骨、語る

第1章

(1)

 冬子と出会った頃の加瀬士郎は打ちひしがれていた。どうあがいてみても、それだけでは物事は進まない。焦ってもいたし、失意のどん底にもいた。
 だからと言うべきか、士郎はとっさに嘘を吐いた。
「小説家だよ」
 その途端に女の目の色が変わった。士郎を見る目が熱を帯びた。
「私、冬子っていうの。春夏秋冬の冬子。吉村冬子よ」
「今の季節にぴったりの名だ。だけど、春になっても冬子なの?」
 士郎はとぼけたことを訊いたが、冬子は笑わなかった。
「そう、春でも冬子、夏でも冬子」
「冬に生まれたから、冬子?」
「そう。冬に生まれたから、冬子。でも、母は反対したらしいの。温もりのない名前だって。それでも冬子。敢えて冬子」
「いいね、それ」
「あなたは?」
「さむらいの士郎。加瀬士郎」
「士郎さんね?」
 その店の薄暗い照明の下で、冬子は美しく光彩を放った。しかし期待はするなと、士郎は自分に言い聞かせた。手の届く相手ではない。それにあんな無茶な嘘をついてしまったのだ。ばれて気まずい思いをしないためには、二度と会わないのが一番いい。士郎は冬子のことは忘れることにして、その店にはもう行かないことにした。
 しかしそれから数日して、士郎は再び冬子と会うことになった。冬子はJR東京駅構内の通路で、総武線のホームに向かう士郎を待ち伏せしていた。いつそこを通るのか分からない士郎を、冬子がどれぐらい待っていたのかは分からない。
「こんばんは。また会えたわね、小説家の先生」
 冬子は、その言葉が士郎の心をかき乱すにもかかわらず、にこやかに言った。
 2人は明るい構内の雑踏の中で向かい合った。
 薄目の化粧。ジーンズにセーター。仕事帰りの疲れの浮き出た顔。職業は事務職か。年齢は30歳をおそらく過ぎている。左手の薬指に指輪はない。
 近くの喫茶店に入り、テーブルで向き合うと、すぐに冬子が言った。
「ねえ」
「ん?」
「さっき私の年齢を考えていた?」
「いいや」
「嘘吐き」
 士郎はその言葉にぎくりとした。
 無言の士郎に冬子は言った。
「34歳よ、私。仕事は繊維メーカーのOL。入社して14年。結婚もせず、キャリアもなく、毎日同じことの繰り返し。つまらない人生を生きている女よ。多分あなたが考えたこと、全部当たってるわよ」
 士郎は驚いた。この女、他人の心が読めるのではないかと思った。
「なぜ、分かった?」
「何が?」
「おれが心に思ったこと」
「あなたって、正直なんですもの」
「さっきは嘘吐きと言った」
「嘘を吐くのが下手だからよ。だから正直なの。ほんとの嘘吐きは、ばれない嘘を吐くものよ。余計に始末が悪いわ」
 ではあの夜の嘘も既にばれているのだろうか、と士郎は思った。士郎が小説家だなどと言ったのに、冬子はどんな本を書いているのかとさえ訊かなかった。きっとばれているに違いない。だから潔く言った。
「ごめん。あの晩も嘘を吐いた」
 すると冬子はぷっと吹き出した。
「ほらね。やっぱり嘘を吐くのが下手だわ」
「と言うと?」
「ちょっとつつくと、すぐに白状しちゃうじゃない?」
 士郎は苦笑した。
「待っててくれたのは、なぜ?」
「あら、迷惑だったかしら?」
「その反対。嬉しかったよ。どうせ一時の出会いに過ぎないと思ってた。でも…」
「でも?」
「今、38歳。一度結婚に失敗して未だに独身。仕事は情報処理サービス会社の人事。やってきたことは社員5,000名のひたすら給与計算。他にどうしようもなくてサラリーマンをやってるけど、この歳でやっと係長。年収は未だに500万に届かない。むろん財産なんかないし、貯金もない。頼りになる友達は1人だけ。女はいない。生きてるだけで精一杯。時々虚勢を張って小説家だなんて嘘を吐く。だけどその嘘はすぐにばれる。おれの人生、このまま行けば朽ち果てていくばかり。決して付き合って愉快な男じゃない。だから不思議だ。君みたいな人と、また会えたことが」
 士郎が本気でそう言ったにもかかわらず、冬子はぷっと笑って受け流した。
「あら、『君みたいな人』っていうのが嬉しいじゃない。でも、よくもまあ、それだけ悲観的なことを並べたわね」
「既に人生の半分を生きてしまった。いいことなんか何もなかった。このままじゃ駄目だと思うと、とても焦る」
 冬子は眉根を寄せて困った顔をした。
「士郎さんって、私の思った通りよ。じゃあ、こんな考えはどうかしら? 人ってね、ただそこに生きて息づいているだけでも十分に価値はあると思うのよ。生きてることそのものが醸し出す哀しみとか温もりとか、そういうものがね。お金をいくら持ってるとか、どんな高い地位にいるとか、そんなことには関係のない、その人固有の体温とでも言えばいいのかしら? 士郎さんの体温って、私に合うのよ。それを感じるセンサーみたいなものが、私にはあるの」
