田宮はいっこうに動じず、さらに凄みを増して言った。
「では君に訊ねるが、どうしてそれが私のところへ来ないんだ。なぜ君たちの手許にとどまり、なぜ私の承認も無しに勝手に処理が行われるんだ。勝手に処理を進めるのは止めてくれと、私はこれまで何度君たちに言ってきたんだ。もういい加減にしてくれないか。頼むからもっとまともな仕事をしてくれよ」
 田宮はそういいながら、わざとらしい溜息をついた。
 杉山は表情を硬くして沈黙した。
 今度は田宮が攻勢に立った。
「だいたいだな、入社して半年やそこらで辞めるような社員が、何を生意気に有給休暇なんだ。有給休暇っていうのは、社員がリフレッシュして、いっそう仕事に励むためのものなんじゃないのか。つまりは継続して勤務することが前提なんだよ。入社早々、ろくに仕事もしないうちに辞めるような給料泥棒に、そもそも有給休暇なんて必要あるのか」
 それを聞いて士郎は慌てた。田宮はどうやら小柳の有給休暇を認めないつもりなのだ。退職間際に消化した5日間の有給休暇を、今から修正して欠勤として扱うと、そう言い出すつもりなのだ。士郎にはそんなことは承服できなかった。
「田宮部長、それはまずいです。法律上有給休暇は会社の承認無しに成立します。だからこの有給休暇、たとえ梅本課長のご印鑑がなくても、本人が書類に残している以上、支払わなければ後々問題が生じる恐れがあると思いますが」
 田宮はぎろりと士郎を睨み付けた。
「誰が法解釈のことで君の講釈を聞きたいと言ったんだ。君はお偉い学者先生のつもりなのか。はいはい、君のご高説はありがたく賜っておくよ。しかしな、会社には会社の言い分というものがあるんだよ。不満があるんなら、裁判所にでもどこにでも訴えて出ればいい。それを何だ。君は判決が出る前から会社に非があると決めてかかるのか。うちの会社が顧問弁護士の先生にいくら払っているのか知っているのか。君はその顧問弁護士の先生よりも偉いのか。いったい君は何様のつもりなんだっ」
 そう怒鳴ると田宮は机を叩いて士郎を威嚇した。
 そこまで言われれば士郎も従わざるを得なかった。いや、驚きのあまりそれ以上の反論ができなかったと言うべきか。田宮は開き直ったのだ。たとえ法に触れようとも、裁判で負けない限り平気なのだと。それも理屈なのかもしれない。
 しかし士郎は大いに疑問に思った。たかだか数万円の金を巡って、人事がこんなふうに退職した社員に喧嘩を売って、いったい何のメリットがあると言うのか。いくら人件費を節約できたとしても、それ以上のものを失うとすれば、会社にとっては何のメリットもない。むしろ毎年800人にも上る退職者を会社の敵として世間に解き放つのであれば、後々手痛いしっぺ返しを食うに決まっているのだ。
 杉山はこのやりとりにうんざりして、小柳の給与の入った封筒を梅本に預けると、残りのメンバーを引き連れて、振込の続きをやりに銀行へ戻って行った。
 士郎は後に残され、やむなく小柳の給与の再計算に取りかかった。
 結局小柳の給与はさらに半分になった。表計算ソフトで作ったその計算書に基づいて士郎は経理伝票を切り、梅本に承認を求めた。
 梅本は即座に承認印を押し、田宮の席に立った。
 田宮はそれに一瞥をくれると、そこに置いておけとでも言うように、むっつりとして顎先をしゃくった。
 そこで昼休みとなった。
 銀行から戻ってきていた杉山は、田宮の目を盗むようにこっそりと士郎を食事に誘った。そこへ卯木も加わり、3人で一緒に食事に出かけた。
 卯木ははしゃいだように陽気に言った。
「いや、面白いものを見せてもらったよ。会社の人事部ってのがいかにして社員をなぶり者にするか。世間じゃあんなふうにして人事部が強権を振るうんだね。おれはずっと自営の手伝いだったから、知らなかったよ」
 士郎は苦々しく言った。
「まさか。人事部が社員と敵対するなんて愚の骨頂だよ。あんな小競り合いみたいなことで、退職者に好んで喧嘩を仕掛けるなんて、ほんとに危険なことだよ。退職者の恨みを買っても、会社には何の得もないはずなんだけどね」
 すると横から杉山が言った。
「小柳さんの場合は特にタミ公のやつに目をつけられていましたからね。彼女は人事部の業務をシステム化するために採用されたSEなんですよ。SEの人って物事を論理的に整理して考えようとするじゃないですか。それが田宮部長は気に入らなかったんですよ。何かっていうと、小柳さんに因縁を吹っかけて、困らせてましたよ。でも小柳さんも負けなてなかった。彼女もぶち切れて、タミ公に対して戦闘モードに入っていましたからね」
 それを聞いて卯木は吹き出した。
「じゃあ田宮のやつ、それを根に持って、腹いせに彼女の最後の給与を削ろうとしたわけか。世の中なんて結局そんなことで動いているものなんだな。一部上場が聞いて呆れるぜ」
 近くの定食屋でテーブルを囲んだ時、眉根を寄せて杉山が言った。
「でも、小柳さんの給与、あれでよかったんですか? あれじゃあ、まずいんでしょ?」
 その言葉には士郎を責める調子が含まれていた。なぜもっと小柳を守って田宮に抵抗しなかったのか、と。だから士郎は言い訳するように言った。
「あそこまで言われちゃあ、どうしようもないよね。こんな不公正なことやりたくないけど、かと言って、ここで田宮部長と喧嘩するわけにも行かないよ。仕方がないから、小柳さんには後で電話しておくよ」
「じゃあ、社内の電話を使わない方がいいですよ。タミ公のやつ、社員の電話に聞き耳を立てていますから。地下一階に駐車場があるでしょう? あそこに公衆電話がありますから、そこからかけてください」
 杉山はそうアドバイスした。
 午後になって士郎はトイレにでも行く振りをして、杉山のアドバイス通り地下の駐車場の公衆電話から、仙台の小柳の実家に電話した。母親が電話に出て、小柳に取り次いでくれた。
 小柳は会社を辞めてせいせいしているといったふうで、いたって元気そうだった。しかし士郎の話を聞くと声の調子が皮肉っぽく変わった。
「さもありなんってところね。どうせそうなるとは思っていたわよ。言い出したのって田宮部長でしょう?」
「よく分かったね」
「当たり前よ。加瀬さん。あなた、そこをどこだと思っているの? トランザよ。私だって半年そこにいたんだから。トランザでは退職者は有給休暇を諦めてすごすごと辞めていかざるを得ないことぐらい知ってるわよ。だから10日ある有給休暇のうち、慎ましく半分だけ消化しようとしたのに、それさえ通らないのね。しかも梅本課長にはちゃんと承認もらってたのよ。でも、いいわ。諦めるわよ。加瀬さんを責めても仕方がないんだもの。それにここで揉めれば、1円も振り込まれなくなっちゃうわ。勤務の事実が未確認だとか何とか言ってね。それより私は早く新しい人生を始めたいのよ。トランザのことなんかきれいさっぱり忘れてしまいたいの」
「申し訳ない。許して欲しい」
 士郎は情けない気持ちで小柳に詫びた。小柳は
「加瀬さんが悪いんじゃないわよ」
 と言ってくれたが、それでも繰り返し詫びた。
 その後、田宮は士郎が切った小柳の給与再計算の伝票に、なかなかハンコを押そうとしなかった。午後2時を過ぎた頃には、士郎はじりじりとし始めた。遅くとも2時半には伝票を経理部に提出しなければ、3時までの振込に間に合わない。
 ようやく田宮が伝票に捺印して梅本を呼びつけたのは、午後2時半を少し回った頃だった。梅本はそれをそのまま士郎の席へ持ってきた。
「大丈夫ですか、間に合いますか?」
 梅本はこの騒動の言い訳をするかのように言った。
 士郎は席を立って歩き出しながら答えた。
「経理にはあらかじめお願いしてあります。すぐに現金を出してくれるように」
 経理部の席は人事部の隣の並びだった。士郎が伝票を持ってくるのを待ち受けていた経理部の鷹山係長は、士郎が近づいてくるのを見て、既に金庫を開け始めていた。
 金庫がガチャリと開いた時、士郎は安堵の息を吸って、人心地がついた。何とか3時までの銀行振込に間に合いそうだった。仮に間に合わなくても、小柳に対する給与の支払いが一日遅れるだけである。しかしそれは給与の遅配であり、担当者としてのプライドをかけて避けなければならないものだった。
 鷹山はあらかじめ士郎から聞いていた金額を、既に封筒に詰めて準備してくれていた。士郎とほぼ同年代で、3人の子どものいる、髭の剃り跡の青々としたこの男は、それ以降も何かと士郎をピンチから救ってくれることになる。
 士郎はその封筒を受け取ると、中身も確認せずに受領印を押した。ここまで来ればトラブルの要因はどこにもなかった。早く振込をすませて、こっそりと小柳に電話してやりたかった。そして肩の荷を下ろしたかった。
 時刻は2時40分だった。銀行まで5分、ATMの操作に5分、それぞれ多めに見積もっても、余裕がある。しかし、もし、ATMに順番待ちの列ができていたら? アウトだ。だから銀行までは走った方がいい。それで数分稼げる。士郎はフロアから飛び出そうとして小走りに1、2歩踏み出した。
 その時である。
「加瀬係長」
 と、田宮が呼んだ。
「どこへ行くんですか」
 田宮は怪訝そうな表情を作って士郎の行動を遮った。
「再計算した小柳さんの給与を振り込みに、銀行へ行って参ります」
 士郎がそう答えると、田宮は息を大きく吸い、肩を怒らせ、しかしとぼけた口調で言った。
「そんなこと誰が指示したんですか」
 士郎は面食らって一瞬黙った。
「聞こえませんか。誰が指示したんですかと訊いているんだ」
「いいえ、別に誰の指示でもありませんが」
「ではなぜ勝手に行くんですか」
 その問いに士郎はますます困惑した。
「なぜと言われても困りますが、むしろ振り込まねばならないと思っていますが」
「そんなことが必要なんですか」
 士郎は田宮がこの問答で何を導き出そうとしているのか、皆目見当が付かなかった。だからこう言うしかなかった。
「ええ、必要だと思いますが」
 士郎が自信なさげにそう答えた時、田宮の声の調子が変わった。
「ふん。君もおめでたい男だな。そういうのを泥棒に追い銭と言うんだよ」
 士郎はぎょっとした。小柳のこの給与、田宮は払わないと言うのだろうか。いくら何でも無茶苦茶だ。士郎はそう思って、小柳の給与の入った封筒を強く握った。士郎の手の汗がじっとりと封筒に染み込んでいた。
「払わないとおっしゃるんでしょうか?」
 士郎はおずおずと訊いた。その途端に田宮は机を叩いた。
「誰がそんなことを言ったんだっ。私は振り込む必要があるのかと言ったんだっ」
「しかし」
「しかし、何だ」
「うちの給与支給は銀行振込によると、給与規程にもうたってありますが」
「君は本当に都合のいい人間だな。ある時は労働基準法、ある時は給与規程。都合よく根拠をころころ変えるのか」
「いえ、そんなつもりはありません」
「つもりがないだと? だったら労働基準法、賃金の5原則を言ってみろっ」
「はい。賃金は通貨で、直接本人に、月1回以上、一定の期日を決めて、全額支払う」
「そうだろう。それぐらいは知っていて当然だ。だったらそれに従えよ」
「え?」
「え、じゃないだろう。直接本人に通貨で払えと言っているんだ」
「つまり取りに来させろと?」
「それ以外にどうやって手渡すんだ。こちらから持って行ってやるとでも言うつもりなのか」
「いいえ。しかし彼女は今、引っ越して、実家の仙台にいるんですが、それでも取りに来させるんですか」
 士郎があまり食い下がるので、田宮は仏頂面で言った。
「そんなこと会社の知ったこっちゃないだろう」
「もう一度確認させていただきますが、振り込むことはならないと、そうおっしゃっているんでしょうか」
「君もくどいね。君がもし小柳のように入社して半年やそこらで逃げ出すような給料泥棒に、ご親切にもわざわざ給与を振り込んでやろうなんて本気で考えているんなら、この仕事に対する自分の適性を考え直した方がいいんじゃないのか。いいかね。小柳を採用するのにいったいいくらかかっていると思うんだ。あんな中途半端なSE1匹採用するのに、会社が人材紹介会社に払った金は10万や20万では効かないんだよ。君はそんなことも知らずに、人事をやってきましたなどとほざくつもりじゃないだろうな」
 田宮はそうやって士郎を責め立てながら、得意の絶頂へと上り詰めていった。
 士郎は田宮が「1匹」と言ったのを聞いて、自分の耳を疑った。これはその後も田宮が好んで用いる言い方のひとつだった。この時初めて田宮がこの言葉を口にするのを聞いて、士郎は全身の力が抜けていくのを感じた。目の前のこの男はいったいどういう人間なのか。悪意に満ちた邪悪な人間なのか、それとも愚かな世間知らずなのか。
 士郎はこれ以上田宮と議論してもどうにもならないと考え、田宮の指示に従って現金の入った封筒を経理部の鷹山に返した。
 鷹山は溜息を吐きながら言った。
「またですか。入社したばかりの加瀬係長に言っても気の毒ですけど、あんまり阿漕なことをやってると、いつか罰が当たりますよ」
 士郎は思わず聞き返した。
「またですかとは?」
「こうやって退職者の給与を金庫に入れて、2年間寝かしておくんですよ。給与の時効は2年間ですから、2年経ったら会社のものだというわけです。一旦現金で用意した以上、会社は給与を支払った。本人がそれを取りに来なかっただけだとね。しかし場合によっては、北は北海道、南は沖縄から、わずかばかりの給与のために誰が東京までわざわざ出て来ます? 下手すりゃ交通費の方が高いですよ。こういう嫌がらせみたいなやり方で人件費をけちったところで、失うものの方が大きいと思いますよ」
 鷹山が言うのを聞き、士郎はその通りだと思った。鷹山は健全な考えを持った、信頼に値する人物である。この鷹山を前に、田宮に強要されたからとはいえ、士郎は自分の行為を大いに恥じた。そして鷹山が次のように言った時、士郎はそれに衝き動かされて行動を決意したのだった。
「それでも会社に返すようになっただけ、まだましではあるんですけどね。昔はこうやって退職者からせしめた金で、平気で飲み食いしていたと聞きますからね、人事部の皆さんは」
 鷹山はそう言いながら金庫を閉めた。
 士郎は居ても立ってもいられなくなった。
 その時士郎が企てた行動は猿芝居に過ぎない。まず小柳の給与を士郎が立て替えて振り込み、後から領収書を郵送してもらって、それと引き替えに経理から小柳の給与を受け取るのだ。田宮には小柳がわざわざ仙台から給与を受け取りにやって来て直接手渡したと、虚偽の報告をすればいいのだ。いくら田宮でも本当に小柳が来たのかどうかまでは疑わないだろう。
 そのことを打ち合わせておくために、士郎は再度小柳に電話した。
 小柳は事情を聞くや、士郎の申し出を言下に拒否した。
「いくら何でも酷いわ。あの田宮ってのは何様なのよ。人を何だと思ってるの? いいわよ。そっちがその気ならこっちにだって考えがあるわ。労働基準監督署に通報して、赤恥をかかせてやるわ」
 小柳の勢いに士郎は呑まれた。その士郎をも、小柳は責めた。
「加瀬係長も加瀬係長よ。そんな下手な芝居を思いついて、得意げに電話してくるなんて。なぜ田宮なんかの横暴を許しちゃうの? なぜもっと抵抗しないの? あの田宮がそんなに怖いの? どう考えてもおかしいわよ。異常よ。退職者に給与を払わないなんて、法律違反じゃないの」
