第10章

(1)

 士郎が退職を決意した時、既にトランザクション株式会社で為すべきことは全て終えていた。卯木が先に退職した後、2年の間に、人事考課、給与改定と賞与、そして時間精算もきれいに片づいていた。
 給与計算の責任者の立場はチーフの水島に引き継ぎ、士郎は専らこういった大がかりな力仕事を任されるようになった。ほとんどは部長の田宮がやっていたことだった。それをそっくりそのまま、係長の士郎がこなす。士郎は内心大笑いだった。
 全て解明してしまった後では、田宮が仕組んだブラックボックスなど、恐れるに足りない代物だった。人事考課の点数を昇給の係数に換算するのは、いびつな形をした3次関数に過ぎなかった。その関数を突き止めるには2日とかからなかった。方眼紙にX軸とY軸を引いて座標をポイントしてゆけば、関数がそのままグラフとなって現れてくるはずだった。士郎の作業がほぼ完成に至った時、情報システム室から他ならぬそのグラフが出てきた。それは士郎の突き止めつつあったのと寸分違わぬものだった。士郎は苦笑してその紙片を受け取った。
 昇給額の計算式は、役職と職種、そして昇格の有無の組み合わせによって、12種類の計算式が当てはめられる仕組みだった。確かに複雑怪奇ではある。しかしそんなもの、一旦パソコンの表計算ソフトに計算式を組んでしまえば、あっという間にできあがる代物だった。田宮のノートパソコンがなくても、実際には何の問題も生じなかった。
 2年の間に4回の賞与があった。賞与の査定には、各部署の所属長による評価の後、2人の前副社長による微細な調整の過程があった。これこそ田宮が最も得意がって担当していた業務だった。100円単位の細かな指示を受けては、情報システム室に依頼してリストを印刷し直す。そしてまた微細な調整をするのである。1日中役員室にこもって、深夜まで、延々とそんなことを繰り返すのである。それを士郎が担当するようになった今、田宮が果たしていた役割など、子どもの使いに等しかったのだと悟った。
 士郎は前副社長たちが加える金額調整の目的を論理的に解明した。前回の賞与と比較して、個人評価が上がったにもかかわらず、部門評価が下がったために賞与金額が下がった者は、救済する。逆に個人評価が下がったにもかかわらず、部門評価が上がったために金額が上がった者からは、削り取る。いわばこれは人情の問題だった。こんなものは鉛筆を舐めながら老人たちがやる必要はない。パソコンの中で簡単にはじき出すことができる。事実、士郎が担当するようになった2回目の賞与からは、対象者を抽出したリストに基づき、一定のルールに従って、各部署の所属長に委ねられることになった。
 もはや人事考課から賞与に至る過程で、田宮が仕掛けたブラックボックスは消滅した。それらは仰々しくブラックボックスなどと呼ぶには、あまりにもお粗末で拍子抜けするほどだった。こんなものが田宮の切り札だったのだとすれば、士郎は敵の力を過大評価して、その幻影に怯えていたに過ぎない。自分たちが強固に支配されていると思い込むことによって、図らずも田宮の権力を支えていたのだと悟った。
 それよりも時間精算の方が難航を極めた。士郎が制度の改正を手がけた2年の間に、一度、敵の側からの巻き返しがあった。士郎が作った資料を「大阪コネクション」が振り回し、「このままではコストが際限なく膨らむ。時間精算の担当に早川課長を加えろ」と騒いだ。会社の主流派上層部はそれを川島専務の巻き返しと恐れてうろたえた。そのパニックを抑える力は働かなかった。結局この年には彼女たちの金切り声に押し切られ、制度改革は挫折した。
 しかし翌年には今度は士郎の側が巻き返しを図った。そのために士郎はどれほど膨大な資料を作ったか知れない。法律や判例を研究し、知識を蓄え、労働基準法を楯に論陣を張ったのである。この時には負ける気がしなかった。そして、その頃会社が遅まきながらコンプライアンスを重視し始めたことが、士郎にとってまたとない追い風となった。裁決は役員会での社長のひと言である。「払ってやれ」。社長ははっきりそう言った。
 士郎は揺れ戻しの可能性を摘んでおこうと、敵を深追いした。係長・チーフクラスを集めて連日の説明会を行い、旧制度の違法性を徹底的に暴露したのである。労働基準法の条文を引用し、正しく時間精算を行うための計算式も明記した。それ以外の計算方法は違法であると言いさえした。後になって考えれば、あの過激な説明会によくブレーキがかからなかったものだと思う。きっと物事が変化する時というのは、あんなふうに勢いづいて進むものなのだ。
