第4章

(1)

 士郎が卯木に約束した「人事課正常化計画」を完成させたのは、新年度に入ってからだった。さっそく卯木をレストラン「ラ・マルセイエーズ」に誘い出し、計画書を見せた。その計画はとりもなおさず、田宮との闘いの戦術となるべきものであった。
「どうだ?」
 と、士郎は卯木の顔を覗き込んだ。
 卯木は顔を上げ、苦笑いしながら士郎に視線を返してきた。
 士郎は卯木が即座にその計画書に賛同するとは思っていなかった。その反応は予想した通りのものだった。
「うーむ、何と言っていいのか…」
 卯木がそう唸っても、士郎はひるまなかった。
「分かってるよ、おまえの言いたいことは。これでは田宮と闘うことにならないじゃないか、そう言いたいんだろう? もっと巧みに田宮の弱点を突くとか、包囲網を形成するとか、そういうものを期待していたんだろう?」
「まあね」
 卯木は曖昧に頷いた。
 士郎が作ってきた「人事課正常化計画」は、「@地下倉庫とキャビネットの整理、Aパソコン内のデータ共有化、B人事申請書類の決裁とファイリング」の、今後2人がイシニアティブを取って実施すべき内容が、3つだけ箇条書きにしてあった。これが士郎の言う田宮に対する戦術であり、このことを相談するためにその夜士郎は卯木をレストラン「ラ・マルセイエーズ」に誘い出したのだった。
 実際、卯木は士郎の案に納得していなかった。それでも反論するより先に、静かに士郎の言葉を待った。
 そこで士郎は説明した。
「基本的な認識でわれわれは見解が違う。何ヶ月前の夜だっけ、確認した通りだよ。おまえは田宮部長のことをこんなふうに思ってるだろう? 彼は自分の帝国を築き上げた独裁者、強力な権力をふるって恐怖政治を敷き、その地位は堅固なものだと。だからよほどの打撃を田宮に浴びせかけなければ勝てないと」
「ああ、そうだ。いや、そうだったと言うべきか。あの後、おれも考えた。おまえの言うことも分かるぜ。人事課を強くしなければ田宮には勝てない。なぜなら、おれたちの弱さがそのまま田宮の強さになっている。それは分かるんだ。しかし、なぜそれがキャビネットの整理やパソコンのデータなんだ? そんなことが闘いと言えるのか?」
 それを聞いて士郎はにやりと笑った。
「そこなんだよ。いいかい? 田宮は部下に様々な指示を出すだろう? そのうちのいくらかは理不尽きわまりないけど、いくらかは正論なんだよ。正しい指示なんだ。だけど田宮はおれたちがその指示を実行することなんか望んじゃいないよ。その逆だよ。指示を実行して欲しくないんだよ。むしろ田宮自身が邪魔をするよね。毎日、毎日、飽きもせずに禅問答みたいな説教で、おれたちの時間を際限なく奪う。おれたちは1日に何時間も田宮の前に立たされ、持てる時間をなくしてゆく。仕事なんか何もできない。すると田宮は今度は、おれたちが指示した通りの仕事をしないと言って怒り出すわけだ。だけど冗談じゃない。邪魔をしているのは田宮なんだよ。だからこれは罠なんだよ。おれたちはそこで田宮を憎むあまり、仕事への情熱を失っているよね。だらだらして効率が悪い。互いの連携がなくて個々ばらばらに仕事をしている。自分の仕事の結果に責任も誇りも感じていない。人事課のメンバーの仕事振りって、結局そうなってしまっているんじゃないのかな。だけど、これが田宮の思うつぼなんだよ。その次に何がくるのか。結局人事課は田宮がいないともたない。田宮が目を光らせることによってかろうじて持ち堪えている。田宮はいわば必要悪だ。わざわざ大阪から出張させるだけの意義はあると、そうなっちまうんだよ」
 卯木は頷きながら黙って聞いていた。士郎はさらに続けた。
「そこで、だよ。おれたち人事課が強くなるにはどうすればいいのかなんだけど、まずは時間を確保しようよ。みんな毎晩10時、11時までの残業でへとへとだよ。こんなのでいい仕事なんかできるわけがない。こんなのはもう止めたい。そのためには個々の仕事の効率を高める必要がある。要するにひとつひとつに時間がかかり過ぎなんだ。それには互いの連携も必要だよ。二度手間、三度手間は省こうよ。そのための環境整備だよ。事務作業の負担を減らして、もっと互いに相談したり、カバーし合ったり、そういうことに時間を使えるようにしていこうよ。そう考えると、今最も非効率なのはさっきの3点だと思うんだよね。みんな自分が関係する書類をキャビネットの中にぶち込んでいるんだけど、これはみんなの共有物なんだから、ちゃんと整理してみんなで活用できるようにしたいんだよ。パソコンのデータだってそうだよ。基本的に人事課の仕事って流れ作業でやっているんだから、誰かが作ったデータは他の誰もが活用できるようにしておけば、それだけでも随分効率が違うはずだよ。せっかくLANで繋がっているんだから、共有のフォルダーを作って、ファイルはそこに格納するようにすればいいんだよ。さらに人事書類の扱いなんて、非効率の最たるものだよ。ちゃんと課長印、部長印をもらって、きっちり綴っておけば誰でも見ることができるのに、担当者がそれぞれ自分の机の中に仕舞っておくから、それができない。その結果、田宮からは『承認も無しに勝手に仕事をしている』って言われるし、担当者間でも『あれがない』『これがない』ってなるわけさ。そんなのはもう止めようよ。今のおれたちには余力がない。何か新しいことに時間を費やすことはできない。だったら、一定の時間をそこに費やせば、即座にそれ以上の時間が浮いて戻ってくることを探そうよ。それが事務作業の効率化、つまり書類やデータの整理と共有化なんだよ」
 それは考え抜いた戦術だった。言い終えて士郎は卯木を見た。しかしそれに応える卯木の気持ちは重かった。
「分かるぜ、おまえの言ってること。よく考え抜かれている。正しいと思う。しかし、だ。しかし、問題がひとつある。それが何か、おまえ分かっているだろう?」
 士郎は黙って頷いた。
 卯木は続けた。
「それじゃあ田宮の言ってることと同じなんだよな。もちろん、おまえが言うのは分かるぜ。田宮はそう言いながら実際には邪魔をする。おれたちは本気でそれを実現しようとしている。その違いはあるさ。しかし、部下たちがそれを理解して、おれたちについてくるかどうかだぜ、問題なのは。何だ、あいつらの言ってることは田宮と同じじゃないか、そんな説教は聞き飽きたってことになっちまう。それを思うと、全く田宮のやつは邪魔だよな。正論で足を引っ張りやがる。始末が悪いぜ」
 士郎は心に闘志を秘めながらも、言葉では淡々と言った。
「まずは、やってみようよ。部下たちがついてくるかどうか、みんなを集めて話をしてみよう。それで駄目でも、他に道がないよ。泣いても笑っても、やるべきことをやるしかないんだからね」
 卯木は、自分が最初に思い描いた闘いのイメージとはかけ離れた方向へ進み始めたことに戸惑いがあった。やはり、最終的にどうやって田宮を追い落とそうかという、切り札が欲しかった。卯木の発想では、それは怪文書であり、投書であり、密告であった。とは言え、士郎の言うのも頭では理解できる。そしてその中で士郎が発揮する、正面から相手に挑もうとする心意気にも惹きつけられる。しかも士郎はそれを大上段に構えず、冷静に言ってのけるのである。士郎の方が数段肚が据わっている。その点で自分が劣っていたと思うと無性に悔しい。士郎の組み立てた戦術をぶち壊してやりたくさえなる。しかし最終的には自制心が働いた。自分は期限が来たら会社を去る。士郎は残る。だったらここは士郎に従うべきだ。だから卯木は士郎の提案した戦術に賛成したのだった。

(2)