 士郎は冬子のその言葉に強く惹かれた。それは紛れもなく30代の孤独な女の言葉だった。そして士郎が表現し切れなかった冬子の不思議な印象を、冬子自身の言葉でうまく言い当てたものでもあった。

(2)

 それからも冬子とは何度か会った。冬子は士郎に忘れていたものを思い出させた。冬子のことを思うと、枯れたように見えていた士郎の視界は色彩を取り戻し、色香をまといさえしたのだった。
 親しくなっても2人の会話はあまり弾まなかった。たいていは東京駅構内のレストランで一緒に食事をし、思い出したように世間話をぽつりぽつりとして、そして構内で素っ気なく別れた。士郎は総武線に、冬子は中央線に向かうのだった。
 士郎はそのことに焦りを感じていた。女が喜ぶような話題を探して楽しい会話を心がけなければ、やがて冬子に飽きられてしまうに違いない。しかしその頃の士郎は様々なことに打ちのめされ、自信を失くし、心にゆとりがあろうはずもなかった。
 その時も、2人はいつものレストランで向かい合っていた。食事を終えて黙ってコーヒーを飲んでいると、士郎には沈黙が耐え難いものになった。
「こんな話をどう思う?」
 士郎はそう切り出した。
 冬子は口元へ運んだコーヒーカップをわざわざソーサーに戻し、両手の指をテーブルの上で組んで微笑んだ。
「なあに?」
 士郎は冬子のその仕草を見て気弱になった。そんなふうに構えて聞いてもらうほど楽しい話じゃない。しかし冬子は興味深げに士郎が話すのを待っている。士郎はおずおずと話し始めた。
「その会社の本社は赤坂、社員数は5,000名、情報処理サービスをやっている、一応は一部上場企業の、人事部での話なんだ」
「つまりそれは、士郎さんの職場の話ね?」
「そう、その通り。6年前からそこに勤めてる。で、2年前に人事部長を、部下のおれたちが叩き出した」
「まあ、士郎さんって案外過激なのね」
「悪いやつだったんだよ、そいつ。人事部長の椅子にしがみついて権勢を振るっていた。些末な話だよ。社員の手当を認める、認めないとか、有給休暇を認める、認めないとか、そんなことにいちいち介入しては、部下や他部署の管理職を困らせていた。その一方で自分の懐には、空出張まがいのやり方で、何千万円もの金を着服していたんだ」
「どこにでもいるわね、そんなつまらないことに一生懸命になる人が」
「そう。ただね、悪いやつがいかにも悪いやつとして単独で存在しているなら、周囲にそれほどの害はないんだよ。誰からも相手にされないか、さっさと叩き出されるのが落ちだ。だけど現実には、表向きは善良そうな顔をしたやつがそれに加担し、長年にわたって裏で支えてきた。そしてそこから自分のささやかな利益を受け取ってきたんだ。昇給や昇進といった形でね」
「みんなで村八分にしてやればいいのよ、そんな裏切り者は」
「おれたちには辛い闘いだった。部長に意地悪されて、書類にハンコひとつもらうのに3日も4日もかかった。来る日も来る日も、よくて終電、下手すりゃいく晩も会社に寝泊まりの日々だった。何人ものおれの部下が、会社を恨んで辞めていったよ」
「でも、最後には勝ったのね?」
「負けやしないさ、あんなやつらには。けど、この闘い、勝ったからと言って得るものは何もなかった。4年かかったよ、あの男ひとり放逐するのに。おかげでこっちはへとへとのぼろぼろ。で、最後に残った疑問がひとつ」
「何?」
「その部長の片棒を担いだのは女の係長だったのさ。部長の空出張を手配していたのもその女だったし、おれたちの動きを逐一部長の耳に入れていたのもその女だった。で、2人はできているという噂だった。不倫の関係だとね。しかし真相はどうなのか、今も残る謎だ。この話、君はどう思う?」
 士郎が真顔で言ったのに、冬子はく、く、くと喉の奥で笑った。
「実際には会ったこともない人たちだけど、私の経験からすると疑問の余地はないわよ。でもその前に、2人の年齢を聞いておこうかしら?」
「今の年齢で言うと、部長は52歳で妻子持ち。女の係長は33歳で独身」
「だったら、そんなの決まってるじゃない。できてるわよ、その2人。そもそも30を過ぎた男女に噂が立てば、火のないところに煙は立たないと考えるべきよ。ただでさえ男と女はくっつきたがるのに、噂だけで終わるわけないじゃない。それを謎だなんて、士郎さんもお人好しだわ」
 冬子の答えは小気味がいいほど明快だった。そして続けて言った。
「で、その話の結末は? その部長と係長はどうなったの? 罰せられたの?」