 その間、早川はことさら士郎のことを無視した。早川があからさまに士郎に敵対しないのは、彼女にとってむしろ賢明であった。いや、士郎の目にはずる賢いとさえ映った。社内での「大阪コネクション」の影響力が凋落した今、早川は自分の立場を明らかにしない方が得策なのだ。かつて田宮と一緒になって、旧制度での時間精算を擁護したことなど、おくびにも出さない。
 つくづく士郎は嫌気が差してきた。小悪党の田宮など、自分がしゃかりきになって闘うほどの相手だったのか。田宮の情婦だなどと、早川をこれほどまでに軽蔑することに何の意味があるのか。現に、闘いがほぼ終結した今、自分の手に何が得られただろう? 会社での地位が上がったわけでもなく、勝利者の名声を得られたわけでもない。実利ではなくて自分のプライドをかけた闘いだったのだと自分に言い聞かせてみても、それではこの敗北感をどう説明すればよいのか。6年の歳月を費やし、失ったものの方が多かったようにさえ思える。
 だから卯木の方が正しかったのだ。田宮の抜けた穴を自分が塞ぐのだなどと士郎が最後まで鼻息を荒くしたのは、とんだ道化であり、ひとり相撲に過ぎなかった。権力を剥ぎ取られた田宮などにいったい何ができると言うのか。どんなに田宮が暴れたところで、この人事部に舞い戻ってくることなどあるはずがなかった。そもそも田宮が人事部を去ることによって特別の大穴などが空くはずもなかったのだ。田宮はそう思わせることによって人事部長のポストに居座り続けたが、それは皆が信じ込まされてきた幻影に過ぎなかった。結局のところ、田宮が権力を持っているから皆が恐れたのではなかった。むしろ皆が恐れることによって田宮に権力を与えてきたのである。だから士郎は思った。自分がやってきたことはとんだドン・キホーテだった。今度卯木に会うことがあれば、そう言って笑わせてやろう、と。
 周囲を見回してみても、当初からの人事部の同僚はひとりも残っていない。士郎は指折り数えてみた。最初の退職者は小柳だった。しばらく時間をおいて、2人の新入社員が逃げ出した。次が中川で、その次が寺島と斉藤だった。斉藤の後任の新入社員もすぐに辞めた。その後、太田が結婚退社した。
 田宮が人事部から追放された後も退職者は続いた。4月半ばに課長の梅本が去り、末には卯木が退職した。5月末には杉山と末永がやはり退職した。夏の賞与の後、柴田が資格を取って堂々と転職し、2年目となった2人の女子社員も続いた。退職ラッシュと言えるような情況だった。それは周囲の部署から大いに不思議がられた。田宮がいなくなって、さあこれからだという時に、なぜ皆こぞって辞めてしまうのか。せっかく今まで地獄のような職場で耐えてきたのに、もったいないとは思わないのか。これはもっともな疑問である。長くつらい闘いに勝ったのに、勝利者らしい喜びを、人事部では誰ひとりとして表していなかった。むしろ惨めで投げやりな気持ちでいる。なぜそんな気持ちになるのか。その答えは、今では、おそらく士郎にしか分からない。
「やっぱりおまえらは田宮さんがいなけりゃ駄目なんだよ」
 これは士郎に対して村尾が好んで口にした言葉だ。士郎はこう言われると押し黙ることを、村尾はよく知っていた。だから村尾は士郎を叱責する時、まるで切り札のようにこの言葉を使った。しかし村尾は勘違いしていた。その時士郎が押し黙るのは、村尾に対して恭順を示してではなかった。煮えたぎる怒りを抑えるために歯を食いしばったのである。
 村尾は人事部の中心に士郎がいることが気に食わなかった。そのために自分の存在感が薄くなるような気がしたのである。だから士郎のもつ特別の求心力を剥ぎ取りにかかった。そしてそれは簡単に成功した。それも当然である。年齢は2つしか違わないとは言え、村尾は役員であり、士郎は係長に過ぎない。初めから村尾の立場の方が優位にある。村尾には士郎の頭を押さえつける必要など、最初からなかった。
 村尾は、結局、士郎が持っていた求心力を自分に引き継ぐことには成功しなかった。その時点で人事部から英雄は消えた。田宮が恐怖の独裁で君臨し、士郎は独裁と闘うレジスタンスを掲げた。村尾はせいぜい漁夫の利を得ようとしたが、そのことを見透かされて信頼は損なわれた。それでも村尾は取締役である。村尾に付き従って利益を得たいと思う者は常に現れる。中途採用で新しいメンバーが続々と入社してきて、村尾を中心に、過去を知らない新しいグループが形成されていった。いわばトランザクション株式会社の人事部も、ありふれた普通の職場になったのである。
