第3章

(1)

 トランザクション株式会社を退職した翌日の朝、士郎は何かを浴びせかけられたような気がして、はっと目を覚ました。身体が勝手に身構えて防衛の体勢を取っていた。自分がどこにいるのか、一瞬分からなかった。眩しい朝の光が射し込んでいた。すぐにベッドの中にいることに気づいた。
 長い夢から覚めたような気がした。6年間の一切合切が悪夢に過ぎなかったとしたらどうだろう。そんな結末は、いいことなのか、悪いことなのか。
 ベッドの下から腕時計を拾い上げ、文字盤に目を凝らすと、時刻は午前8時半を少し回っていた。いつもより2時間以上余分に眠ったことになる。トランザクション株式会社では、ちょうど朝礼が始まった頃だ。しかしそれももはや自分には関係のないことだ。そう考えると、かえって現実感が舞い戻ってくる。
 シーツにはまだバニラのような冬子の甘い匂いが残っていた。冬子は士郎を起こさず、そっとベッドを抜け出し、静かに出勤したのだ。これが夢なんかのはずがない。夜には冬子は必ずこの部屋に帰ってくる。冬子の存在は確かなものだ。士郎はそれを五感の全てで感じることができる。
 士郎は自由な空気を胸深く吸い込んだ。そして満足してベッドを抜け出し、洗面台の前に立った。鏡に自分の顔を映して愕然とした。すっかり老け込んでいる。これが本当に自分の顔かと疑った。鏡の中で笑ったり睨んだりして表情を作ってみたが、何かが皮膚に貼り付いているようでぎこちなかった。そう言えば、もう何年もの間、心から朗らかに笑った記憶がない。陰気で皮肉な感情が心の底でくすぶり続けている。
 もういい。鏡など見ない。やるべきことをやろう。今日から新しい小説を書く。まずはその準備だ。それは第1に部屋の掃除だし、第2に買い物だ。寸暇を惜しんで、てきぱきと片づけよう。生きていることは素晴らしいと心の中で念じて、ひたすら前に進んで行こう。これまで鎖に繋がれていたことを嘆き、呪ってきた。自由になった今、同じように澱んで生きていたのでは、あの気持ちは嘘になる。
 士郎は自ら奮い立ち、弾けるような気持ちで執筆の準備に取りかかった。部屋の中をのしのしと大股で歩き回り、汗だくになって掃除をし、シャワーを浴び、着替えた。さらに洗濯し、布団を干し、机の上を丹念に磨いた。使いさしの日に焼けた原稿用紙はくずかごに捨てた。瓶に半分ほど残っていた古いインクも洗面台に流した。乾いてインクがこびりついた万年筆のペン先を丹念に洗浄した。
 それからバスに乗って街へ行き、原稿用紙と瓶入りのインクをありったけ買い占めた。原稿用紙はライフの縦書き、インクはパイロットの黒と決めてある。部屋に帰ってまっさらの原稿用紙を机に積み上げ、万年筆に新しいインクを吸わせると、それだけで全ての準備は整った。
 白紙の原稿用紙を開いて、士郎は思わず苦笑いした。結局はこうなる。気が付くと目の前には万年筆と原稿用紙がある。こいつらとは長い付き合いだ。数年間のブランクを経て再開することになった。そのブランクとは、士郎がトランザクション株式会社に在籍した6年間に他ならない。
 士郎がこうして再び小説を書くことになったのは、冬子の言葉によってではない。あるいは卯木に頼まれたからでもない。結局は自分が望んだからこうなったのである。士郎にはそのことが分かっていた。
 かつて士郎が田宮に報告書を書くと、田宮は必ず皮肉を言った。
「いったい何だ、この報告書は。いい気になって小説みたいなもの書いてるんじゃないよ」
 田宮は士郎を採用する時の面接で、士郎が小説を書くことを聞いていた。だから田宮は士郎の作成した文書にけちを付ける時には、決まってそう言った。田宮という男は、そう言えば相手がへこむだろうと思うことを、誰に対しても言うのである。
 そう言われて、士郎ははらわたの煮えくりかえる思いだった。しかし士郎にはそれを跳ね返すことができなかった。田宮のその言葉は、6年間、言霊のように士郎のペンを封印したのである。
 トランザクション株式会社を退社し、田宮との繋がりを断ち切った今なお、士郎はその抑圧から解放されたとは言えなかった。それは何らかの自らの行為で跳ね返さなければならない。士郎はその思いを、今まさにペンに託そうとしているのである。
 これから手がける作品は、今までとは随分書き方が違う。新人賞に応募するためではないから、枚数制限がない。そして締切もない。それでも、800枚、1年と、士郎は自分で決めた。
 腕組みをして目をつむると、作品の起承転結が、霧がかかったような中でちらちらと姿を見せる。これから1年かけて、それをこの原稿用紙の升目の中に引っ張り出すのだ。深追いはしない。時間を掛ければ霧が晴れて姿を現すことになる。この作業に苦しみはない。むしろ、これから紡ぎ出される物語の予感に、心躍る瞬間である。舌なめずりとでも言えばよいか。物語の作者にとっては無垢の喜びである。作業の手を止め、乾く前のインクの微かな刺激臭に、初めて万年筆を手にした遠い昔の郷愁を甦らせる。思えば信じられないことだ。原稿用紙800枚と決めても、心にそう遠くは感じない。今はひたすら書くべき時だと、自分に言い聞かせる。
 その夜、ベッドの中で、冬子が言った。
「部屋、きれいに掃除したのね」
「ああ。部屋も、トイレも、風呂も、台所も。全部掃除したよ」
「布団もふかふかだわ」
「シーツも新しいのと取り替えた」
「ねえ。これから、どんな物語を書くの?」