 士郎には返す言葉がなかった。息苦しい沈黙の後でやっと口にしたのは、本当につまらない言い訳だった。
「いや、まずは給与を確保するのが先決かと思って…」
 小柳は激怒した。
「ばかにしないでよ。いくら失業中の身とはいえ、そんなにお金に困ってるわけじゃないわ。それに、たとえお金に困っていたとしても、お金のためだけに生きてるわけじゃないわよ。あなた、私がお金をもらいさえすれば大人しく黙るだろうとでも思ってるの?」
 電話を切った後、士郎の気分は沈んだ。小柳の言う通りだった。田宮が怖くて表面上は彼の指示に従った振りをし、物事をうまく丸め込もうと思ったのだ。小柳が怒るのも無理はない。士郎は恥ずかしくて消え入りそうだった。
 小柳の行動は素早かった。翌日の午前には田宮を指名して、三田労働基準監督署から電話がかかってきた。
 怪訝そうな顔をして電話に出た田宮は、声を潜めて相手と話した。時々自分の主張を押し通そうとして声を荒げたが、すぐに低いトーンに戻り、終始相手に押されているようだった。
 電話が終わった後、田宮は士郎を呼びつけた。そして冷やかに言った。
「昨日小柳さんに電話しましたか」
「はい。給与を現金にしてあるので、取りに来るように言いました」
 士郎がそう言うと、田宮は顔を背けて舌打ちした。
「全く余計なことを」
 士郎はそれには答えず、じっと田宮の顔を見ていた。
 田宮は士郎の顔を見ようともせず、横を向いたまま冷たく言い放った。
「小柳さんの給与、再計算を取り消して、もとの金額で、すぐに銀行で振り込んできてください」
 言葉は丁寧だが、士郎に対する敵意が込められていた。
 それに反撃するように、士郎はわざと驚いた顔を作ってちくりと田宮を刺した。
「は? よろしいんですか?」
 それには田宮は答えなかった。士郎を無視して、仕事を再開する振りをした。
 それにしても小柳の取った行動は見事だった。この勝負、小柳の圧倒的な勝ちだ。田宮は士郎に対しては机を叩いて罵倒したが、国家権力を相手にはそこまで頑張れるものではなかった。小柳は嘆きもせず、わめきもせず、ピンポイントでそこを突いた。そして見事に田宮の虐待を跳ね返した。
 士郎は小柳の立ち姿を見習うように、背筋を伸ばして、悠々と銀行へ向かった。

(7)

 その後も田宮は日常の業務のひとつひとつに介入してきた。田宮の介入の仕方は、物事が前に進むのを妨害し、まるで自分のネガティブな影響力に悦に入っている感があった。業務の基本的な道筋を示すでもなく、かと言って何か具体的な指示を出すでもなく、ただ処理結果にけちを付けて士郎たちを困惑させるのだった。その結果、士郎が思いもしなかった新しいルールが次々とできていった。それを士郎たちは密かに「田宮ルール」と呼んだ。
 その中のひとつに住宅手当の中断を定めるものがあった。これは後々まで大いに士郎を悩ませた。その発端は次のようなものだった。
 ある若い男性社員が住所変更届を提出してきた。元々自分で部屋を借りていたのだが、新たに別の物件を借りて引っ越したのである。この書類は住宅手当の申請も兼ねている。しかし、この社員は従来から住宅手当の支給を受けていたので、引っ越したからと言って手当に何ら変わるところがなかった。トランザクション株式会社の住宅手当は、賃貸であろうと持ち家であろうと、有家族者が2万円、独身者が1万円である。
 ただし賃貸契約や登記の名義が本人であることが条件なので、それは契約書や登記簿謄本の現物で確認することになっていた。そしてその社員の申請書には課長の梅本の確認印が捺印してあった。士郎の目にはこの申請書は正しく手続きされたものと映った。
 そこへ田宮からストップがかかった。
「この処理はこれでいいんですか」
 田宮は士郎を呼びつけてそう訊ねた。最初は不気味なほど丁寧な物言いだった。
 士郎は頷いて答えた。
「はい。問題ないと思いますが」
 その答えが田宮の機嫌を損ねた。
「思いますなどと、そんな言い方をせんでください。君にはこの問題を判断するような権限はない」
 士郎は慌てた。
「申し訳ありませんでした」
 この時点で士郎にはまだ田宮が何を問題にしようとしているのか、皆目見当が付かなかった。士郎は不安に駆られながら、覗き込むようにして田宮の手許の書類を一心に見た。
 田宮は再度言った。
「で、この申請書の処理は、どうなっているんですか」
「はい。元々1万円の手当が付いていて、引き続き1万円ですから、処理的には何もしていません。従来からの条件の継続です」
 士郎がそう答えると、田宮は不満げに首を傾げて、士郎に無言の圧力をかけた。
 田宮にじろりと一瞥されて、士郎は口ごもった。
「何かまずい点があるでしょうか」
「気が付きませんか」
 田宮は冷ややかにそう言って、申請書を士郎の手に返した。
 士郎はもう一度その書類を点検した。しかしどこにも不審な点を見つけることができなかった。
「どこがまずいのでしょうか」
 士郎がそう訊ねた途端に田宮の声色が変わった。
「君はそんなことを私に訊くのか。君の上司はいったい誰なんだ」
 士郎は慌てた。
「申し訳ありませんでした」
 席に戻ってじっくりと申請書を見直したが、士郎の目には異常と思える箇所はなかった。引っ越したのが先月の半ば。住所は世田谷区のおそらく下層の住宅街。アパートの名前が記入されていて、その202号室とある。賃貸契約書は既に梅本が現物を確認しており、その確認印が押してある。まさかアパートの立地や間取りが悪いなどということはないだろうから、この点がつまずきの元とは考えられない。
「この申請内容のどこがまずいんでしょうか」
 士郎は梅本に助けを求めた。
 しかし梅本も首を傾げるばかりで、皆目見当が付かないのだった。
 再度田宮に訊くしかなかった。
「梅本課長にお訊ねしても、やはりおかしなところが見当たりません。恐れ入りますが、ご指導いただけないでしょうか」
 田宮に対して士郎は卑屈なまでに下手に出た。この時既に士郎のプライドは粉々に砕け散っていた。仕事を前に進めるためにここまで卑屈にならなければならないのか。
 田宮はそんな士郎を蔑むように嘲笑った。
「分かりませんか。君の目もたいがい節穴ですね。日付ですよ、日付」
「日付?」
「そう日付。引っ越したのが先月の13日。申請書が人事に提出されたのが今月の8日。ここまで言えばいくら君でも分かるでしょう」
 そう言われても士郎にはなお分からなかった。
「まだ分からないのか。ふん、君も鈍い男だね。では君に訊ねるが、社員が自らの身上に異動が生じた時は、速やかに会社に届けるようにと、就業規則で定められている。その申請書は異動があってからいったい何日経ってから申請されているんだ」
「3週間とちょっとです」
「それが就業規則で言う『速やかに』なのか」
「いいえ」
「だったらおかしいと思うだろう」
「はい。しかし…」
「しかし?」
「基準が明確ではありません」
 すると田宮はそれまでの勝ち誇ったような上機嫌から、一転して眉間にしわを寄せ、手刀で机を打ち始めた。
「基準がない? すると君は1年でも2年でも待つと言うのか。基準がない、だから遅れても構わない。2年でも、3年でも。君はそれが社員に対して優しい態度だとでも思っているのか」
「いいえ、そこまで言うつもりはありません」
「言うつもりがない? そう言いながら、言ってるんじゃないのか。だったら君の言う『そこまで』とそうでないのと、基準はどこにあるんだ」
「特にありません」
「それこそおかしいじゃないか。君は何の判断もなくただ書類を右から左に流しているだけなのか」
 士郎は田宮の物言いにいたたまれなくなって、一刻も早く結論を出してこの場から逃げ出したくなった。そこで士郎は田宮が答えやすいように工夫して質問した。
「いいえ。しかしこの場合にはうまく判断ができなかったかもしれません。住宅手当を継続したのは間違っていたでしょうか」
 田宮は無言でボールペンを握り、申請書に「手当日割のこと」と走り書きした。そしてそれを士郎に突き出した。
 士郎はそれを受け取り、乱暴に書かれた読みにくい文字を解読した。士郎にはまだ意味が分からなかった。そこへ田宮が追い打ちをかけるように言った。
「書類の提出が遅れた場合、遡って適用するのはその月の1日までだ。前月まで遡るようなことはしない。この場合は、古い住所に対する住宅手当の支給は引っ越す直前の先月12日まで。新しい申請が適用になるのは今月の1日から。従って先月引っ越してからその月末までは新しい住所に対して無届の住宅手当を受け取っていたことになる。この部分は不当に受け取った住宅手当だから、当然返してもらう」
 それを聞いて士郎の表情が曇った。そこまでするのかと思った。その士郎の表情を田宮は見逃さなかった。
「何だ。不服があるのか」
「いえ。不服と言うよりも、社員に対してあんまりではないかと思ったものですから」
 士郎は正直に言った。それに対して田宮は嘲るように言った。
「またかね。君はそんなにしてまで社員に給与を払いたいのか。いったい何様のつもりなんだ。君が社員の給与を払っているのか。ふん、違うだろう。いいか、君は会社の給与支給の業務を代行しているに過ぎない。それをいったい何を思い上がっているんだ」
 そんなふうに言われては士郎には返す言葉がなかった。仕方がないので士郎は申請してきた社員の所属する事業部の管理課に、あらかじめ今月の給与で返却分を控除する旨を伝えておいた。
 しかし給与支給日の数日後、この問題は再燃した。給与明細を見た本人が人事課に電話してきて、明細書に身に覚えのないマイナスが付いているのはどういうことかと言うのである。それは士郎の予想していた反応であった。士郎はあらかじめ用意していた説明を伝えた。
 すると電話の向こうで相手の鼻息が荒くなった。
「ちょっと待ってくださいよ。賃貸契約書ってその場ですぐにもらえるものじゃないんですよ。借りる方が2部ハンコを押して不動産屋に提出した後、それが家主のところへ回されて、今度は家主がハンコを押して1部が不動産屋へ帰ってくる。それが私のところへ郵送されてきて、最短でもその間に2週間、3週間は経ってしまうんです。それからすぐに本社へ行って申請書を出したんですよ。それがあの日付なんです。私は何も手続きを怠っていたわけじゃないんですよ」
 士郎は相手の言うことももっともだと思いながら聞いていた。しかし士郎の口からは「おっしゃることは分かります。しかし会社のルールなので、これはどうしようもないんです」と言うしかなかった。
 相手はそれでも納得しなかった。
「そんなのおかしいじゃないですか。私が引っ越した日付と契約書の日付を見比べてくださいよ。何か変なところがありますか。ちゃんと一致しているはずですよ。私は何かごまかして余計に手当をもらおうなんて、これっぽっちも思ってませんよ。ただ普通に正当な手当を受け取ろうとしているだけなんですよ」
「ええ。あなたを疑っているわけでは決してないんです。ただ申請書の提出が遅かったから、手続きに空白期間ができただけなんです」
「だからそれはさっきも言ったように、私の手許に契約書が帰ってくるのに時間がかかるんですよ。これは私のせいじゃないんです」
 その後、この電話でのやりとりは堂々巡りとなった。相手は自分のせいではないと言い、士郎はそれがルールなんだと繰り返した。
 その会話に田宮が聞き耳を立てていた。士郎が溜息を吐きながら電話を切った時、田宮は士郎を呼んだ。
「いったい何の電話なんですか。ちゃんと報告してくれませんか」
 士郎が会話の概要を話すと、田宮は不快感を露わにして士郎を睨み付けた。
「君はそうまで言われて『おっしゃることはごもっともです』などと受け答えしていたのか。いったい君は何者なんだ、え?」
 そう言われても士郎は答えられない。仕方がないので黙るほかなかった。
「契約書が遅れたのは自分のせいではないと言うのなら、それは会社のせいなのか。だから会社が折れて住宅手当をよこせと言うのか。え、どうなんだ」
「もちろん違います」
「では君はそう言ってやったのか」
「いいえ」
 田宮は士郎を蔑むように大きな溜息をついた。
「そもそも、何で社員が直接人事に電話なんかしてくるんだ。言いたいことがあるのなら、直属の上司に申し出るのが筋じゃないのか。そんなことも分からないようなお坊ちゃんに、いったい何をご丁寧に『おっしゃることはごもっともです』なんだ」
 田宮の居丈高な口調に、士郎は何も答えられなかった。
 その社員からは翌日にもう一度電話があった。
「昨日の件はどうなりました?」
 その男は押し殺したような声で言った。昨日の電話で彼は最後に「人事課としてきちんと対応して欲しい」と言ったのだ。この時点で彼は自分の住宅手当が日割で削減されたのは何かの手違いか、もしくは担当者が勝手にやったと思っているに違いなかった。しかし事実は部長の田宮が指示を出しているのだ。だからこれは人事課としての対応どころか、人事部としての対応ということになる。
 士郎は田宮の聞き耳を立てられるのを恐れ、受話器を顎に押しつけるようにして小声で話した。
「どうにもなりません。昨日お話しした通りです」
 すると彼は声を震わせて憤った。
「ではあなたの上司の人事課長とお話をさせてください」
「それはできません。そうおっしゃるのなら、あなたもご自分の上司を通じて話を持ってきてください。それがルールです」
 士郎は側頭部に田宮の視線を感じながら、祈るような気持ちでそう言った。
「分かりました」
 彼は意外にあっさりと引き下がった。しかし最後に脅しの言葉を付け足すのも忘れなかった。
「でも、本当にそれでいいんですね? それで困るのはあなたの方だと思いますよ」
 士郎はやっぱりと思った。思った通りこの男は誤解しているのだ。物の弾みで間違った処理をしたのを、士郎が非を認めず押し通そうとしているというふうに。その若い社員からそう思われて、士郎の気持ちは沈んだ。
 受話器を置くと田宮と目があった。士郎は跳ね上がるように立ち上がり、田宮に報告した。今度は余計なことを極力言わないようにして最後の結論だけを言った。相手から人事課長と話をさせろと要求されたなどと言えば、そのことで士郎が責められかねない。
「直属の上司を通じて言ってくるように言いました。これには彼も納得して、そうするとのことです」
 田宮は鼻先でふんと笑い、嘲るように言った。
「君も暇なんだな。そんな男を相手に」
 その数日後、彼の所属する事業所を担当している女性マネージャーから電話があった。
 経緯を確認する会話の後で彼女は言った。
「ねえ、加瀬さん。私はいったいどうすればいいのかしら」
 士郎は即答を避けた。
「上司と相談しますので、少し待ってくださいませんか」
 その電話を切った後、士郎は田宮の前に立った。
 士郎からの報告を聞いて田宮は唇を歪めた。
「どうすればいいんですかだと? 君はルールというものをどう考えているんだ。ルールを曲げてああすればいい、こうすればいいなどという前に、きっちりとルールを守らせるのが君の仕事ではないのか」