 村尾がトランザクションを退職したのは、士郎の退職のほぼ1年前である。退職の理由は、本人からの一斉送信メールで、他業界のある会社から役員として迎え入れられることになったからだと説明されていた。それは長々しい言い訳じみたメールだった。しかし村尾の退職後、本当の理由は秘書課の女子社員にセクハラの訴訟を起こされたからだと、噂で聞いた。あり得る話だと思ったが、その真偽を士郎は知らない。
 村尾の後を追うようにして、ほどなく笹本も退職した。士郎は「ご主人様がいなくなったら飼い犬まで消えるのか」と陰口を叩いた。その陰口が本人の耳に入ったらしい。笹本は士郎を手招きし、わざわざ士郎にパソコンの画面を見せて、元の会社から帰ってこないかというメールが来たのだと、説明した。そのうろたえ振りに、よほど後ろめたい気持ちがあるのだろうと、かえって士郎は邪推した。
 笹本がトランザクション株式会社を退職後、パソコンメーカーに復帰したのは事実らしい。辞めた時には次長だか課長だったが、帰った時にはヒラだったという、その噂は士郎の耳にも入った。戻ってこいと誘っておきながら、その招きに応じた時には降格で冷遇というのはあんまりな会社である。それとも招かれて戻ったという話が嘘だったのか。逆に、戻してくれと笹本の方から泣きついたのだとすれば、むしろこちらの方が話の筋が通っている。どちらにしても、士郎にとってはもはや他人事である。それを追及する程の興味はない。
 その後の1年の間に、人事部には3人の部長が、入れ替わり立ち替わり入社してきては辞めていった。その在職期間は、短い者で3日、長い者でも半年あまりだった。それが士郎には理解できなかった。なぜ部長という重責の立場にある者がこうも軽々しく辞めていくのか。こんな形で辞めて、次の仕事がそう簡単に見つかるのか。エグゼクティブの世界というのは、それ程の身勝手でも高給が得られるものなのか。そんな者たちから見たら、士郎や卯木などは地べたを這っている虫けらにしか見えないのかもしれない。しかし、彼らの半分にも満たない給与で、士郎も卯木もいったいどれほどのことを担わされてきただろう。
 中途入社してきた担当者クラスの人数はもっと多い。この2年ほどの間にすっかり入れ替わったのだから当然である。もはや田宮時代のことを直接知る者は、課長の早川を除けば、士郎しかいなくなった。しかし早川はその時期を大阪支社で田宮側に身を置いて過ごしたのである。だから正確に言えば、田宮時代に東京本社の人事部でどのような抑圧があったのかを直接知る者は、士郎しかいなくなってしまったのである。士郎にはそれが我慢ならなかった。自分たちの苦しみも、闘いも、そして勝利さえもが、こうやって風化してゆく運命なのである。
 もっと不愉快なこともあった。それは新しいメンバーの誰かの歓迎会でのことだった。村尾が去った後、人事本部長に就任した常務の下沢が、士郎のことをこんなふうに紹介した。
「加瀬君はね、随分苦労をしたんだよ。今や旧人事部の最後の生き残りなんだよ」
 下沢はいつものように脂肪で膨れた腹を揺すりながら、野太い声で言った。
 士郎はとっさに怒りに震えながら、激しい勢いで食ってかかった。
「旧人事部って何なんですか。田宮体制のことですか。私がその最後の生き残り? ふざけんな。あんた、いったい誰に向かって言ってんだよ」
 一瞬、歓迎会のざわめきが沈黙した。
 士郎の恐ろしい形相に、下沢はうろたえて言った。
「何が気に食わんのか知らんが、悪気があって言うとんのと違うやないか。君の苦労をねぎらうつもりで言うてんのに、何をそんなに怒ってんねや。見ろ。せっかくの歓迎会が君のせいで台無しや。ええかげんにしとけや」
 士郎はこれ以上の侮辱に耐えられず、歓迎会を退席した。
 こんな時、卯木がそばにいてくれたら、どんなに気持ちが安らいだだろうか。少なくとも士郎の不満を聞き、理解してくれただろう。しかしその卯木ももういない。士郎はひたすら自問自答して、腹の中で炸裂した怒りの破壊力に耐えなければならなかった。