 それは士郎の心をくすぐるような言葉だった。書くことは士郎の行為である。紛れもなく自らの意志である。自分の意志を自由に行使できることの、何という甘美さであろうか。
 冬子の問いに、士郎は笑いながら、謎のような言葉で答えた。
「つらい日々だった。今日が終わらないのに、明日が来るんだよ」
 すると冬子は言った。
「士郎さんの体験を書くのね? するとノンフィクションなの?」
「いいや、フィクションにするよ。少し普遍性を与えたいんだ。事実は小説よりも奇なりと言うだろう? これはバイロンの言葉だよ。だけどその逆で行くんだよ。小説は事実よりも普遍的であるとでも言えばいいのかな」
「完成したら、一番に読ませてくれる?」
「ああ」
「本当? 約束よ」
 暗い部屋の中で、冬子の濡れた眼球が士郎を見上げていた。
「ああ、約束だ」
 冬子は目をつぶって、士郎の約束を記憶に刻んだ。そして言った。
「ねえ、私のこと、好き?」
 士郎は冬子の目を見つめて答えた。
「ああ、好きだよ」
 その言葉に嘘はなかった。
「私の身体は、好き? ねえ、触れて」
 冬子は士郎を誘った。そして士郎の指が身体に触れるのを待った。
 士郎は冬子の鎖骨をそっとなぞった。
 冬子は士郎の手をずらし、乳房に触れさせた。
「ねえ、たくさん感じさせて」
 その夜、士郎は多くのことを忘れることができた。6年間の怒りも憎しみも、鏡で見たみすぼらしい自分の姿も。そしてひたすら生命を歓喜する太古の本能に従った。
 その夜のことを、士郎は後に何度も思い出す。士郎は冬子と約束を交わしたことを忘れはしなかった。しかし1年後、その約束は守られることはなかったのである。

(2)

 あの時冬子が1,000万円もの大金で買いたいと言った「幸せ」とはいったい何だったのか。今でも士郎はそう思うと心が痛む。その頃の冬子は決して幸せそうには見えなかった。かと言って不幸とも思えなかった。冬子はいつも穏やかな微笑みを絶やさず、何かを根気よく待っているように見えた。それは冬子の期待した「幸せ」の訪れだったのだろう。
 士郎のアパートへやってきてから、冬子は毎日そこから会社に通った。夜になると仕事から帰ってくる。黙って静かに入浴をすませ、隣の部屋に閉じこもって物音ひとつ立てなかった。つくづく気配を感じさせない女だった。たいていは買ってきた雑誌を眺めて時間を過ごしていた。畳の上に雑誌を置いてうずくまり、まるで猫のように身体を丸めてページをめくるのだった。
 部屋の中には冬子の存在を感じさせるものがひとつもなかった。スーツケースひとつでこのアパートにやってきて、冬子の荷物はそれ以上増えなかった。冬子は自分で厳格なルールを作って、それを頑なに守っているように思えた。
 そうやって数週間が過ぎた。士郎の執筆は順調に進んだ。最初の1章を書き上げた時、士郎は作品に確かな手応えを感じた。読み返してみて、この原稿には勢いを感じる。最初の1章を首尾よく書き上げることができれば、その後の展開は勢いに乗る。文学としての質の問題だけではない。その要素には、手書き文字の見栄えや、原稿用紙へのインクの乗り具合なども含まれる。文学を志向する者にとって、言葉や文章は自らの分泌したものである。作品は記憶であり思念であると同時に、その時の生活の在り方でもある。言葉や文章は抽象的に概念を表すと同時に、原稿用紙に刻まれた文字として現に存在する。このことは作者だけが知り得る個人的な感覚である。士郎にとって、原稿用紙は実在のフィールドであり、万年筆はかけがえのないパートナーなのである。
 その万年筆に、冬子が嫉妬した。週末の朝、冬子は自分で定めた掟を破って、士郎に干渉し始めた。
「小説を書く人って、やっぱり万年筆を使うのね?」
 隣の部屋から首だけ出した冬子の視線は、興味深そうに士郎の万年筆に注がれていた。
「さあ、どうだろう。パソコンを使う人の方がずっと多いんじゃないかな」
 士郎は振り返りもせず、半ば上の空で冬子の質問に答えた。
 冬子は襖を開けて身を乗り出してきた。
「士郎さんはなぜ万年筆を使うの?」
 士郎は思わず原稿用紙から目を上げ、逆に冬子に訊いた。
「小説を書き進める上で、書き足すことと、削ることと、どっちが難しいと思う?」
 冬子は士郎の意図を察して答えた。
「削ることの方が難しいのね?」
「そう、遥かにね。じゃあ、どの文章を残して、どの文章を刈り込むかって言うとね」
 士郎はそこでひと呼吸おいた。
 冬子は興味深げにその続きを待った。
「おれは筆跡も重視するよ。いい文章は必ずいい筆跡で立ち現れる。そんな時は、書いていて実に楽しい。だけどいい字が書けない時は、無性に腹立たしくて、原稿用紙を破り捨ててしまいたくなる。でも、それでいいんだよ。そうやって文章を選んでいくんだ。ところがパソコンだとそうは行かない」
 さらに士郎は続けた。
「プロの小説家はみんなそんなふうにしているかというと、決してそんなことはないはずさ。そんなやり方は非効率だからね。だからほとんどの小説家はやっぱりパソコンを使っているはずだよ。でも、おれはプロじゃないからね。万年筆で自分の筆跡を楽しみながら書いてるんだよ。頭で考え、指で考え、目でも考える。おまけにペンも考えてくれる。この文章はよくないぞと思うと、ペンが書き渋って、抵抗するんだよ」
「ふうん。ね、見せて、その万年筆」
 その時冬子の目が異様に輝いた。
「あら、意外に軽いのね」