「いいや。部長は健康保険組合の事務長に収まって、本社への復帰を虎視眈々と狙っている。女の係長はしれっとして人事部に居残り、出世して課長になった。おそらく今でもその男と通じているよ。こういう時は女の方がしたたかだね。その一方でおれたちには会社から何のねぎらいの言葉もなく、ましてや何の賞賛もない。これじゃあ辞めていった部下たちが報われないよ。あの苦しい闘いは何だったんだろうって、今、おれは思ってる」
 そう言うと士郎はふっと視線を横に流した。
 冬子は言った。
「そんなことないわよ。その苦労、士郎さんの体温にちゃんと刻み込まれてるわよ。今に見ていてごらんなさい。士郎さんの会社、きっと後々痛い目に遭うわよ。悪いやつがはびこるって、共感できないもの。信賞必罰って大切だもの。その時になって初めて士郎さんたちの苦労って評価されるんじゃないかしら。ああ、あの人たちはこうなる前に何とかしようとしていたんだなって。でもその時はもう遅いかもしれないけど」
 そして冬子はテーブルを拳でこつこつと叩いた。冬子のそんな仕草に士郎はいっそう惹き込まれたのだった。

(3)

 士郎の冬子への想いは時と共に募った。しかし冬子の方はどうなのか。士郎にはそれが不思議でならなかった。なぜ冬子のような女が自分のそばにいるのか。自分はそれほどの男ではないと思うと、士郎は自信なくうなだれるしかなかった。それでも冬子は士郎から離れないのだった。
 それからしばらくして2人で会った時、冬子はいつもと違う雰囲気を漂わせていた。レストランのテーブルに着くまでひと言もしゃべろうとしなかった。それが士郎を不安にさせた。
 席に着くと冬子はうつむいて、何かを掴むように両手をテーブルの上に出した。そしておもむろに顔を上げると士郎を見据えた。その並々ならぬ雰囲気に士郎は身構えた。
「士郎さん、前に話してくれた士郎さんの会社の部長と係長の不倫の話なんだけど、正直に答えて。今でも2人を恨んでる?」
 士郎はとっさに冬子に責められているような気になり、あんな話、やはりするもんじゃなかったと思った。きっと冬子は、人を憎んでも自分のためにはならないとでも言いたいに違いない。しかし士郎にはこれは譲れない一線だった。士郎は強い視線で冬子を睨み返し、言葉にありったけの力を込めて言った。
「恨んでる。心の底から軽蔑し、憎悪している。いつかぎゃふんという目に遭わせてやりたい。誰が何と言おうと、それがおれの人としての在り方、この世で生きるおれの生き様なんだよ」
 士郎が言い終わるまで、冬子は目を逸らさなかった。そしてなおも士郎を見据え、士郎を上回る厳しい表情で言った。
「私にも、憎い人がいるの」
 その言葉に士郎は一瞬肩すかしを食らった。しかしその次の瞬間、冬子の胸の内側でどのような感情が渦巻いているのか、その全てを自分が受け止めたいと強く感じた。
「聞かせて欲しい」
 士郎が促すと、冬子は言葉がじわりとにじんで流れ出るように話した。
 冬子の話はこうだ。6年前に冬子は付き合っていた男に捨てられた。その男は冬子から別の女に乗り換えた。そのついでに男は冬子の貯金を巻き上げたと言うのだ。男には借金があった。その返済のために男は金を貸してくれと言った。
「恥ずかしくて誰にも言えない、親にも言えない、こんなことを頼めるのは冬ちゃんだけだよ。2人で一からやり直したい。そのためには金がいるんだ」
 冬子は男の言葉を信じた。そして喜んで金を差し出した。その時冬子が聞いた結婚という言葉は空耳だったのか。
 定期預金と生命保険、それに会社の持株会を解約し、もらったばかりのボーナスを手つかずで足し、かき集めた金は800万円あった。その金額の大きさに冬子自身が驚いた。会社の株が知らない間に高値を更新し、思わぬ財産になっていた。
 しかし男はそれっきり冬子の前に現れなかった。それまで何年にもわたる長い付き合いだった。互いの家族にも紹介し合った。それでも男は、電話をかけても、家に行っても、居留守を使い、無様に逃げ回るばかりで、冬子と面と向かって話そうとはしなかった。
 男の両親は最初のうちこそ冬子に同情的だったが、やがて息子の居留守に協力するようになり、最後には息子を庇って、食い下がる冬子を邪険に追い払った。
「若い娘さんがお金に執着して、みっともないから、もうお止しなさい」
 そのいきさつを聞いた冬子の両親も、最初は冬子以上に憤った。しかし貸した金が返ってこないと見るや、冬子にも諦めるように諭した。
「いつまで恨んでいても仕方がない、きれいに忘れて、もっとまともな男と結婚することが、おまえの幸せのためだ」
 親しくしていた女友達も異口同音に言った。