 下沢はその頃大量にトランザクション株式会社に流入してきた、リクリエイト社からの転職組のひとりである。リクリエイトの社員たちは企画力に優れ、他業界に転職しても次々と成功を収めていると、ビジネス誌でもてはやされていた。下沢自身もそれに気をよくして、その雑誌記事のコピーを人事部内に回覧させたりしていた。彼らはトランザクション株式会社内でも、次々と各事業本部の本部長や上級スタッフとして、要職を占めるようになっていた。確かに彼らに「企画力」があることは、士郎も認めざるを得なかった。会議でプレゼンテーションなどをさせれば抜群の能力を発揮した。そのセンスのよさは士郎など逆立ちしても足下にも及ばない。悔し紛れに士郎は彼らのことを「お絵描きで遊んでいる暇な連中」と揶揄した。
 士郎も卯木も自ら血を流して闘った。その闘いの後にぞろぞろと戦場にやってきて、傷ついた兵士を押しのけ、自分の天下と言わんばかりに我がもの顔で振る舞う。彼らの存在そのものに、士郎は自分のプライドが汚されたと感じて、我慢がならなかったのである。
 その中のひとりである下沢から「旧人事部の最後の生き残り」などと言われたことが、士郎の逆鱗に触れた。それに反論して、自分こそは新人事部の最初のひとりだったと言えばよかったのだ。村尾と手を組み、田宮を追放したのは、他ならぬこのおれたちだと。しかし、言ってどうなる? この喪失感の理由は? 結局のところ、あの闘いには何の意味もなかった。いや、本当にそうなのか。田宮に対する怒りと憎しみは? あれは誤解や錯覚だったとでも? いや、譲らない。それだけは絶対に譲らない。
 士郎が頑なになればなるほど、職場では敬遠され、孤立した。いや、むしろ士郎の方から一線を画したと言うべきか。職場の同僚とは決して交わろうとせず、孤高を貫いた。その後の歓迎会も送別会も、一切参加しなかった。それどころか、職場ではほとんど口も利かなかった。
 同僚たちは腫れ物に触るように士郎に接した。士郎の前では田宮の名は禁句とされ、誰も口にしようとしなかった。その扱いにくさに同僚たちは辟易した。そこにつけ込んで、早川が得点を稼いだ。
「過去のことにいつまでもこだわっていないで、私たちはこれからのことを考えるべきよ」
 新しく入ってきた社員たちは早川になびき、自分もいつかは早川課長のようになりたいと、尊敬の念を抱いた。
 士郎はそれを視野の片隅で捉え、もはや相手にしなかった。
 最後の1年間、士郎は残業するのを止めた。毎日5時45分になれば、さっさと職場を抜け出した。ほんの少し前まで、来る日も来る日も会社に泊まり込んで、出口の見えない迷路に閉じこめられていたのが、まるで嘘のようだった。今や時間はふんだんにあった。
 まずは歯医者に通った。士郎の奥歯にはもはや健康な歯は一本もなかった。田宮に強いられた過酷な生活のせいで、歯までが痩せ、かつて治療した詰め物が緩くなってぽろぽろ取れた。大穴が空いて弱くなった歯は、ちょっとしたことで次々折れていった。
 士郎の口腔内を診察した歯科医は呆れたように言った。
「よくここまで放っておきましたね。加瀬さんのお口の中は60歳代のものですよ。これではほとんど噛めなかったでしょう?」
 士郎は完治するのかどうか心配になったが、腕のいい歯科医だった。がたがたになっていた士郎の歯を、すっかり元通りに治療してくれた。その代わり、通院が終わるまでに、半年もの期間がかかった。
 次に士郎は人間ドックを受診した。トランザクション株式会社に在籍した6年間の間に、士郎はただの一度も健康診断を受けさせてもらえなかった。その間、苦行のように身体を酷使してきた。だから心配だった。次の定期検診を待ってなどいられない。思い切って自費で受けた。その結果、胃にポリープが3つと、腎臓に小さな結石が見つかった。今の時点では心配要らないと医者は言った。微妙な言い方だった。長生きできるのか。田宮よりも先には死にたくない。
 その後の数ヶ月は、本屋に寄ったり、CDショップに寄ったりして、孤独な時間を過ごした。6年間の間にテレビを観る習慣をすっかりなくしていたので、世間が今どうなっているのか、さっぱり分からない。仕方がないので、文学は古典ばかりを読み、音楽は1980年代のものを中心に聴いた。これらは士郎のリストに長らく載っていたもので、そのうちいくらかがようやく消化できた。
 冬がやってくる頃になると、寒さが孤独に応えた。自分の居場所が見つからず、東京駅構内の喫茶店でコーヒーを飲み、ぼうっとすることが多くなった。通路の雑踏の中で、その喫茶店の一画だけが寂れたような雰囲気を漂わせていた。だから士郎のような行き場のない客でも歓迎されそうな気がしたのだ。そこで士郎は1時間でも2時間でも、空っぽの時間を過ごした。その間に客は数えるほどしかやってこない。こんなのでこの店はやっていけるのかと思った。薄暗くて陰気な店だった。白衣のようなものを着た、見るからにくたびれた女がひとりでやっていた。しかもこの店にやってくる客は皆、士郎と同じ匂いを発散させていた。会社の帰りに士郎はいつもここでコーヒーを2杯飲み、少しでも売り上げに貢献しようとした。そこが士郎にとって、数少ない、大切な居場所のひとつだったからである。