「軸の部分がセルロイドだから、軽いのはそのせいかもしれないね」
 冬子はじっくりとそのペンに見入っていた。軸とキャップの地肌は深い緑と黒の模様が入り混じり、鉱物質な輝きを秘めている。その光沢には奥行きがあって、見る角度によって微妙に色彩が変化する。それは深い海の底を思わせる冷たい色調だった。
 古い万年筆である。クリップやキャップの口金のメッキがことごとく剥がれ落ち、地金が剥き出しになっている。それが士郎の指先でこすられたからだとすると、相当の年月を思わせた。
「随分使い込んであるのね。どうやって手に入れたの? 誰かからのプレゼント?」
 冬子の口調に先回りした嫉妬のようなものを感じ取って、士郎は素直に説明した。
「おれがいつ頃から小説を書き始めたのか、自分でもはっきり覚えていないんだよ。でも初めて出版社に原稿を送った時のことは覚えてる。あの時おれは高校生だった。で、原稿を送ったら、編集部の人から電話がかかってきて叱られたんだ。『原稿を鉛筆で書くやつがあるか。ちゃんとペンを使いなさい』ってね。電話なんかかかってきたから、入選したのかと思った。それでおれは慌てて万年筆を買いに走った。ありったけのお金を持ってね。意気込んだよ。有名な作家の先生方が使っているような、モンブランやパーカーの、太軸の立派なやつを買おうって。ところが店に行って値段を訊いたらたまげた。高くてとても手が出せない。急に気持ちがしぼんだよ。そしたら店の人が同情してくれてね、『学生さん、これなんかどうです。無名のメーカーだから安くしとくけど、イタリア製のセルロイドの軸に日本製のペン先が付いてる。しっかりした作りで、これも一生ものですよ』って言ってくれた。ひと目で気に入ったよ。おれが思い描いていた通り、太軸ででっかいペン先だった。しかも値段も安かった。モンブランの5分の1ぐらいだ。それがこのペンなんだよ」
「士郎さんの高校生の頃って言えば、もう20年以上も前じゃないの。無名のメーカーってどこなの? 今でもその万年筆、売ってるのかしら?」
「それが分からないんだよ。買った時には箱もない、保証書もない。そのまま文房具屋の細長い紙袋に入れてくれただけだった。本体のどこにもメーカー名の刻印がない。手がかりになるのはペン先の鶏のマークだけだった。仕方がないから、おれは勝手にコケコッコーの万年筆って呼んでるけどね」
 士郎がそう言うと、冬子はキャップを外してペン先に目を凝らした。
「ほんとだわ。確かに鶏ね、これ。あら、くちばしがペン先の形をしているわ。なかなか可愛い顔してるわよ」
「そうだろう? で、他には何も手がかりがないんだよ。普通ペン先には14金とか18金とかの刻印があるはずなんだけど、それもない。多分ペン先は鉄なんだろうね。素っ気ないペンだよ」
「書きやすい? そのコケコッコーの万年筆」
「ああ、とても書きやすいよ。と言っても、最初のうちは全然言うことを聞いてくれなかった。万年筆なんて、その時初めてだったよ。何て書きにくい代物なんだと思った。でも使っているうちにすっかりなじんできて、すらすら書けるようになってきた。ペン先のポイントを見てごらんよ。かなり擦り減っているだろう? 万年筆って、そうなることで書き手の癖を覚えてくれるんだ。今ではもう手放せないね。そいつじゃないと書けないよ。おれの大切な相棒だ」
「ねえ、書いてみていいかしら?」
「ああ、いいよ」
 士郎が原稿用紙の新しいページをめくると、冬子は女らしいすらりとした文字を書いた。
 やは肌のあつき血汐に触れもみで
「随分硬いペン先なのね」
「ああ、硬くて、乾いていて、枯れた感じがする。決して万年筆らしい書き味じゃない。でも、それがおれには心地いいんだ。まあ、これは好みの問題だけどね」
 冬子はコケコッコーの万年筆に丁寧にキャップを締めると、士郎に返した。そして言った。
「ねえ、士郎さん。新しい万年筆を見に行こうよ」
「あ?」
 士郎は思わず冬子を見返した。たった今、士郎はこのペンじゃないと書く気がしないと話したばかりだ。しかし冬子は真剣そのものだった。
「コケコッコーはコケコッコーで置いておけばいいじゃない。昔買えなかったモンブランとかパーカーの万年筆、見に行こうよ。今なら万年筆の1本や2本買える身分になっているんだし、ひょっとすると士郎さんにぴったりなのが見つかるかもよ」
 冬子は強引だった。冬子の心の中に何か情念があって、それが冬子を衝き動かしているようだった。そうだとすれば、それは嫉妬か。冬子はあろうことか、コケコッコーの万年筆に嫉妬しているのだ。そう考えると、士郎は冬子を恐ろしく感じ、同時に愛しく思った。
 その日の午後に冬子が士郎を連れ出したのは、そのころ東京の青山に開店したばかりの、万年筆の専門店だった。冬子はその店のことを雑誌で読んで知っていた。大通りを少し奥に入ったところにひっそりと建った、小さな美術館を思わせる、洒落た建物だった。店内の照明は薄暗く、ショーケースの中でたくさんの万年筆が宝石のような輝きを放っていた。
「ねえ、士郎さんが高校生の時買えなかった万年筆って、どれ?」
 冬子は、歩けばぎしぎしと床板の鳴く静かな店内で、遠慮がちに囁いた。
「モンブランの黒くて一番太いやつ。それとパーカーの大きい方」
 士郎がショーケースのガラス越しに万年筆を指さしていると、背後に黒い服装の若い女がそっと歩み寄ってきた。