 そう言われて、士郎は居心地の悪さを感じた。どう考えても田宮にいいように振り回されている。田宮はさっきの女性マネージャーの言葉を、まるで士郎が言ったかのように責め立ててくるのだ。
 すっかり閉口した士郎は、思い切って疑問をぶつけた。
「そのルールを守らせるためにお訊きするんですけど、最初の段階で彼はどのように行動すべきだったでしょうか。最初の段階というのは引っ越しを終えた直後という意味ですが」
 田宮はぎょろりと目を動かした。
「何だね?」
「実際に家賃を負担している以上、もらえるものなら手当が欲しいというのは自然な人情だと思います。一方で会社のルールでは、当月中に申請書を提出しなければならないわけです。ところが不動産屋からはすぐには契約書が届かない。添付書類が揃わないわけですから、これでは申請書が提出できません。この時点で、物事をスムーズに運ぶために、彼はどうすべきだったでしょうか」
「君も持って回ったような言い方をするね。はっきり言ったらどうなんだ。こうすべきだったのにしなかった、だからおまえが悪いんだという決め台詞のことを言っているのかね?」
 田宮は嫌みな言い方をした。そこにも田宮の人柄が表れる。本来これは善悪の問題ではない。士郎にはあの男が悪いなどとは思えなかった。そうではなくて、置かれた立場の違いの問題である。しかし士郎はそのことは口にせず、むしろ言葉の上では田宮に譲って、真剣な眼差しで言った。
「まあ、そんなところです。もし私が彼の立場だったらと考えた場合、自分ならこうするという確信が持てないものですから」
 田宮は鼻先で笑った。
「ふん。あれこれ下手な考えを巡らせるね、君も。簡単なことじゃないか。申請書を先に提出して、契約書は後日お見せすると言えばすむことじゃないか。契約書が手許に届かないからと言って、何も申請を遅らせる必要はあり得ない。自分の身上に異動があった場合、速やかに会社に届けるのが社員の義務ではないのかね。君は誤解しているようだがね、住宅手当のためだけに住所変更届があるわけではないんだよ。この書類を出せばお金がもらえるなどという安直な考え方は止めてもらいたい。身勝手に権利を主張する前に、義務を果たさせるべきではないのかね」
 そう言うと田宮はぷいと横を向いた。
 士郎は田宮の言ったことを頭の中で反芻した。そしてそこに田宮の独特の論理を感じ取った。それを何と言ったらいいのかと、士郎は様々な言葉を思いめぐらせた。田宮は物事を行政的に処理しようとし過ぎるのではないか。そこに危険な匂いが漂っていた。
 そのことを卯木に話すと、卯木は笑って言った。
「そんな難しい言い方をしなくてもいいんじゃないか? ひと言で言えば、ああいうのを屁理屈って言うんだよ。妙な理屈をこね上げて、次々と勝手なルールを作っていくわけだ。だから多分に独善的でもあるな。しかしそんなことに情熱を傾けることができるなんて、おめでたい男だと思うぜ。まるで小役人か何かのようだ。おれにはとても真似できないね」
「まあね。聞くところによると、彼は若い頃に国家公務員の試験に落ちたらしいんだ。その未練があって、多分に官僚の真似をしたがるという話だね。コンプレックスと言うのかね、こういうのも」
 その数日後、女性マネージャーから士郎に電話があった。
「彼、住宅手当を削られるのは不当だ、そんな扱いを受けるのなら辞めるって言い出したんですよ。いったいどうしてくれるんですか」
 士郎がそのことを報告すると、田宮は嘲笑った。
「だから? それで君は私にどうしろと言うのかね」
「いいえ。一応、報告をと思いまして」
「君は今度は子どもの使いなのか。君自身はどう考えているんだ。自分の要求が通らないなら辞めると言われて、あたふたしているのかね」
「いいえ、そういうわけではありません」
「だったら言ってやれよ。自分の権利を主張する前に、まず義務を果たせって。それがいやだと言うのなら、退職でも自殺でも、好きなようにすればいい。おまえみたいなお荷物が1匹消えてくれて、会社は大助かりだとな」
 士郎はぎょっとなった。田宮は「自殺」などと口にしたのだ。本人が口にしてもいないことをである。この田宮という男からは強烈な臭いが発散していた。
 士郎がその一件を忘れかけた頃、その住宅手当を申請した当の若い男から電話があった。聞けば近々退職すると言う。男は最後に士郎を追及した。
「私の例の住宅手当を返却させるというのは、いったい誰が言い出したことなんですか」
 まさか田宮の名前を出すわけには行かず、士郎は口ごもった。
「ご理解ください。それは、お答えできる立場にはありません」
 電話の向こうで男は朗らかに笑った。
「そうですか。お席の電話では話しにくいんですね? でも、私には知る権利があるはずです。ではこうしましょう。イエスかノーかでお答えください。あれは加瀬係長が言い出したことですか。イエス、ノー?」
 士郎はためらった。しかし言葉が士郎の口を衝いて出た。
「ノー」
 男はまたもや笑った。
「上から言われて、加瀬係長としてはああするしかなかったわけですね? その上とはつまり梅本課長ですか。イエス、ノー?」
「ノー」
「すると、田宮部長ですね?」
「イエス」
 それを聞いて、男は電話の向こうで止めどなく笑った。
「ああ、おかしい。トランザに入社して以来、こんなに笑ったことはなかったです。陰湿な会社ですからね。最後に愉快な思い出が残せそうです。加瀬係長って案外いい人だったんですね。少し誤解していたかもです。私はもう辞めちゃいますけど、加瀬係長、何とか頑張ってこのトランザを変えてみてくださいよ。遠くから見守っていますから」
 そう言って男は電話を切った。
 士郎からこの一件のいきさつを聞いた卯木は激怒した。
「若造が何を生意気なことをほざいてやがる。他人に期待しているなんて言う前に、自分が必死になって闘ってみろって言うんだ」
 しかし士郎は男を庇った。
「まあ、彼にしてみればあれが精一杯の闘いだったんだよ。そして気が付いたんじゃないのかな。人事部が頭から社員に喧嘩を売ってくる。これは会社が丸ごとおかしいって」
 士郎がそう言うと、卯木は「ふん」と笑った。
「それより、このトランザでの社員に対する考え方がまた少し新たに分かったぜ」
 と卯木は言った。
「と言うと?」
「社員が自分の権利を主張することを許さないんだ。卑屈にお願いするしかないのさ。例えば住宅手当を申請する時は、自分にはこれこれの事実があって手当を受け取る権利があるなんてやると駄目なんだ。あくまでもお願いなのさ。人事部長がそれを承認して初めて権利が発生するんだ」
「どうやらそのようだね。しかし田宮部長がそうやって強い人事部を目指そうとするのも分かるような気がするよ。このトランザでの人事部はあまりにも弱いからね」
 すると卯木は目を剥いた。
「おまえ、本気でそう思っているのか? だとすればお人好しもいいとこだぜ。田宮が目指しているのは強い人事部なんかじゃない。あくまでも強い人事部長なんだよ。たとえこの人事部が田宮ひとりに振り回されてがたがたになったとしても、やつの知ったことじゃない。部長のあいつだけが権力を握って強くなれれば、部下のことなんてどうでもいいってわけだ。やつはそういう男だぜ。違うか?」
「もしそうだとすれば、何とかしなきゃな」
「いったいどうしようって言うんだ?」
「それをこれからじっくり考えるんだよ」
 士郎が笑顔でそう言うと、卯木はふんと鼻を鳴らした。

(8)

 朝、目を覚ますと、そこは殺風景な会社の会議室だった。士郎は堅いテーブルの上に横たわっていた。窓に目を向けると、朝焼けの空が広がっていた。室内の気温は既に上昇し始めている。点けっぱなしにしていた窓際の冷房がいつの間にか止まっていた。ワイシャツがじっとりと汗を吸って、甘酸っぱい匂いがした。
 先に目を覚ましたのは士郎だったが、士郎が立てた物音で卯木も目を覚ました。卯木はぼってりと腫れ上がった目をしきりに瞬いた。
「おい、生きてるか?」
 士郎がそう声をかけると、卯木は得体の知れないうめき声を上げた。
 士郎はクレーンで吊り下げるように重い身体を引っ張り上げた。たちまち背骨が軋んで音を立てる。昨夜の疲れは全く取れていない。
 脱ぎ散らかした靴を足先で探しながら、卯木が言った。
「こんなんじゃ、寝た気がしないぜ」
「まるで」
 士郎と卯木が同時に言いかけた。
 士郎が譲り、卯木が言った。
「まるで塹壕の中で目を覚ましたみたいだぜ」
 塹壕の中で朝を迎えたことなど、卯木にはないはずだった。
 士郎は、まるで霊安室で目を覚ましたみたいだと言おうとしたのだが、これも士郎には経験のないことだった。
「よかった、心臓が動いていて、おれは生きてるって感じかな」
「そう、そんなもんだ。しかしこのまま一日が始まらないとしたら、それもいいかもしれないぜ」
「いっそこのまま楽になりたいって?」
 士郎がしょぼつく目を見開くと、卯木は笑って言った。
「冗談だよ」
 午前6時過ぎだった。ここへ来て眠ったのが午前4時前だったので、もう少し眠りたいところだが、しばらくすると清掃業者が掃除機をかけにやってくる。無遠慮に1日の始まりを知らせる業務用機械の轟音の中で、とても眠ってなどいられるものではない。
 2人は一旦ビルを出て駅前まで歩き、コーヒーショップに入った。口の中がからからに乾いていた。カフェオレでクロワッサンを流し込んだが、半乾きの紙粘土を食べているみたいで、ほとんど味がしなかった。睡眠不足のためか、頭の芯に疲労が残り、胸の中で心臓が喘いでいた。
 士郎と卯木が会社に寝泊まりするのは、これが初めてではなかった。士郎が新しい業務を担当するようになり、卯木もそれを手伝うようになって以来、2人は連日終電まで残業するようになった。それがいつの間にか、終電の時刻を過ぎて、頻繁に会社に寝泊まりするようになっていた。
 士郎が担当するようになった新しい業務とは、「時間精算」と呼ばれるものだった。元々は課長の梅本が担当していたのだが、例によって田宮との間で膠着状態に陥り、毎日飽きもせず、にらめっこで虚しく時間が浪費されていった。それを見かねて士郎が梅本に代わって担当を買って出たのだった。しかし、士郎が梅本に取って代わったところで、結局は同じように田宮との間で膠着状態に陥るしかなかった。
 時間精算の計算式を突き止めるだけで、士郎はほぼ2週間かかった。その前に担当していた梅本からは何の引き継ぎも受けられず、田宮は士郎が計算結果を報告するたびにけちを付けるばかりで、具体的にこうしろという指示はひと言もなかった。やむなく士郎は考え得るいく通りもの計算式で計算し、そのたびに田宮に報告したのである。そして田宮から意地悪く否定されて、その選択肢を消し、あり得る論理を絞り込んでいくのだった。それはまるで仮説を立てて実験によって検証してゆく、科学者の研究のような作業だった。
 卯木はそのあいだ根気よく付き合い、士郎の組み立てた計算式に基づいて、パソコンを使った実際の計算を受け持ってくれた。
 ようやく士郎が計算式を突き止め終えた時、田宮は吐き捨てるように言った。
「これだけのことに君はいったい何日かかっているんだ。君はそんなに暇なのか」
 士郎ははらわたが煮えくりかえるような思いでその言葉を聞いた。
 この2週間の間、残業が深夜に及んでも、田宮は終電の時間だからと言って部下を解放するような上司ではなかった。むしろ終電の時間が近づいてくると、意図したように士郎に報告を求め、不備を指摘してやり直しを命じた。そこで士郎たちが続きは明日にすると言って帰ることができればいいのだが、田宮の目に射すくめられたように居残ってしまうのだった。
 終電の時刻まではまだ力がみなぎる。士郎も卯木も、仕事を早く片づけて家に帰りたいのだ。しかしそれを過ぎると2人の気分は深く沈降してゆく。部下たちも他部署の社員もとっくに仕事を終え、大部屋の中で明かりが灯っているのは人事部の一画だけとなる。日付が変わって、さらに午前1時を過ぎると終電への未練もいく分薄らが、それにしても、こんな時刻にたった4人でまだ職場に残っていることが信じられなかった。
 課長の梅本は背中に田宮の視線を感じているのか、パソコンの画面の中のスケジュール表を一心につつき回していた。しかしこれも虚しいジェスチャーである。梅本がどんなに苦心してスケジュール表を作っても、それに基づいて人事課の業務が進められることなどない。スケジュール表はいつも宙に浮いている。田宮がそれを承認しないからである。梅本の努力は無駄なあがきに過ぎない。それでも梅本は努力している振りをしなければならない。明日になればまたこのスケジュール表のことで、田宮から一日中責められ続けるのである。
 その時刻になると、田宮は部下に対する関心を失い始める。まるで部下を家に帰さないことこそが目的で、終電の時間さえ過ぎれば後はどうでもいいかのようだった。やがて田宮は自席で椅子の背もたれに仰け反り、いびきをかき始める。異様な光景である。田宮は東京には住居を持たない。ホテル代が会社から支給されているが、それを節約して懐に入れている。そうであれば夜はこうして職場に寝泊まりするしかないのだが、士郎がこうして目の当たりにするまで、それは信じられないことだった。
 田宮がいびきをかき始めると、やがて梅本はそこから逃げ出すように姿を消す。おそらく応接室のソファーで横になっているのだろう。残された2人は極力物音を立てないようにした。田宮が大人しく眠っているのを、何もわざわざ起こすことはない。田宮の陰険な視線に晒されるのは、それだけで不愉快だった。2人はひそひそと小声で話し、椅子の軋みにも注意を払った。しかしそうやってびくびくすることも、次第にばかばかしくなってくる。
「夜ちゃんと眠らないから、彼はいつも不機嫌なんだよ」
 その夜もいびきをかき始めた田宮の方を顎先で指しながら、士郎は小声で言った。
 それに対して卯木は目を剥いて反論した。
「じゃあ、おれたちは? おれたちも今では似たようなものだが、十分まともだぜ。しかも田宮と違ってホテル代も出ない。同じことをやっているのにだ。おまけに管理職扱いだから、これだけやらされて、残業代も出ない。不機嫌になりたいのは、むしろおれたちの方だぜ。だから彼のあの不機嫌は、結局持って生まれた性格なのさ。けど、まあ、田宮のことなんか、どうでもいいや。それより、もう終わろうぜ。飯でも食いに行こう」
 この時刻でも開いている店と言えば、いくつもない。士郎と卯木はレストラン「ラ・マルセイエーズ」がお気に入りだった。午前3時の人気の少ないレストランで席に着くと、どちらともなく溜息が漏れた。そして、卯木がこう言って士郎を呆れさせた。
「結局のところ、時間精算って何なんだ?」
「何だよ、今頃になって。今まで知らずに手伝ってくれていたのか?」
「断片的には分かるよ。パソコンを使って計算したのはおれだからな。でも全体像が見えない。さっきおまえはようやく計算式を突き止めたって喜んでいたけど、その概要をおれにも教えてくれよ」
 そこで士郎は説明した。
「早い話が、時間外手当の精算だと思えばいいよ。普通は所定勤務時間以上働けば残業手当を支給するし、休日に働けば休日勤務手当を支給するわけだろう? だけどうちの会社の社員は、派遣されているユーザーごとに所定勤務時間がまちまちで、1日の時間数も違えば、年間の休日日数も違う。これでは不公平だから、単一の基準時間数を設けて、それ以上勤務すれば時間外手当を支給するように精算しようって言うんだ」