 部下たちとのミーティングはその週のうちに、深夜、田宮の目を盗んで階下の会議室で行われた。昼間のうちに士郎と卯木があらかじめ部下に声をかけておき、終業後に話があるから今日は早めに仕事を終えて欲しいと伝えておいた。それでも皆が帰り支度を始めたのはいつもの通り10時を回ってからだった。
 この時刻にまだ残って仕事をしている部署は人事課だけではない。トランザクション株式会社では深夜12時近くまで、ほとんどの部署で煌々と明かりが点いている。さすがに12時を回ってなお残るのは、徹夜覚悟のSEがちらほらと、人事課のいつもの顔ぶれだけとなるのだが。
 だから午後10時や11時と言えばまだ早い時間帯であり、そこから会議を始めるのも決して珍しいことではなかった。しかし今夜のミーティングの内容を考えると、今から終電までに十分な時間があるとは言えない。士郎も卯木も焦る気持ちで、部下たちが仕事を切り上げるのをまだかまだかと待ち受けていたのだった。
 やっと部下たちが帰り支度を始めた時、士郎と卯木もうまく田宮の目を盗んで階下の会議室に合流するつもりだった。今夜のミーティングのことは課長の梅本にも内緒にしてある。あくまでも士郎と卯木が主催する、秘密の会合なのである。たったこれだけのことだが、この陰謀めいた行動に士郎も卯木も神経質になっていた。
 頃合いを見計らって士郎と卯木が会議室に降りて行った時、そこには誰もいなかった。
「おかしいな。みんな帰ったのか?」
 卯木が訝しんだ。
「多分、女子社員たちが着替えているんだよ」
 士郎は不安を隠して言った。
 2人はしばらく無言で待った。そこへ私服に着替え終えた寺島美智子が、ひとりで現れた。
「おや、みんなはどうしたんだい?」
 士郎が平静を装って寺島に訊いた。
 寺島は口を尖らせて言った。
「もう疲れたから、今日は帰らせてくれって言ってますけど」
「誰が?」
 卯木が目を剥いた。
 寺島は卯木に責められて困惑したように答えた。
「杉山チーフとか、翔子先輩とか」
 卯木は怒りを露わにした。
「何だよ、これからって時に。おれが呼んでくるぜ」
 そう言うと卯木はのしのしと大股に会議室から出て行った。
 しばらくして卯木が部下たちをぞろぞろと引き連れて戻ってきた。よほど卯木が強引に連れ戻したのか、皆ふてくされた仏頂面で会議室に入ってきた。
 士郎は部下たちの表情から極限に達しつつある疲れを読みとり、やるせない悪循環を感じた。こんなに疲れ切っていては、いい仕事ができるわけがない。それを田宮から責められ、よりいっそうの長時間残業に追い込まれる。朝の8時半から、夜の10時、11時まで。それが延々と毎日続く。部下たちはまだ若いとは言っても、磨り減るように疲れ切ってゆく。田宮はまるで部下たちが疲れれば疲れるほどいい結果になると考えているかのように、ますます力を込めて部下を鞭打つ。これではしかし、悪循環だ。無間地獄と言ってもいい。
 田宮の存在は部下の生き血を吸う吸血鬼だ。実際、田宮はその結果として月々40万円もの金を、正規の給与とは別に懐に入れている。実にうまくその仕組みを作り上げたものだ。そして会社は今のところそれを容認している。この体制が壁となって士郎たちの前に立ちはだかっている。この壁は厚く、ちょっとやそっと押しただけではびくともしそうにない。しかし今夜、それに敢えて皆で立ち向かってやろうと、ミーティングを主催したのだ。士郎はこれを是非とも意義のあるものにしたかった。
「さ、席に座ってくれ。お疲れのところ、本当にご苦労さん。でももうしばらく付き合って欲しいんだよ。大切なことを話し合いたいんだ」
 士郎は集まったひとりひとりと視線を交わしながら、努めて穏やかに、そしてにこやかに言った。
 そこに集まったのは、入社6年目の杉山信男、5年目の中川翔子と末永玲子、3年目の寺島美智子、2年目の斉藤瑠璃子、そしてその年の新入社員の柴田雅史と太田栄子だった。この7名がこの時点での士郎と卯木の部下であった。
 この部下たちは仕事に誇りを感じていない。結果に責任さえ感じていない。もしかすると互いの信頼さえ取り結べてはいないのかもしれない。苦行とも言える労働条件だが、それに対する見返りは少ない。目一杯の残業手当を付けてようやく世間並みの収入だ。だから今の仕事に職業としての魅力はないだろう。部下たちはかろうじて意地に寄りすがって生きている。ではその意地にどれほどの価値があるのか? 士郎は最大限にそれを尊いものだと認めてやりたかった。田宮の欲得ずくと、部下にかろうじて残された意地。士郎がどちらに共感するかは、選択の余地がなかった。士郎は部下たちに愛情を感じていた。
 しかし部下たちは士郎のその気持ちを理解しようとはしなかった。
 まず杉山が気怠そうに言った。
「いったい何の話なんですか。ぼくたちみんな、もう疲れ切っているんですよ。明日にしませんか」
 出鼻を挫くような杉山の言葉に士郎は痛みを感じながらも、片目をつぶってそれに耐え、あらかじめ用意しておいた資料を配った。
 とりあえずは部下たちの関心は資料に向かう。その機会を捉え、即座に士郎は説明を始めた。
 最初は田宮に対する闘いという位置づけは伏せて、この人事課をどうすれば正常化できるのかという点を前面に出した。士郎はそうやって皆の反応を確認しながら進めようと思ったのだが、結果的にはそれは要らぬ配慮だった。
 士郎の説明が終わると、真っ先に末永玲子が質問した。
「加瀬係長は田宮部長からの指示を受けて、このミーティングをやっているんですか?」
 末永は真っ直ぐに士郎を見据えていた。末永のこのストレートさは士郎にとって意外だった。ボーイッシュな感じのする中川翔子がその言葉を発したのなら、それは似合ってもいた。しかし末永は色白の肌に妖艶さをまとい、どちらかと言えば控えめな感じのする女である。士郎は質問の内容よりも、むしろ末永の態度に驚いた。
 末永の質問には即座に卯木が答えた。その言葉には卯木の焦りが見て取れた。
「いや、そうじゃないんだよ。おれたちはこの人事課を正常化させることによって、田宮を追い出そうって肚なんだ。結局、田宮と闘うには、このやり方が最も有効だっていう判断なんだ」
 それを聞いて末永は小首を傾げ、しばらくの間考えた。そして再度疑問を投げかけた。
「でも、それ、矛盾しているんじゃないかしら? この人事課が異常なのは田宮部長のせいなのに、その田宮部長と闘うには人事課を正常化させるのが最も有効だなんて。しかも、その人事課を正常化させるっていう手段が、日頃田宮部長が口を酸っぱくして言ってる、キャビネットの整理だったり、人事書類の取り扱いだったり。それでは田宮部長と闘うんじゃなくて、田宮部長の言いなりになれっておっしゃっているように聞こえるんですけど」
 もっともな疑問だった。卯木は言葉に詰まった。その疑問は数日前に卯木自身が感じたものだった。卯木は助けを求めるように士郎を見た。
 士郎は何も言わなかった。黙って部下たちの発言を待っていた。
 その時杉山が痺れを切らしたように言った。
「こんなんで勝てるわけがないでしょう」
 杉山は士郎が配った資料をテーブルの上に放り出すと、椅子の上で仰け反って両手を頭の後ろで組んだ。
 士郎はゆっくりと杉山に視線を移し、穏やかに笑った。士郎のその不気味なほどの穏やかさには、かえって迫力があった。杉山もぎくりとして士郎を見た。
 士郎は言った。
「杉山君は、どうすれば勝てると思う? 今、私たちは何をすべきだと? あるいは君自身は何をしたい?」
 杉山はぎょろりと眼球を動かして士郎から視線を外すと、宙を睨んで言った。
「刺す。田宮を刺し殺す。そして家に火を点ける」
 すると他の者たちは笑った。沈鬱な雰囲気が一転して、華やいだ空気に変わった。
「そんな、杉山さんったら、できもしないくせに」
 寺島美智子が茶化すと、杉山はますますいきり立った。
「いや、刺す。ほんとに刺す」
 斉藤瑠璃子が、呆れたように言った。
「杉山さんったら、いつもそればかり」
 新入社員の柴田が会話の波に乗って言った。
「杉山さん。やる時はぼくにも声をかけてください。一緒にやりましょう」
 すると杉山は身を乗り出し、手のひらを高く掲げて、柴田に差し出した。お調子者の柴田が得意げにその手のひらを叩いた。パンと大きな音がした。
「きゃー。杉山さん、柴田君。私たちのために頑張って」
 中川翔子が黄色い声援を送った。
 卯木が怖い顔をして杉山に迫った。
「おい、杉山。おまえ本気で言ってるのか? 茶化して面白がっているんなら承知しないぞ。これは真剣な話なんだぞ」
 すると杉山は悪びれずに言った。
「本気ですよ。当然じゃないですか」
 卯木は黙った。士郎も黙っていた。
 杉山は勝ち誇ったように言った。
「結論も出たことだし、それじゃ、解散ということで」
 会議室を出て行く時、中川翔子が「イェーイ」と言って拳を突き上げると、他の者も同調して、それぞれに拳を突き上げた。
 それを見送った後で、卯木は憎々しげに舌打ちした。
「何が『イェーイ』だよ、全く」
 士郎は冷静だった。士郎は部下たちの反応を観察し、分析していた。末永は真剣に士郎の意見を聞いた。自分の意見も整然と述べた。真面目な態度だった。杉山、中川、寺島、柴田は、物事を茶化すばかりで、互いに煽り合い、最後まで真剣には考えなかった。斉藤と太田は自ら煽りはしなかったが、その雰囲気を好ましいものとして歓迎し、追随していた。 
「ま、予想通りだよ」
 士郎は言った。
 卯木が怪訝そうな顔をした。
「と言うと?」
 士郎は苦笑した。
「闘うなんてことは、そう簡単なことじゃないよ」
「だけど、杉山は田宮を殺してやりたいほど憎んでいるんだぜ。背中をちょっと押してやれば、闘いの先頭に立つと思ったんだがなぁ」
 士郎は再度笑った。
「本当に杉山は田宮を憎んでいるのかな?」
 卯木は士郎の言わんとすることが分からずに、目を剥いて聞き返した。
「じゃあ、何か? 愛しているとでも?」
 卯木は士郎の反論を期待して言ったのに、士郎の言葉は予想外のものだった。
「それに近いものがあるかもしれない」
 卯木は混乱した。
「おい、おい。本気で言ってるのか?」
 しかし士郎はあくまで冷静だった。
「少し手を伸ばせば届くところに手を出そうとせず、できもしない絵空事ばかり口にするやつを、おまえはどう思う? 本当に物事の実現を願っているのかな? そりゃ、大きな目標を立てるのはいいさ。立派なことだよ。しかし立派なやつが立派なことをやろうと思ったら、具体的に考えるだろう? そのためには、そのためにはって、最終目標に向かって戦術なり戦法なりを展開して、自分の手の届くところまで引き寄せるだろう? 杉山にはそれがないんだよ。もっと言えば、本当に彼は闘いを望んでいるのかどうか、それが疑問なんだよな」
 卯木は煙に巻かれたような顔をしていた。
「しかし、だぜ。杉山なんてまだ青二才だよ。闘い方なんて分からないだろう? 教えてやれば理解すると、おれは思ったんだがなぁ」
 卯木は食い入るように士郎を見つめていた。
 士郎は得意になりもせず、淡々と自分の論理を展開した。
「もちろん、闘うなんていう行為は、人生経験がものを言うのかもしれないよ。稚拙な戦術では勝てないだろうね。あの杉山もそれなりに経験を積めば、どうか分からないよ。でもさ、生き方の根幹の部分もあるんだよ。そういうやつは、どんなに経験を積んだって、死ぬまで変わらないかもしれないよ」
 卯木は、士郎がまだ結論を言っていないことに気づいて、続きを促した。
「つまり?」
「負け犬根性という言葉があるだろう? 奴隷根性と言ってもいいのかもしれない。自分たちは被害者だ、こんなに自分たちが苦しいのは誰それのせいだって、不平不満をぶちまけたり、嘆いたり、呪ったりすることに熱中するんだよ。被害者の立場というのは、それほど甘美な誘惑で、人を惹きつけるものなんじゃないのかな。だから一旦被害者の立場に慣れ親しんでしまうと、勝ちたくなくなるんだよ。苦しい闘いに勝つよりも、怠惰で甘美な被害者の立場のままがいいと、杉山は思っているんじゃないのかな。だから『田宮を殺す』とか『家に火を点ける』とか息巻いているのは、その負け犬根性をわずかに恥じらったいちじくの葉っぱに過ぎないんだよ」
 卯木はうーんと唸った。そして畏怖の念を込めて士郎を見た。

(3)

 卯木に対しては『負け犬根性』と断じたが、士郎の心の中には杉山を擁護する気持ちもあった。自分の部下だからというだけではない。杉山の方が、入社して1年の士郎よりも、遥かに長く辛酸を舐めてきた。その苦痛は想像を絶する。その結果、杉山の心が固く閉ざされてしまったとしても、士郎には責めることはできない。むしろそれに耐えてきたことは尊敬に価する。
 しかし杉山の影響力が他の者たちにも強く働いていていることには閉口した。彼の存在は、部下たちの心を掴もうとする士郎の前に立ちはだかった壁となる。部下たちは手軽なはけ口を提供する杉山の方になびき、杉山の卑屈さを乗り超えて士郎の前に出てくる者がいない。杉山はその一瞬のヒロイズムに自ら酔う。そしてますます卑屈なニヒリズムに毒される。そんなメカニズムが働いているのではないかと、士郎は危惧したのである。そしてそのメカニズムが長く働き続けると、最終的には人事課を崩壊に導くに違いないのだ。
 しかし実際には、部下たちに対する杉山の影響力については、心配するには及ばなかった。杉山という男、つくづく弱い男である。彼は自ら破滅への道を歩み始めた。その翌日から遅刻の常習者となったのである。結局、士郎と卯木が田宮との闘いを提起したことが、杉山の心のバランスを崩したのだった。
 遅刻と言っても5分や10分ではない。2時間、3時間と遅れてやってきて、何食わぬ顔で、あるいはふてくされた態度で自席に着く。時には午後4時頃になって出勤してくることもある。そうなれば終業時刻まで、あと2時間足らずである。あいつはいったい会社に何をしに来ているんだと、周囲の顰蹙を買った。
 それに対して、杉山は「遅刻分の給与は引かれているんだから、いいじゃないか」と開き直った。あるいはまた「何時に来ようと、きっちり7時間45分働けば文句ないだろう」とも言った。そして実際、彼は終電まで仕事をし、疲れ切って帰ってゆく。そしてその翌日、再び遅刻し、午後も遅い時間になってようやく出勤してくる。
 どんなに開き直りの言葉を口にしても、杉山自身に後ろめたい気持ちがあるのだろう。それを打ち消すために、杉山は同僚に対してことさら攻撃的な態度を取った。出社してくるなり、同僚たちの業務を点検し、その不具合を責めるのである。いくら杉山が職場のリーダー格だと言っても、これはあまりにも理不尽だった。杉山は同僚たちの支持と共感を急速に失っていった。
 もっとも、同僚たちに言わせれば、杉山の遅刻は彼の病気のようなもので、一時収まっていたものが再発したに過ぎない。士郎と卯木が入社してくる前にも、ずっとこうだった。杉山の心に2人への期待感があって、この半年間沈静化していたものが、ここへ来てまたぶり返したのである。つまり杉山は士郎と卯木に失望し、それで遅刻の常習犯へ舞い戻ったと言うのである。
 杉山のこの行状に対して田宮は黙っていなかった。それは梅本と士郎を責め立てる格好の材料となった。
 朝、杉山の姿が見当たらないと、田宮は梅本と士郎を呼びつけた。そしてこう言うのである。
「君たちは毎朝時間までに出揃うことさえできないのか。人事課の社員は他部署の社員に対して模範とならねばならないはずだろう。全くご立派な社員だよ、君たちは」
 あるいはこんなふうにも言った。
「君たちは仕事が多くて残業しているわけでもないんだろう。のこのこ夕方になってやってきて深夜まで残業したとしても、そんなもので自分たちは一生懸命働いてるなどと、どの面下げてほざいているのかね」
 田宮のこの言葉は、聞こえよがしに人事課全員の耳に入れられ、皆は気持ちを挫かれる。田宮はその効果を狙って巧みに言葉を選んでいるのである。皆の心に田宮に対する憎しみは蓄積されるが、その出口は周到に塞がれている。すると激しく燃え上がる憎しみは、やがて絶望へと変質し始める。その空気を察知して、士郎はじりじりと炎であぶられるような気持ちになる。
 そこで士郎は、毎朝出勤すると、朝一番に、独身寮に住む杉山のところへ電話するようにした。案の定、杉山はまだ部屋にいて、その電話で起きたというような眠そうな声を出す。士郎は早く出社してくるように言うのだが、杉山が出勤してくるのは、それでもそれから4、5時間経ってからである。士郎の電話で起こされて急いで寮を出れば、1時間以内には会社に着くはずなのに、である。つまり杉山は士郎に起こされた後、もう一度眠っているのだ。そこで士郎は1時間ごとに電話して杉山を起こした。それでも結果は同じである。午後3時前後にならないと、出勤してこない。
 士郎にとっては、もはやどうすることもできない。田宮からはそのことで攻撃され、当の杉山からは無視される。その挟み撃ちのような状態が数ヶ月続いた。やがて部下たちは杉山のことなど気にも留めなくなったが、士郎にとってはそうは行かなかった。毎朝、始業時刻が近づくと祈るような気持ちで杉山の姿を探し、見つからなければ今日もかと落胆するのである。
 田宮は執拗に杉山のことで梅本と士郎をいたぶった。1日に何度も、思い出したように2人を呼びつけると、自分の机の前に立たせて、杉山の遅刻を責めた。そのやり方は陰湿である。「杉山はどうしたんだ」とだけ言うと、あとは無言で立たせるのである。田宮は2人を無視して仕事を続ける。立たされた2人は沈黙による苦行に耐えなければならない。耐えかねてその沈黙を破ろうとしても、梅本にも、士郎にも、言うべき言葉が見つからない。ただ田宮の前に立ち、もじもじとして、許されるのをひたすら待つしかない。
 杉山自身は士郎が気を揉んでいることを知ってか知らずか、時々始業前に出社してきて、澄ました顔で自席に座っている。そんな時、士郎はほっと胸をなで下ろしながらも、杉山のことを小憎らしく思って、舌打ちするのであった。
「くそっ。これじゃ、田宮の思うつぼじゃないか」
 見かねた卯木がそう言ったが、士郎も同感だった。
 卯木は続けた。
「どっちに転んでも、おまえの言う『負け犬根性』だぜ。杉山を中心に皆が団結しても、逆に杉山が皆から顰蹙を買って孤立しても、いいことなんかひとつもない。ひたすら邪魔なだけだ。煮ても焼いても食えないとはこのことだぜ」
 それに対しては士郎は、この時点では同意しなかった。士郎が杉山を見限るのは、もっとずっと後になってからのことである。
「まあ、もう少し待とうよ。杉山にはおれが言って聞かせるからさ。あんなやつでも救ってやらなきゃ」
「お、優しい上司だね」
「半分はね。しかし、半分はそうじゃないんだよ。むしろ厳しさだと思うよ。杉山には自分の影響力の自覚を促したいんだよ。それを杖にして立ち直らせたい。でなきゃ、彼はどこへ行っても駄目な人間で終わってしまうよ。あのまま30歳、40歳になったらどういうことになるか。しかしね、それを諦めて生きる方が実は楽なんだよ。自分は努力をせずに、ひたすら世の中を呪って生きることになる。それでも生きていけるよ。でもおれは自分の部下にそんなのは許さない。だからおれはむしろ厳しい上司だと思う」
 士郎がそう力説すると、卯木は引きつった笑いを浮かべた。
卯木に言ったその言葉通り、士郎は杉山を会議室に呼び、1対1で話をした。杉山は意外に素直に士郎の話を聞いたが、士郎が言葉を切ると自虐的な反発を示した。それは自分は悪くないという開き直りではなかった。むしろ、ひたすら弱々しい言い訳だった。
「もう疲れ切っているんですよ。へとへとなんです。疲れて起きられないんです。加瀬係長は何で朝ちゃんと起きれるんですか? よく身体がもちますね」
 そう言って杉山は逆に士郎に問うのであったが、士郎はそれには答えず、まれに見る厳しさで杉山を問い詰めた。
「では訊くが、君の問題は、朝起きられないことなのか? それなら毎朝私が電話で起こしてやっているじゃないか。すぐに支度をして出てくれば、1時間以内に出社できるはずだよ。でも君はすぐに会社に向かわないんだろう? いったい何をやっているんだ? もう一度寝てしまうのか? それとも膝を抱えて会社に行きたくないと、朝っぱらから黄昏れているのか?」
 士郎の詰問に杉山はぐうの音も出なかった。プライドを粉々にされ、むっとして黙り込んだ。
 士郎はさらに容赦なく続けた。
「しかもだよ。自分でも気づいているだろうけど、君が会社に出てこない日は週の初めに集中している。特に月曜日だよ。日曜日にゆっくり休んで、疲れが癒されているはずの、その翌日にね。逆に金曜日の朝は比較的普通に出勤してくることが多い。これが何を意味する? 本当に疲れていることが原因か?」
 すると杉山の顔色が見る見る変わった。用意していた言い訳の道を塞がれて、あからさまに不機嫌になった。
 士郎はまだまだ道のりが遠いことを感じた。リーダー格の杉山がこんなありさまでは田宮とまともには闘えない。人事課の弱さにつけ込まれて、返り討ちに会うのが落ちだ。ここは一旦退却して仕切り直すしかない。
 杉山との話し合いを終えて出てきた士郎に、「どうだった?」と卯木が訊ねたが、士郎は黙って首を横に振るだけだった。