「お気に召したペンがございましたら、あちらのテーブルでゆっくりと試し書きいただけますので、ご遠慮なくお申し付けください」
 その声は低く呪文のように士郎と冬子の意識に浸透してきた。
 冬子が士郎の肘をつついた。
「ねえ、せっかくだから書かせてもらおうよ」
「ん? ああ」
 士郎は気乗りがしなかった。その時士郎の心の中には、コケコッコーの万年筆に対する愛情が強く湧き出していた。確かに高価なものではなかったが、しっかりした作りで使い勝手のよい万年筆である。それに何よりも、共に過ごしてきた20年以上の歳月がある。他の万年筆を手にするのは、士郎にはコケコッコーへの裏切りと思えた。
 販売員はくすぐるように士郎の背中を押して、奥のテーブルに案内した。
 士郎が押しやられるままに大理石のどっしりとしたテーブルに座ると、いつの間にか販売員は白い手袋をして、士郎の目の前に革の敷物を広げ始めた。この薄暗い店内で、これから何か秘密の魔術が執り行われるような、妖しげな雰囲気だった。今にも生け贄の山羊が店の奥から引き出されてきそうな気さえした。
 販売員は儀式めいて厳かに、試し書きの用意を調えた。紙片、インク瓶、ペン先を洗う洗浄機、ティッシュペーパー。こういったものが、まるで定位置が決まっているかのように、慎重にテーブルの上に配置された。士郎は催眠術にかかったように、販売員の手許から目が離せなかった。その間販売員の動作や息づかいは、触れるか触れないかの微かな感触で士郎の心を撫で続けた。それはとろけそうなほどの快感だった。
 いく分年輩の別の販売員が、士郎と冬子にお茶を運んできた。それは何か非常に高価な飲み物のように、装飾を施した小さなガラスの器に注がれていた。衣擦れの音とともに、ことりと微かに聞き捉えられる音がして、2人の目の前に茶托が置かれた。琥珀色の液体が控えめな店内の照明に透かされ、澄んだ輝きを放っていた。そんな演出のひとつひとつに士郎の心はくすぐられ、解きほぐされ、同時に何か期待を高められた。
 準備を終えて若い販売員は、士郎に問いかけた。
「どのペンをお試しになりますか?」
 士郎は固唾を呑んで、即座に2本の万年筆を指定した。
「モンブランとパーカーの、黒くて一番でかいやつ。ペン先は中字」
 モデル名や品番を知らなかったからそのような言い方になったが、それで通じるはずだった。
「かしこまりました」
 案の定販売員は迷わず頷き、テーブルを回り込んで厳かにショーケースに向かった。彼女が士郎の後ろを通り過ぎた時、微かに香煙のような香りを嗅いだ。彼女はショーケースの中から士郎の指定した万年筆を探し出し、それを溝の付いたビロード張りのケースに並べて運んできた。彼女の動作の全てがまるで巫女のようだった。
 戻ってきた販売員は白い手袋の手で指し示しながら士郎に告げた。
「モンブランの149番とパーカーのデュオフォルドをお持ちしました」
 士郎はケースの中の2本の万年筆に見入った。どれも大振りな万年筆だった。ビロード張りのケースの中で、それらはくらくらするような輝きを放っていた。士郎はその時、心臓がどきりとひときわ大きく脈打ったのを感じた。そしてこの魔法のような儀式の正体が分かった。この不思議な感覚はノスタルジーだ。20数年前、自分のものにできなかった高価な舶来万年筆との、それは長い年月を経た再会だったのである。
「どちらのペンからお試しになりますか?」
 低く落とした声で販売員が言った。
「まずは、パーカーを」
 士郎は答えた。
 販売員はパーカーのキャップをくるくると回して外し、ペン先をインク瓶に浸して、恭しく差し出した。
 パーカーには士郎の心をかき立てるものが何もなかった。ペン先は意外に小振りだった。書き味は決して悪くない。しっかりとしていて、適度な硬さがあった。ペンポイントはよく整形されていて、滑りがよかった。よくできた実用品ではある。しかし、ただそれだけだった。
 次はモンブランだ。
 20年以上前のあの時、士郎が欲しかったのは、断然モンブランだった。昔から変わらぬ姿の、黒々としたボディーに、えらの張った立派なペン先が刺さっていた。いかにも頑固な万年筆という印象があった。それを士郎は使いこなしてみたかった。しかし、とても高校生の小遣いで買える代物ではなかった。諦めるしかなかった。
 モンブランの代わりに買ったのが、コケコッコーの万年筆である。モンブランを諦めてコケコッコーを手にしたとは言え、コケコッコーは今や忠実な士郎の相棒である。共に過ごした年月は長い。もはや分身と言ってもよい。しかし、もしモンブランがこの上なくよい万年筆だったら、どうなるか。コケコッコーとともに過ごした20年以上の年月が、否定されたような気がする。士郎の心はそう働く。きっとそう働く。
 まともに自分自身と向き合うような真似はしたくない。だからモンブランのことは触れずにおくのがいい。このままこの店を立ち去り、きれいさっぱり忘れてしまうことだ。実際、今まではそうしてきたのだ。社会人になって人並みの給料を稼ぎ、モンブランの万年筆ぐらいなら苦もなく買えた。何もベンツやセスナを買うわけではない。たかが筆記具である。それでもモンブランからは遠ざかってきた。心に波風を立てる必要はなかった。
 なのに士郎は魔法の虜になっていた。まるで骨を抜き取られたように、大理石のテーブルから離れることができなかった。販売員の低い呪文のような声が、官能的な響きで、士郎の心を捉えて離さなかった。