 卯木は相づちを打ちながらそこまで聞いて、ぼんやりと言った。
「ふうん、芸が細かいね、うちの会社も。しかし、何もそんなところに一生懸命になって物事を複雑にしなくても…」
 士郎は卯木の悠長な反応を遮って、説明を続けた。
「ところが、そういう問題じゃないんだよ。芸が細かくて複雑なその計算式の中に、トランザ独自のひと捻りが紛れ込ませてある。これがくせ者なんだ。明らかに違法だよ」
 卯木は顔を上げて、怪訝そうに士郎を見た。
「と言うと?」
「気づかなかったか? 年次有給休暇が残業時間と相殺されている。いや、年次有給休暇だけじゃない。欠勤、遅刻、早退。こういったもの全てが残業時間と相殺されているんだ」
「なぜそれが違法なんだ?」
「年次有給休暇は通常所定時間働いたと見なさなければならない。これは基本中の基本、労働基準法だよ。その分時間外手当を削るなんて、もってのほかなんだよ。それに欠勤、遅刻、早退だって、既に給与から控除されている。さらに残業時間と相殺すれば、これは2重の控除だよ。普通に考えれば許されることじゃない」
 士郎が説明して、ようやく卯木も問題の所在に気づいた。
「そりゃ酷いな。しかしトランザのやりそうなことだぜ」
「それだけじゃないよ。休日勤務は基本的に代休と振り替えなんだけど、この代休を取得すれば、さらにその分残業時間が削られる。取得しなければ取得しないで、2年経ったらこの代休も時効で消滅する。こんなこと、よく社員たちが黙ってると思うよ。酷いなんてもんじゃない。詐欺に近いよ。時間精算なんて言ってもっともらしいことを言ってるけど、1枚の木の葉を隠すために、わざわざ森を作ったようなものだよ」
「つまり、残業手当を公平にすると言いながら、本当の目的は残業手当のカットにあるというわけだな? それが時間精算の本質か。いかにも田宮の思いつきそうな悪知恵だぜ」
「しかし効果は絶大。会社は払うべき時間外勤務手当のかなりの部分をネグレクトしている。これじゃあ人材ビジネスは儲かるわけだよ」
「しかし、人事のおれ自身気づかなかったよ。とにかく計算式が複雑過ぎる。2重、3重のif関数なんて、今まで使ったことがなかったぜ」
「そう。複雑過ぎて誰にも分からない。この会社の中でこのことを知っているのは、おそらく、田宮とおれたちと、大阪の早川係長ぐらいのはずだよ。梅本課長はおそらく理解していないな。とにかく社員に払う給与は、少なければ少ないほどいいという考え方のようだね。そのために難しい理屈をこねて、社員を煙に巻くというのが、これまでの人事のやり方なんだよ」
「酷い話だ。わずかばかりの金をけちったって、どうなるものでもないだろう」
「それがわずかばかりでもないんだよ。こんなやり方でネグレクトされている残業手当は、ざっと計算しただけで、年間1億円は下らない。その分会社はネコババしてるということになる」
「うーむ、1億か。昨年度の利益で言えば、約半分だな。そうやって利益を水増ししてるわけだ」
「決してわずかの金じゃない」
「おまえはどう思う? おれたちはどうすべきなんだ? 内部告発を…」
「そこまではできないよ。そんな勇気はおれにはない。労働組合がもう少ししっかりしてくれていれば、焚き付けて水面下で共同戦線も張れるだろうけど、あの御用組合じゃそれもできない」
「じゃあ、どうする? 不正と知っていて目をつぶるか? おれはそんなのはいやだな。性に合わないぜ」
「待つしかないだろう」
「何を?」
「田宮の失脚をさ」
「本気で言ってるのか?」
「もちろん」
「どうやって?」
「どうもこうもないよ。彼は今、40代後半だろう? おれたちは30代前半だ。極端なことを言えば、やつの方が早く死ぬ。これは物事の順番だよ」
「ふふん、そうとは限らないぜ。やつはめっぽうタフだ。それにこの人事部はやつの天下で、やりたい放題だ。それに引き替え、おれたちは相当なストレスを抱えてこの生活だ。危ないかもしれないぜ」
「だから極端に言えばと言ったろう? 何も本当に死ぬのを待つ必要はないんだよ。彼の方が先に歳を取り、彼の方が先に窓際へ追いやられ、彼の方が先に定年を迎えるんだよ。おれたちが何もしなくてもね。こればかりは、彼にもどうしようもない。だからおれは気長に待つことにするよ」
 士郎がそんなふうに言ったところで、卯木は納得できないという顔をしていた。
 大層楽観的なことを口にした士郎も、こんな生活がいつまで続くのかと内心では不安が渦巻き、疲労がもはや耐え難いまでに蓄積されているのを感じていたのだった。
 そこへ新たな打撃が加えられた。それによって士郎はますます追いつめられることになる。それは翌日の昼休みのことだった。卯木を誘って食事に出かけようとした士郎を、田宮が自席から呼び止めた。
「加瀬係長。時間精算は終わったのか。いつまで待っても君からの報告がないが、いったいどうなっているんだ、あ?」
 この日の田宮は最初から居丈高だった。
「今、作業中ですが」
「いったい、時間計算ごときに何日かかっているんだ。君たちのスケジュールはいったいどうなっているんだ」
 それを聞いて士郎は自分の耳を疑った。いったい田宮は何を言い出すつもりなのだ。この時間精算の作業を長引かせているのは、むしろ田宮の方である。田宮がもったいつけて具体的な指示を何も出さず、計算結果を報告するたびに小出しにけちを付け、何度もやり直しをさせるからだ。そのために来る日も来る日も会社に泊まり込んで、徹夜に近い作業を続けている。こんな仕事のやり方をしていたのでは、作業の見通しが全く立たない。いつまでこの作業が続くのかと、士郎の方が田宮に訊きたいぐらいだった。
 しかしその気持ちを抑え、多少の皮肉を込めて、士郎は穏やかに言った。
「ようやく計算式が明らかになりましたので、今日作業して明日にはご報告できると思いますが」
 すると田宮は机を叩いて激昂した。
「何を役人のでき損ないみたいなことを言ってるんだっ。明日には報告ができるだと? いけしゃあしゃあと、よくそんな言い草ができるもんだな。君がもたもたしているせいで、毎晩遅くまで付き合わされてるこっちの身にもなったみろ。その張本人が、仕事が終わってもいないのに、時間になればさっさと食事に行くのか。そんなに食事が大切なのかっ」
 士郎は田宮の前に立ち、怒りを通り越して唖然とした。そして自問した。この時間精算、士郎は独力で計算式を突き止めた。田宮は知っていても、何も教えてはくれなかった。田宮からの駄目出しを推理して、1歩、1歩、論理を構成していったのである。その結果、時間精算とは、思いつく限りのあらゆる方法で残業時間を差し引くことだと、明快な計算式でもって突き止めることができた。その結論自体は苦々しい。人事に携わる者として、これほどまでの不正は看過できない。それが不正であるがゆえに、田宮は計算式を明確に指示しなかったのである。いったいどちらが無駄な時間を過ごさせられたのか。田宮か、士郎か。士郎の憤りは沸点に達しつつあった。
 その時卯木が落ち着いた声で言った。その言葉が士郎を一気に冷静にさせた。
「大切ですよ、食事は。さ、飯食いに行こうぜ」
 卯木はそう言いながら士郎の肘を突いた。
 田宮はいっそう激昂し、何かに取り付かれたかのように怒鳴り散らした。
「ああ、そうかい。君たちは仕事も完了させずに、食事には当然のように行くのか。だったら、何もかも放り出して行けよ。何をおいてでも食事には行きますってか。そんな無責任なやつは、とっとと出て行けっ」
 田宮は目を逆三角形にして、反り返った人差し指で出口を指した。
 士郎は冷静さを取り戻し、考えを巡らせた。今、田宮は上司としては常軌を逸したことを口にしている。全く尋常とは思えない。とすると、田宮に逆らって食事に行けば、尋常ではない報復が待っていると考えるべきだ。書類にハンコを押さないとか、必要な指示を出さないとか、そのレベルを超えた何か意地悪の類だ。この時間精算にしても、今月の給与計算の最後の工程に組み込まなければならない。このまま田宮が引き延ばせば、給与計算に間に合わなくなる。だから田宮の機嫌を損ねるのは、どう考えても得策ではない。士郎はそう考えただけでもうんざりした。この人事部では、田宮が部長の座にいる限り、そういった仕打ちには耐えてゆかねばならない運命なのだ。
 だから士郎は卯木に言った。
「先に行ってくれよ。おれは時間精算を片づけてから行くよ」
 卯木は呆気にとられたように士郎を見つめた。そして士郎を非難するように舌打ちして、踵を返し、出て行った。
 このことで士郎と卯木の間に一瞬の隙間風が吹いた。
 卯木が士郎の行動を快く思わないのも当然ではある。卯木に言わせれば、士郎の従順過ぎる姿勢が田宮をつけあがらせるのだ。しかもその田宮の矛先は、あくまで食事に行った卯木に向かいかねない。そのことによって卯木と士郎の間の足並みが乱れ、結果として田宮がそこに付け入る隙を与えることにもなり得る。
 しかし卯木の心配はそれだけではなかった。そこには士郎に対する思いやりも含まれていた。卯木は士郎の性格を感じ取っていた。偏屈に責任感が強く、物事を自分で背負い込む傾向がある。食事の件もそうだった。田宮はいわば人事課の明日を人質に取っているのだ。おれの言うことを聞かなければ後々困ったことになるぞ、と。その時士郎が自分ひとりで田宮に立ち向かい、敢えて自分が人質になることで、人事課全体を救おうというわけだ。卯木には士郎のその気持ちはよく分かる。しかしそれは誤りだと考えていた。
 それ以来、卯木の心配は日ごとに募った。この一件の後、士郎が頻繁に食事を抜くのが気がかりだった。時間精算が一段落した後も、2人は会社に泊まり込むことが多かった。それがどんなに辛いことか、卯木も自ら体験してよく分かる。自宅の布団で眠るか、会議室の硬いテーブルで眠るか、眠る場所が問題なのではない。1日の終わりが来ないことが問題なのだ。今日が終わらないまま、非情な明日が来る。1日、1日を過ごすことが、苦行のようにしか思えない。それに加えて頻繁に昼食を抜いたのでは、身体が保つはずがない。いくら盟友とは言っても、こればかりは卯木には付き合うことができなかった。
 しかも田宮の矛先は、卯木の予想に反して、ことさら士郎に向かった。今では士郎が田宮の前に立たされる時間は、課長の梅本と同等か、それ以上だった。このことからしても田宮という男の本性が分かる。田宮は人事部を方向付けるために自分の権限を用いているのではない。ただ単に権力を振るって悦に入っているだけなのだ。その証拠に田宮の加虐は、言うことを聞かない卯木に対してではなく、従順な士郎に対して向けられている。これでは弱い者いじめに過ぎない、と卯木は思った。
 しかし、と卯木はそこで考え直した。これは本当に弱い者いじめか。もしそう言うなら、士郎は弱い者ということになる。確かに士郎は柔和な男で、少し気が優しい。田宮はそこにつけ込んで弱い者いじめを楽しんでいるようだが、卯木の知る士郎は決して弱くはない。田宮は後になって士郎から手痛いしっぺ返しを食らうことになるのではないか。卯木はその日が来るのが楽しみだった。

(9)

 その頃、士郎には婚約者がいた。名は由美子といった。既に互いの家族にも紹介し、やがて2人が結婚するであろうことは、両家公認のものだった。そのとき由美子が出した結婚の条件が、士郎の上場会社への転職だった。士郎はそれを果たし、2人の結婚は間近に迫っていた。
 士郎が由美子に結婚の延期を持ちかけたのは、トランザクション株式会社に入社して半年が経った頃だった。
「今、それどころじゃないんだよ」
 と士郎が言ったことが、由美子の気持ちを逆撫でした。由美子は目を剥いて士郎に食ってかかった。
「それどころじゃないって、どういうことよ。仕事に比べたら結婚なんかどうでもいいことなの? 士郎さんにとって大切なことじゃないの?」
「ごめん、そういう意味じゃないんだ。今はおれたち2人が初めて家庭を持とうとするには、相応しくない時期だっていう意味なんだよ。決して結婚をないがしろにして言ってるわけじゃないんだ。むしろ大切なことだから、慎重に時期を選ぼうって言ってるんだよ」
 士郎は努めて冷静に言った。士郎までが感情的になると、この結婚はぶち壊しになりそうな危うさが、由美子の態度から感じられた。
「士郎さんが今会社で大変なのは分かってるわよ。でも、待てば必ずよくなるの?」
 由美子は頬を膨らませた。拗ねて見せるその仕草も、その時点ではまだ可愛いと思うことができた。
「少なくとも、今より悪化することはなさそうだよ。この半年というもの、日付が変わる前に家にたどり着けたのは数えるほどしかない。悪くすればいく日も会社に寝泊まりだ。確実に家に帰れるのは土曜の夜だけ。こんな生活をしていたんじゃあ、家庭なんて成り立つはずがないじゃないか。少なくとも毎晩家には帰れないと。君だってそう思うだろう?」
 じっくり話せば由美子だって分かってくれるはずだと思って、士郎は由美子の言葉をじっと待った。それに対する由美子の答えは、士郎にとって意外なものだった。
「じゃあ、私の立場はどうなるの? お友達には結婚式のだいたいの日取りなんかも伝えてあるのよ。みんなに来てちょうだいねって言ってあるのに、今さら延期するなんて言えるわけがないじゃない」
 士郎には理解しがたかった。いったい何のための結婚式なんだと思った。由美子はその時29歳になったばかりだった。挙式を延ばせば30歳になってしまう。20代のうちに式を挙げたい。そんなことも由美子は言った。しかしこれから2人で40歳、50歳と歳を重ねてゆこうとする時に、そんなことが重要だとは、士郎には思えなかった。
 翌週の日曜日に、由美子の父親から家に呼ばれた。
「士郎君も仕事がなかなか大変なんだってな」
 由美子の父はリビングのソファーに深々と仰け反って言った。大手家電メーカーの部長をしていると聞いているが、その声は野太く貫禄があった。
 由美子は父親の隣に腰掛け、ロングスカートの裾を持ち上げて足を組んだ。士郎の部屋にいる時と、明らかに態度が違った。まるで父親の威を借りて、士郎を見下すように座っていた。
「ええ。ひと筋縄では行かない職場です」
 士郎はその言葉に様々な思いを込めた。しかしそんな士郎の思いなど、由美子の父親には通じるはずもなかった。
 士郎は威圧されていた。郊外の一戸建ての広々とした家だった。民芸調のどっしりとした家具で統一されている。革張りのソファーは滑りやすく、士郎は何度も尻を持ち上げて座り直した。とにかく金をかけていることが分かる。部品メーカーの課長で終わった士郎の父の家ではこうは行かない。もっと雑然としていて、遥かに安っぽかった。
 由美子の父親は言った。
「男にとって仕事は何よりも重要なものだよ。それだけに自らの地位をしっかりと守らねばならない。周りは敵だらけだ。しかし、君、そんなことは言い訳にはならんよ。仕事ができる男とは、そんな中でもしっかりと成果を出すものだ。違うかね?」
 士郎は恐縮して頭を垂れた。