(4)

 寺島美智子が杉山に恋をしているのは、人事課の皆が知っていた。クリスマスやバレンタインデー、そして杉山の誕生日には、欠かさず寺島から杉山にプレゼントが手渡された。職場で人目をはばからず行われるこのイベントは、人事課の中ではもはや恒例になっていて、それを目の当たりにしても誰も驚かなかった。さすがに部長の田宮が自席にいるタイミングは避けられたが、課長の梅本が見ていても意に介されなかった。梅本はにやにやしながらそのイベントを見物するのであった。
 当の杉山は寺島のことを何とも思っていなかった。杉山にとっては寺島のようにじっとりとした性格の女は好みではなかった。だから他の同僚たちの目の前で、派手にリボンなどを付けたプレゼントを押しつけられるのは、はなはだ迷惑だった。皆が見ている前でそれを受け取ることによって、まるで2人の仲が公認のものと見なされるような気がするのだった。
 だから寺島のアプローチはいつも空振りに終わった。しかし寺島は、杉山が振り向いてくれることを期待するよりも、むしろ自分が健気で可愛らしい女を演じることに必死になっていて、杉山の気持ちなどあまり考えていないようだった。寺島自身は杉山のことを「優しいから好き」というが、実際には恋に恋しているだけと言った方が当たっていると思われた。そのことは周囲の者も薄々は感づいていて、皆が「やれやれ、まだやっているのか」という気持ちで、この毎度のイベントを見守っていた。
 寺島自身がこのイベントを楽しんでやっていたかどうかは疑問である。容姿も性格も地味な寺島にとって、その時ばかりは自分が脚光を浴びる数少ない機会ではあったが、むしろ彼女には苦痛であったかもしれない。先輩の中川翔子の強力な後押しで、否応なく舞台に押し上げられていたのかもしれなかった。
 中川翔子は寺島の2年先輩であり、寺島が入社した時、中川はその「エルダー」であった。トランザクション株式会社では、新入社員が入社した時、先輩社員が1年間付きっきりで仕事を教え、育成するという制度がある。この先輩社員をエルダーと呼ぶ。新入社員は毎日エルダーから仕事を指示され、分からないことはエルダーに訊ね、1日の終わりにはエルダーに対して日誌を提出し、エルダーが許可して初めて帰宅を許される。社会人としての心構えやマナーを説くのもエルダーの役割であり、もし新入社員が何か失敗をすればエルダーも一緒になって叱責を受ける。新入社員にとってエルダーは無二の存在であり、入社から1年が経って新入社員が独り立ちした以降も、その絆は強く結ばれ続ける。
 中川と寺島もそんな関係だった。その中川翔子が寺島の恋を指導しているのだから、寺島にとってこれほど強力な後押しはない。
「ねえ、ミッチー。今年こそはやるわよ。気合い入れて頑張るのよ」
「ねえ、ミッチー。ちゃんとプレゼント買ったの?」
「駄目よ、ミッチー。そんな弱気でどうするの」 
「さあ、ミッチー。いよいよ明日よ。今夜はよく眠るのよ」
 そんなふうに中川は寺島を皆の前で叱咤激励した。寺島は中川に言われるまま一途に杉山を想う女を演じたが、毎回繰り返される中川と寺島の掛け合いには誰もが食傷気味だった。
 プレゼント当日の定時後ともなると、中川は寺島をエレベータホールの脇の階段で待機させ、自分はエレベータホールからフロア内を覗き込んで、杉山にプレゼントを渡すチャンスを窺った。まず田宮が室内にいないことが絶対の条件であり、次に杉山が電話中でないことも重要な条件となる。そのチャンスがやってくると、中川は大きく腕を振って寺島に指示を出し、寺島が小走りにやってきて杉山にプレゼントを押しつけるのである。それは中川好みの派手な連係プレーだった。
 そんな中川と寺島の緊密な関係に異変が起こったのは、杉山がようやく遅刻癖から立ち直りつつある頃だった。
 士郎は寺島から相談を持ちかけられた。
「最近翔子先輩が口を利いてくれないんです」
 寺島は目に涙を浮かべていた。
 士郎はやはりと思った。最近2人の仲のよいところを見ていない。少し前の杉山の誕生日までは、いつものように中川が寺島を後押ししていたのだが、このところ気を付けてよく見ていると、中川の方が一方的に寺島に対して冷淡な態度を取っているのだった。それは度を超して業務に支障を来すほどのものとなっていた。しかし士郎にはその理由が分からない。いったいどうしたのかと、中川に問いただそうと思っていた矢先であった。
「なぜ、そんなことになったんだ?」
 士郎は寺島がしゃべるのを辛抱強く待った。
 しばらくの沈黙の後、寺島は重い口を割った。
「翔子先輩、杉山さんのことが好きだったんです」
「は? 杉山のことを好きだったのは、君なんだろう?」
「いいえ、違うんです。翔子先輩なんです」
「ちょっと、待ってくれよ。この間の杉山の誕生日だって、寺島さん、杉山にプレゼントを渡していたじゃないか」
「そうなんですけど、あれは翔子先輩が杉山さんの気を惹こうとして、わざと私を杉山さんにけしかけていたんです」
 士郎はそれを聞いてショックを受けた。何という錯綜した人間関係だ。尋常ではないような気がする。しかし次の瞬間にはその驚きを自分で打ち消し、かつて士郎が少年だった時に同級生の少女たちの間でも似たようなことがあったのを思い出していた。要するに中川の行動は小学生か中学生並みのレベルだということなのだ。
 寺島は思い切って全て士郎に話した。
「翔子先輩、杉山さんが遅刻ばっかりしてた頃、こっそり男子寮に行っているんです」
「本当? 杉山が遅刻していた頃と言えば、つい最近までのことだね」
「他の部署の人から聞いたんですけど、翔子先輩、そこで杉山さんに告白したって言うんです」
「それは酷いな。つまり杉山を君から横取りしようとしたわけだ」
「でも、翔子先輩、その時杉山さんに振られたんです」
「へえ、杉山も分かってるじゃないか、中川さんの子供じみたねじ曲がった感情を。そんなのは相手にしないのが賢明だよ」
「でも、それで多分翔子先輩は私を恨んでいるんです」
「そんなのは逆恨みとか、八つ当たりとかいうやつだよ。気にすることはないよ」
「でも、私、翔子先輩から無視されるのが辛いんです」
「放っておけばいいじゃないか、あんなのは。君は中川さんに杉山を横取りされそうになったんだろう? もっと言ってしまえば、中川さんは元々自分が杉山を好きなのに、杉山の気を惹くために君を出汁に使っておいて、頃合いを見計らってうまくやろうとしたわけだ。全く酷いやつだよ。そんなのはこっちから無視してやればいいじゃないか」
 士郎が憤慨してそう言うと、寺島は泣き出した。
「翔子先輩のことを悪く言わないでください」
 士郎は唖然とした。てっきり寺島は中川の仕打ちが悔しくて、上司の士郎に訴え出たものと思ったが、どうやら少し様子が違った。
「じゃあ、いったい君は私にどうして欲しいんだ?」
 寺島は泣きじゃくりながら答えた。
「元の翔子先輩に戻してください」
 士郎は唸った。しかし仕方がないので約束した。
「分かったよ。できるだけのことはしてみよう。だけど寺島さん、こういったことは本来ならば時間に解決してもらうしかないと思うよ」
 その日、士郎は、中川に対してどう言えばいいだろうかと、思い悩んた。それは必ずしも寺島のために悩んだというわけではない。士郎なりに人事課内の人間関係の在り方に焦燥感を抱いたからである。士郎にはもはや人事課のひとりひとりが、自分の職場を壊したがっているとしか思えなかった。
「人事課でやっている仕事なんて、単なる四則演算に過ぎないんだがねぇ。電卓を叩いて計算するだけなんだよ。それが何でこんなにこじれるのかね」
 終電の時刻に駅に向かって歩きながら、士郎は言った。
 卯木はく、く、くと笑いながら答えた。
「全くだな。しかしおれは放っておくのが一番いいと思うぜ。解決はできない」
「ああ、その通りだよ。人の心の中に手を突っ込んで操作できない以上、簡単には解決できないだろうね。しかし何か手は打たなければならないと思うんだよ」
「止めておけよ」
 卯木は素っ気なく言った。
「なぜだ? このままではおれたちはずっとこんな生活だよ。もう身が保たないよ」
 珍しく士郎が内心の苛立ちを露わにして言ったので、卯木は思わず真っ直ぐ前を見て歩く士郎の横顔を見た。
 士郎は口を尖らせてさらに言った。
「全く頭に来ているんだよ。何で人事課ではこうも色恋沙汰に振り回されるんだ?」
 卯木は笑った。
「人事課だけじゃないさ。考えてみろよ。トランザという会社全体がそうなんだ。社長と川島。田宮と早川。杉山と中川、寺島。みんな下半身でやりたいようにやってやがるのさ。しかしな、そんなことにまで振り回されていたんじゃ、それこそこっちの身が保たないぜ。だから放っておくのが一番なのさ」
「しかしおれたちは既に振り回されているわけだろう? 放っておくということは、このまま振り回され続けるということだよ。そんなのは悔しいよ。大切な人生なんだ。他人の色恋沙汰なんかに振り回されて、割を食って生きるなんてまっぴらだよ」
 すると卯木は余裕のある笑みを浮かべて言った。
「青い、青い。人間の世の中なんて、所詮は獣と同じ、そんなものなのさ。どんなに頑張ったって本能には勝てないよ。止めようぜ。それより急がないと終電に間に合わない」
 卯木はそう言うと、士郎の背を押して足早に地下へ向かう階段を降りた。
 その翌日、寺島はあっけらかんとして出社してきた。昨日のことなどすっかり忘れたように明るい雰囲気をまとっていた。澄んだ声で朝の挨拶をしながら颯爽と自席に着く寺島のことを、職場の同僚たちはこの女は誰だと言わんばかりに振り返った。間違いなく寺島ではあるが、明らかに昨日よりも化粧が濃い。寺島はまるで一夜にして生まれ変わったようだった。
 士郎は拍子抜けした。そしてその変化を歓迎した。士郎が直感で感じ取った通り、寺島はその時を境に中川から独り立ちし、自分の道を見つけたのだった。その年の新入社員のひとり、太田栄子のエルダーに寺島を選任したことが、今になって功を奏したのかもしれない。寺島は先輩としての自覚をきっかけにして、自分自身が成長しつつあった。こうなると話は別だ。もはや中川の下半身なんかどうでもよかった。それより寺島の心に起こった変化を守ってやりたかった。だから士郎は何もせずにこのまま見守ろうと、自分が取るべき行動を変えたのだった。
 輝き始めた寺島とは逆に、中川翔子はその日を境に、暗く、醜く、くすんでいった。快活な女を演じ切っていたかつての面影はなく、わがままと陰険さが彼女の印象を覆い尽くした。中川はそこから立ち直ることはできず、後に性懲りもなくもう一度同じ茶番劇を演じて、逃げるように会社を去ることになるのだった。