 販売員の手で厳かにモンブランが差し出された時、士郎の鼻孔から思わず息が漏れた。
 この万年筆は、冗談だろうと笑いたくなる程、太く、大きい。用途が極めて限定される。そして昔も今も大層高価である。高校生の時、触れることさえ叶わなかったそのモンブランを、20年以上の歳月を置いて、手に取った。
 ずっしりと重い。漆黒の樹脂でできたそのボディーはひんやりと冷たく、指に吸い付くように滑らかで、ガラスのような硬質さを貫いている。士郎はさすがだと思った。これならあの時、こいつは士郎が触れてみるのさえ拒んだというのも頷ける。
 ペン先を見た。強い自己主張のある、幅と厚みのあるペン先だった。そのペンポイントは、他の万年筆のように丸く整形されていなかった。不器用と思えるほどいびつな形をしており、それがあくまでも頑固である。金の輝きを放つペン先の表面に、さっき販売員が浸したインクが玉になってこびりついている。
 おもむろに書いてみる。そしてその武骨な書き味に驚いた。まるで五寸釘で書いているようだ。ごりごりと硬く荒々しい。その値段から想像していた上品な書き味とはまるで違った。すっかり意表を突かれた。
「これがモンブランだったのか。いいね、お高く止まってなくて」
 士郎は笑い出した。
「かと言って下品でもない。あくまでも頑固。硬いところはコケコッコーと似ているけど、コケコッコーほど枯れていない。猛々しいとでも言えばいいのかな。いいペンだよ。けど万人が好むわけではないだろうな。でもおれは好きだね。気に入った。あの時こいつを手に入れていれば、今頃どんなペンに育っていたのかな。残念だ。こいつと縁がなくて、とても残念だよ。いい相棒になってくれただろうな。つくづく残念だ」
 販売員は士郎からモンブランを返され、驚いたような顔をした。てっきり士郎がそれを購入すると思ったのだ。それなのに士郎は、残念だ、残念だと繰り返すばかりだっだ。士郎には魔法が通じなかったのである。販売員は失望の色を隠さなかった。
 内心、士郎の気持ちはぐらぐらと揺れていた。20年以上、無銘の万年筆を愛用してきた。その万年筆には士郎の体温が伝わり、士郎の手で擦られ、安っぽいメッキが剥げて醜くなり、それと引き替えに士郎の書き癖ばかりか文体まで覚えてくれているのだ。こうなると、実に使いやすい。もう手放すことはできない。今ではコケコッコーの万年筆でなければ文章が書けないとさえ思える。
 士郎が悔しいのは、コケコッコーには華がないことだ。実直な家来ではあっても、決して英雄ではない。そこに自分を重ね合わせた時、心が躍らないのである。だからどうしても士郎は思わずにはいられない。20年以上前に購入したのが、もしもコケコッコーではなくてモンブランだったら、どうなっていただろうか。
 しかし実際にはそうはならなかったのである。それが縁というものだ。20年以上の歳月そのものである。士郎はすっかり心をかき乱された。そしていたたまれなくなって販売員に詫びた。
「申し訳ありません。許してください」
 そう言うが早いか士郎は立ち上がり、足早に床を踏みならして、振り切るように店を出た。自分では処理し切れない感情があふれ出してくるのを感じていた。それは一瞬の魔法だった。士郎は20数年前の自分と対面した。店の雰囲気がそうさせた。そしてこの20数年間を士郎は自問した。これでよかったのか。答えはすぐ出た。来るべき店ではなかった。
 後から慌てて冬子が追いかけてきた。
「ねえ、どうしたの? 士郎さん、待ってよ」
 無言で歩く士郎の腕を掴んで、冬子が言った。
「モンブランは気に入らなかったの?」
 士郎は激しく動揺したまま答えた。
「いや、いいペンだよ。この上なくいいペンだ」
「じゃあ、なぜ買わないの?」
「遅過ぎた。20年以上が経ってしまったんだよ。もう遅過ぎた」
「ねえ、ほんのちょっとだけここで待ってて。すぐに戻るから、ここで待ってて」
 冬子は懇願するようにそう言い残すと、出てきたばかりの店に小走りに引き返した。
 しばらくして冬子が戻ってきた時、冬子は小さな紙の手提げ袋を持っていた。
 肩を怒らせて冬子は言った。
「モンブランよ。これからの士郎さんの、モンブランよ」
 そして士郎に紙袋を差し出し、祈るような目をして士郎を見た。士郎はその場にしゃがみ込みたくなるような気持ちで、その紙袋を受け取った。
 その夜、士郎はコケコッコーの万年筆からインクを抜き、ティッシュペーパーで丹念にくるんで、引き出しに仕舞った。このコケコッコーは長年働いてくれたから、もう休ませてやるのだと、士郎は苦しい言い訳をした。そして新しいモンブランの万年筆にインクを吸わせた。

(3)

 それを境に冬子は変わった。士郎が執筆中にも隣の部屋から出てきて、コーヒーを入れたり、夜食を運んできたりした。それは士郎が好む以上に頻繁で、執筆中の士郎の集中力をはなはだしく削いだ。
 士郎がそれを拒むようにコーヒーに口を付けないでいると、冬子は冷めたコーヒーを暖かいものと取り替えた。そして時にはそのまま立ち去らず、士郎の肩越しに書きかけの原稿をじっと眺めているのだった。
 いわば無言の干渉とも言えるこのような冬子の行動に、士郎は大いに閉口した。かと言って「大人しく隣の部屋に閉じこもっていろ」と言うのも可哀想だった。きっと冬子は傷つき、必要以上に部屋に閉じこもって息を凝らして過ごすだろう。そして再び幸せが訪れるのを待ちこがれて暮らすことになる。それも士郎には耐え難いもののように思えた。