「だったら士郎君、君がもう少ししっかりしてくれなければ困るじゃないか。君も30を過ぎたいい大人なんだから、そんなんじゃあ、娘を安心して嫁がせるわけには行かんよ。そうじゃないかね?」
 士郎は言いようのない屈辱を感じていた。由美子の父親は、士郎に問いかけるようにしながらも、肯定するしかないように巧みに話を誘導していた。しかし、話は微妙に食い違っている。
 士郎は何も結婚を焦ってすぐにでも式を挙げたいと言っているのではない。その反対に、生活の条件を結婚生活に相応しいように改善したい、そのためには時間が必要だと言っているのだ。由美子の父親はそれを承知の上で、士郎の置かれた立場そのものを責め立てている。これでは士郎には返す言葉もない。
 由美子はさっきから父親の言葉にしきりに頷き、まるで父親の言葉が自分の言葉であるかのように士郎の反応を吟味している。由美子は士郎の側には立たず、父親の側に立っている。そのことに対しても士郎は屈辱を覚えた。
 由美子の母親が茶を運んできた。母親は無言でテーブルに茶碗を置き終わると、静かな言葉で言った。
「由美子。あなた、どこに座っているの? あなたが座るのは士郎さんの隣でしょ?」
 士郎ははっとして母親の言葉を聞いた。まるで士郎の胸の内を見透かしたような言葉だった。それを母親はその場にやってきた一瞬のうちに口にした。それは静かな、威厳のある言葉だった。
 それを聞いた父親は由美子の膝をぽんと叩いた。
「ここでいいじゃないか。何もそう慌てて嫁に行くことはないんだからな」
 由美子の母親は夫に冷たい視線を投げると、黙ってキッチンへ引き下がった。
 士郎はじっと由美子を見ていた。今の父親の言葉は明らかに由美子の意向とは異なっていた。由美子は士郎が言い出した結婚の延期に難色を示している。いっぽう、由美子の父親は娘を嫁にやることを渋って時間稼ぎをしていると聞こえる。しかし由美子はその父の言葉に頷くだけで、自分の気持ちはそうじゃないとは言わない。途端に士郎は由美子の胸の内が分からなくなった。
「で、士郎君。そうは言っても娘をいつまでも待たせるわけには行かないだろう。1ヶ月程度のうちには何とかしたまえ。そうすれば何も挙式を延期する必要などないし、また、そうでなければ、君、安心して娘を嫁にはやれんよ」
 父親は由美子の意を汲んでそう言った。
「どうなんだね、士郎君」
 士郎は言葉に困った。空約束はできない。何か意味のある言葉を探そうとしたが、見つからなかった。少しばかりの時間が与えられたからと言って、職場の環境が変わるとは到底思えない。従ってこのまま予定通りの挙式ができるとも思えない一方で、そもそも延期したところで確実に条件が整うとも思えないのであった。
 士郎の沈黙に業を煮やして、再度父親が促した。
「どうしたんだね、士郎君。由美子と結婚したいんだろう? 男として立派に責任を果たすと約束して、私を安心させてくれんかね」
 士郎が由美子の父親の気詰まりな話に閉口していると、母親が食事の用意ができたからと呼びに来た。士郎はやれやれこれで父親の説教から解放されると思った。ダイニングルームではうまそうなビーフシチューが湯気を立てていた。このビーフシチューは肉の塊が皿の中にそびえ立っていた。士郎の知る、スプーンで掻き回さなければ肉片の出てこないビーフシチューとは、明らかに違っていた。
 輝く笑みを浮かべながら母親が言った。
「お口に合うかしら?」
 その言葉の中に士郎は母親の自信と威厳を感じ取った。どう考えても、この家庭は母親が目を光らせて、好ましい秩序を保っていた。
 父親は食事の最中に、しきりに自分の会社の経営者のエピソードを話した。戦後、町工場から今の会社を興した、伝説の経営者だった。もうとっくに亡くなったその経営者を、父親はまるで神のように崇めてしゃべった。要するに自分の勤めている会社がいかに一流の会社かということが言いたいらしい。その会社で部長にまで出世したことが、何よりも自慢なのだった。そして返す刀で、士郎の会社がいかに質の低い経営者と能力のない社員によって低迷しているかを、士郎に説いて聞かせるのだった。
 母親がそれを咎めて、たしなめるように言った。
「何言ってるの、あなた。士郎さんの会社、株価がものすごいのよ。あなたの会社の何倍もの値が付いてるの、知らないの? きっとこれからよくなっていくのよ。今の苦労がそのうち報われる時が来るわ。だから士郎さん、今は苦しいかもしれないけど、頑張ってね」
 すると父親は探るような目で士郎の顔を覗き込んだ。
「本当かね、士郎君。いくらなんだ? その、トランザクションの株価は」
「どんどん上がって、今、4万円ぐらいですかね。でも、ネットバブルなんて言われていますから、そのうちどかんと下がるんじゃないかと思いますよ」
「ほお、4万かね。いったい何の会社なんだ?」
 父親は目を瞠って、呻くように訊いた。
 士郎は答えた。
「人材派遣のようなことをしています。ユーザーの社内に、SEやCADのオペレータを派遣したり、ネットワーク管理者を常駐させたり。あるいはコールセンターを運営したりもしています」
「ほお、人材派遣かね」
 父親は自分の職場の派遣社員のことを思い浮かべたのか、にわかに蔑むような笑いを浮かべた。
 実際、由美子の父親の会社にも、トランザクション株式会社から大勢の社員が派遣されている。ユーザーからはその評価があまり高く言われていないのを、士郎は聞き知っていた。ただ、そこへ派遣される女子社員は、玉の輿のような職場結婚を夢見て職場に赴き、思惑通り目的を達成するケースが多いとも聞く。こういうのも閨閥と言うのだろうか。トランザクション株式会社では、そういった効果も狙って、その会社には男が好みそうな容姿の女子社員を選りすぐって派遣するのだとも言われていた。
 食後のコーヒーを飲んで、士郎が辞去しようとした時、自慢のウィスキーの水割りを用意していた父親はしきりに士郎を引き留めた。しかし士郎はこれ以上父親から説教も自慢話も聞かされたくなかった。それに何よりも月曜日から再び待ち受けている地獄のような1週間が、士郎の気を滅入らせた。せめて日曜日に十分な睡眠を取っておかなければ、身体が保ちそうもない。明日があるので、と士郎は強く辞退した。
「何だね、士郎君。せっかく滅多に飲めないウィスキーをごちそうしてやろうと思ったのに。まあ、仕方がない。それじゃあ由美子、おまえが相手をしてくれ。母さん、つまみだ」
「はいはい。じゃあ、士郎さん、気を付けてね。あまり無理をして由美子を心配させないでちょうだい」
「では、失礼します」
 そう言って深々と頭を下げた士郎を、由美子の父親が水割りのグラスを高々と差し上げて見送った。
 由美子は自分のグラスにウィスキーを注いで、父親と乾杯した。
 母親が門まで送ってくれた。その時母親が門扉に顎を載せて言った。
「士郎さん、由美子のことを思って結婚の延期なんて言ってくれたんだと思うけど、あの子、あの通りひとり娘でわがままに育っているから、士郎さんの優しい気持ちが分からないのよ。だから士郎さん、もうちょっと強引にやってもいいのよ。黙っておれについて来いぐらいのこと、言っちゃいなさいよ」
 母親はそう言って、士郎にウィンクし、いたずらっぽく笑った。
 しまった、プロポーズする相手を間違えた、と士郎は思った。結婚するならこの母親とすべきだった、と。
 その翌週、月曜日から士郎は会社に寝泊まりした。そろそろその月の給与計算が始まる時期にさしかかっていた。これから2週間ほどは終電で帰ることさえできなくなる。
 夜中の3時頃、へとへとに疲れ切って卯木と2人で会議室へ向かう途中、公衆電話からの遠隔操作で、自宅の電話の留守録を聞いた。
 午後10時過ぎに由美子からのメッセージが入っていた。
「まだ帰っていないのね。帰ったら電話ちょうだい」
 どことなく事務的な感じで、乱暴に受話器を置いていた。
 士郎はげんなりして、卯木の待つ会議室に遅れてやってきた。既に卯木はテーブルを2つ繋げて、その上に横たわっていた。疲れ切っているのか、息が荒かった。士郎も卯木の隣にテーブルを並べた。
「電気消してくれ」
「ああ」
 士郎が壁のスイッチを切ると、会議室の明かりが落ちた。月に一度の社長講話がある時には200人以上が詰め込まれるほどの広さがある。そこにたった2人で眠るのだ。その贅沢さに士郎は苦笑した。
「しかし、いつまで続くのかね、こんなこと」
 卯木は目をつむったままで、天井に向かってつぶやいた。
「おまえ、奥さんは大丈夫なのか、毎晩会社に泊まって?」
 士郎は不思議に思って訊いてみた。
「妙なことを訊くなあ。しかし心配には及ばないよ。ちゃんと言い含めてある。なぜそんなことを訊くんだ?」
 卯木が士郎の方に顔を向けると、窓から射し込んでくるわずかなネオンの光を反射して、目が不気味に光った。
 士郎は由美子とのことを話した。卯木は身体を横に向けて、士郎の話を聞いた。
「どうしたものかと思うんだよ。このままではうまく行きそうにない」
 すると卯木は意外なことを言った。
「おまえ、夫婦の間に愛情とか思いやりとかがあって、それで夫婦関係がうまく行くと思っているだろう。そんな幻想を抱いているうちは結婚なんてしない方がいいぜ」
 士郎は驚いて訊き返した。
「違うのか?」
「違うも何も、今おまえが身をもって経験している通りだよ。由美子さんといったっけ、おまえの婚約者は? 彼女は結婚する前からもう夫婦間の主導権争いを始めているんじゃないのか。おまえ、優しいというかお人好しだから、もう半分以上は主導権を失っているのさ。このまま結婚したら、おまえは女房の尻に敷かれて、男の悲哀を感じながら生きていくことになるぜ」
「じゃあ、おまえはどうなんだ? 毎晩会社に寝泊まりして、よく奥さんを黙らせているもんだよ。いったいどんな魔法を使ってるんだ?」
「魔法なんて何も。ただ、当たり前のことだよ。おれは将来を約束されている。何もこのトランザで一生を終えるわけではない。2年かそこらここで修行を積んで、店に戻れば若社長だよ。いいか、財産があるんだ。女はこれに弱い。だからおれはかみさんには言ってるんだ。おれが苦しい修行に耐えている時におまえが不平不満を口にするのなら、そんなやつは即刻離縁だってな。それにおれの留守中も、お袋がしっかりと監視している。おれのお袋は厳しいぞ。あんな姑にいびられるのなら、男に生まれてよかったとつくづく思うよ。まあ、それに耐えることが彼女の修行だな」
「おまえがそんなに保守的だったなんて、驚きだな」
「仕方ないさ。2つに1つを選べ、中間の選択はないと言われたら、やむなくそうするさ」
「2つに1つとは?」
「おれが主導権を握るか、かみさんに主導権を譲るか。女は図々しいからな。主導権を握ったが最後、男のプライドなんてかけらも残しちゃくれないよ。だから絶対に主導権を譲り渡しちゃならない。その代わり、こっちも彼女の領分は侵さない。それはつまり子どもだ。お袋にもきつく言ってある。子どもの教育にだけは口出しするなとね。この辺りがバランスってことになるな」
「そういうもんかね。難しいもんだな。じゃあ、おれも考え直すか」
「おまえの場合は何もしなくてもいいと思うぜ」
「と言うと?」
「手間のかからない楽なケースだよ」
「どういうことだ?」
「おまえは黙ってればいいのさ。沈黙という戦術を使えばいい」
「するとどうなる?」
「向こうがにじり寄ってくるか、逆に去ってゆくか。2つに1つを選ばせればいいんだよ。決してこっちからご機嫌を取っちゃだめだ」
「おい、おい。そんなことして、破談になったらどうするんだ」
「では訊くが、おまえは愛情に満ちた安らかな家庭を失うとでも思っているのか。由美子さんが主導権を握り、お義父さんが何かにつけて口出ししてくるような、婿養子みたいな立場のことを?」
 卯木が歯に衣を着せぬ言い方で士郎を脅した。士郎は絶句した。
「おまえは女に幻想を持っている。悪いことは言わないよ。所詮、男と女の関係なんて、永遠に続く主導権争いなんだよ。そのつもりで覚悟してかかるんだな」
 士郎はそれには答えなかった。すると卯木はしばらくして寝息を立て始めた。
 士郎は卯木の割り切った物の言い方に反発を覚えた。しかし卯木の言った沈黙の戦術には魅力があった。士郎は無気力になっていた。あれやこれやと考えず、物事を成り行きに任せると言うのなら、今の士郎にこれ以上魅力的な方策はなかった。
 翌日にも由美子からの留守録が入っていた。士郎がそれを聞いたのは、やはり昨日と同じ午前3時前だった。とても由美子に電話できる時刻ではない。それを口実にして士郎は電話をしなかった。
 由美子からの留守録は毎晩入っていた。その時刻はだいたい午後10時頃で、一定だった。士郎は由美子からの留守録を無視し続けることに居心地の悪さを感じた。
 6日間に及ぶ長い勤務が終わり、土曜の夜にはようやく自分の部屋に帰ってくることができた。士郎は由美子からの電話を待った。今夜は逃げるわけには行かなかった。だから士郎は耳を澄ますようにして、じっと電話が鳴るのを待っていた。しかし夜中の12時になっても、電話は鳴らなかった。
 平日にはあれほどしつこく電話してきたのに、土曜になってぴたりと止めるなんて、いったいどういうことだ、と士郎は考えた。そして、そう考えた自分に苦笑した。卯木の言う通りだ。確かに腹の探り合いをしている。士郎にはそれが滑稽だった。
 日曜の夜は士郎にとって憂鬱な時間帯だった。明日からまた地獄のような長い1週間が始まると思うと、このまま逃げ出したい気持ちになった。それでも由美子からの電話があるかもしれないと、風呂にも入らずにずっと待っていた。
 12時を回ったところで、もはや電話はないと判断した。ますます卯木の言う通りだった。きっと由美子の方でも士郎からの電話を待っているのだ。だからこれは我慢比べなのだ。我慢できなくなって電話した方が負け。そういう主導権争いなのだ。
 結局士郎は電話をしなかった。由美子からも電話はなかった。
 月曜日の通勤電車の中で、士郎は考え込んでいた。このまま由美子は自分の目の前から消えるかもしれない。それでもいいのか、と。しかし、いいも悪いも、今の士郎にはどうすることもできなかった。月曜の朝出勤したら最後、土曜の夜まで職場から解放されることはなかった。6日間、安らぐ時間はどこにもなかった。収容所で人生を送っているようなものだ。こんな状態で結婚など考えられなかった。
 月曜の深夜、士郎が自宅の留守番電話を確認すると、その日は由美子からの留守録は入っていなかった。そのことの意味は分かっていた。士郎はいよいよ来るべきものが来たと思った。ここが分かれ道だ。喧嘩したわけでもなく、かと言って互いに何かの努力をしたわけでもなく、当然のように2人の運命が遠ざかっていく。機械仕掛けのポイント切り替えのようなものだった。呆気ないものだな、と士郎は思った。
 火曜日も同じだった。そして水曜日も。不思議なことに士郎は内心ほっとしていた。ささやかな解放感と言ってもよかった。やはり無理があったのだ。だから収まるべきところに収まったのだ。士郎はそう考えることにした。
 卯木にはそのことを伝えておいた。
 しんとした深夜の会議室で、卯木は士郎を見据えて言った。