(5)

 その頃の士郎は、自分が誰よりも人事課の奥深くに入り込んでいるのを、いやでも感じるようになっていた。中に入り込まねば決して見えないものが、密林の中で絡み合った木々の根のように、士郎の立場を絡め取っていった。士郎は身動きがままならず、閉塞感を感じた。士郎はそれを密林に喩えたが、卯木は弾の飛び交う戦場のようだと言った。2人に共通してあったのは、生々しいまでの臨場感である。その中でどうにかこうにか生き永らえていることは、何かを得ているのか、それとも失っているのか、もはや感覚が麻痺して分からなくなる。
 士郎も卯木も、為すべきことを山ほど抱えていた。どれもこれもが遅々として進まない。その焦りの中で、2人は必死になって優先順位を構築していた。それは日々の出来事の中で常に破壊され、修復を必要とした。いつまで経っても終わらない、気の遠くなるような作業だった。
 ともかく、2人の打ち合わせによって、手始めに士郎がパソコン内のデータを共有フォルダーに整理し、卯木が再び地下倉庫の書類を整理することにした。
 卯木は「整理の基本は捨てることだぜ」と息巻いたが、田宮がそれを許さず、廃棄しようとする書類の詳細なリストを要求した。卯木は田宮に反論した。そうするとそのリストを作るための作業が膨大なものになる。それよりも残すべき書類は何年前のものまでで、それ以外は廃棄せよと言って欲しい、と。しかしその言葉は田宮の逆鱗に触れ、卯木はたっぷり1時間、田宮の前に立たされた。
 最後まで食い下がった卯木の態度が田宮には気に食わなかった。卯木はこうも言った。
「では、これは捨ててもいいだろうと思う書類のリストを日々お持ちしますので、その都度ご決裁いただけませんか。そうやって少しずつでも廃棄していかないと、整理して保管するスペースがないんです」
 それに対して田宮はぎょろりと目を剥き、冷たく言い放った。
「そうなるまで放っておいたのは君たちじゃないのか。それとも倉庫が勝手に縮んでスペースがなくなったとでも言うのか」
 卯木は最初のうちは田宮の冗談かと思ったのだが、どうやら本気で言っているらしいと気づき、それ以上食い下がるのを止めた。
 それと同じ頃、士郎は「データの蓄積はそれ自身が生き物のように徐々に成長していくんだ」と言ったが、田宮は最初からデータの分類とフォルダー構成の設計を要求した。それに対して士郎はもはや反論せず、はい、分かりましたとだけ答えた。
 いつもそうだが、田宮が介入してくると、物事が入り口のところでこじれて、その先がいっこうに始まらない。理屈っぽい正論を振りかざし、部下の工夫や試行錯誤を認めないのである。それは田宮のお決まりの必勝法であった。そうやって田宮は部下の心に、こんなことなら何もしない方がましだ、という気持ちを植え付けるのである。
 士郎も卯木も、田宮に気持ちを挫かれて降参するようなことだけは、何としても避けたかった。それは最悪の負け方だと思えた。だから、気持ちを高く保とう。健全さを失わず、少しでも抵抗しよう。2人で何度もそう確認し合った。どんなに後退を余儀なくされたとしても、最後まで決して奪われない唯一の戦術、忍耐こそが最後の聖域だった。
 しかし2人のその気持ちは部下たちには通じなかった。
 士郎が指示して、その年の新入社員の太田栄子にキャビネットの整理をさせた時のことである。残業して作業を続ける太田に、自分の仕事を終えた杉山が言った。
「そんなことはいくらやっても無駄なのに。おれはもう帰るから、君もそんなことはもう止めて、帰っていいよ」
 太田は単調な作業にうんざりしていて、杉山の言葉に従って喜んで帰ろうとした。それを士郎が止めたのである。
「太田さん、仕事を命じたのは私なんだよ」
 太田はそのひと言だけで士郎が言おうとしたことを理解し、その場で立ち止まった。そして士郎に叱られているのだと感じ、ばつの悪さを感じてじわっと泣き出した。
 杉山は泣きじゃくる太田に優しく言った。
「いいんだよ、君は、もう帰って。ほら、帰りな」
 太田は杉山に背中を押されて出て行った。
 士郎は杉山に言った。腹の中は煮えたぎっているにもかかわらず、それを抑えた穏やかな口調だった。
「私の指示で彼女はやっていたんだよ」
 しかし杉山はいっこうに悪びれずに言った。
「あんなこと、残業してまでやることじゃないですよ。こんな時間まで、ばかばかしい。加瀬係長には誰もついて行っていないのが分からないんですか」
 そんな捨てぜりふを残して、杉山もぷいと出て行った。そして杉山とともに部下たちも皆帰って行った。
 そこへ卯木が笑いながらやってきた。
「苦労しているようじゃないか」
 士郎は無言で力無く笑顔を返した。そして腕時計を見た。午後9時を回っていた。
 それを見て即座に卯木は士郎を支持する言葉を口にした。
「時刻は関係ないぜ。今日は皆さんお早いご帰宅だことで。今日1時間早く帰れば、明日1時間遅くなるんだ。ここはそんな職場なんだよ。杉山のばかな足引っ張りなんか気にするな」
 その時、一部始終を見ていた田宮が、卯木の言葉に反論するかのように、苦言を吐いた。
「たかがキャビネットの整理に何時間かけるつもりなんですか。人件費もただじゃないんだから、考えて指示を出してくれませんか」
 士郎は拳を握りしめてその言葉を聞いた。
 その夜も4人で会社に泊まることになった。
 深夜の2時頃、田宮が自席で仰け反っていびきをかき始めた頃、士郎と卯木は食事をしてくると梅本に告げて、ビルの外へ出た。自ずと足は「ラ・マルセイエーズ」へ向かう。
 いつものテーブルに向かい合い、ウェイターが水とお絞りを持ってきた時、卯木がごしごしと手をぬぐいながら言った。
「しかし、杉山にも困ったもんだな。自分が闘わないと言うのなら、せめておれたちの闘いの邪魔はして欲しくないもんだぜ」
 士郎も溜息をついた。
「ああ、その通りだね。しかし杉山には杉山の正義があるだろうからさ。彼自身は邪魔をしているなどとは思っちゃいないんじゃないかな。自分をごまかせば楽になる。あれで自分の闘いを闘っていると信じてるんだよ」
 すると卯木は目を剥いた。
「冗談じゃないぜ。今日のあいつの態度にしたって、あれじゃあ田宮を利するだけじゃないか」
「その通りだよ。しかしあいつの頭の中では、おれたちは田宮の走狗だと考えているはずだよ。書類の整理は田宮がいつも言っていることだからね。おれがそれと同じことを太田に命じたわけだから、そのおれから杉山は太田を守ってやったと思っているんだよ。目下のところ杉山にとっては、おれの足を引っ張ることが、すなわち田宮と闘うことになるんだよ」
 士郎の冷静な分析に、卯木は「けっ」と言ってそっぽを向いた。
「それより、太田をちゃんとフォローしておいた方がいい。新入社員のうちから変な考えに染まらないようにな」
「ああ。エルダーの寺島にも言い含めておくよ。ひと頃は別として、今の寺島なら杉山の言いなりにはならないだろうからね」
「しかし、寺島と言えば、杉山ばかりがなぜもてるんだ? 寺島にしろ中川にしろ、何で女はあんなのに惚れるんだ?」
「まあ、あいつは優しいからな」
「本気でそう思うのか?」
「いや、思わないよ。しかし女は正義じゃなくても、自分に優しくしてくれればそれでいいわけだろう? 優しい振りで女は騙せる。そうじゃないか?」
「ふ、ふ、ふ。おまえが女に関してこれまで言ってきたことの中で、おれが頷けるのはそれだけだな。正解だよ。杉山のあの狡さが、女には優しさと映る。あの分だと、太田もいちころだぜ」
「おい、おい。縁起でもないことを言うなよ。下半身マターはもうたくさんだよ」
 士郎は辟易してそう言ったが、それは悪い予感として、この時士郎の心の奥深く刻み込まれたのだった。

(6)