「人を恨んでも幸せにはなれないわ。いつまでも過ぎたことを背負っていては、あなた自身が可哀想でしょ?」
 しかし冬子はそんなアドバイスには納得できなかった。友人たちが気晴らしに食事に誘っても、冬子はそれには応じず、頑なに男を恨み、呪った。やがて友人たちは冬子を気味悪がって距離を置き、ひとり残らず離れていったのだった。
 冬子はひと通り話し終えると、大きくひとつ溜息を吐き出した。そして言った。
「憎くて堪らないわ、殺してやりたいぐらい。ねえ、それでも許してやるべきだと思う?」
 その時、士郎は心から冬子を愛しいと思い、言葉を尽くして冬子を支持した。
「おれは憎しみは尊い感情だと思う。そんなやつを許してはならないよ。『悪かった、許してくれ』って言ってるならまだしも、そいつは何とも思っていないんだろう? そんなやつは許す対象ではないよ」
「私もそう思ったの。絶対許さない、いつか見返してやるって。だからあの800万円を超えるお金をもう一度貯めてやろう、憎しみを込めて、呪うように、刻むように、また初めから少しずつ貯めてやろうって。それが達成した時にこそ、背負ってきた重荷を下ろそうって」
「ああ、分かるよ、その気持ち」
「でもね、私、薄々感づいてたの。6年間私が背負ってきたものは、そう簡単には下ろせそうにないって。その時誰かそばにいて受け止めてくれる人が欲しいって。だからあの夜、思い切って士郎さんに声をかけたの。わかってたもの。きっとこの人は私と同じ体温を持っている、この人なら受け止めてくれるって」
「そうだったのか。道理で変だと思った」
「でもこれで目標達成よ。きっちり1,000万円貯まった。6年かかったわ」
 何気なく冬子の口から発せられたその言葉を聞き、士郎は息を呑んだ。
 構わず冬子は続けた。
「冬のボーナスでリーチがかかって、今月の給与でやっと達成したの。長かったわ、この6年間。服も買わず、遊びにも行かず、お金を貯めた。爪に火を灯すようにして、ひたすらお金を貯めた。それだけが生き甲斐だった。とにかく1,000万と決めて、きっちり貯めたかったの。でもその6年間のおかげで誰からも相手にされない女になった。ばかだと思う?」
「思うもんか、そんなこと」
「友達をなくしたわ」
「そんなの、友達なんかじゃない」
「ひとりでひっそり生きてきた」
「よく頑張った」
「気が付いたらこの歳よ。失われた年月を取り返そうとして、さらに年月を費やしたの。6年間、時間が止まったようだったわ。ねえ、ばかだと思う?」
「思わない。絶対に、思わない」
「あんなことが私の身に起こるなんて、想像もしなかった。子どもの頃は、女の子はみんな黙っていてもすてきな人が現れて、当然のように幸せな結婚をして、子どもができて、暖かい家庭を持てるものだと思っていたわ。でもそんなものじゃなかったのよ。おかげで大人になりそびれちゃった。外見は30過ぎのおばさん、でも心の中はあの頃のまま。ねえ、どうやったらやり直せるのかしら?」
 冬子は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、士郎に救いを求めた。
 士郎は不思議な気がしていた。冬子が金を巻き上げられて男に捨てられたのも6年前、士郎が今の会社に入社して上司との泥沼の闘いを開始したのも同じ6年前。その時から冬子とはこうして出会う運命だったのかもしれない。だから士郎は心からの共感を込めて言った。
「おれは君を支持するよ。むしろ立派だと思う。断固支持だ。同盟を結ぼう。憎しみの同盟だ」
 冬子は一瞬うつむいた。涙が頬を伝う。そして黙って何度となく頷いた。

(4)

 その週末、冬子は初めて士郎のアパートへやって来た。あなたの部屋を見たいと冬子の方から言い出したのだ。ぼろアパートだから恥ずかしいと士郎は抵抗したが、冬子は有無を言わさず士郎に案内させた。
 士郎の住むアパートはその街の下層の住宅街にあった。ひび割れたアスファルトの広い駐車場を「コ」の字に取り囲むように、同じような建物がいくつか並んでいた。どれも木造の粗末な造りで、築後30年以上経っていた。それぞれの建物の脇には、プロパンガスの大きなボンベが4本並んで立っていた。
 そのうちの一室、士郎の部屋は質素で殺風景だった。玄関を入るとみしみしと音のする板張りの台所になっていた。次の間が4畳半で、そこには机と本棚があった。奥の間は6畳で、ベッドとこたつがあった。他には何もなかった。隙間風が四方の壁から入り込んできて、寒さのために部屋の中にいてさえ息が白く凍てついた。
 士郎がコーヒーを入れている間、冬子はこたつから立って部屋を点検し、隣の部屋の机の上に置いてあった原稿用紙と万年筆を見つけた。