 だから士郎は冬子が会社から帰って来る頃には執筆を止めて、冬子と一緒に隣の部屋で過ごすようになった。その分朝早く起き、冬子が会社に出かけた後、飛びつくようにして机に向かうのだ。そのリズムはかえって士郎の執筆の速度を向上させた。夜になってそろそろ冬子が帰ってくる時刻になると、士郎の肩の辺りに心地よい疲れどっとのしかかってくる。士郎はモンブランにキャップを締め、潔く書くのを止めるのだった。
 ゆっくり話す時間ができたことが冬子を多いに喜ばせ、次第に冬子は饒舌になった。その日職場であった様々なことを、冬子は止めどなくしゃべった。士郎はそれをじっくりと聞いた。士郎は何もしゃべらなかった。士郎が書いている原稿の内容を話題にするのはタブーだった。冬子はそのことをよく理解し、決してその話題には触れなかった。
 ある週末の朝、冬子はいつになく上機嫌で、士郎を外に誘い出そうとした。
「ね、士郎さん。これから映画でも観に行こうよ」
 その提案に士郎は同意して、早速2人で出かけることになった。JRと地下鉄を乗り継ぎ、都心の繁華街で映画館を探した。その界隈に映画館は何軒もあった。
「ねえ、士郎さん。何を観る?」
 士郎は冬子に委せた。2人の関係の中ではいつも士郎は受け身だった。
 冬子はその頃評判の映画を上映している映画館を選んだ。それは多額の予算をかけたハリウッドの大作だった。冬子がチケットを買っている間に、士郎は窓口の張り紙で上映時刻を確認した。
「あっ、時計が止まっているよ。電池切れかな。いつ止まったんだろう」
「あら、大変。後で時計屋さんに行こうよ」
 冬子は次の上映がもうすぐ始まるからと、士郎の手を引いて館内に急いだ。
 館内には空席が目立っていた。スクリーンで映画が上映されている間、冬子はずっと士郎の腕の上に自分の手を載せていた。
 映画は士郎には期待はずれだった。前評判ほどのものではなかった。しかし観たくもない映画を時間をかけて観た贅沢さが満足に繋がった。所詮は他人の作品だ。自分の作品の描写に頭を悩ませる士郎には、観客席でぼうっとしているのは気楽だった。
 映画館を出たところで、冬子が目を輝かせて言った。
「さ、士郎さん。これからデパートに行こうよ」
 冬子は士郎を一直線にデパートの最上階に連れて行った。そこに広い時計売場があった。冬子はすぐに販売員に話しかけず、黙って売場を一周した。そして士郎の止まった腕時計を見て言った。
「ね、士郎さん。士郎さんってもうサラリーマンじゃないんだから、それに相応しい時計を身に着けたらどうかしら?」
 そう言われて、士郎は腕の時計に目をやった。それは何年か前に量販店で買った安物だった。それまで使っていた自動巻の腕時計が故障した時、修理するよりも新品を買った方が安いと店員に言われて、それを買ったのだ。それまで使っていた古い自動巻は、士郎が中学生になった時、母親に買ってもらったものだった。母親は長く使うものだからと、じっくりと時間をかけて、それほど安物ではないそこそこのものを選んだ。その当時、腕時計とはそういった買い方をする品物だった。ところがそれから年月が経って、時計は安く、薄く、狂わなくなった。その時士郎は、手の届かない高級品と思い込んでいたクォーツの腕時計を、情けなくなるぐらい安く買うことができて、素直に喜んだのだった。
 冬子は言った。
「そうね。スイス製の機械式なんてどうかしら?」
「機械式って?」
「クォーツじゃなくって、ゼンマイで動く時計よ。今また見直されてきてるのよ。時々雑誌で、特集が組まれたりしているわ」
「今さら、ゼンマイ?」
「今だからこそよ。そうね、多少の遊び心って言うのかしら」
「この時計でいいよ。クォーツの方が正確だし。電池が切れているだけだから、取り替えてもらえばいいよ」
「駄目よ。士郎さんはもう秒刻みや分刻みの仕事なんてしなくていいんだから。ね、ちょっと待ってて。今、店員さんに選んでもらうから」
 冬子は士郎が止めるのに取り合わず、販売員を呼んで小声で条件を伝えた。
 売場主任といった感じのその男は、冬子の言葉にゆっくりと深く頷いた。そして上品な微笑みを浮かべて、優雅にショーケースの鍵を開けた。
 その販売員には全く隙がなかった。髭は深く剃ってあり、ワイシャツの襟は清潔そのもので、スーツとネクタイのコーディネートにはセンスのよさを感じさせた。その彼が革製の盆のようなものに載せていくつかの時計を運んできた時、かつて時計はこんなふうにして扱われる高価なものだったと、士郎はまだ中学生だった頃の記憶を手繰り寄せた。
「機械式のクロノグラフで信頼の置けるもの、そしてスイス製となりますと、当店ではこのようなものになります。どうぞお手にとってご覧になってください」
 冬子に向かって、販売員はそんなふうに厳かに言った。
「クロノグラフって?」
 士郎がそう訊ねると、販売員はまるで辞典を読むように答えた。
「時刻を読むだけでなく、時間の経過を計る機能を備えた時計のことでございます。普通の時計にある長針、短針を備えた上に、通常の秒針の位置にはクロノグラフ針があり、秒針に当たるものはインダイヤルに配置されております」
「ふうん。言ってみればストップウォッチみたいなものですか?」
「はい、まさにストップウォッチの機能そのものを備えています。そして普通の時計のように時刻も読みとることができます」
「で、それはいったい何に使うんですか?」