 それはその月の給与計算が終わって、比較的ゆとりのある時期だった。昼休みに士郎が卯木と一緒に食事から戻ってきた時、部下たちの会話の中で気になる言葉が、断片となって耳に飛び込んできた。「ミッチーから杉山さんへのプレゼント」「勤務地手当」「1万円」・・・。
 満腹の鈍い頭の中でもそれらの言葉はひとつに繋がり、士郎の心にいやな予感がインクの一滴のように広がった。
 勤務地手当の担当は寺島である。その寺島が杉山の勤務地手当を、プレゼントと称して密かに1万円増やしていたとしたら? しかし、いくら何でも、そんなことがあるはずがない。それは重大な犯罪行為であり、人事課の社員である杉山や寺島が分からないはずはない。しかし人事部長が空出張まがいのやり方で、毎月40万円を懐に入れているような会社である。そんなことが現実にあるのなら、人事課の社員がこっそり1万円を懐に入れてもおかしくはない。田宮が40万円なら、杉山は1万円。十分にありえると、士郎は思った。
 まだ午後の始業時刻には間があったが、士郎は即座に書庫から給与計算台帳の分厚いファイルを取り出し、それを抱えて自席に戻った。あまり慌てると皆に警戒されるとは思ったが、士郎の心臓は激しく脈打ち、手は震えた。
 人事課のページは後ろから3分の1ほどである。士郎はばっさりとファイルを開いた。次々ページをめくる。そして杉山の給与計算結果を見つけた。数字をなぞる指先が小刻みに震えている。勤務地手当の欄を見た。1万5千円と印字されている。この金額はおかしいか?
 士郎の頭は混乱していた。それを必死になって整理する。給与規程では、東京勤務者の勤務地手当は1万5千円、その他の地域は5千円と定められている。これは首都圏での物価水準、とりわけ家賃が高いことを考慮して定められたものである。杉山は東京勤務だから、勤務地手当は1万5千円で正しい。しかし、規程には但し書きが付いていて、会社の独身寮に入居している場合は、東京勤務であっても勤務地手当は5千円とするとなっている。杉山は会社の独身寮に入居している。だから1万5千円の勤務地手当が付いているのはやはりおかしいのだ。正しくは5千円。1万円多い。そうするとさっきの部下たちの会話と符合する。
 事実を突き止めつつある興奮と、部下たちへの疑惑、そして正義が傷つけられた失望。これらの気持ちが混ざり合って、士郎の胸の中で渦を巻いた。
 士郎はただちに行動を起こした。
 まずは卯木の席に行き、声をかけた。
「ちょっと地下倉庫へ付き合って欲しいんだ」
 卯木は士郎の勢いに呑まれた。
「おい、おい。いったいどうしたんだ? そんな険しい顔をして」
「いいから、頼むよ」
 そう言い残して既にエレベータホールへ足早に歩き始める士郎を、卯木は慌てて追いかけた。席を離れる時にちらりと田宮を見たが、特に変わった様子はない。だから卯木はいっそう奇異に思った。士郎のあの慌て振りが田宮から発したものではないとすれば、いったい何だと言うのか。何かよくないことが起こったことだけは確かなのだが。
 エレベータホールでは、既に士郎がエレベータの扉を開けて待っていた。卯木が乗り込むと、すぐに扉が閉まった。地下へ降りてゆくエレベータの中で2人になると、士郎は卯木に説明した。
「杉山のやつ、1万円、自分の給与をこっそり増やしてやがる」
 卯木は驚いた。
「まさか。いくら何でも、そこまでの悪とは思えないぜ」
「みんな知ってることだ。中川も、寺島も、末永も。みんなグルなんだよ」
 士郎はエレベータの中の階数を示すランプを睨み付けながら言った。
 卯木は士郎の肩を揺すって、自分の方へ士郎の顔を向かせ、士郎の目を見て言った。
「分かった。じゃあ、順を追って説明してくれ。いったい何があったんだ?」
 士郎は説明した。
 さっき食事から帰ってきた時、中川と寺島と末永がしゃべっていた。その中で気になる言葉が聞こえてきた。寺島から杉山へのプレゼント。勤務地手当。1万円。その言葉をつなぎ合わせてみれば、だいたいの予想は付く。事実、今月の給与計算台帳を見れば、杉山の勤務地手当は1万円多かった。
 説明の途中でエレベータは地下3階に到着した。扉が開いて、2人で歩き始める。暗くて静かな地下の通路に2人の足音と話し声がこだました。
「それで、倉庫に行く目的は?」
「その事実がいつからなのか、どういう不正があったのか、過去の資料を遡って調べるんだよ」
「分かった、そういうことだな。案内しよう」
 卯木が地下倉庫の扉を開け、明かりのスイッチを入れた時、目の前の光景に士郎は息を呑んだ。あれほど乱雑だった倉庫の中が見事に整理されている。それぞれの段ボール箱にはマジックで内容物が記され、裂けた箱はしっかりとガムテープで補修されていた。そして全ての段ボール箱がしっかりと棚に押し込まれていた。
「よくやったよ。大したもんだ」
 士郎が感嘆すると、卯木はあっけらかんと言った。
「黙って捨ててやったぜ、半分くらいな。でなきゃ、ここまで整理なんかできるもんか」
「ああ。それでいいと思うよ」
「で、給与計算台帳だが、この辺りに固めてある。過去の分も揃っているはずだぜ。こいつは捨てていないからな」
 卯木はおおざっぱに棚の範囲を示した。
 早速2人で段ボール箱を開け、次々とファイルを確認していった。杉山の明細が載っているページを開き、時系列に並べてゆく。その作業には2人がかりでたっぷり1時間かかった。
「分かった、ここだぜ」
 卯木が言った。
 士郎が作業の手を止めて、卯木が手にしたファイルを覗き込む。
「見てみろよ、約1年半前だ。ここで杉山は寮に入ったんだ」
 2冊のファイルを見比べると、勤務地手当は変わらず1万5千円だが、前月の寮費が空欄なのに、その翌月には8千円余りの数字が入っていた。
「だから、おまえの言ったのとは少し違うんだよ。寺島は何も杉山の勤務地手当を1万円増やしたわけじゃないんだ。杉山が寮に入った時に、勤務地手当を下げ忘れたんだよ。そのミスがずっと続いただけなんだ」
 卯木は寺島を庇うようにして言った。
 士郎は考え込んだ。寺島にも杉山にも罪はなかったと言えるか? これは過失であって、意図したものではなかったと言えるのか?
 士郎は一瞬笑った。そして言った。
「だからといって、見過ごせないよ。初めはミスだったかもしれないけど、知っていて何もしなかったのであれば、盗んだのと同じだよ。すぐに訂正して、返させなきゃ駄目だ」
 すると卯木は困ったような顔をした。そして大きくひとつ息を吐き、言った。
「どうでもいいけど、そろそろ上へ戻ろうぜ。あんまり長く席を空けていると、後で田宮のやつに何を言われるか分からないぜ」
 しかし、士郎は頑として拒んだ。
「いや、まだだよ。当時の杉山の入寮申請書を見つける。さらに遡って、杉山の入社時からの住居の変遷を調べる」
 士郎のこだわりに卯木は呆れた。
「なぜだ。なぜそこまで追及する? この際、杉山をとことんやり込めようって言うのか。あんなやつに時間をかけるのは無駄だと思うぜ」
 士郎は真顔で言った。
「そこに杉山の卑屈さの根源があるからだよ。いや、杉山だけじゃない。中川も寺島も末永も、みんなそうだ。多かれ少なかれ、腐敗しているよ。人事課の社員が自分の給与を勝手に増やすような真似をしたら、もうお終いなんだよ。田宮だけが悪いんじゃない。どっちもどっちってことにしかならない。だから田宮と闘えないのさ。自分たちは田宮から酷い目に合わされている、可哀想な被害者なんだと叫びはするけど、田宮とは正面切って闘えない。それはなぜか。簡単なことさ。後ろめたいからだよ。田宮ほどじゃないにしても、自分たちだってよろしくやっているからさ。おれはそういう根性が許せないんだ。田宮と闘おうとするなら、こちらはあくまでも高潔であるべきだよ」
 士郎の言葉に、卯木は言い知れぬ疲れを覚えた。そして身体の力が抜けてゆくのを感じた。こいつと一緒にやっていくのは大変だ。しかし今日のところは仕方がない。
「分かったよ。最後までやろう」
 それから2人でようやく全ての書類を探し出した時、地下倉庫に降りてから既に2時間以上が経っていた。
 地下倉庫から上がってくると、案の定、田宮が恐ろしい形相で2人を呼びつけた。
「昼休み以降、君たちは無断でいったいどこへ行っていたんだっ」
 士郎は持って上がってきた資料を抱えたまま、冷静に答えた。
「はい。地下倉庫へ調べ物に行っていました」
 田宮はそういう冷静な答え方を最も嫌う。だからこの時も声を荒げた。
「君は私をからかっているのか。いったい何を調べに行っていたんだっ。それを答えたまえっ」
 その声の荒々しさに人事課の社員たちはびくりと身体を強ばらせた。
その時卯木は見た。士郎の唇に、一瞬、不敵な笑みが浮かぶのを。
「結論が確認できれば、後でご報告しますよ」
 士郎のその言葉は、底冷えするような冷たさを含んでいた。
 卯木は徐々に理解してゆくのだが、士郎は時々そういう底知れぬ不気味さを発揮することがあった。一見すると呆れたお人好しなのだが、ひと皮めくると肚の中に底深い意志を持っている。その意志が働く時、士郎の行動は卯木の理解を超えた神秘をまとうのである。
 一方、田宮は、そんな士郎とは対照的に、時々薄っぺらな俗物振りを露呈することがある。この時もそうだった。相手がまともに闘う姿勢を示すと、その頑固さが腰砕けになるのである。いくら田宮が理屈っぽい頑固者とは言っても、所詮は損得で物事を計る小心者である。日頃のこわもて振りも、それを装えば相応の利益が自分の懐に転がり込んでくると知っているから、必死になって演出しているに過ぎなかった。ひとりの人間として互いに向き合えば、士郎に勝てるはずもなかった、と卯木は見る。
 その時田宮が黙ったので、士郎は卯木に合図して再び部屋を出て行き、資料を階下の会議室に持ち込んだ。
 テーブルに資料を置くと、士郎はその情況を楽しむかのように言った。
「さて、どうするか」
 この時、士郎の心は固く決まっていた。この問題の本質は、杉山と対峙しているのではない、これは田宮との闘いなのだ、と。
 卯木は士郎の言葉を待った。
「どうするんだ?」
 士郎はにやりと笑った。
「もちろん杉山の勤務地手当は、次の給与で5千円に訂正するよ。さらにはミスが発生した時まで遡って、過去の分も全額返却させるしかないね。そしてそのことを、杉山自らの口から田宮に報告させる」
 それを聞いて卯木は唖然とした。
「田宮に言うのか?」
 士郎は黙って頷いた。
「おい、おい。それは考え直そうぜ。何も田宮に言う必要はない。黙って杉山の給与を訂正して、それでお終いだろうぜ」
 士郎はふっと笑った。
「そういうわけには行かないよ。第一、杉山の給与に変更を加えた時点で、田宮は気づくに違いないよ。彼はおれたちが作った給与データをこと細かにチェックしているからね」
「じゃあ、どうする?」
「正々堂々、杉山から田宮に報告させる。そして過去の分も返却させる。それしかないよ」
「それなら、このまま黙っているという手もある」
 それを聞いて士郎の眼球がゆっくりと動いた。
「本気で言っているのか?」
 卯木は慌てて弁解した。
「そりゃ、おれだって不本意だよ。いや、おまえの言うことはよく分かる。しかしだ。しかしだよ、今は時期が悪いぜ。これ以上みんなから孤立するのは危険だ。寺島だって、せっかく杉山と切れそうなんだ。それをみすみす再びくっつけるような真似をしなくてもいいと思うんだ。とにかく、もうしばらく様子を見るっていう手もあるはずさ。考えてもみろよ。おれたちには田宮と闘うという大義があるんだぜ。敵と闘うには味方が必要なんだよ。そりゃ、杉山なんかじゃ、頼りにはならない。しかし、味方なんだよ。あんなやつでも、今のおれたちにとっては貴重な味方なんだ。おれの言わんとすることも分かるだろう?」
 卯木の言葉にじっと耳を傾けていた士郎の片側の眉がぐっと下がった。そして斜めから卯木を見た。
 卯木はたじろいだ。いやな目だ。
「では、訊くよ。田宮はこのことを知らなかったと思うか?」
 卯木は心の中を見透かされるようで、身構えながらも、しどろもどろになって答えた。
「そりゃ、おまえ、気づいていないだろう。なぜって、それは、あの田宮がだぜ、それを知りながら黙っているはずがないじゃないか。隙あらば部下の失敗を追及したがるあの田宮が、さ」
 しかし士郎の考えは違った。
「おれは知っているんだと思う。むしろ知らないはずがないよ。知っていながら彼は黙っているんだよ。しめしめと思ってね」
「しめしめ?」
「そう。しめしめだよ。自分が不正なやり方で月々40万円を懐に入れている。部下がそれを知っている。その部下が自分の懐に月々1万円を入れている。田宮もそれを知っている。これは暗黙の取り引きなのさ。互いに不正を行って、それを互いに黙っていようというわけさ。だから杉山は、ある意味では、田宮の加担者なんだよ。どんなに杉山自身は田宮を憎んでいようともね。そのことにもし気づかないなら、杉山という男は愚か者だよ」
 卯木は士郎のその言葉が自分に突き刺さるように感じた。愚か者なのは杉山だけじゃない、士郎の言葉は卯木自身にも向いているのだ。卯木はなおも抵抗した。
「じゃあ、時期の問題はどう考える? 今これ以上孤立するのは危険じゃないか?」
 士郎は動じなかった。
「待てば杉山の性根は変わるか?」
「しかし、みすみす田宮の方に追いやる必要もあるまい」
「追いやる? 既に彼は田宮の側にいるのに? おれはそこから杉山を救ってやりたいんだよ。杉山は苦しんでるはずさ。タイミングを逃してしまったんだよ。罪悪感が心に突き刺さっていると思うよ。おれはそう信じたいな」
 士郎がとぼけたように言うと、卯木は言葉に詰まった。
 最後には苦々しく卯木は笑った。そして言った。
「おまえには敵わないな。分かったよ。おまえに従おう」
 すると士郎は言った。
「じゃあ、末永から順番にここへ呼んでくれないかな。話をしなきゃ」
 またもや卯木は唖然とした。
「そこまでやるのか?」
「知ってて黙っている者も同罪だよ。人事課の社員であればなおさらだよ」
 卯木は諦めた。そして今回は士郎に従おうと思った。しかしこれ以上はこいつには付いていけないかもしれない、とも思った。
 卯木は部下を順番に会議室に呼んだ。末永、中川、寺島、そして最後に杉山本人という順番も、士郎が指定したものだった。この順番にも意味があった。最も物事がスムーズに運ぶのはこの順番だった。
「言っとくけど、これは横領だよ」
 士郎は最初に呼んだ末永に言った。
 末永は全て認め、詫びた。
 次に呼んだ中川は、末永とは対照的に、激しく抵抗した。
「杉山さんだけが悪いんですか。田宮部長が毎月40万円ものお金をネコババしているのは、加瀬係長も知っているんでしょう? それが許されるんなら、杉山さんがたった1万円受け取っているからって、何が悪いんですか。杉山さんに返せって言うんなら、まずは田宮部長に返せって言うべきなんじゃないですか。加瀬係長は田宮部長には怖くて言えないくせに、杉山さんのことをいじめているんだわ」
 士郎は中川のあまりの剣幕にぎゅっと目をつぶった。そして中川が黙ってから目を開け、厳かに言った。
「今私は杉山のことを責めているんじゃないんだよ。知っていて黙っていた君を責めているんだよ。それから田宮部長の40万円だけど、もちろん知っている。あんなのを許しやしないよ。いつか必ずその責任を取らせてやる。だけどね、その前に、田宮と闘おうという者が、金額の多い少ないはあれ、田宮と同じことをするのが、私は許せないんだよ」
 すると中川の目に見る見る涙が溜まった。
「私たちは可哀想だわ。田宮部長のせいで毎日毎日夜中まで仕事をさせられて。こんなんじゃあ身体が壊れちゃうわ。私が子どもの産めない身体になったら、加瀬係長はどう責任を取ってくれるんですか」
 士郎は静かに言った。
「約束するよ。田宮とは闘い抜く。勝てるかどうかは分からないけどね。それが私の責任の取り方だよ。それ以外には何も言えない」
 そう言った後で、士郎はここが分かれ道なんだ、と思った。もはや二股をかけ続けることはできない。田宮とうまくやろうとしても、田宮と闘うにしても、ここまでは同じ道だった。しかし中川にはっきりと約束した以上、士郎は道を一本に絞り、やがて来るチャンスには田宮にとどめを刺さなければらならなかった。
 中川は泣きじゃくりながら言った。
「勝てっこないわよ。田宮部長が何をやっても川島常務は黙ってるじゃないの。社長だって、見て見ぬ振りなんだわ。みんなで大阪の早川係長ばっかり可愛がって、東京の人事課をいじめてるのよ。汚いわよ」
 中川は声を発して泣き出した。そして会議室から飛び出して行った。
 卯木は士郎の隣でじっと黙って聞いていた。そして少し考えを変えた。
 もしかすると、士郎はこうやって人事課に溜まった膿を出していることになるのかもしれない。こういうやり方も、管理職としては必要なことなのかもしれない、と。
 次に寺島を呼んだ。寺島はすっかり観念して会議室にやってきた。末永と中川が順番に呼ばれているのを知って、薄々次は自分の番だろうと思ったに違いない。そして呼び出される理由を考えた時、杉山の勤務地手当のことではないかと思ったのだろう。真っ青な顔をして席に着いた。
 士郎は静かに言った。
「なぜ呼ばれたか分かるね?」
 寺島は黙って頷いた。
「では、今月の給与で訂正してくれるね?」
 寺島は再び頷いた。
「杉山には私から言っとく」
 士郎が寺島に話したのはそれだけだった。寺島はひと言も発せず、戻って行った。
 卯木は最後に杉山を呼んだ。卯木の予想では、杉山は中川以上の抵抗を示すと思えた。しかし違った。末永や寺島以上に、杉山は潔かった。
「君を呼んだのは、勤務地手当のことだよ。何があったか話して欲しい」
 士郎がそう言うと、杉山は表情ひとつ変えずに事実を認め、ミスを犯した寺島のせいにはせずに、自分から田宮に報告することを約束した。
 実際、杉山は士郎に諭された通り、その日の定時後に田宮に報告した。
 意外だったのは田宮の反応だった。激昂して杉山を責めるか、ねちねちと説教するかと思ったのに、実に素っ気なかった。
「そうか。分かった」
 それだけだった。
 信じられないものを見た。卯木は手品を見たような気持ちになった。果たして士郎はこうなることを読み切って物事を進めたのだろうか。もしそうだとすれば見事な手腕だと思った。尊敬に値すると思った。
 士郎と初めて会った時に「歳も近いことだし、おれ、おまえで行こう」と言ったのは卯木である。実際には士郎の方がひとつ年下なのだが、今、卯木にはとてもそうは思えなかった。士郎の方がずっと年上であるかのように感じた。卯木が士郎のことを心から尊敬するようになったのは、この時からである。士郎にはお人好しでおっとりしたところがあり、言葉の端々に年上の卯木に対する遠慮が表れたが、卯木はその後士郎をあくまでも同等かそれ以上の扱いをするようになるのである。