「士郎さん、何、これ?」
 冬子は興味深げに訊ねた。
 コーヒーを運んできた士郎は、素っ気なく答えた。
「前に言っただろう? おれは小説家だって。あれ、全くの嘘じゃないんだ。もちろんプロじゃないけど。でも新人賞の予選ぐらいは通過するよ」
 士郎の言葉に冬子の表情が輝いた。
「まあ、凄いじゃないの」
「もっとも、ここ数年間はまるっきり書いてないんだけどね。またそろそろ再開しようかなって、思ってたところなんだよ。だからあんな嘘も口を衝いて出たわけさ」
「ねえ、読ませて。士郎さんの書いた小説、読ませて。どこにあるの?」
 冬子はせっかちな口調で言った。
 士郎は即座に首を横に振った。
「駄目だよ。一旦出版社に送って没食らった原稿は、もう外には出さない」
「意地悪。コピーぐらい残してないの?」
「そんな問題じゃないんだって」
「けち」
 冬子は士郎を上目遣いに睨んだ。
「それより、コーヒーが入ったよ」
 士郎が促すと、冬子はこたつに座って言った。
「ねえ、士郎さんのこと、もっと知りたいの。だから気を悪くしないでね。別れた奥さんって、どんな人だったの? 写真はないの?」
 士郎はきょとんとして、冬子を見返した。
 冬子は誤解したのだ。あるいは士郎がそうと誤解しやすい言い方をしたのかもしれなかった。その女とは結局結婚しなかった。その直前で彼女は士郎を見限って去っていったのだ。
「結婚する前に別れたんだよ。上場企業に転職することが結婚の条件だった。その時彼女はしきりにおれを励ましてくれて、何とかもぐり込むことができた。それが今の会社で、6年前のことだよ。ところが入社したら、部長と戦争だ。おれは会社に寝泊まりするようになってしまった。ひどい時には、家に帰れるのは週に1度、土曜の夜だけだった。彼女がおれを見限ったのも無理はないけどね。呆気ないもんだった」
 士郎は淡々と話した。
 冬子はじっと聞いていた。そして言った。
「その人を恨んでる?」
「まさか。彼女は悪くない。恨むんなら、そう、会社を恨むさ」
「じゃあ、その人とやり直したいと思う?」
「それも思わない。おれの今までの人生で一番苦しかった時期に離れていった人だからね。もう彼女との絆はないよ。それにあれから何年も経ってる。今彼女がどこで何をしているのか、一切連絡もない。きっと誰かいい男を捕まえて、結婚して、今では子どももいるんじゃないのかな」
 冬子は厳粛な面持ちで聞いていた。その冬子の硬い表情を和らげようと、士郎はやや自嘲気味に、茶目っ気を含んで言った。
「おれはね、多分、弱い人間なんだよ。だから選択肢はひとつしかない。それは負けないことだよ。おれは決して負けない。ネバーギブアップ、ノーサレンダー」
 それは士郎が自分に言い聞かせているようでもあった。
「それって、強いんじゃないの?」
 冬子は笑いながら言った。
「いや、強ければ、負けないなんて言わないよ。はっきり、勝つって言うよ。意地になっておれは負けないなんて、結局は勝てないやつの歯ぎしりなんだよ、きっと」
 士郎の表情が一瞬苦痛で歪んだ。
 冬子はそっと言った。
「それが士郎さんの体温なのよ。生きてる証よ」
 その時、冬子は安らかな表情を見せた。
 しばらく黙った後で、冬子は急に思いついたように言った。
「ね、士郎さんは小説家になりたいのね?」
「ああ、なりたい。でもなぜって訊くなよ。おれにも分からないから。既に小学生の頃の作文に、将来は小説家になりたいとおれは書いたそうだ。おれ自身は覚えてないけど、母親がそう言っていたよ」
「どうすればなれるの?」
「決まってるじゃないか。書くこと以外に道はない」
「じゃあ、しばらくそれに専念してみれば?」
「え?」
「貯金が1,000万円あるわ。2年はもつわよ。倹約すれば2人で3年暮らせるかも。会社辞めて、原稿書くのに専念すれば?」
 士郎がきょとんとして冬子を見返したので、冬子は続けて言った。
「それとも、今の会社に未練でもあるの?」
「あるわけないじゃないか、あんな会社」
「だったら、やってみれば? 応援するわよ」
「そうは言ったって…」
 冬子は意味ありげな微笑みを浮かべた。
「私のことなら、気にしなくてもいいのよ。あの1,000万円で何を買おうかと、ずっと考えてたの。老後のために大切に取っておこうなんて考えてないわ。ぱーっと使っちゃいたい。でも、もしそれがお金で買えるのなら、私は幸せを買いたい」
 士郎は冬子をじっと見た。
「できれば自力でやりたいんだ」
 士郎にとって、それはひりひりするほど真剣な話だった。
 冬子は突き放すように言った。