 店のカウンターで頬杖を突き、目的のない時間を過ごしていると、時々やるせない喪失感に襲われた。こんなことでいいのかと自問した。人生を無駄にしている焦りがあった。何かを始めたかった。また小説でも書いてみようかと思った。その店で冬子と出会ったのはそんな頃だった。美しい女だと思った。ちらちらと盗み見すると、時々目が合った。目で挨拶を交わした。そして突然会話が始まり、士郎は嘘をついたのだった。
「お仕事は何を?」
「小説家だよ」

(2)

 3月の初旬に、士郎は退職届を提出した。退職の日付は3月末としておいた。課長の早川は澄ました顔でそれを受理した。社会保険担当者には、求職活動はしないから、職安に提出する離職票は要らないと告げた。歓送迎会の幹事には、送別会は開くなと言った。
 トランザクション株式会社での最後の数週間、もはや何も変わり得ない日々を、士郎は淡々とやり過ごした。そして脳裏をよぎる最後の疑問と向き合った。引き継ぎも終わった今では、時間はふんだんにあった。ぼんやりとパソコンの画面を眺めて、何時間でも考え込むことができた。
 その疑問とは、田宮と早川の関係において、どちらが主導権を握っていたのか、である。言い換えれば、士郎の本当の敵は、田宮なのか、早川なのか、である。その疑問が頭から片時も離れず、士郎はひたすらその答えを探し求めた。もし答えが見つかるなら、それが士郎の闘いの帰結だった。
 しかしその一方では、士郎はその答えはもはや見つからないものと、半分以上諦めていた。それを知ってどうなるものでもなかった。全てをかけて敵と闘うような人生は、もうまっぴらだった。士郎は疲れ切っていた。癒されたかった。そこで最後の疑問に答えが見つかれば、闘いに自ら幕を引くことができそうな気がしたのだ。自分自身を黙らせるにはそれしかなかった。だから勝手に決めつけてもよかったのだ。早川が田宮を操ったのだ、と。
 ぼんやりと考えごとをしながら歩いている士郎を呼び止める者があった。
「加瀬係長」
 その声に振り向くと、それは経理部の鷹山課長だった。
 鷹山は士郎よりも3歳ほど若い、この会社の生え抜きの社員だった。士郎たちの起票した伝票を田宮が何日も留め置いて嫌がらせをしていた頃、最も迷惑を被ったのはこの鷹山だった。巻き添えを食って夜遅くまでの残業を強いられた。それでも鷹山は士郎を責めなかった。人事部の事情を察して、士郎から提出されるはずの伝票をいつまでも待ってくれた。その鷹山も、今では係長から課長に昇格していた。
「ああ、鷹山さん」
 呼び止めたのが鷹山と知って、士郎はほっとするように笑った。
 鷹山は士郎にいつもの好意的な笑顔を浮かべて言った。
「卯木さんがいなくなって、寂しそうですね」
 鷹山の口から聞いた卯木の名は、2年間の空白を越えて、士郎の心に誇りを呼び覚ました。
「ええ、寂しいですよ。みんないなくなってしまう」
「惜しい人でした。お2人でどこまでのことをやってくれるのかと、わくわくしながら期待して見ていたんですがね。もう少しのところで離れられてしまいました。実に残念です」
「もう少しのところとおっしゃいますと?」
「その話はこんなところではできません」
 鷹山はそう言うとにやりと笑った。そこに士郎は何か思わせぶりな気配を感じた。
「妙なことをおっしゃいますね? つまり鷹山さんはここでは口にできない何かをご存じなわけだ。どうでしょう? その話、じっくりお聞かせいただきたいもんです。早速、今夜辺り、いかがですか?」
 すると鷹山はその言葉をこそ待っていたかのように言った。
「お、いいですね。やっと私にもお呼びがかかったようです」
「では7時に下のエレベータホールで」
 士郎は鷹山とそう約束して席に戻った。

(3)

 士郎はいつも通り5時45分に職場を抜け出すと、1時間ほど近くの本屋で時間を潰し、7時前に会社のビルに戻って鷹山と落ち合った。
 その夜、鷹山は士郎を近くの居酒屋へ連れて行った。ビールを飲んで、鷹山はしみじみと言った。
「卯木さんが去られて、ほんとに寂しくなりましたね」