(7)

 もうすぐクリスマスだった。恒例の、寺島から杉山へのプレゼント騒ぎは、その年にはありそうもなかった。卯木の恐れた部下たちの反乱もなかった。代わりに一瞬の平和が人事課に訪れた。それは士郎が的確な判断で即座に手を打ち、もたらしたものである。そして今、士郎は当然至極といった顔をして、その平和を享受している。何と堂に入っていることか。卯木は、たとえ一時ではあっても、士郎の意見に反対した自分の不明を恥じた。
 しかし、その平和は長くは続かなかった。すぐに次の事件が頭をもたげ始めた。その兆候は士郎にも、卯木にも、以前からちらちらと見えてはいた。これはまずいな、と思って2人は身構えていた。いやな予感が膨らみ、最終的にそれは意外な形で現実のものとなる。
 震源となったのは、またしても中川翔子であった。士郎がそれを初めて認識したのは、全くの偶然だった。
 人事課の業務の中でも最大級のボリュームのある年末調整の事務作業のために、せっかくの日曜日、揃って休日出勤をした時のことである。士郎がトイレから出てくると、隣の女子トイレから部下たちのにぎやかな会話が聞こえてきた。
「ねえ、ねえ、太田さん。杉山さんのことをどう思う? 杉山さん、きっと太田さんに気があるわよ」
 それは中川の声だった。
 士郎は足を止めた。そして女子トイレの会話に聞き耳を立てた。
 太田は答えた。
「止めてくださいよ。あんなだらしない人、タイプじゃないですよ」
 すると口々に同意する末永や寺島の声も聞こえた。
「そうよねえ。もっとしっかりして欲しいわよねえ」
 それを聞いて士郎はほっと胸をなで下ろし、その場から離れた。しかし胸の中には嫌な予感がじわりと広がった。
 太田が寺島の二の舞になることは避けたかった。中川が杉山の気を惹こうとして太田をけしかけ、途中から介入して横取りしようなどとすれば、今度は太田と中川の間に亀裂が入る。それによってまたもや業務に支障が出ることを考えれば、中川が2度も同じことをするのにはもううんざりである。太田はその年の新入社員だから大切に育てたい。さもなくば、いつまで経っても人事課は低空飛行を続けることになる。
 卯木は言った。
「全く中川も懲りないやつだな。いい加減にして欲しいもんだ」
 士郎も同感だった。
「人事課のこの下半身体質はどうしようもないね。上から下まで、みんな下半身で生きてるようなもんだよ。これじゃあ、まるで獣だよ」
「上からと言うのは、田宮と早川のことだな? しかし下半身は何も人事課だけじゃないぜ。社長と川島の例もある。派遣されている女子社員も、ユーザー先の男子社員に色目を使う。結局のところ会社全体がそうなんだよ。これじゃあ、どうしようもないぜ」
 この時点では、士郎も卯木も、寺島の時と同じ情況を想定していた。すなわちそれは、中川が太田のことを安全牌と思って、杉山にけしかけていることを意味する。中川の目から見れば寺島と太田は同じタイプと見えるに違いない。すらりと長身で派手な顔つきの中川と違い、寺島も太田も小太りで地味な容姿をしていた。だから中川は、太田は自分のライバルにはなり得ないと踏んだのであろう。中川は自分の優位を疑わず、タイプの違う太田を利用しようというわけである。
 しかし、その時、中川は重大な計算ミスを犯していた。そして士郎も卯木も、当初はそのことに全く気づいていなかった。その時点で既に杉山と太田は互いに好意を寄せ合っていたのである。
 太田はまだ若いにもかかわらず、聡明で、慈愛の心が豊かだった。他者への依存心の強い杉山は、太田のそういうところに惹かれていた。一方、太田は7、8歳年上の杉山に対して、まるで母性をくすぐられたような好意を寄せ始めていた。しかしそこには太田のしたたかな将来設計が描かれていた。
 太田の家は下町の商店街で酒屋を営んでいた。太田はひとりっ子なので、両親が言うのに従って、後に婿をもらって店の跡を継ぐつもりでいた。だから太田には経済力のある男を捕まえようという気持ちはなく、むしろ自分が主導権を握れるそこそこの男と結婚するつもりでいた。その点、杉山は打ってつけの男だったと言える。この男、事務能力はあるが、優柔不断で、常に自分の弱点をさらけ出し、他者に甘えて生きている。太田にとってはこれほどコントロールしやすい男はなかった。その計算は都合のよい恋心に変わった。
「止めてくださいよ。あんなだらしない人、タイプじゃないですよ」
 太田が中川に対して言ったその言葉には、彼女の聡明さが表れている。太田は機敏に中川の意図を見抜き、中川の余計な介入をシャットアウトするために、好意を持つ杉山のことを敢えて蔑む振りをしたのである。中川はまんまと手玉に取られた結果に繋がった。
 中川は途中から杉山と太田の関係に気づき、慌てて2人の間に割って入ろうとしたが、時すでに遅しである。2人の関係はその時点で婚約直前まで行っていた。それでも中川は猛烈な巻き返しに出た。それはほとんど捨て身であった。クリスマスイブの夜、なりふり構わず杉山の前に自分の身体を投げ出し、肉欲で杉山を誘ったのである。欲望にそそのかされた男の目には、その姿は一途であり、滑稽であればあるほど美しかった。中川は寺島や太田を利用しようなどと考えずに、最初からさっさとそうすればよかったのだ。杉山は簡単に墜ちた。
 士郎はそのことを杉山自身の口から聞いた。杉山は窮地に陥り、深夜に士郎のアパートに電話してきたのである。
 その時士郎はようやくアパートにたどり着いたばかりだった。年末の忙しい時期である。本来ならば家に帰れるはずがなかった。それを「今夜はクリスマスイブだから」と終電間際に田宮が言って、士郎たちを帰らせたのである。
 クリスマスイブだと言っても、既に婚約者を失った士郎には何の意味もない。とにかく風呂に入ろうと思って、ネクタイを振り解き、湯船に水を張って風呂釜に火を点けた。電話が鳴ったのはその時である。
 杉山は酒に酔って泣いていた。
 こっちは仕事でへとへとだというのに、こいつはどこで何をしているんだ。そう思うと士郎の心に怒りが湧いた。それでも士郎は黙って杉山の話を聞いた。
 杉山は最後に言った。
「だから加瀬係長、太田さんに言ってくれませんか。ぼくと中川さんには何もないって」
 それを聞いて、士郎はゆっくりと長く息を吐いた。
「つまり、それは、私に嘘をつけということかい? 太田さんに嘘をついて、2人の仲を取り繕って欲しいと?」
 杉山は黙った。士郎は杉山の返事をじっくりと待った。
 杉山は観念して言った。
「お願いします。一度だけなんです。さっきはどうかしてたんです。着替えるために一旦寮に帰ったら、そこに中川さんが待ち伏せしていて。あれじゃ、まるで強姦ですよ」
「で、やったのか?」
「ですから、やったんじゃないんですったら。やられたんですっ」
 杉山はまるで若い女のように鼻から抜ける声を出して、士郎にすがった。
 士郎は電話を切ってから、風呂に浸かって考えた。
 夕方、部下たちの多くは、途中の仕事も放り出して、定時にさっさと帰って行った。その中には杉山、中川、太田も、確かに含まれていた。この日ばかりはさすがの田宮も咎めはしなかった。妙にそわそわしていたから、田宮自身にも何か計画があったのかもしれない。終電の時刻が近づくと、梅本、士郎、卯木の全員を帰れと追い立て、珍しく自分も帰り支度を始めた。士郎も卯木も一旦詮索してみた。その夜の田宮の相手は誰か。早川か、それとも他の女か。しかしそんなことは分かるはずもない。どうでもいいというのが、士郎と卯木の結論だった。2人は地下鉄の駅構内で「メリークリスマス」と白けた言葉を交わして別れた。ちょうどその頃のことなのだろう。杉山が悲劇とも喜劇ともつかず、身から出た錆を舐めていたのは。
 ともかく、杉山は太田とデートの約束をしていた。待ち合わせ場所を決めておいて、着替えるために一旦寮に帰ったら、そこに中川が待ち伏せしていた。他人の気持ちを考えようとはしない中川にしてはよくできた策略だ。クリスマスイブに杉山を横取りすれば、太田の怒りは決定的となり、2人の仲は引き裂ける。ともかく中川は杉山を奪った。
 杉山は太田との約束があるにもかかわらず、中川を拒まず、それはそれで楽しんだのである。呆れた話だ。この辺りが杉山の杉山たる所以であろう。
 その後、杉山はどうしただろう。骨のない杉山のことだから、のこのこ太田に会いに行ったに違いない。しかしそうは問屋が卸さない。聡明な太田のことだ。杉山の裏切りを見逃すはずはない。その時2人の間にどれほどの惨劇があったのか、具体的には分からない。とにかくその結果杉山が泣きながら電話をしてくるほどの何かがあったわけだ。このような場合、普通に考えれば、ただではすむまい。自業自得である。
「ま、おれの知ったことじゃない。付き合い切れないな」
 士郎は湯の中で、熱い吐息とともに、そうつぶやいた。
 しかし風呂から上がり、手足を伸ばして柔らかいベッドに身を沈めると、別の考えも浮かんできた。中川と太田の確執が職場に亀裂をもたらすことを想像すれば、実際には放っておくこともできない。
 その翌日、卯木に話すと、卯木は笑った。
「全く、杉山ばかりがなぜもてる?」
 そして続けて言った。
「ま、放っておけよ。今回はどっちの肩も持てないだろう?」
「そういうわけにも行かないよ。中川のいじめから太田を守ってやらないと」
 士郎がそう反論すると、卯木は冷ややかに言った。
「おまえがそう思うなら、おまえの好きなようにしていいと思うぜ。どのみちこういうのは何をやってもうまく行かないものだからな。何もしないのが一番いいと思うけど、それは面倒だから言ってるわけで、何もすべきではないと言ってるわけでもないしな」
 士郎にとっては男女の関係は苦手な分野であった。だから卯木に手伝って欲しかったのだが、卯木はこの件には終始冷淡な態度だった。仕方がないので、独力で、控えめなところから始めることにした。それは中川に人の目を感じさせることだった。君の行動を見ている者がいるから、あまり周囲の顰蹙を買うような行動は慎むようにと言ってみるのだ。
 しかし結果は卯木の言う通りだった。恋する者にとっては周囲の言葉など耳に入らない。結局は士郎が何を言っても無駄だった。中川は叫ぶように士郎を非難した。
「ほっといてよ。加瀬係長は関係ないくせに、横からしゃしゃり出てこないでっ。偉そうに人の道を説くんなら、田宮部長に言えばどうなのよっ。早川係長といちゃいちゃするなって。自分の女だからってえこひいきするなって。言えないんでしょ? 田宮部長が怖くて、縮み上がっているんでしょう? 田宮部長に言えないんなら、私のこともほっといてよっ」
 最後に中川は手のひらで力一杯テーブルを叩いた。そして士郎ひとりを残して会議室を飛び出して行った。
 士郎が自席に戻っても、中川の姿は職場になかった。30分経っても、1時間経っても中川は戻ってこなかった。士郎は少し心配になってきた。
 士郎は中川と同期の末永の席の脇で腰をかがめ、声を落として訊いた。
「中川さんを知らないかな?」
 末永は笑いを堪えながら答えた。
「誰かさんに叱られて、泣いています」
「どこで?」
「いつもの場所で」
「いつもの場所って?」
「それは内緒です」
 士郎は舌打ちした。
「じゃあ、自分で探すよ」
 その時末永は士郎の上着の裾を掴んだ。そして士郎を自分の方に引き寄せ、眉根を寄せて言った。
「余計なことはしないでください」
 士郎は驚いて末永の顔をまじまじと見た。
 末永は一度目を逸らして言った。
「お気を悪くなさらないでね」
 そして再び士郎と目を合わせて続けた。
「でも、物事を解決しようとしているのは、何も加瀬係長だけじゃないんです。中川さんのことは私たちに任せてくださいませんか」
 意外な言葉だった。士郎は目を丸くして突っ立った。そしてしばらくして我に返り、黙って頷いたのだった。
 その後、末永がどのように振る舞ったのか、士郎は知らない。中川に何か言ったのかもしれないし、言わなかったのかもしれない。中川はその翌日から2日間会社を休んだ。理由は手のひらの骨折だった。実際、3日目に中川が出勤してきた時には、右手に厚く包帯が巻かれてあった。中川は士郎を無視して、仏頂面で課長の梅本に欠勤を詫びた。そしてその翌日から会社は年末年始休暇に入った。休暇が開けて新年に出社してきた時、中川は観念したのか、もはや暴れようとはしなかった。士郎はほっと胸をなで下ろしはしたが、中川は正視に耐えないほど醜い女になっていた。