「じゃあ、プロになるのは諦めるのね。プロを目指すなら、たとえ泥水をすすってでも這い上がるべきよ」
 士郎は冬子の挑発の言葉の前に沈黙せざるを得なかった。長い沈黙だった。その後、やっとのことでこう言った。
「今すぐ結論を出せと言われても困るよ。少し考えさせてくれないかな」
 それから数日の間、士郎の頭の中では天秤が釣り合いを保っていた。冬子が言った「たとえ泥水をすすってでも」という言葉にはずしりと応えるものがあった。真理であると思った。チャンスであるとさえ思った。しかし男としてのプライドが必死にそれを押し返していた。
 やがてその均衡は冬子によって破られた。冬子は週末に大きなスーツケースを抱えて、士郎のアパートへやってきたのだ。
「おい、おい。おれはまだ返事をしていないぞ」
 呆気にとられて冬子を出迎えた士郎に、冬子は、はあ、はあと肩で息をして、答えた。
「ごめんなさい。家出同然で出て来ちゃった。もう私、行くところがないの」
「何て言って出てきたんだ?」
「何も。とにかく出るって」
「まずいんじゃないのか、そういうの。帰った方がいいんじゃないのか?」
「帰らないわ。もうあの家へは」
 冬子はきっとなって言った。

(5)

 士郎は3月末で会社を辞めた。
 トランザクション株式会社東京本社人事部人事課。それがこれまで6年間、歯を食いしばって耐えてきた職場だった。辞めるに当たってはもう少し感慨深いものがあると思ったが、自分でも意外なほど淡々と退職日を迎えた。
 最後の日、定時になって会社のビルを出ると、士郎は携帯電話で、かつての同僚の卯木俊夫に電話した。
「たった今、辞めて出てきたところだよ」
 と士郎が言うと、
「そうか。じゃあ、おまえの退職を祝ってやろう。久しぶりに『ラ・マルセイエーズ』で待っててくれ。今から1時間で行く」
 と卯木は言った。
 士郎と卯木は今から6年前、同じ日に同じ職場に中途入社した、いわば盟友だった。卯木は同僚として誰よりも頼りになる男だったが、士郎よりも2年早く退職し、今では家業を継いで、おもちゃ屋のチェーン店を経営する若社長に納まっている。
 士郎は卯木を待って、トランザクション株式会社の本社のある赤坂界隈で45分ほど時間を潰し、さらにレストラン「ラ・マルセイエーズ」の店内で30分ほど過ごした。そこに卯木は気取った足取りで現れた。
 テーブルに着くと、卯木は照れくさそうに言った。
「すまん、すまん。遅くなっちまった。それにしても懐かしいシチュエーションだな」
「ああ、まるでタイムスリップだよ。よくこの店に来て、2人で陰謀を企んだね」
 そこに2年の歳月があった。卯木はあの時士郎を1人残し、戦線から離脱するようにして退職したのだ。そのしこりが2人の間にまだ残っていた。
 レストラン「ラ・マルセイエーズ」は、ワインはともかく、料理の味は恐ろしく不味かった。それに勇ましい店の名とは裏腹に、雰囲気が不気味に暗かった。そのせいだろうか、この店はいつ来ても空いていた。
 当時、士郎と卯木は、騒がしい居酒屋でべたべたとからみつくような酒の飲み方をするのを好まなかった。静かなテーブルに向かい合って相手の目を覗き込み、互いの言葉の確かさを推し量りながら、じっくり会話するのが流儀だった。だから話がある時は決まってここへやってきた。しかし卯木が先に退職した後、士郎の足もこの店からは遠のいていた。
 ワインのグラスを合わせると、卯木が言った。
「そうか、おまえもとうとう辞めたか。おめでとうと言うべきかな。しかし人の居着かない職場だよな。これであのころの人事部のメンバーは、もう誰もいなくなったわけだ。6年で全滅、総入れ替え。これが一部上場企業の人事部のありさまかね」
「全くだね。しかしIT業界ではドッグイヤーと言うじゃないか。あの会社での6年間は、他の業界での40年にも匹敵するんだよ、きっと」
 士郎はそう言って、苦々しく笑った。
「まあ、いろいろあったよな。中でも部長の田宮をおれたちの手で叩き出したのは圧巻だったぜ。シビアな闘いだった。勝てるとは到底思えなかった」
 卯木はまるで士郎の歓心を買うように、上目遣いに言った。
 すると士郎の表情は曇った。
「本当に勝ったと言えるのかな。確かに負けはしなかったよ。しかし、あいつを人事部から叩き出したことを指して、果たして勝ったと言えるのか?」
 士郎がそう言うと、卯木は大きくゆっくり頷いた。
「おれたちだって結局はあの会社からは離れた。だから残った方が勝ちだと言うのなら、むしろ勝ったのはやつらの方だ、と言いたいんだな?」