「ええ。私にとっては唯一の味方だった。この2年間、ひとりぼっちになってしまいましたよ」
「そんなふうに思っているんですか? だとしたら私たちはもっと寂しいですよ」
 鷹山はそう言って曇った顔をした。まるで士郎を非難しているようだった。
「と、おっしゃいますと?」
「いったい何人の味方が陰ながらあなたを応援していると思っているんですか? それともこのトランザの社員はひとり残らず腐っているとでもお思いですか?」
「いえ、そんなつもりで言ったのでは…。鷹山さんには随分助けられました。感謝していますよ」
「いいですか? 私たちはこのトランザをまともな会社にしたいと言う気持ちでは、あなた方に少しも劣っていないつもりです」
「ええ」
「ただ、私たちはあなた方ほど矢面に立つ勇気がなかった」
「別にわれわれに勇気があったわけではありませんよ。追いつめられてやむなく闘わざるを得なかっただけです」
「たとえそうであっても、あなた方は踏みとどまった。立派なことですよ。今まで誰もそうしなかった。普通なら逃げ出すところでしょう」
「ただばかなだけですよ。それほどの機転が利かなかっただけです」
「ご謙遜を。まあいいです。そんなことを話しに来たんじゃない」
「その前に…」
 士郎は手で鷹山の言葉を制した。
「何ですか?」
「今『私たちは』とおっしゃいましたね。いったい誰のことなんですか? 鷹山さんはどんなグループを代表しているんですか?」
「グループだなんて、そんな特定の集まりではありませんよ。言ってみれば心ある社員たち、良心派とでも言っておきましょうか」
 士郎は怪訝に思った。今になっていかにも思わせぶりな態度で士郎に言い寄ってきたこの鷹山は、何か特定の意図や利害を持っているのかもしれなかった。ここで不用意なことをしゃべって、どこかのグループなり派閥なりからの望みもしない介入を招く必要などなかった。
 そんなふうに考えた士郎の胸の内を見透かしたように、鷹山は笑った。
「そんなに身構えないでくださいよ。卯木さんはもっと私に心を開いてくれましたよ」
「卯木が?」
「そうですよ。卯木さんはこうおっしゃいました。『情報をくれさえすれば、動くのはおれたちの役回りだ』とね。だから卯木さんには田宮部長の空出張の伝票をコピーしてお渡ししたり、私たちもいろいろ便宜を図って差し上げたんですよ」
 それを聞いて士郎はやっと分かった。卯木が独自の情報網を駆使して様々な資料を得てくるのに舌を巻いたものだが、この鷹山たちが卯木に協力していたのだ。いや、むしろ卯木は鷹山に踊らせていたとさえ思える節がある。そう思うと、今士郎の目の前にすまして座っている鷹山のしたたかさが小憎らしくなってきた。
「なるほどね。そういうことだったんですか。しかしそれはあまり愉快な話ではありませんね」
「そんなに邪険にしないでくださいよ。私は加瀬さんの味方ですよ。信じてください」
 困った顔でそう言う鷹山の言葉に嘘はなさそうだった。
「では、本題を聞かせていただきましょうか。さっきエレベータのところでおっしゃっていた『もう少しで』って、どういう意味ですか?」
 士郎がそう言うと、鷹山は苦笑した。
「随分せっかちなんですね。その前に、加瀬さんは誰と闘っているおつもりなんですか?」
 鷹山はそう言い置いて、すました顔でビールをひと口含んだ。
 士郎は一瞬言葉に詰まった。この鷹山に対してどこまでを話していいか迷った。しかし結局は正直に言った。
「実はここへ来て分からなくなってきているんですよ。今まで田宮部長と闘ってきたつもりだったんですが…」
「しかし本当の敵は彼の背後にいるんじゃないかと?」
「背後と言うのか、何と言うのか…」
「歯切れが悪いですね。それはまだ私を警戒しているからですか? それとも本当に分からない?」
「いえ、警戒だなんて、そんな…」
「では、私の方からお訊きしましょう。田宮元部長と早川課長と、どちらがより手強い敵ですか? もっと言えば、どちらがより憎いですか?」
 鷹山は士郎をやり込めて楽しんでいるようにさえ思えた。
 士郎は正直に答えた。
「そこなんですよ。そこのところが私には分からない。あの2人のどちらが主導権を握っているのか。金の流れからすれば、田宮が主で早川が従でしょう。しかし下半身の関係に着目すれば、早川が主で田宮が従ということも十分あり得る。しかし早川がそこまでの悪だとも思えないんですよ。田宮からどれほどの金や悦楽がもたらされているのかは知りませんが、早川だって一種の被害者であることもあり得るんじゃないかとね」