(8)

 年が明けて、杉山と太田の仲は深まっていった。
 それにしても、太田は若さに似合わず、したたかな女だった。土壇場での杉山の裏切りを許したのと引き替えに、杉山の骨をすっかり抜き取ったのである。その後の杉山は太田に頭が上がらず、太田の手のひらの上でいいように転がされた。
 表面上は仲睦まじい恋人同士と見える。2人が結ばれた激しいいきさつを知る士郎と卯木の目にさえ、これから起こるある事件に直面しなければ、罪のない微笑ましい光景と映っただろう。あるいは職場でいちゃいちゃし過ぎだと、軽く眉を顰める程度で終わったに違いない。
 後に卯木は持ち前の毒舌を振るい、この時期の人事課のありさまを指して「太田の股を中心に物事が振り回された最悪の事態」と言った。士郎も全く同感である。それを太田のしたたかさと言うか、杉山の不甲斐なさと言うか、表現の仕方に幅があったとしても。
 太田は決して杉山に直接のわがままを言いはしなかった。あるいは、くどくど不平不満を言うこともなかった。そんなことをしなくても、陰でこっそりひと筋の涙を流して見せるだけで、杉山などは思うように操縦することができた。それはやがて条件反射となり、涙は省略され、杉山は太田の悲しそうな顔を見ただけで行動を起こすようになった。
 士郎も太田の涙を見せられたことがある。いつもの残業で遅くまで仕事をしている時、太田は士郎を最上階の自動販売機に誘った。ここはこのビルの管理会社が清掃員の更衣室を設置しており、早朝の一時以外はほとんど無人だった。士郎はそのことを知っていて、卯木と2人でこの場所を時々こっそりと息抜きに使っていた。夜間は照明さえなく、飲み物の自動販売機が放つ微かな光がぼんやりと闇を照らしていた。
 その時太田は言った。
「こんな状態がいつまで続くんでしょう?」
 こんな状態というのは、毎日遅くまで際限なく続く残業のことである。人事課の誰もがそれを職業とか経済活動とかとは思わず、何か苦行か懲役のように感じていた。士郎と卯木はそれこそが田宮との闘いと割り切っていたから、そこから逃げたいという気持ちをもはや克服していたが、部下たちはひたすらそこからの解放を夢見ていた。
 缶コーヒーを手に、屋上へ出る扉にもたれかかる士郎の目の前で、太田はモデルのように優雅に舞った。それは士郎を幻想的な気分にさせた。肉の厚みで制服のスカートが裂けそうな小太りの太田の行動は、明るい蛍光灯の下でなら滑稽にしか見えないが、自動販売機の照明がぼんやりと光を投げかける薄暗がりの中では、その現実臭さがなかった。
 太田はゆっくりと自動販売機の方へ進んだ。そして照明の前で回って士郎の方を向いた。逆光のために太田の表情はよく見えない。しかしそこにひと筋の涙が流れているのが分かった。その涙を、士郎は芝居がかったものと感じた。そして涙で士郎を操ろうという太田の意図に嫌悪を感じた。
 なぜ闘おうとしないのか。なぜ自分の仕事をもっと効率的にしようとしないのか。それをせずに、なぜこんな場所に誘い出し、なぜ涙なのか。既に心にゆとりを失っている士郎には、太田の感傷が理解できなかった。
 太田はそれと同じことを杉山にもして見せたのだと士郎は考察した。杉山には太田の演出した感傷的な心が通じるのだ。おそらくは思春期に由来するその感情が、杉山にはまだ色濃く残っていたということか。それとも中川の罠にかかった後ろめたさからか。あるいは女に惚れた男の弱さか。おそらくはそれらが混ざり合ったものなのだろう。とにかく杉山は太田の手のひらで転がされた。
 その事件が起こった時もそうだった。それはその月の給与計算の最中だった。
士郎の目の前には2つに折り畳んで広辞苑ほどの厚さのある紙の束が積まれていた。東京本社管轄の約3,500人分の勤怠表を人事課全員で分担し、人海戦術で、ひとり当たり約400人分をチェックするのである。大阪支社でも、残り1,500人分の勤怠表をチェックする。作業量は東京本社の方がはるかに多い。
 トランザクション株式会社では未だに勤怠は手書きの自己申告であり、それをコンピュータ化したりオンライン化したりすることに、田宮は頑として首を縦に振らなかった。田宮はまるでこの膨大な手作業によって人事課の社員をいじめているかのようだった。とりわけ東京本社の人事課を。
 1日目は、個人票への記入の不備がないかどうか、そして個人票から集計表への転記ミスがないかどうかをチェックする。チェックの終わった集計表はデータ入力専門の部署に届けられ、2日目の午後にテキストデータとなって返される。即座にそれがプリンターで出力され、2日目の夕方からは、集計表と入力結果を突き合わせ、入力ミスがないかどうかをチェックする。両日とも付箋や赤ペンを片手に、厚い紙の束に1行ずつ定規を当て、気の遠くなるようなチェックをしてゆくのである。
 2日目の午後、既に定時の終業時刻をとっくに過ぎ、最も疲労を感じる時刻だった。士郎が気づいた時、太田は杉山にしきりに目で合図を送っていた。それに対し、杉山は首を振り、やはり目で何かを伝えていた。その様子を士郎は視野の片隅で監視していた。これは何かある。2人はいったい何を隠そうとしているのか。それを見逃してはならない。士郎は最高度の警戒をもって2人を監視しし続け、そのことをそっと卯木にも伝えた。
 卯木は赤ペンのチェックの手を止め、低い声で言った。
「何だろうな。いやな感じだぜ」
「勤怠データがらみだよ」
「すると休日深夜か」
「十分にあり得るね」
 休日深夜というのは、深夜にまで及んだ休日勤務のことを言う。労働基準法上は夜10時から翌朝の5時までを深夜時間と呼び、この時間帯に勤務させた場合には会社は2割5分増以上の割増賃金を支払わなければならない。元々休日勤務は3割増の賃金が義務づけられているから、休日の深夜勤務は通常勤務と比較して、合計すると5割5分増の賃金となる。
 トランザクション株式会社では、休日の深夜勤務など会社が命じることはあり得ないと強弁して、給与計算のプログラムにはその設定がなかった。しかし実際には休日勤務が深夜に及ぶことがしばしばある。そんな時にはプログラムに頼らず、手作業で計算しなければならない。もっとも、士郎が担当する時間精算によって、後の工程では休日勤務は代休に振り替えられてしまう。これは会社の時間外手当の抑制策である。しかし休日深夜勤務の割増分だけは、時間精算によっても取り消されずに、支払われることになる。だから、3,500人分の勤怠表の中からそれを探し出し、深夜勤務分として2割5分を後から足すのである。これは時間のかかる、面倒な作業である。
「コンピュータで計算できるようにさせていただけないでしょうか」
 以前に士郎が田宮にそう言うと、田宮は士郎を嘲るように答えた。
「君たちはいったい何のために勤怠のチェックを行っているんだ。社員が休日の午後にのこのこ職場へやってきて、深夜まで仕事をしましたと言えば、それは休日深夜なのか。君たちはそんなにしてまで社員に給与を払いたいのか」
 それを聞いて士郎は辟易した。それだけを聞けば正論ではあるかもしれない。しかし全く意味を成さない空論である。現実に士郎たちが終電間際まで行っている過重な手作業の中で、そのような機能を持てというのは不可能だ。できないことが分かっていながら、敢えてそれをやれと命じるのは、部下をいじめているとしか思えない。
 その時、田宮が付け加えたひと言が人事課の全員を憤慨させた。
「そもそも君たちは勤怠チェックごときに、何を夜中までかかってもたもたやっているんだ。大阪の早川係長は、君たちがだらだら残業している間に、さっさと終わらせてとっくに家に帰っているんだよ。大阪の人事課にできることが、なぜ東京の人事課ではできないんだ。君たちは早川係長の爪の垢でも煎じて飲んだらどうなんだ」
 そのような背景があって、人事課にとって休日深夜勤務の抽出は、田宮への激しい憎しみを伴う、不愉快な仕事のひとつだった。だから、と決して正当化できるものではないが、たまたま太田が見つけた休日深夜勤務を、担当の杉山が揉み消そうとしても不思議ではない。杉山は田宮を憎んでいる。太田は早く家に帰りたい。そして杉山は太田のその願いを叶えてやりたい。それが結局誰に矛先を向けることになるのかを、2人は考えてみようともしない。
 その日、時刻が午後10時を回った時点で、士郎はチェックの手を止めた。そして部下たちの進捗を見た。それぞれの持ち分はほぼ終了している。しかし杉山からは休日深夜勤務の報告がまだない。どうするのか。杉山はこのまま揉み消すのか。もう時間切れである。士郎は杉山に失望を感じた。そしてこの時士郎は杉山を庇うのを止めて、初めて見捨てたのである。
 杉山から、入力ミスのデータ修正が全て終わったと報告があった時、士郎は杉山の目を見て訊ねた。
「休日深夜はどうだった?」
 杉山は目を逸らせて答えた。
「今月はありませんでした」
 士郎は失望を声には出さず、さわやかに言った。
「そうか。じゃあ、みんなお疲れさま。今日は終了だよ」
 部下の皆がそそくさと帰った後で、士郎はふうっと溜息をついた。そこへ卯木が近づいてきて、これからいったいどうするんだと言いたげに、士郎の顔を覗き込んだ。士郎は疲れ切っていて、何も考えたくなかった。
 その時田宮が怒鳴った。
「いったいいつまで待たせるんだ。君たちだけが仕事をしているわけじゃないんだよ。終わったのなら終わったと、報告ぐらいしたらどうなんだっ」
 士郎は慌てて立ち上がった。そして田宮の席の前で直立不動の姿勢を取り、報告した。
「勤怠データの修正が終了いたしました。情報システム室に計算を依頼してもよろしいでしょうか」
 すると田宮は不機嫌そうに言った。
「さっさとやったらどうなんだ、全く」
 士郎は3階の情報システム室に内線電話をかけて、計算の開始を依頼した。
 この後、士郎にはまだもうひと仕事残っている。約45分かかって情報システム部の計算が終わったら、出力されたリストの段ボール箱をひとつ、東京駅の新幹線メール便窓口まで持ってゆかなければならない。大阪の人事課で明日の作業に使用するため、明朝一番の新幹線に載せるのである。大阪の人事課では、この時刻にはとっくに仕事を終えて、全員が既に帰宅している。東京の人事課では士郎が、作業が終了しても息吐く暇なく、大阪の人事課のためにタクシーを飛ばさなければならない。士郎がそこまでしても、田宮は大阪の人事課を褒めそやし、東京の人事課を迫害するのである。理屈抜きで、士郎と卯木は憤る。
 この日計算が終わったと言っても、時間外手当と欠勤控除の計算に過ぎない。それは1ヶ月の給与計算全体のほんの一部でしかなく、主要な部分はまだこれからである。気は抜けない。士郎は深々とタクシーのシートに身を委ねたが、神経は苛立ちち、今日の杉山と太田の行動が頭の中で繰り返し再生された。
 午前1時過ぎ、全て終わって士郎が戻ってきた時、卯木が職場に残って士郎を待っていた。
「田宮と梅本課長は?」
「田宮はさっきまで長電話していたけど、それが終わってどこかへ行った。梅本課長はもう随分前に消えたぜ。応接室にでも行ったんじゃないのか」
 梅本はいつも士郎たちと一緒に会議室では眠らず、応接室のソファーで独りで眠った。腕時計を見るといつもより少し早いが、今日の作業はボリュームがあったから疲れて早めにダウンしたのかもしれない。
「ふうん。おまえももう終わればよかったのに。終電、間に合ったろう?」
 すると卯木は微かに首を振って言った。
「ちょっと気になってな。まだ丹念に見たわけじゃないが、休日深夜、やっぱりあったぜ」
 士郎はそれを知っていたかのように頷いた。
「ああ。そうだろうね」
「これからどうする?」
「もちろん払うよ」
「そりゃ、そうさ。おれの言うのは食事だよ。いい加減腹減ったよ」
「ああ、そうだね。じゃ、いつものところで?」
「そうしよう」
 その夜、レストラン「ラ・マルセイエーズ」で、卯木は大いに憤った。
「杉山のやつ、よくも『今月はありません』などとほざきやがったもんだぜ。どうやってとっちめてやろうか?」
 士郎は困った顔をして言った。
「何もしないよ」
 卯木は目を剥いた。
「なぜだ? 許すのか?」
 士郎は首を振った。
「いや、ここで見捨てる。許さない、庇わない、叱らない。もはや取り繕う機会さえ与えない」
 卯木は意外な顔をした。
「太田もか?」
「彼女はもう駄目だね。諦めたよ」
 卯木は釈然としなかった。もう腐ってしまった杉山はともかく、まだ2年目の太田に対してまで、そこまで言わなければならないのか。その卯木の気持ちの迷いが、その翌日の事件に繋がった。
 翌日の定時後、田宮が席を外した時、卯木は杉山に詰め寄った。士郎は相手にするなと卯木を止めようと思ったが、杉山の反応がそれよりも早かった。
「なぜそこまでしてやらなければならないんですか。毎日、毎日、夜中まで残業させられて、それでも大阪の人事課よりも劣っているって言われるんですよ。そんな仕打ちに耐えなければならないんですか。おれたちは奴隷じゃないんだ。卯木係長、あんた、休日深夜なんて計算したことないんでしょう。計算してみてくださいよ。たかが数百円ですよ。そんなことのために、なぜおれたちがこんなに苦しい思いをしなければならないんですか。ばかばかしくて、やってられませんよ」
 部下たちは杉山の演説を聞き、共感を示していた。それも不思議ではない。人事課に背負わされたものは重過ぎる。これ以上はもう持ち堪えられないという時、そのうちのわずかなものを下ろして何が悪いと言うのである。
 しかしこれは論理のすり替えであり、矛先の転嫁に他ならない。休日深夜を削られた社員には何の罪もないのだ。重荷を返上するのなら、田宮に対して投げ返すべきである。それができないから、皆の憤りは行き場を失い、杉山の演説に共感するのである。
 士郎にも卯木にもその気持ちは理解できる。だからこの時、卯木は言葉に詰まって反論できず、無言のままじりじりと押されたのである。
 寺島が卯木に追い打ちをかけた。
「私たちはもう限界なんです。これ以上は無理なんです」
 職場が静まりかえった。
 士郎はひとりひとりの顔を見た。杉山は顔を紅潮させ、興奮気味に突っ立っている。寺島は卯木を睨み付けている。末永は自分の指先に視線を落としている。中川は遠くに焦点の合わない視線を走らせている。太田はうつむいて、じっと身を強ばらせている。柴田は士郎に視線を投げ返し、何かを訴えたがっているように見える。梅本は何が起こったのか分からず、呆気にとられている。卯木を支持する者はおらず、杉山や寺島に反論する者もいない。
 士郎は黙って立ち上がった。そして静かな口調ではあるが、皆を驚かせるほどの強い言葉を使った。
「駄目だ。2人のやったことは窃盗に等しい。他人の給与を不当に削るような行為を、私は決して許さない」
 太田の身体に電流が走ったように見えた。そしてバネが弾けたように飛び上がると、士郎に向かって突進してきた。
「ばかやろうっ」
 太田は叫びながら士郎に体当たりを食らわし、そのまま泣きながら出て行った。
 士郎はよろめいた。そこへ杉山が躍りかかった。杉山は士郎の胸ぐらを掴んで振り回した。士郎は杉山の腕を解こうともがいたが、腕力の差は歴然としていた。士郎の首が杉山の剛力によってぐらぐら揺れた。
「誰があんたなんかについて行くんだ。あ? 誰があんたなんかについて行くんだよ」
 士郎のワイシャツのボタンが消し飛んだ。中のシャツが一気に裂けた。士郎の皮膚に擦り傷の痛みが走った。
 杉山は荒い息をしながら士郎を突き飛ばすと、太田の後を追って出て行った。
 士郎は青い顔をして立ち上がり、皆に告げた。
「今月の給与計算の最後に休日深夜を付け足すから、そのつもりでいてくれ」
 そこへ席を外していた田宮が戻ってきた。
「加瀬係長。いったいどうしたんですか」
「あんたの代わりに杉山の怒りを受け止めただけだよ」
 本来ならそう言うべきだったろう。しかし士郎は乱れた服装を直しながら言った。
「休日深夜がありました。データを追加します」
 卯木は士郎のために、どこからか替えのワイシャツを買ってきてくれた。士郎はそれを着て、その夜会社に泊まった。
 休日深夜に該当する者は、結局31名、総額2万円と少しあった。そのうち最も金額の少ない者は81円だった。このことを士郎は杉山とは正反対の言い方をした。
「たかだか81円のために、おれたちはプライドを捨て去るところだったんだよ」
 卯木は言った。
「すまなかった。相手にすべきじゃなかった。もっとまともな結果になると思った」
「いや、いいんだよ。最初からああやって正面からやるべきだったのかもしれない。おれ自身の心が縮んでいたんだよ、きっと。だから争いを避けたかったんだ。でもそれは間違いだったかもしれない」
「うむ。しかし、これからますますやりづらくなるぜ。おれたちの孤立はこれで決定的だ。今日のみんなのふてくされた態度。敵に回ったんじゃないか? 逆に杉山がヒーローか」
 しかし士郎は言った。
「ふん。おまえがいるから、おれは孤立とは思っていないよ。今回のことを失敗だと思っちゃ駄目だよ。道はひとつしかなかった。まがうことなく、おれたちはその道を進んだんだよ。立派なもんだよ」
 士郎は笑ったが、その言葉に力強さは感じられなかった。