「おれが言ったからか?」
「いや。他に道はなかった。おまえが何を言ったかは関係ない」
「煽ったかもしれない」
「おまえの言葉の前に、既におれの胸の中にあった結論だよ」
「そうか」
「一からやり直しだ」
 士郎はそれ以上は何も言わず、浅い眠りに滑り込んでいった。

(10)

「いいか、これは歴とした犯罪なんだぜ」
 向かい合ったレストラン「ラ・マルセイエーズ」のテーブルで、躊躇する士郎に、卯木が声を押し殺して言った。
「ああ、分かってる」
 と、士郎はなだめるように言ったが、卯木は納得しなかった。
「だったらなぜ闘おうとしない?」
 士郎は、やれやれ、また同じ議論になるのか、と思った。いい加減にしてくれよ、という気持ちを含んで答えた。
「闘わないなんて言っていない。今は様子を見るしかないと言ったんだよ」
 しかし、卯木は激しく食い下がってきた。
「同じことじゃないか。なぜなんだ? 保身のためか。まさかおまえ、トランザみたいな会社にしがみついて出世したいのか。田宮に取り入って引っ張り上げてもらおうなんて、けちな考えを起こしているんじゃないのか」
 卯木は徐々に声が大きくなるのに自分で気づいて声を落としつつも、最後は歯を食いしばるようにして言った。
 士郎は卯木の論理の飛躍に困惑し切って、なだめるように言った。
「おい、おい。見損なわないでくれよ。そんなこと、微塵も思ってないよ」
「だったらなぜだ? おれには理解できない。いいか、これを見ろよ。こっちが田宮の1週間分の空出張を処理した総務の伝票、こっちがその出張旅費を出金した経理の現金伝票だ。証拠は挙がってるんだぜ。あとは出すべきところへ出すだけでいい。なぜそれに反対する?」
 卯木はテーブルの上の2枚のコピーを、人差し指で交互に強く突いた。
 士郎も一旦沈黙してその紙片を見た。
 これは卯木が手に入れてきたものだった。田宮はこうして1週間ごとに宿泊費と日当を受け取っていた。その金額は1日当たり1万7千円、1週間のうち月曜日から土曜日まで6日間、月額に換算すると40万円を下らない。それは士郎や卯木の月給を遥かに上回る金額だ。それだけの金額を田宮は給与とは全く別に懐に入れているのだ。この事実の前に、士郎も悔しい思いがしないはずがなかった。しかも、この処理は大阪人事課の係長である早川眞紀が田宮に代わって行っているのだ。その1点を捉えても、2人が裏で通じ合っていることは容易に想像できた。
 しかし、それでも士郎は頭に血を上らせて激怒する卯木とは一線を画し、あくまで冷静に「今は様子を見るべきだ」と譲らないのだった。
「まさかおまえ、あの金は正当なものだなんて言うつもりじゃないだろうな」
 卯木がそう言って士郎を睨んだ。
「まさか。あれは実体としては単身赴任だから、給与規程通り、月に1度家に帰る旅費と、月額2万円の単身赴任手当でこと足りると思ってるよ。月々40万円もの金を受け取る筋合いのものじゃない。それを自分が人事部長なのをいいことに、早川係長と組んでわざわざ大阪の人事課の所属にして、出張扱いで東京に来ているんだ。これは犯罪だよ。しかも宿泊費を浮かせるために、ホテルには泊まらず、会社に寝泊まり。それに部下をも付き合わせる。田宮と同じように毎晩会社に寝泊まりしているおれやおまえや梅本課長は、びた一文受け取っちゃいない。これが我慢できるわけがないよ」
「そこまで分かっているのなら…」
 卯木がそう畳みかけようとするのを、士郎は手で制した。
「じゃあ、これをおまえはどう思う?」
 士郎は卯木が手に入れてきた総務課の伝票のコピーを指さした。
「承認印欄に川島常務のハンコがある。手続きだけを言えば、この出張は正規に承認されているんだ。これが何を意味する? 川島常務は社長の愛人だとも言われている。要するにこれは田宮ひとりを敵に回すだけではすまないんだよ」
 すると卯木は唸るように言った。
「『大阪コネクション』か」
「そういうことだよ。一介の係長に過ぎないわれわれなんか、簡単にきゅっと握りつぶされ、排除されるのが落ちだ」
 士郎の冷静な分析の前に、卯木の激情は沈静化した。
 それもそのはずだ。「大阪コネクション」とは、他ならぬ卯木が調べ上げたトランザクション株式会社内部の人脈である。それを士郎に逆手に取られ、たしなめられた卯木は反論する気持ちが萎えたのだった。
 かつて大阪支社に「百日戦争」と呼ばれるものがあった。トランザクション株式会社が一部上場を果たそうとした時、その足を引っ張ったのは低迷する大阪支社の営業成績だった。この状態は社長には耐え難いものだった。なぜならトランザクション株式会社は大阪が発祥の地であり、大阪支社にこそ、創業当時の経営哲学が色濃く受け継がれているからである。その時既に社長は東京本社に常駐していたが、大阪支社は愛人の川島久美子に守らせていた。その大阪支社の業績が低迷していたのでは「本家」としての体面が保てない。そこで社長は大阪支社に発憤を促すべく、それから3ヶ月間は土曜も日曜も休みなしで最後の追い込みをかけるよう命令した。日本の社会にようやく週休2日が根付いた頃である。時代に逆行するこの命令には多くの社員が脱落していった。しかし残った社員はトップの期待に応え、見事に業績を回復して、逆に一部上場の原動力とさえなった。だからこの「百日戦争」を生き残った社員は、会社に対する堅固な忠誠心を備えた精鋭部隊として、社長にとって目の中に入れても痛くないほどに可愛がられていると言うのだ。
 そんな美談に、卯木は皮肉を込めて言った。
「何とも美しい話じゃないか。ところで入社して半年以上もの間、早くて終電、遅くなれば家にも帰してもらえないおれたちには、会社はどう報いてくれるんだ? おれたちのことは『二百日戦争』とでも言ってくれるのか?」
 その後、大阪支社の精鋭部隊は川島を先頭に東京本社に乗り込んできた。川島は次々と自分の息のかかった女性管理職を東京本社の各部署に転勤させた。「大阪コネクション」はこの頃形成されたと見てよい。それはひと言で言えば、東京本社に張り巡らされた、川島常務を頂点とする関西系の人脈である。彼女たちは異様とも思える結束力を誇り、東京本社で一大勢力を形成した。川島は毎晩のように自分の配下の者を引き連れて、夜の赤坂で自分の勢力を誇示した。昇進昇格の時期になれば、川島は自分の配下の者たちの地位を引き上げようとして、盛んに各部署に手を回すのだった。
 卯木はどこかで情報収集してきたことを、得意げに士郎に話して聞かせた。実際こういった情報を集めてくる卯木の才能には感心すべきものがあった。
「誰がそのメンバーか、簡単に見分ける方法があるそうなんだ。大阪出身者かどうかは決め手にはならない。東京で採用されたのもメンバーに加わっているからな。まずは女であること。そしてロレックスかカルティエの腕時計をしていること。そしてルイヴィトンかコーチのバッグを持っていること。これが彼女らの印なんだよ。川島がいつも言っているらしいんだ。『私たちの仲間になればこんな贅沢もできるのよって、見せびらかしてやりなさい』ってさ。全く悪趣味だね」
 卯木はそんな話を得意になって士郎に聞かせる一方で、「大阪コネクション」を嫌悪し、あんな薄気味の悪い連中とは関わり合いになりたくないと毒づいた。だから、今、士郎から「大阪コネクション」を敵に回して一戦交えるだけの覚悟と実力が、自分たちにあるのかとたしなめられると、何も言えないのだった。
「じゃあ、どうすればいいんだよ。何もせずこのまま手をこまねいて、自分の人生が磨り減らされていくのを我慢しろとでも言うのか?」
 卯木はさっきまでの勢いを失い、拗ねたようにつぶやいた。
 今度は士郎が攻勢に立って言った。
「そうじゃない。いくつか戦術を考えているよ」
「どんな?」
「まずは足下を固めなきゃ」
「どういうことだ?」
「今の人事課ひとりひとりのことを思い浮かべてみてくれよ。このままじゃ駄目だよ。仮に田宮をうまく排除できたとしても、おれたちは自滅する。おまえはどう思うんだ、おれたちのこのありさまを? おれたちは横の連携が悪く、それぞれが勝手に自分の作業を進めて、全体の調和が取れていない。おれたちのところへは部下の誰からも報告が上がってこないし、どんな指示も貫徹しない。部下たちは目の前の自分の仕事を処理したら逃げるように帰って行く。後のことなんか知ったこっちゃない。給与計算や他の処理でどんなミスが起こっても、社員からどんな苦情が来ようとも、だよ。そもそもおれたちが真に相手にすべきは田宮じゃない。社員だろう。みんな田宮に反発するあまり、自分の仕事に何の誇りも持てず、意欲が湧かないのは十分承知しているよ。でもそれじゃあ、田宮の思うつぼだ。いつまでも田宮の存在に頼ってる。いいか、田宮に頼ってるんだよ。田宮に対する憎しみ以外におれたちには何の求心力も働いちゃいない。このままでは駄目なんだよ」
 すると卯木が目を剥いた。
「それは違うぜ。順序が逆だ。田宮に痛めつけられているからそうなるんだ。毎日のように『大阪の人事課はよくやっている、それに引き替え東京の君たちは駄目だ、大阪の人事課を見習え』なんて言われてみろよ。やる気もなくなるぜ。おまえがいるから東京の人事課はうまく行かないんだって言ってやりたいぜ」
「分かってるよ、そんなこと。でもおれたちがやろうとしていることを考えて欲しいんだよ。世間じゃ部下は上司を選べないと言うよね。しかしおれたちは、部下が上司を叩き出そうとしているんだよ。並大抵のことじゃできないはずさ。田宮がどんなに妨害しようと、それを跳ね除けなきゃ駄目だよ。なぜなら田宮は『東京の人事課が駄目だから、自分がやむを得ず大阪から出張してきているんだ』なんて言っているんだからね。それが彼の出張旅費、40万の口実なんだよ。いつかおまえが言ったとおり、自作自演のマッチポンプもいいところだ。だからいくら『あなたがいなければ、われわれはもっとまともになります』なんて言ったところで、あっさり消えてくれるわけがない。まずわれわれがもっとまともな仕事ができるようになって、われわれの側から田宮を不要にしてしまうしかない。その上で、会社の上層部に示すんだよ。『田宮を取るか、われわれを取るか』ってね」
 卯木は苦虫を噛みつぶしたような顔をして、グラスのワインを飲み下した。卯木は士郎の意見に同意できない様子だった。それも仕方がないと士郎は思った。容易に道筋が見出せるほど単純な話ではなかった。
 確かに士郎には躊躇があった。一旦は精一杯相手を信じて、従ってみる。それが士郎の流儀だった。田宮は人事課の皆から嫌われている。しかし田宮にも田宮の言い分があるのだ。田宮の部下に対する叱責は、厳し過ぎるとは言っても、少なくとも正論ではある。一貫性がないとしても、個別に聞くと、そのまともさが理不尽さに勝る。もしかすると田宮も犠牲者なのかもしれない。何かのきっかけで部下から嫌われたために、あのように偏屈な上司になったと考えられないこともない。しかし、その考えを押し広げてゆくと、ひとつだけ矛盾が生じる。あの空出張とも言える出張旅費である。田宮の振る舞いを歪んだ善意と考えた時、あれだけが説明が付かない。欲得づくの悪意以外の何ものでもない。だから田宮との闘いは避けられないという予感が、早い時期から士郎にもあった。
 2つの道があるのは確かなのだ。人事課が田宮と良好な信頼関係を作ってうまくやってゆくにしても、逆に敵と見なして闘うにしても、しかし当面は同じ道を進まなければならない。それは部下をまとめ上げて、人事課を正常に機能する組織に仕立て上げてゆくことだ。目的が正反対なのに、やがて来る分かれ道までは、手段が同じなのである。その分かれ道がやってくるのは、まだずっと先だ。それは最後の最後、闘いの果てにやってくる。和解するか、とどめを刺すか、である。そうであるならば、今この時点で焦って、2つに1つを選ぶ必要などない。
 その躊躇を払拭できないまま、卯木との間では戦術の話をするのである。卯木の目に、士郎の姿勢が煮え切らないものと映るのも仕方がなかった。それを取り繕うように、士郎はさらに言った。
「ところで、もうひとつ考えている戦術があるんだよ。こっちの方は正しいのかどうか確信はないんだ。おまえにさえ話すのをためらっているぐらいだからね」
 士郎は探るような目で卯木を覗き込み、その反応を測った。
「おい、おい。止してくれよ。おれとおまえの間でそんな言い方をするなよ。ちゃんと話してくれ。聞こうじゃないか」
 卯木は士郎の視線を手で振り払うようにして言った。
 しかし士郎がそれを話した時には、卯木はあきれかえった。そして信じられないというような顔をして、士郎に食ってかかった。
「おまえ、正気か? 言っておくが、早川は田宮の女だぞ」
 士郎は大阪支社の人事課の係長である早川眞紀を味方に取り込みたいと言ったのだ。それに対する卯木の反発は予想通りのものだった。それに対して士郎は白を切るように突き放した言い方で答えた。
「そんな証拠はどこにもない。おまえだって現場を押さえたわけじゃないだろう?」
「そんな現場なんて見たくもないぜ。田宮のやつが一糸まとわぬ姿で女を抱いているところなんて、想像しただけでも胸くそが悪くなる」
「まあ、待てよ。おれたちはまだ早川係長と会ったことさえない。会ってもいないのに敵だと決めつける必要はないんじゃないか?」
「おい、おい。そっくりそのままお返しするぜ。おまえこそ会ってもいないのに味方だと言い切れるのか?」
「味方だなんて言っていないよ。味方に取り込みたいと言ったんだよ」
「どうかしてるぜ」
「それに何も下半身で仕事をするわけではないだろう? 早川係長が田宮部長とどんな関係にあろうが、そんなことどうでもいいじゃないか」
「どうでもよくないぜ。一番大切なことだ。人間の本能なんだよ。そこにこそその人間の素性が表れる。早川は駄目だ。田宮と下半身で繋がっている。田宮の情婦だ。素性からしておれたちの敵なんだよ」
「いや、だからこそだよ。だからこそ彼女を田宮から引き剥がせば、田宮にとって最大の打撃になる。一方、われわれにとっても十分メリットがあるよ。何度か電話で話した限りでだけど、彼女はトランザ独特の不可解な仕事の仕方をよく心得ている。そのノウハウをこちらに取り込むんだよ」
「コントロールできるわけがない。言っておくが、おれやおまえにコントロールできる程、女の下半身は御しやすくはないぞ。それと比べれば、今の人事課のメンバーの性根を叩き直す方が百倍も楽だ」
「敵に回すと厄介なんだよ」
「味方になるわけがない。いや、表向きは味方になった振りをして、裏で田宮に情報を流されてみろ。みすみす身内にスパイを抱え込むようなものだ。それだけは絶対に駄目だ」
 そう言って卯木は胸の前で両手を交差させた。
 士郎は沈黙した。
 卯木は長々と息を吐きながら首を振り、士郎の目を見据えて言った。
「田宮が毎月懐へ入れている40万の金、あれ、ちゃんと家計に入れていると思うか?」
「さあ。考えたこともないよ」
 士郎は自分の考えを卯木にまともに否定されて、少し拗ねた言い方をした。
「入れるわけがない。そんな男がいたら、医者に診てもらった方がいい」
「まあ、普通は自分のポケットに入れるだろうね」