「なるほど。卯木さんのおっしゃる通りです」
「と言うと?」
「女性に甘い。お人好し過ぎる。だから卯木さんはお辞めになる前に私に言ったんですよ。『あいつは早川に対して無防備だから気を付けてやってくれ』と」
 士郎はむっとした。そこまで鷹山に言われる筋合いはない。それに卯木も卯木だ。盟友の自分を信頼せず、鷹山にお目付役のような役割を依頼するとは。そこで士郎は皮肉を込めて言った。
「では、鷹山さんのご高説を拝聴させていただきましょうかね」
「おや、お気を悪くされたんですか? もしそうならご勘弁を。しかしご自分で気が付きませんか? 2人の間の主従関係を問題にすることの誤りに」
「は?」
「つまり、田宮元部長と早川課長を常に2人セットで考えることが、加瀬さんの誤りの原因ではないかと思うのですよ。この誤りはいく分卯木さんにもあったようですがね。だから卯木さんも結局のところ加瀬さんを最後まで納得させることができなかった」
「おっしゃることがよく分からないんですが?」
「そうですか。ではご説明しましょう。加瀬さんは早川課長を田宮元部長の女と思っていらっしゃいますね」
「違うんですか?」
「間違いじゃないにしても、それでは女性を美化し過ぎでしょう」
「美化?」
「そうです。美化です。女の本性はもっとどろどろして汚いものです。いや、何も私は女性を蔑視して言うのではありませんよ。男と同等に汚いものだと言っているのです。女の汚れは何も専ら男からもたらされるものではないのですよ。つまり女自身の汚れもある」
「それは早川自身の、と言う意味ですか?」
「そうです。それに比べれば田宮元部長から早川課長に流れた金なんて、もしそんなものがあったとしても、微々たるものですよ」
「つまり、早川独自の金のルートを持っていると言うことですか、それは?」
「ええ、そうです」
「まさか」
「いいですか? 私は経理の人間ですよ。人事の加瀬さんが人と人との結びつきに目が利くのと同様に、私は金の流れを見逃したりはしません。加瀬さんは知らないでしょうけど、トランザの大阪支社には昔から億単位の黒い金が流れているのですよ」
「え、億単位?」
「そうです。経理の人間さえ触れてはならないとされてきた、不明瞭な一連の経理処理です。それに目をつぶることは、経理マンとしてはこの上ない屈辱なんです。それと比べれば田宮部長が白昼堂々とくすねた金なんて、言っちゃ悪いですが微々たるものでしょう」
「驚きました。しかしその金の由来はいったい何なんですか?」
「それは言えません。言えば私のクビが飛びます。ただ、これだけは言えます。早川課長は田宮元部長の従属物ではないとね。独自の利害を持って、独自の思惑で動いている、独立の人間ですよ。いざとなれば、田宮元部長との関係を切るぐらいのことは平気でやりますよ。現に、一連の出来事の中で、誰が一番利益を得たか、考えてみれば分かるでしょう」
 士郎は鷹山の言葉を腹の中に飲み込んだ。その衝撃に熱い息が漏れた。しかし吐いた言葉は平静を保った。
「もしそうだとすれば、これで様々のことに説明が付きます。しかし田宮さえもがそれに踊らされていたとなると、哀れに思えますね」
「あれはあれで悪党ですから、同情の必要などありませんが、彼が女房の尻に敷かれた婿養子のような惨めな立場であったことは事実ですね。だからこそ虚勢を張って吠えまくったんでしょう。もっとも人事部の皆さんにとってはそれこそが諸悪の根元と思えたでしょうけど」
「その億単位の金を分け合っているのは、どんな連中なんですか?」
「それも言えません。言う必要もないでしょう。なぜなら加瀬さんは彼女たちを知っているのですから」
「彼女たち、つまり女なんですね?」
「今のはヒントですよ。昔から雌鳥歌えば家滅ぶと言います。彼女たちの好き勝手を許す法はないですよ」
 そう言うと、鷹山は不敵ににやりと笑った。
 士郎はその鷹山の背後に何らかの権力の所在を嗅ぎ取った。鷹山の口振りからすれば、その頂点は男であろう。トランザクション株式会社の中で「大阪コネクション」に対抗し得る権力者で、しかも男となると、「ジュニア」と呼ばれる社長の長男しか思い浮かばない。「ジュニア」は40歳そこそこの若さで、今では副社長である。社長の腹の中に、タイミングを見計らって自分の権力を「ジュニア」に移行させていこうとする意図があるのは、折に触れて見え隠れしている。