「例えばこのロレックスのデイトナは、サーキットでクルマの速度を計測するために開発されました。通常、クロノグラフには、タキメーターと申しまして、外周にメモリが付いてございます。まずクルマが1キロメートルを走る時間を計ります。そしてその時クロノグラフ針が指したタキメーターの目盛りを読むと、時速が割り出せるわけです。例えば1キロメートルを20秒で走りますと、タキメーターは180を示します。従って時速180キロメートルと分かるわけです」
 あまりに販売員が堅苦しく真面目に言うので、士郎はおかしくなった。そして意地悪のひとつも言ってみたくなった。
「サーキットなんて、生まれてこの方、行ったことがないんですけど」
「他にも時間を計る様々な情況下で役に立ちます。パスタをゆでるとか、パーキングメーターで駐車するとか」
「なるほど。しかし秒針があればどんな時計でもできそうですね」
 そう言いながら士郎が販売員が説明に用いた時計を手に取ると、ブレスレットに結びつけられた値札が垂れ下がった。それを見て士郎は息を呑んだ。時計ひとつが100万円以上するのだ。金でもない、プラチナでもない、ただのステンレスの時計がである。こんなものを腕にしてサーキットにレースを観に行くのは、士郎に言わせればただの…。
 いや、止めておこう、と士郎は思った。世界が違うのだ。関わり合いになるのは止めて、とっとと退散しよう。下手に触って傷つけたり壊したりしたら大変だ。そう思って士郎がそっと時計を盆に戻すと、販売員は士郎に逃げ出す隙を与えず、別の時計を説明し出した。
「こちらのブライトリングは航空業界と縁の深いメーカーです。文字盤が計算尺になっておりまして、燃料や航続距離の計算がこの時計ひとつで可能です。まさにパイロットのために開発されたモデルです」
 士郎には薄々分かってきた。要するにこれらの時計はおもちゃなのだ。驚くほど高価なおもちゃなのだ。子どもの頃に将来はレーサーになりたいとか、パイロットになりたいとか思って果たせなかった男たちが、金に飽かせてレーサーの気分やパイロットの気分に浸るためのアイテムなのだ。少年の頃の夢を取り戻すために、実業家だ、弁護士だ、医者だという男たちがこの売場にやってきて、驚くほどの大金を払うのだ。
 士郎はこの場にいることが恥ずかしくなった。
 その時、冬子が横から言った。
「ねえ、士郎さん。腕に着けてみれば?」
 士郎は顔がかっと赤くなるのを感じた。販売員の目には自分と冬子がどんな関係に映っているのだろうか。冬子に金で買われた男と映っているのではないだろうか。
 そんな士郎の気持ちを察したのか、販売員が少し口調を変えた。
「お客様。アポロ13号のエピソードをご存じですか?」
 士郎は顔を上げて首を振った。
「いいえ」
「アメリカのアポロ計画と言えば、人類が初めて月面に着陸したアポロ11号が有名ですが、それに勝るとも劣らないドラマがアポロ13号にはあったのです」
 士郎は販売員の話に耳を傾ける振りをして居心地の悪さを紛らせようとした。
「1970年のことです。アメリカで打ち上げられたアポロ13号は、地球を離れた宇宙空間で酸素タンクが爆発。月への着陸を断念せざるを得なくなったばかりか、地球への帰還さえもが危ぶまれる情況に陥りました。燃料電池が機能を失い、電力不足のためにヒーターもコンピュータも停止せざるを得なくなったのです。船内は氷点下の寒さ。宇宙船は制御を失ってさながら難破船のよう。大変な危機です。くるりと月を回って地球に戻る軌道上で、ヒューストンから無線がありました。大気圏への再突入の角度を修正するために、14秒間エンジンを噴射させる必要があると言うのです。大気圏への再突入角というのは、深過ぎれば宇宙船は大気との摩擦で燃え尽きてしまう、浅過ぎれば大気に弾かれて2度と地球へは戻ってこれない。生きて帰還できる角度は何と2度の範囲しかないんです。その狭い範囲の中に宇宙船の軌道を修正しなければならない。しかもコンピュータが停止しているため、全てを手動で操作する必要があります。宇宙船の計器類が全て機能を失っているなかで、正確に14秒間を計らねばなりません。頼れるのは宇宙飛行士の腕時計だけ。しかしその腕時計こそ、NASAが課した過酷なテストに見事合格した唯一のクロノグラフ。それがこの時計です。オメガのスピードマスター。アメリカの宇宙計画の初期から正規の装備品として採用されてきたモデルです。この時計の凄いところは約40年間ほとんどモデルチェンジしていないところです。基本的に当時のまま。従って今なお手巻きです」
 販売員はおそらくこれまでにもう何度も繰り返してきたであろうそのセールストークを滑らかにしゃべり終え、微笑みながら士郎の手のひらにそのオメガのクロノグラフを載せた。それはずっしりと重く横たわった。その重みを心地よいと感じた瞬間、士郎の心の中で販売員が話した宇宙飛行士たちのエピソードが鮮烈な印象を放ち始めた。
 士郎は手渡された時計をしげしげと眺めながら販売員に訊いた。
「それでその宇宙飛行士たちは、その後どうなったんですか?」
「もちろん無事に地球に帰還しましたよ。全米が注目する中、太平洋に着水して空母の甲板でにこやかに迎えられました。後に宇宙飛行士たちはスイスのオメガ本社に感謝状を贈っています。危機を乗り越えられたのはこのスピードマスターのおかげだとね」