「そして、田宮は毎週大阪に帰っているけど、真っ直ぐ自宅に帰っていると思うか?」
「違うと言うのか?」
「ポケットに40万円入っていて、家庭の外に女がいる。そんな男が何をする?」
「早川と会っているとでも?」
「そう考えるのが自然だろう。そんだけの金がありゃ、豪勢なデートができるぜ。高級ホテルのスウィートルームか、あるいは密会用のマンションでも借りてるかもしれない。いずれにしても、欲望があって、金もあって、知恵もある。ひと言で言えば、やつらは大人なんだよ」
 士郎は再び沈黙して視線を落とした。卯木が言ったことを、士郎は今まで考えてもみなかった。この点では卯木の方が遥かに世慣れている。早川を田宮から引き剥がし、こちらの味方に取り込むという戦術が、果たして正しいのかどうか、最初から自信がもてず迷っていただけに、卯木の言葉が重く応えた。
「こんな下品な話、おれは今まで親しいおまえにさえしなかった。そんな必要はないと思っていたからだぜ。それでもしゃべったのは、分かるな? おまえのその考えだけは絶対に認められない。あの2人の間に割って入って下手な工作しようなんて、危険過ぎる」
 士郎は黙って聞いていた。そんな時の士郎が相手の主張にまだ納得せずに自分の考えに固執していることを、卯木はこれまでの付き合いの中で知っていた。だから卯木は追い打ちをかけた。
「この際だ。おまえの下手な考えはここで叩きつぶしておくよ。いいか。おまえ、田宮と早川のどちらが主導権を握っていると思う? 言っておくけど、仕事の上でと言うんじゃないぜ。男女の関係のことを言ってるんだぜ」
「いや、考えたこともない」
「おい、おい。もう少し敵のことに関心を持ってくれよ。いいか? 田宮は50歳手前、結婚して2人の子どもがいる。早川とのことは不倫だ。奥さんのことは知らないが、子どもは中学生と小学生。まだ教育費がどうとか言う歳じゃない。やつは性格はすこぶる悪いが、がっちりした身体でめっぽうタフだ。おまけに自由になる金を毎月40万持ってる。一部上場企業の人事部長。立派な地位だ。一方、早川の方はどうかというと、30代直前で独身。器量の方はまだこの目で見たことがないから分からないが、人事課の面々が言うには小柄で色白、ぽっちゃりしたタイプらしい。性格には裏表があって、表面では善良そうだが、裏でどんなことを企んでいるか分からない。腹黒いタイプだ。『大阪コネクション』の大阪での留守番役みたいな役回りで、川島常務とも極めて近い存在だ。さあ、この2人がくっついた。割れ鍋に綴じ蓋とでも言うのかな。そこで疑問がひとつ。主導権を握っているのはどっちだ?」
「さあ、分からないよ」
「いいや。おまえは主導権は田宮が握っていると思っているのさ。早川は田宮に口説き落とされたとか、いやいや関係を続けているセクハラの被害者だとか、そんな安っぽいことを考えているんだろう。だから田宮から早川を引き剥がそうなんていう発想が出てくるんだぜ。おれの意見は今言った通り。割れ鍋に綴じ蓋。それでも敢えて言えば、主導権は早川の方にあるような気がするぜ。これには根拠はない。一般的に言って、女の下半身は男の下半身よりも強いからな」
 卯木はそうまくし立てて、さあどうだとばかりに士郎を見据えた。士郎には返す言葉がなかった。それを敢えて言葉にしようとした。
「やっぱりおまえに話したのは間違いだったよ」
「それは違う。おまえの間違いは話したことじゃない。そんなことを考えたことだ」
 卯木の言葉には容赦がなかった。士郎は数年後、この時の卯木の言葉の正しさを苦汁を舐める思いで思い知ることになるのだった。
 2人とも議論に疲れ、ワインの酔いに身を任せていた。
 長い沈黙の後で再び卯木がしゃべり始めた。卯木の口調は愁いを含んで寂しげだった。
「2年間だ」
「何が?」
「おれに与えられた時間さ」
「ああ。前にも聞いたよ。2年経ったら救援ヘリを呼ぶんだろう?」
 士郎は物憂げに卯木の顔を見た。卯木はそんな士郎の反応を探るように言った。
「おれのことをライバルと思うか?」
「ああ、いいライバルだと思っているよ」
「おれを蹴落として這い上がりたいと思うか?」
「いや、そうは思わない。おまえとはむしろ共有すべきものが多いよ」
 士郎がそう言うと、卯木は身を乗り出して早口になった。
「前にも話したろう。おれの親父はおもちゃ屋のチェーン店を経営している。おれもその手伝いをしていたんだ。と言うより、親父はかなりの部分をおれに任せてくれた。面白いもんだぜ、自分の考えがドンピシャと当たってそれが成功するのは。確かにおもちゃ業界は、今後、子どもの数が減ってずっと不況が続く。しかしやりようによっては、ちゃんと利益が出せる。と言っても何も難しいことをするわけじゃない。お客のためにいい商品を安く仕入れて高く売る。基本中の基本。しかしそれを徹底する店は少ない。誰しも努力せずに成果を得たがる。そして自滅するんだ。おれはそんなへまはやらない」
「じゃあ、何でトランザなんかに就職したんだ? おもちゃ屋の若社長に納まってればよかったものを。こんなところで得るものもないだろう?」
「他人の飯を食らって苦労してこいと親父が言ったのさ。おれに足りないのはそれだと。親父からしてみれば、おれはアイデアは勝るが、経営者としての腹が据わっていない。まだ小手先だけの青二才だというわけさ。それでは従業員は付いて来ない。おれの目の黒いうちに修行を積んで帰ってこい。その期限は2年間だと。だからおれは2年したらトランザを去る。既に半年余りが過ぎたから、あと1年半だ。その時おれはこのトランザの人事課がどんな状態だろうと、躊躇なく救援ヘリを呼ぶ。戦場から離脱するんだ。その時おまえはそれを裏切りと思うかもしれない。もちろん途中で投げ出すような真似はしない。きっちり2年間は勤め上げるぜ。その点は安心してくれ。むしろその2年間を死にものぐるいで闘い抜いて、しっかりとおれの足跡をこのトランザに残して行きたいんだ。それがおまえだ」
「おれ?」
「そうだ。あと1年半のうちに、おれはおまえを課長にして見せる。おまえがひとりでも闘えるように、ささやかな力をおまえに残してゆく。それが課長のポジションだ。これは約束だ。男と男の約束だ」
「ああ」
「その代わり、おまえも約束してくれ」
「何を?」
「早川だけは駄目だ。あの女を味方に取り込もうなんて考えは捨ててくれ。おまえみたいなお人好しは簡単に手玉に取られる。きっとそうなる。だからこれだけは覚えておいて欲しいんだ。早川眞紀はおれたちの敵だ」
「よし、分かった。約束しよう」
 士郎は真っ直ぐに卯木を見て言った。
 しかし卯木はその時、士郎の目の中に裏切りを予感させるような光がちらついていたのを見逃さなかった。そのことを卯木はそれから数年後、全てが終わった後で士郎に述懐したのだった。

(11)

 その後も士郎は早川に期待を抱き続けた。田宮の女と噂される早川を、何とかして田宮から引き剥がし、味方に付けることはできないものか。それが田宮の権力を削ぎ落とす決定的な要因となるに違いなかった。
 だから一度早川には会っておきたいと士郎は思い続けた。何度か電話で業務に関するやりとりをした限りでは、士郎には早川がそれほどの悪意を持った危険な女とはどうしても思えなかった。そのことは会えばいっそうはっきりすると士郎は考えたのだった。
 その機会はすぐにやってきた。
 11月になってそろそろ冬の賞与を準備しなければならなくなった頃、早川は東京本社に出張してきた。
 田宮は賞与に関する一切を部下には触れさせようとしなかったが、腹心の部下の早川だけは別だった。賞与支給日までの1ヶ月余りにわたって自分を補佐させるため、早川に1泊2日の出張を命じ、会議室にこもって2人で最初の打ち合わせを行ったのだった。
 昼過ぎに到着した早川は、既に更衣室で制服に着替えた姿で入ってきた。そして田宮の席に行くと何か小声で話しかけた。おそらくは到着の挨拶か何かを口にしたのだろうと思われる。その時、田宮の不機嫌な顔がまばゆいばかりに輝いた。
 早川は士郎のところにも挨拶にきた。
「初めまして。早川です」
「加瀬です。やっとお目にかかれました」
「そんな珍しいものみたいにおっしゃって。加瀬さんの方こそ、お噂はかねがね伺っていましたわよ」
「へえ、光栄ですね。どんな噂ですか?」
「とびきり活きのいい人がお入りになったと」
 士郎はさりげなく視線を這わせて、早川の持ち物に「大阪コネクション」の印を探した。バッグはコーチだ。逆三角形のプレートが付いている。時計は分からない。文字盤の周りにギザギザがないから、少なくともロレックスではない。
 そこへ卯木が不作法に割って入ってきた。
「ほほう。田宮部長がそうおっしゃったんですか?」
 卯木は棘を含んで、まるで早川を挑発するように言った。
「あ、卯木です。活きのよさでは私以上ですよ」
 士郎がそう言って取り繕おうとすると、早川は一瞬の不快な表情をすぐににこやかな笑みで覆い隠し、尖った表情で突っ立ている卯木に対しても優雅に挨拶をした。
 早川が田宮と連れだって会議室へ向かうと、卯木が士郎のそばへやってきて声を落としもせずに言った。
「どうだい、あの仲のいいこと」
「おい、おい。そう尖るなよ。こちらの手の内を全部明かそうって言うのか?」
「心配なんだよ。おまえがあの女に手玉に取られるのがな。さっきのあれは何だよ。何が『光栄です』なんだ? おまえ、あのカエル女に一目惚れか?」
「カエル女って?」
「手足が細くて、胴太り。顎先が喉の肉の中に埋まって、その下がすぐに胸。ありゃあ、まるで、カエルのような体型じゃないか」
 卯木はそこのところを皆に聞こえるようにわざと大きな声で言った。確かに早川は幼児体型とでも言えばいいのか、卯木が言った通りの体型だった。
 それを聞いていた杉山と中川が堪え切れずに吹き出した。人事課のメンバーは田宮と早川の親密さをよほど腹に据えかねていたらしい。それをきっかけにして人事課の全員が、田宮に聞こえよとばかりに大きな声で笑った。人事課は久しぶりに明るい雰囲気に包まれた。隣の人材開発部の社員もつられて笑ったほどだった。
 士郎だけは笑わなかった。そして卯木の袖を引いて小声で言った。
「なあ、止めようよ。人の体型のことでそんなに笑うなんて、人権問題だよ」
 すると卯木は士郎に真顔を向けた。卯木は心底笑ってはいなかったのだ。険しい目がそれを物語っていた。
「人権問題だって? 家にも帰れないでただ働き同然のおれたちの人権は? 昼飯さえ食わせてもらえないおまえの人権は? 理不尽な権力に振り回され、ことあるごとに怒鳴りつけられている、人事課のみんなの人権は?」
 卯木は士郎に対しても容赦がなかった。
 士郎には何となく分かった。卯木は士郎が早川に接近するのを、身体を張って阻止しようとしているのだ。だからあんなに不作法な態度で早川に食ってかかり、今もこうして自らは少しもおかしく思っていない軽口で皆を笑わせているのだ。それは痛々しいほどの気の回しようだった。
「もう分かったよ。この間のことにこだわっているんだろう? おれが早川を味方に付けようと言った? あの考えはもう捨てるよ。そもそも、おまえに反対されたんじゃ、おれひとりで何もできっこないじゃないか」
 士郎がそう言うと、卯木はにこりともせずに小さく頷いた。
 その日も、夜になっても人事課では誰ひとりとして帰ろうとせず、いつ終わるとも知れない残業に突入していた。そこへ会議室から田宮と早川が出てきた。2人は仲良く寄り添うようにして言葉を交わしていた。その時、人事課のメンバーは皆苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
 いくら何でも露骨過ぎる。いつもは生きた心地がしないほどの専制権力を振るうあの田宮が、今日は早川を従えてやに下がり、まるで自分たちに2人の親密さを見せつけているようだ。それに早川も早川だ。あれではまるで夜の接待をするホステスのようではないか。そんなことのためにわざわざ大阪から出張してきたのか。2人の振る舞いによって自分たちの職場が大いに汚された気がする。その時の人事課のメンバーの気持ちはそういったところであろうか。
 その人事課全員の怒りは、田宮が早川をエスコートしてホテルへ引き上げた時に、頂点に達した。
 まず杉山が言った。杉山は本気で憤っていた。その怒りを梅本にぶつけた。
「ねえ、梅本課長。あれはいったい何なんですか? 日頃ホテル代を浮かして会社に寝泊まりの田宮部長が、何で早川係長が出張してくるとホテルへ泊まるんですか? 田宮部長は言ってましたよね。自分だってゆっくりホテルへ泊まりたい。君たちがしっかり仕事をしないから、自分は家族を大阪に残して東京へ出張させられ、夜も寝ないで会社で仕事をしなければならないんだって。あれは嘘ですよね。ただ単にホテル代を浮かして懐へ入れているだけですよね。その証拠に、早川係長が出張してきたら、ちゃっかりホテルへ行くじゃないですか。違いますか?」
 梅本は、日頃寡黙な杉山のあまりの剣幕に絶句した。
 そこへ中川が追い打ちをかけた。中川は学校の生徒のように真っ直ぐ右手を挙げて言った。
「梅本課長、質問です。あの2人はこれから一緒にホテルへ行って何をするんですか?」
 その時は人事課だけではなく、隣の人材開発部からも、反対側の経理部からも、笑い声が漏れた。
 梅本はつられてにやりとしながらも、騒ぎを抑えるポーズを取り繕って言った。
「うーん。まだ時間も早いし、さっきの続きでもやるんじゃないのかな」
 それを卯木が調子づいて混ぜ返した。
「えっ、あの2人、今まで会議室でそんなことをしていたんですか? いったい会社を何だと思っているんだ。けしからんですな」
 これには梅本も笑った。梅本自身も今日1日のことは面白くなかったはずだ。課長の梅本を外して、部長の田宮と係長の早川が打ち合わせをすることを、梅本が快く思うはずがない。だから梅本もこの時ばかりは部下の不満を本気で抑えようとは思っていなかった。部下たちが口々に日頃の鬱憤を晴らすのに、自分も加わりたいほどだった。
「ばかばかしくてやってられませんよ。もう帰りましょうよ。梅本課長だって、もう何日も家に帰っていないんでしょう? こんな時ぐらいは早く終わりましょうよ」
 杉山がそう言ったのに対して、梅本は制止しなかった。むしろその言葉を歓迎している節があった。
「じゃあ、みんなで食事に行きましょう」
 中川がそう言うと、人事課のメンバーは口々に賛成した。
 会社のビルを出たところで、梅本は真っ直ぐ帰ると言い出した。
「たまには子どもの顔を見たいんだよ。加瀬係長、卯木係長。悪いけど、後は頼みます」
 そう言われて卯木は張り切った。
「じゃあ、今日はまず飲んで、それからカラオケに行こう」
 士郎の足は自ずと「ラ・マルセイエーズ」に向かったが、卯木はそれは止めておこうと言い、駅の近くの居酒屋へ皆を連れて行った。
「あそこはおれたちの秘密の場所にしておこうぜ」
 卯木は士郎の耳元に顔を寄せて言った。
 居酒屋では最初から口々に田宮と早川を揶揄する言葉が飛び交った。
「今頃、田宮部長と早川係長は何をやってるでしょうね?」
「早川係長じゃない。カエル女だ」
「カエル女は、もう、パンツ脱いだのかしら?」