 一方、「大阪コネクション」にも、その過程で自分たちの既得権を剥ぎ取られまいとする必死の抵抗がある。「ジュニア」が副社長に昇格となった時、そのバランスを取るように、川島も専務となった。それは事実上の棚上げとも言える処遇であり、影響力が落ちたとは言え、川島は未だにそれだけの実力を保持していた。
 言ってみればこれは社長の愛人と長男との間で繰り広げられる暗闘である。この鷹山は気の弱そうな振りをして、裏では好んでパワーゲームに参加するしたたかな男なのかもしれなかった。
 だから士郎には鷹山が今急に接近してきた意図も想像が付く。「ジュニア」の意を受けて、あるいは鷹山自身の意図で、士郎を配下に取り込もうと言うのだろう。いや、そこまで自分を高く買っているはずもないとすれば、今度は「大阪コネクション」そのものを敵に回して、士郎にもうひと立ち回りやらせようと、けしかけているのかもしれなかった。
 鷹山の言う黒い金の流れというのが気に掛かる。それを解明できれば、士郎の最後の疑問も晴らせるかもしれない。その詳しい内容が知りたい。しかし鷹山の秘密めかした言い方は、あまりにも人をばかにしている。卯木ならそんな言い方は決してしなかった。あるいはこれは、鷹山が士郎に食いつかせるために用意した、思わせぶりの作り話ではないのか。
 結局は士郎も卯木も、トランザクション株式会社のお家騒動の中で踊らされた道化に過ぎなかった。今なおその続きを、鷹山は士郎にそそのかそうとしているのではないか。鷹山が笛を吹けば士郎は踊ると。そう思うと、士郎は急に不快なものがこみ上げてきた。
 だから吐き捨てるように言った。
「なるほどね。この会社も魑魅魍魎が跋扈しているんですね。しかしね、もう付き合い切れませんよ。誰にとっても一度しかない大切な人生なんです。川島にしろ『ジュニア』にしろ、人の人生を軽く扱い過ぎる。私はね、自分にできる最大限のことをやりましたよ。もしそれを高いところから見下している人がいるとすれば、今度はその人たちが自分で身体を張る番でしょう」
 士郎が言葉に込めた皮肉を感じ取り、鷹山は表情を強ばらせながらも、取り繕われた穏やかな口調で言った。
「分かりました。そういう選択肢も十分にありでしょう。しかし後悔されませんね? ご自身ではどのように捉えているかは分かりませんが、冷静に見て今の情況はある意味では加瀬さんにとってこの上ないチャンスなんですよ。それが先ほど『もう少しで』と申し上げた意味です」
 士郎は鷹山の話の持って行き方ににやりとして言った。
「そいつは残念ですね。実は私はもう退職届を出したんですよ。今月末でさよならです。もっと早くおっしゃっていただければよかったのに」
 すると鷹山もにやりとした。
「知っていましたよ、もちろんね。この1年余り、加瀬さんは随分苦しんでおられた。田宮部長に虐げられていた頃とはまた違った意味でね。もしかしたら、このトランザに見切りを付けるということもあり得ると思ってました。そしてこのタイミングを待っていたんですよ。お互いにとってチャンスは一度だけです。いいですか、よく考えて答えてくださいよ。加瀬さんの退職届はある方の手許で保留されています。まだ間に合うのです。撤回しませんか?」
 士郎は怪訝そうな顔をした。
「誰ですか、ある方って?」
 鷹山は軽くあしらうように笑って言った。
「それは撤回の約束と引き替えです」
 士郎は表情を強ばらせた。
「お断りします。鷹山さんの背後に誰が控えているのかは知りませんが、今頃になってのこのこと姿を現そうとするような人間を信頼するほど、私は愚かではありませんよ。結局、鷹山さんは私をオルグすることが目的なんですね?」
 鷹山は士郎が話に乗ると決めてかかっていたようだ。だから士郎が断ったのにショックを受けたようだった。動揺しながら、しかし用意されていたかのような台詞をきっちりしゃべった。
「いや、何、私は誰に与するものでもありません。単に加瀬さんの隠れたファンとして申し上げているのです。その点はくれぐれも誤解なきよう。それから、先ほど申し上げた大阪支社に流れる黒い金については、どうか賢く振る舞ってくださいね。何もわざわざとぐろを巻いた蛇を突いて、恐ろしい鎌首をもたげさせることはないですからね。これは経営にとって最も必要とされるもの、要はバランスの問題です。例のあの人だって、会社にとっては重要な戦力でしょう。下手に追いつめてご主人様の手を噛むような真似をさせる必要はないわけですから」
 鷹山は目に失望の色を浮かべて士郎を見た。
 士郎は握りしめた拳にじっとりと汗をかいていた。