(9)

 その頃、2人が入社して、2年になろうとしていた。ある夜、士郎は卯木をレストラン「ラ・マルセイエーズ」に誘い出した。
「今日はおれのおごりだ。何でも好きなものを頼んでくれ」
 士郎がそう言うと、卯木はにやりと笑った。
「どういう風の吹き回しだ、本当にいいのか?」
「もちろん」
 卯木は怪訝そうな顔をしながらも、いたずらっぽい笑みを浮かべて、ウェイターに言った。
「今夜はグラスじゃなくて、ボトルで。このシャトー何とかっていう1万5千円のやつを」
 ウェイターが引き下がると、卯木は本当にいいのかと確かめるように士郎を見た。
 士郎は卯木に対して軽く頷いて、ちらりと腕時計を見た。午前2時を回っていた。少し時間が足りないかもしれない。しかし今夜は何としても得るべき結論を得ておきたかった。
「料理も頼んでいいよ」
「本当かよ。しかしここの料理は例の白身魚のフライ以外は不味くて食えないからな」
「じゃあ、それを頼もう」
 士郎はそう言って再びウェイターを呼んで注文した。
 やがて銀色のバケツに入ったワインが運ばれてきて、ウェイターは恭しく士郎のグラスにほんの少しワインを注いだ。そんな儀式めいたことに照れた士郎は、グラスに唇を付けて飲む振りをし、香りを嗅いだだけで頷いた。
 ウェイターは士郎の仕草をおかしがりながら、2人のグラスに今度は景気よくワインを注いだ。
「やっぱり高いワインは違うね」
 と卯木が言った。
「どう違う?」
「高そうな香りがする」
 と卯木が言ったので、士郎は笑った。
「本当は違いなんか分からないくせに」
「その通り。猫に小判だ。豚に真珠とも言う。だからいつもの1杯550円のでいいのに」
「今夜はそうは行かないんだよ」
「じゃあ、聞こうか。高いワインを飲ませて、おれに何を要求する?」
 卯木に促されて士郎は言った。
「期限の2年間が経とうとしている」
「やっぱりそのことか」
「そう。そのことだよ。結論を言うよ。残ってくれ。今おまえに去られると困る」
「そう来ると思ったぜ」
「頼むよ」
「言われるまでもないさ。おれはまだ例の約束を果たしていないしな。おまえを課長にしてやるという約束をな。それにおれの田宮に対する怒りと憎しみはおまえには劣らないつもりだぜ。これはおれ自身の闘いでもある。だから、実は、既に親父には言ってあるんだ。途中で投げ出して抜けることはできない、1年延長してくれってな」
「親父さんは何と言った?」
「さすがはおれの息子だ、よくぞ言ったってさ」
「立派な親父さんだ」
「安心したか? それじゃ、あとは心ゆくまでこのワインを楽しもうじゃないか」
 そう言って卯木が差し出したグラスに、士郎は自分のグラスを合わせた。
「それよりもおれはおまえのことを心配してるんだぜ」
「あ?」
「おれはいいよ。いつでも救援ヘリを呼べる。ここから抜け出したら社長の椅子が待っている。しかしおまえは? おまえこそ持ち堪えられるのか? おまえはお人好しだから田宮からはいいようにこき使われる、部下は言うことを聞かない、そして言いにくいことだが、フィアンセには逃げられる。このおれから見ても、おまえの人生ぼろぼろだ。そんな男がなぜ闘志を維持できる? 横で見ていて不思議でならない。一説にはおまえは根っからのマゾだと言われてさえいるんだぜ」
「マゾヒスト? このおれが?」
「違うのか?」
「止してくれよ。そんなんじゃない。信条の問題だよ。言ってみればレジスタンス。おれは屈するのが大嫌いなんだよ」
「じゃあ、まあ、そういうことにしておこう。しかし全て裏目だな、やることなすこと」
「すまん。こんなはずじゃなかった」
「いや、おまえを責めてるんじゃない。これは、何というのか、そう、現実を呪って言ってるんだ」
「ああ。まるでパンドラの箱を開けたみたいだね」
「それが今のおれたちの状態か。まあ、そんなところだな」
「どこにも希望がない。八方塞がりだよね。しかしおれたちは負けない。絶対に負けない。なぜなら…」
「なぜなら?」
「なぜなら、おれたちの方が若いんだよ。順番からすれば必ず田宮の方が先に死ぬ。きっとそうなる」
 それは士郎の常套句だった。士郎が真顔で言ったその言葉に、卯木はいつものように笑った。そして卯木もいつもの言い方で混ぜ返した。
「そこまで行かないと勝てないのか。しかしそれも怪しいもんだぜ。鏡を見てみろよ、おまえのその顔色。今にも死にそうな顔をしているぜ。おれもおまえも、明日の朝生きて目を覚ますかどうか分からないような生活をしてる。それでも勝てるか?」
「勝てる。きっと勝てる。そう信じるしかない」
 士郎はそう言って静かな笑みを浮かべた。
 そこへウェイターが揚げたての白身魚のフライを運んできた。士郎も卯木も空腹だったので、即座に手を伸ばした。そして2人でうなり声を上げた。
「うまい。いつ食ってもこいつは最高だよ。これだけはいける。他は駄目でも、これだけは絶品だ」
 卯木はわざわざウェイターを呼んだ。
 ウェイターは怪訝そうな顔をして、卯木のそばで身をかがめた。
「これ、何ていう魚ですか?」
 卯木は訊いた。
「少々お待ちください」
 ウェイターはそう言って厨房へ消えた。
 しばらくすると気の弱そうなシェフが顔を青くしてやってきた。
「何か不都合でもございましたか?」
「いいえ、とんでもない。このフライがあまり美味しいんで、何ていう魚か訊いただけなんです」
 するとシェフはまるでそれが悪いことのように恐縮して言った。
「実はそれ、シイラなんです」
「シイラ? どんな魚ですか?」
「サバの仲間です」
「サバ? サバがこんなにも美味いものだったとはねえ」
 卯木はしきりに感心した。
シェフが厨房に戻ると卯木は陽気に言った。
「おれたちってそんなに人相が悪いのかな。あのシェフ、ちょっとびびってたぜ」
「それとも魚のことを訊かれたのが不都合なことだったとか」
「シイラなんて魚、知ってるか?」
「いや、初めて聞いたよ。サバの仲間だって言ってたけど、どんな魚なんだろうね? 訊かれてやばい魚なんだろうか」
「どんな魚でもいいけどね。これだけ美味ければ、おれは何にも文句はないよ。ほくほくしていて、ほのかな甘みがあって、もう、最高だぜ」
 卯木はそう言いながらもうひと切れを口に運んだ。
 士郎はその時思った。いつか自由の日々がやってきたら、きっとシイラをこの目で見てやろう。この苦しい時に美味なるその肉体で自分たちを励ましたくれたことに感謝して、いつか肉片ではないその本来の姿を拝んでやろう。魚屋をはしごしてもいいし、水族館へ行ってもいい。いや、いっそのこと釣りに行ってもいい。今はほとんど囚われの身で自由が利かないが、やがてこの苦しみから解放されたら、胸を張ってシイラを釣りに行こう。
 しかしそれが実現するのはこの時から4年後、すでに卯木が退社し、次いで士郎さえもがトランザクション株式会社を去ってからのことになるのだった。