「ちょっと、いやだ。露骨過ぎよ」
「今夜は何回するのかな?」
「タミ公のやつ、タフですからね。何度でも際限なく」
「カエル女も相当好きそうだよ」
「そりゃそうよ。あの人、タフな田宮部長が好きなんだもの」
「じゃあ、明日は2人の目の下には隈ができているってわけだ」
「でも、カエル女はお化粧でごまかしちゃうわよ。あの人って絶対に尻尾を掴ませないもの」
「ここまで露骨にやれば頭隠して尻かくさずってやつだよ」
「あれでうまく隠してるつもりなのかしら?」
「この手のことって、現場を目撃でもしない限り決定的な証拠にはならないからな。噂だけなら平気だと思っているんじゃないのかな」
「そうね。田宮部長って相当な権力を持っているようだし。そんな噂が立ってもびくともしないだろうし」
 その時ずっと黙っていた士郎が口を開いた。
「そうかな。本当に権力を持っていることと、権力を振るうことは、別の事柄だと思うよ。つまり、とんでもない勘違いをして、自分の持っている以上の権力を振るうことがあるってことなんだね。誰も何も言わないからといって驕り高ぶっていると、そのうち足をすくわれることになるよ」
 士郎が真顔で静かに話したので、一瞬その場に沈黙が訪れた。そのわずかな気まずさを取り繕おうとして、卯木が茶化して言った。
「何を隠そう、田宮の足をすくうのはこの加瀬係長さ。こう見えても加瀬係長は大胆不敵だからな。そのうち加瀬係長はクーデターを起こすぜ。さあ、みんなでこれから加瀬係長のことを大佐と呼ぼう。加瀬大佐こそ革命の首謀者だ」
 しかしその時杉山は卯木の冗談に呼応せず、冷ややかに疑念を口にした。
「そんなの無理ですよ。岡田社長がタミ公のバックに付いてるのに、いったいどうやってひっくり返すんですか」
 卯木は素早くその言葉に反応した。
「社長がバックに付いているって?」
「社長はよく言うんですよ。『わしの目の黒いうちは社員に給与を払い続けるんや。その点では田宮はようやってくれとる』って」
「そいつは逆じゃないのか? 田宮は払うべき給与を払っていないぜ。現にあいつの口から『払わなくてもすむものは払わない』なんていう言葉を聞いたぜ」
「だからそうじゃなくって、人件費が増えて会社が倒産することを防いでいるっていう意味でしょう。倒産すれば給与は払えない。社員にたくさんの給与を払って会社が倒産するよりも、少しの給与をずっと払い続ける方が経営者としては立派だと言いたいんじゃないですか」
 杉山と卯木のやりとりを士郎は黙って聞いていた。そして言った。
「経営者にしてみれば、替わりがいないから仕方なく田宮なんじゃないのかな。そして田宮部長は意図的にそういう情況を作り続けているんだよ。彼は決して部下を育てない。それどころか部下に対して、それこそ牙を剥き出しにして襲いかかってくる。なぜか? 部下が育つのが怖いんじゃないかな。彼にとって部下は自分の地位を脅かす存在なんだよ。下手に育てればいつか部下に自分の地位を奪われるって思っているんじゃないのかな」
 杉山は士郎の言葉をじっくりと聞き、そこに付け足した。
「この東京の人事課がまともに回るようになれば、少なくとも大阪の人事課からタミ公がてこ入れのために出張してきているっていう図式は成り立たなくなるわけですからね。その時やつは大阪に帰るか、本当に東京在籍になるかどちらかでしょう。いずれにしても、今まで懐に入れてきた何十万もの出張旅費は手に入らなくなるわけですからね」
 それを聞いて卯木が意外そうに言った。
「よく分かってるじゃないか」
 杉山は鼻息を荒くして言った。
「当たり前じゃないですか。早川じゃなかった、カエル女が毎週、毎週、タミ公のやつに渡しているんですよ」
 士郎は再び穏やかに言った。
「だからさ、問題なのはいかにして田宮部長を排除するかということじゃないんだ。田宮部長が権力を振るってやりたい放題ってのは幻想なんだよ。考えてもごらんよ。部長の権力が社長の権力を上回るはずがないじゃないか。しかもうちの社長は創業者でもあり、オーナーでもあるんだよ。社長よりも田宮の方が強いなんて、絶対にあり得ない。杉山君、そうは思わないか?」
「それは、その通りですよ」
 杉山は渋々そのことを認めた。士郎は続けた。
「だろう? しかし、そうは言っても、今のところは社長の信任を得て、田宮が人事部長なわけだ。あの異常者の田宮がだよ。彼が独裁者のように振る舞って、そのせいで会社の人事は正常さを失い、年間800人もの社員が会社を見限って辞めていく。もちろん全てが田宮のせいではない。人材派遣っていう会社の業態そのものの限界もある。しかし田宮は間違いなくそれを助長しているよ。おれは深刻な情況だと思う。それでも彼が人事部長の椅子に居座っている。不思議だよ。それはなぜか。他に替わりがいないからだよ。田宮を外せば、途端に人事部が回らなくなる。少なくとも社長はそう思っている。田宮がそういうふうに仕向けているんだ。これは彼の保身だよ。しかもそのために部下を犠牲にしても平気だというね。だからそこを突き崩す必要があると思うんだ。田宮の仕事をよく見て、そのノウハウを盗むんだよ。そしてアピールするんだ。田宮部長の替わりなんて、おれたちの中の誰かが立派にやって見せますよって。もう田宮部長は必要ありませんよって。社長がそう確信すれば、田宮の首なんて簡単に飛ぶよ。だから重要なのはポスト田宮なんだよ。田宮をいかに排除するかじゃなくて、田宮がいなくなった後、いかにしておれたちが自前でこの人事部を回していけるかなんだよ。おれはそう思う」
 部下たちは共感したのか、反発したのか、分からない。ただ黙って聞いていた。
 士郎はそう言いながらも、情況の複雑さに頭を悩ませていた。田宮の存在を除外して考えても、人事課のメンバーは個性が強過ぎて、うまくまとめてゆく自信などなかった。
 飲んだ後で行ったカラオケ屋は、早々に引き上げることにした。杉山と中川がマイクを離さず、日頃の鬱憤を吐き散らし、絶叫するような歌い方をした。他の者たちは耳を塞ぎ、白けた。
 駅で部下たちと別れた後、卯木が腕時計を見て言った。
「あと1時間、付き合ってくれないか」
 士郎は黙って頷いた。
 2人はレストラン「ラ・マルセイエーズ」へ入った。ワインのグラスを傾けながら、士郎はほっとした。皆でわいわいやるよりも、自分にはこういう飲み方の方があっていると思った。
 卯木が切り出した。
「どうだ、初めて早川と会った印象は?」
「やはり、その話か」
 士郎はうっすらと笑った。そして印象をあっさりと述べた。
「あそこまで見せつけられると、やっぱりな」
「そうだ。最初から分かっていたことだぜ」
 卯木は早川のことはそれ以上言わず、話題を変えた。
「それより、戦術の話をしようぜ。いよいよ闘いを始めようじゃないか」
 卯木は目を輝かせて言った。
 卯木は田宮との闘いを何か楽しいことのように考えている。しかし、と士郎は思う。田宮と闘えば、今の苦しみは緩和されるのか。確かに勝てればそうだろう。しかしそこに至るまでは、今と比較にならない苦しみを味わうことになる。それを勝つまでの一時的なものと言えばそれまでだ。では、そう簡単に勝てるのか。サラリーマンの世界で、部下が上司を叩き出すなどということが、そもそも可能なのか。卯木はそこのところを何か安易に考え過ぎてはいないか。
 それを確かめてみるべく、士郎は卯木に問いかけた。
「やるからには中途半端な気持ちではできないよ。それこそ命がけでやらなきゃ勝てないと思うんだ。具体的には、まず手始めに何をする?」
 すると卯木は待ってましたとばかりにやりと笑い、楽しげに言った。
「考えたプランがある。聞いてくれ。大阪に田宮の自宅があるだろう? その周辺に怪文書をばらまいてやるのさ。『トランザクション株式会社の人事部長の田宮浩之は会社で部下を虐待し、空出張まがいのやり方で毎月40万円もの金を着服している』というような内容でね。文案なら頭の中にあらかた作ってある。いつでも書けるぜ。ついでにやつの奥さんに『あんたの旦那は部下と不倫してるぞ』って、匿名の電話を入れてやってもいい。それから週刊誌に記事のネタを送りつけてやろう。こっちは『今をときめくIT関連一部上場企業の内幕を暴露する』みたいな内容だ。『この会社では年間800名、半減期4年の驚くべきペースで社員が退職している』とか『社長は自分の愛人を役員に取り立て、その時条件として不妊手術を受けさせた、驚愕の事実が今明かされる』なんて言えば、週刊誌は飛びついてくるんじゃないか。そのことのついでに田宮のことも叩いてやればいい。それこそ『部下を会社に監禁して、24時間働かせる異常な上司がいる』とでも書いてやればいいんだ」
 卯木は思いつきの策略を得意げに説明した。
 それを聞いて士郎は頭を抱え、うんざりしながら言った。
「もしかして本気で言っているのか?」
 卯木はむっとして答えた。
「もちろんだぜ。何だ、不満なのか?」
 士郎はやはり卯木との議論はこんなところに行き着くのかと思った。
 卯木は派手なことを好む。そして思い込みが激しい。物事の予測の一面を捉えて、そこに熱中し過ぎる。自分の頭の中に思い描いた絵図を、空想の世界でどこまでも膨らませてしまうのである。確かに卯木は俊敏で鋭い。切れ者と言ってもいい。しかし脆い。後先考えずに直感で行動し、そして失敗する。士郎はその失敗の様をまだ目の当たりにしてはいなかったが、それを予感としてはっきりと察知していた。
 元々士郎が田宮との闘いを避けがちだったのは、相棒である卯木の性格の中にこの傾向を読みとっていたことも理由のひとつだった。その弱点を克服せずに闘いに突入すれば、きっと負ける。自分の戦術に溺れ、自分の撃った弾が跳ね返ってきて、呆気なく倒れる。そんな闘いを挑むのは滑稽ですらある。
 士郎は鼻息の荒い卯木を前に、ことさらゆっくりと息を吸い、手のひらを顎の下で組んで、穏やかな微笑みさえ浮かべて見せた。そして言った。
「田宮の強さの源泉は何だと思う?」
 卯木は士郎の問いの意図を即座に理解した。士郎がこうやってわざとらしいポーズを作り、じっくりと構えて議論に誘う時には、何か深い考えがあってのことである。士郎はいつもこうやって相手を自分の土俵に引きずり込もうとする。卯木は警戒すると同時に、士郎の仕掛けてきた議論を受けて立とうと奮い立った。そして吐き捨てるように言った。
「田宮の強さは強欲、厚顔無恥、冷酷非道、独裁専横。要するにあの徹底したファシスト振りだぜ。あんな人間には、今どき、滅多にお目にかかれないよ」
 士郎はそれをひとつひとつ頷きながら聞いた。しかし最後には首を横に振って言った。
「おれは思うんだけど、今おまえが言ったことって、全部田宮の弱さだと思うんだよ。それらは田宮が自分で抱え込んだ爆弾で、いつかあいつは自爆するよ」
 卯木は唖然とした。そして引きつった笑いを浮かべた。
「おい、おい。おまえの言っていることが分かんねえぜ。じゃあ、田宮の強さはどこにあるってんだ?」
 士郎はまたもや繰り返される堂々巡りの議論に喉をひくひくさせ、士郎の説明をいっこうに理解しようとせず、いつも同じところで足踏みする卯木の質問に答えて言った。
「おれたちなんだよ。田宮の強さは、おれたちの弱さなんだよ。それしかない。田宮は自分で自分の強さを作り上げたのさ。部下を虐待し、組織を寸断することによって、人事課そのものを弱体化させ、それが自分の強さを作り上げると、あいつはちゃんと分かっているのさ。その結果、経営者たちには人事課には田宮が必要だと思い込ませることができるし、出張扱いで大阪から東京にてこ入れに来ているんだという図式も成り立つ。こういったものは田宮の練り上げてきたマヌーバーなんだよ。田宮はそういうやり方で、このトランザの中に独立王国を築き上げてきたわけだ。小賢しいやり方だよね。これを切り崩すためには、田宮なんか必要ない、人事部の仕事ならおれたちが立派に切り盛りしていけるってことを、はっきり経営者たちに示さなきゃ。そうすればいくら無能な経営陣だって、田宮のような危険な人物を好んで人事部長に据えておくつもりはないだろう? だからこれは真っ向勝負なんだよ。それがおれの考える戦術だよ。部下たちを育て上げ、この人事課を強くするにはどうしたらいいのか。しかも田宮抜きでね。いや、田宮の妨害を跳ね除けてって言うべきか」
 卯木は考え込んだ。そして疑り深い目で士郎を見ながら言った。
「おまえの言うことも一理ある。しかし、そんなんで勝てるのか?」
 士郎は苦笑した。
「『そんなんで』って言うほど簡単なことじゃないんじゃないかな。もっとも、どんな企業でも多少ともうまく行っている企業なら、組織の運営は普通の努力で普通にできているよ。ただ、おれたちの背負った大きなハンデーは、それを上司と敵対しながらやっていかなければならないことさ。おれたちの努力のひとつひとつは田宮によってきっと潰されてゆく。その点では田宮はばかじゃない。おれたちのやろうとしていることを見抜いて、本気で潰しにかかってくるよ。その時梅本さんは当てにはできない。むしろおれたちにとっては邪魔かもしれない。杉山たちだって、おれたちに喜んでついてくるとは限らない。こんなのはできれば避けたい、辛い闘いだからね。そうなってくれば、頼れるのは互いに、おれたちだけだよ。それでも闘う決意がおれたちにあるのかどうか、だよ」
 最後の言葉は士郎の卯木に対する挑発だった。今になって卯木が尻込みしないかどうかが心配だった。さっき士郎は卯木の戦術を言下に否定した。卯木にしてみれば面白くないだろう。へそを曲げるかもしれない。いっぽう、士郎の考える戦術は地味で平凡だ。それによって卯木が興醒めすることだってあり得る。
 しかし卯木は自分の意見にはこだわらず、潔く言った。
「よし、それで行こう。おまえの戦術に賛成するよ」
 士郎は卯木のその言葉を捉えて、即座に結論をまとめ上げた。
「では、時期を見て動きだそうか。そのためにはもう少し詳細なプランが必要だね。まずはそれを作ろう。『人事課正常化計画』を考えているんだ。そのために少し時間をくれないかな。練り上げて計画書にしておまえに見せるよ。その後で、部下たちを集めて戦術会議だね。杉山のやつ、田宮を刺し殺したくてうずうずしているらしいから、多少とも闘う元気はあるんだろうな。いよいよ闘いの開始だよ」
 卯木は口元に不敵な笑いを浮かべて、士郎の言葉に頷いていた。
 その後、士郎はじっくりと時間をかけて人事課の諸問題を分析し、戦術として成り立つ糸口を探した。問題点を列挙するのは比較的容易だった。しかし問題のほとんどの部分は、泥沼のような悪循環を構成している。考えれば考える程、鶏と卵の関係に陥り、容易に手が出せない。しかも、余力が全くない状態で取り組まなければならない。かなり手足を縛られる。
 だから、士郎の考えは一点に集中した。それはどこから始めるべきか、である。そこに時間を費やせば、たちどころに効果が表れ、費やした以上の時間が浮いて確保できる、そのような好循環を組み立てることである。その浮いた時間で、さらに次の改善に着手すれば、好循環は可能なのである。しかし、士郎はこの時まだ、それがパンドラの箱を開けることになろうとは、予想していなかった。