「それもあるよ。田宮は今では健康保険組合の事務長に収まっている。その腹心の部下でなおかつ愛人でもあった早川眞紀は、今でも何食わぬ顔で人事課に居座っている。やつらはおれたちがいなくなって、せいせいしてるだろうね。今ではやつらの不正を知る者は少ない。願ったり叶ったりだよ。それそのものは悔しい。しかしおれの言いたいのは、それとは別の次元のこと、つまり金の在処なんだ。田宮と早川が裏で手を組んで、4,000万から5,000万、会社の金を着服した。やつらはそれを覆い隠すために、おれたちを隠れ蓑に使ったに等しい。言ってみれば、たかだかそんなことのために、東京本社の人事課は壊滅に追い込まれたんだよ。で、その金は今どこにある?」
「うむ。それは今も田宮の懐の中なんだろう? そのうちのいくらかは早川に流れたとしても。結局やつらは裁かれなかったわけだ。会社にとっても、臭い物に蓋しておく方が得策だというわけだな」
「だったらおれたちは勝っていないんだよ。まさに今、田宮の懐にその金があるうちはね。ところがある時、田宮が反省してこう言ったんだと。自分は部下に厳し過ぎた、愛情が足りなかったとね。しおらしくそんなことを言ったんだとさ。嘘だよ。やつの頭の中には金のことしかなかったはずさ。それを厳し過ぎたとか、愛情が足りなかったとか、すり替えもいいところだよ」
「呆れたやつだぜ。そんなことを言ったのか? どこまでも見下げ果てたやつだ」
 卯木は吐き捨てるように、しかしいく分遠慮がちに言った。
 士郎は先ほどから卯木の控えめな反応が気にかかっていた。卯木らしくない。本来、様々な思惑が絡み合った複雑な情況を、恐ろしいまでに単純化して喝破するのが、卯木の好んで引き受ける役回りだったはずだ。
「どうした? 今日は随分と遠慮がちだね」
 と士郎が言うと、しばらく卯木は沈黙した。そして言った。
「実はずっと心の中に引っかかっていたことがある」
「と言うと?」
「2年前、おれはひと足先に退職した。あれは決定的な誤りだった」
 それを聞いて士郎はにやりと笑った。2人の気持ちが奇妙な形ですれ違っている。士郎の方こそ、もっと早くに辞めるべきだったと後悔していたからだった。士郎は内心、卯木がいい時期に退職したと、羨んでいた。その後の2年間で士郎が目の当たりにしたのは、せっかくの勝利が食いつぶされてゆく、惨めな過程だった。そのことに自分が汚される思いがした。その怒りはどこにも遣り場がなく、ひたすら心の中に鬱積していたのだった。
 このすれ違いが、久しぶりに再会した2人の間にわだかまるしこりの正体だったのだ。しかし士郎はそのことは言わず、卯木の話に耳を傾けた。
「聞くよ。その理由は?」
「今でははっきりしている。あの闘い、田宮を単に放逐しただけでは終わらなかったはずさ。田宮が抜けた穴をしっかり埋めて、新しい体制を作り上げなければならなかった。それはその後の2年間で、専らおまえが1人でやってのけた。おれはそのことを理解せずに、途中で救援ヘリを呼んだんだ。あれは間違いだった。あの後ずっと後悔したよ」
「しかしおまえには家業を継ぐという責任があったんだろう?」
「それは事実だ。そしてそれは成功して、事業は随分拡大した。今じゃ、おれは社長と呼ばれている。その中で学んだことは大きい。何をやるかが大切なんじゃない。どうやるかの方がよっぽど大切だ。それに自由になる金もできた。田宮たちがあんなやり方でちょろまかした金なんかとはわけが違うぜ。それでもおれは、逃げたのは間違いだったと思う。今でも夢に見てうなされるんだ。あの頃の抑圧がトラウマになってる。田宮に呼びつけられて1時間、2時間、立たされて説教される。書類を叩き付けられてやり直しさせられる。終電の時間が過ぎても延々と続く徹夜の残業。いつも極度の睡眠不足で、こんな状態ではいつどんなミスが生じても不思議ではない。そして人を見下したような早川の高笑い。田宮がにやにやしながら電話で早川と親密に情報交換している。何を話しているのかと、その時おれたちは底知れない恐怖にすくむ。どれもこれもが今でも何かの拍子に生々しく甦ってくるんだ」
 士郎は何と言っていいか分からなかった。卯木は士郎に救いを求めるような目を向け、さらに続けた。
「こんなことを言うのはおまえにだけだぜ。とにかくおまえは最後まで闘い抜いた。勝ったか負けたかは別にして、立派だよ。おれは途中で逃げ出したから、いつまでもトラウマに苦しめられているんだ。最後まで闘い抜いた者のすがすがしさが、おまえにはあっても、おれにはないんだ」
 士郎は卯木の言葉に疑問を感じた。今の時点で、本当に自分は最後まで闘い抜いたと言えるだろうか? 確かに自分にできる精一杯のことはやった。あれ以上は無理だった。しかしそれならば、このやり切れない喪失感は何だろう?
 注文した料理が運ばれてきた。それをきっかけに、卯木は話題を変えた。
「すまん。今日はおまえの祝賀会だったな。過去の話よりも、これからのことを聞こうじゃないか。これからどんな輝かしい未来を切り開くんだ?」
 士郎は冬子のことを話した。卯木はじっと聞いて、最後に大きく身震いして見せながら言った。
「冬子さんと言うのか、その人? ただ者じゃないな。『プロになりたいのなら、たとえ泥水をすすってでも這い上がるべきよ』なんて、並の女じゃ言わないぜ。とにかく男のやることに反対するのが女の本性だからな。その人のことは大切にするんだな」
「分かってる」
「で、何を書くんだ?」
「今までのような頭の中でこね上げたようなのは、もう駄目だ。リアルじゃないんだよ。いくら心理描写を試みたところで、読者の共感は得られない。いい機会だから今までの自分のスタイルは一旦捨てて、一から修行し直そうと思ってる。そろそろ次の1歩が必要なんだよ。それが自分で分かってるから、ここのところ少し苦しい」
 その時、卯木は目にぎらぎらとした光を宿らせて言った。
「だったら書いてくれよ、おれたちのことを。田宮や早川のようなやつらを、このまま黙ってのさばらせるのは、癪だよ。やつらのせいで、何人もの人間が人生を踏み誤った。出版社が相手にしてくれないんなら、自費出版でも構わない。なんなら、費用は全額おれが出してもいい。おまえが要求するなら、原稿料だって払う。金ならあるんだ。だから書いてくれ」
 卯木はそう言いながら、テーブルから身を乗り出すようにした。
 士郎はそれに難色を示した。
「しかし、そんなものが文学として成り立つのかな。一部上場とは言ってもそれほど世間に知られた会社ではない。悪いやつとは言っても、たかだか数千万円の金を着服したに過ぎない。やつらに苦しめられたとは言っても、何も死人が出たわけじゃない。こんな話はどこにでもある。あんな小悪党はどこにでもいる。事件としての話題性はないよ」
 すると卯木は息を荒げて食い下がった。
「その通り。確かにありふれている。だからこそテーマとして意味を持つんだ。そこに書く価値がある。読者はそれを望んでいる。何を隠そう、おれ自身がその最たる1人なんだ。ここから先はおれの闘いでもある。2年前に途中で投げ出した闘いを、今から遡ってやり直すんだ。その代わり、いいか? 約束しよう。おまえが書いてくれれば、おれは知恵を絞ってその本を売って見せる。もう一度おれと組んでくれないか?」
 士郎は卯木の切実さに圧倒された。本来ならこんなものの言い方をする男ではなかった。自分自身のことも含めて、いつも一段高いところからクールに物事を見ているか、そうでなければ下品なまでに斜に構えて相手を嘲笑するところがあった。それに士郎と卯木との間には互いに対する思いやりのような感情があって、必ずしも言葉による会話は重要ではなかった。相手の置かれた情況からすれば、おそらく相手はこう思っている。言葉は、それを事後的に確認する程度の意味しかなかった。少なくとも2年前までは。だから卯木がこれほど切羽詰まって自分の心情を口にすることが、士郎には意外に感じられた。
 そもそも卯木の立場なら、あれを輝かしい勝利の武勇伝として語ることもできただろう。サラリーマンの世界で部下が上司を職場から叩き出すなど、希有の経験と言っていいはずだ。しかもそれは東証一部上場の、大企業での話なのだ。少なくとも当事者の1人として、その半分の名誉を自分のものとすることはできたはずだ。しかし卯木はそれをしなかった。闘い抜いたのは専ら士郎だったと言った。卯木もやはり自分をごまかし切れず、悶々としてその後の人生を過ごしているのだった。そこに卯木の真面目さがあった。
 士郎は意地悪な言葉で卯木を試した。
「それは復讐のつもりなのか? そんなやり方で溜飲を下げようと言うのか?」
 卯木は間髪を容れず、直球で返した。
「闘いだ。おれとおまえの、プライドを賭けた闘いだ」
 卯木の目が強く同意を求めていた。
「一種のテロリズムじゃないのか、それは。そんなことのためにおれのペンを使えと?」
 すると卯木はぎゅっと目をつぶった。そして大きく見開き、言った。
「そうだ。頼む」
 卯木の気持ちは本物だった。だから士郎は言葉を添えてやった。
「我は知る、テロリストのかなしき心を」
 卯木の目が一瞬泳いだ。
「なんだ、それ?」
 士郎はにやりと笑った。
「石川啄木だよ」
 そして続けざまに言った。
「分かった。書こう。おれたちの闘いの第2幕だ」
 士郎はグラスを差し上げて、惚けたような卯木に目で誓ったのだった。