「そんなことがあったとは初めて聞きました。子どもの頃、アポロ11号の月面着陸をテレビで観たのは覚えているんですが、アポロ13号のことは知らなかった」
「無理もありません。アポロ11号の月面着陸の後、アポロ計画に対する世間の関心は急速に冷めていきましたからね。その後いくらロケットを打ち上げても、もう注目を集めることはなかったのです。事故が起こって宇宙飛行士の生命が危険に晒されるまではね」
 冷静に考えれば、この時計も所詮は高価なおもちゃに違いない。しかしこのおもちゃは士郎の心をがっちりと捉えた。士郎は目を細めて「この時計がねえ」と言った。ひっくり返すと時計の裏蓋には文字が刻まれていた。
「FLIGHT-QUALIFIED BY NASA FOR ALL MANNED SPACE MISSION」
 そしてもう1行ある。
「THE FIRST WATCH WORN ON THE MOON」
 その文字を眺めながら、士郎は訊いた。
「どういう意味なんですか?」
「この時計がNASAによって正式に装備品として採用されたこと、そして月面で使用された最初の時計であることを誇って刻印がしてあるんです。同時に文字盤にもPROFESSIONALの文字が入りました。このクロノグラフは人類が20世紀に残した遺産と言っても過言ではありません」
 時計を眺める士郎の目にふと留まったものがあった。値札である。どう見ても安い。さっきのロレックスが100万円を超えていたのに比べて、このオメガの時計は25万円。ロレックスの4分の1、ブライトリングの半分である。とは言っても、士郎がサラリーマンだった頃の1ヶ月分の給与の手取り額に相当する。安い時計が千円程度で買えることを思えば、高価な買い物には違いない。
「気に入った?」
 冬子はそっと囁くように士郎の耳元で言った。
 士郎はとっさに冬子の行動を読んだ。士郎がこのオメガを気に入ったと言えば、冬子は25万円もの大金を即座に支払うだろう。しかし販売員が選んだいくつかの時計の中では、それでもこのオメガが一番安い。士郎がはっきり選ばなければ、冬子はもっと高価なものを士郎に買い与えるかもしれない。だから冬子の財布に最も打撃が少ないのは、士郎がはっきり意思表示をして、この最も安いオメガを選ぶことだ。士郎はそういう結論に達した。
 それに士郎自身、このオメガの時計がとても気に入ったのである。ずっしりとした重さ。精悍に引き締まって見える黒い文字盤。その中にごちゃごちゃといくつもの針が並び、いかにも機能的な気がする。そして極めつけはさっき販売員がしゃべったアポロ13号のエピソードだった。この時計を、できれば士郎は一生の時計として、自分の金で買いたかった。しかし定職のない今の士郎にはそれもできなかった。
 士郎は言った。
「これがいいよ。オメガのスピードマスター。気に入った」
 それを聞いて冬子は喜んだ。カードで支払をすませ、販売員が金属ベルトのサイズを調整してくれている間、しきりに冬子は「いい買い物をしたわね」と言った。
 ブレスレットのサイズを調整した後、販売員は訊いた。
「腕にして行かれますか?」
 士郎は言った。
「ああ、そうする」
「では箱をお持ち帰りください」
「要らないから、古い時計と一緒に捨てといてよ」
「しかしこう言っては何ですが、万が一その時計を売却したりしなければならないような時、箱がないと困りますよ」
「売ったりしないよ」
「承知しました。では、保証書を記入しますので、それだけお持ち帰りください」
「それも要らないよ」
「しかし故障した時困りますよ」
「そんなにこの時計、故障するの?」
「まさか、とんでもない。NASAが課した過酷な11種類ものテストに合格した唯一の時計です」
「だったら、保証書も要らないよ」
「では、ブレスの余ったコマはどうされます?」
「おれは痩せることはあっても太ることはない。だからそれも要らない」
 士郎と冬子はその場から逃げるように足早に立ち去った。士郎は冬子に時計を買わせたことが恥ずかしかったし、冬子は士郎の気が変わってこんな高価な時計なんて要らないと言い出すのが怖かったのである。販売員は呆気にとられ、無言で2人を見送った。
 帰りの電車の中で士郎は冬子に言った。
「もう時計は買わない。これがこの先、死ぬまでの時計だよ」
「じゃあ、士郎さんが死んだら、一緒に棺桶に入れてあげるわよ」
「おれが先に死ぬとは限らない」
「もちろん私が先に死ぬことだって、あり得ないわけじゃないわ。でも私はしぶといのよ。そう簡単には死なないわ、きっと」
「その時、おれたちは互いに側にいるのかな?」
 冬子はそれには答えなかった。まるで「それはあなたが決めて欲しい」とでも言うように士郎を見た。士郎は自分から冬子を遠ざけることなどあり得ないと、この時心からそう思った。それから1年足らずの後に冬子が士郎のそばからいなくなる運命にあったにもかかわらず。
 部屋に帰って士郎が昨日の原稿に軽く手を入れ、それを終えると、冬子がベッドで待っていた。士郎が服を脱いで部屋の明かりを消すと、ベッドの中で冬子が言った。
「静かに。耳を澄ませて」
 士郎が息を凝らすと、腕のオメガがチ、チ、チ、チと時を刻む音が聞こえた。その音は意外に大きかった。
「ゼンマイの時計というのも味があっていいね」
「電池が切れて止まるということはないわ」
「毎日巻いてやらなきゃ、すぐ止まるよ」
「士郎さんが頼りなのよ。可愛いもんじゃない」
「多少は狂うよ」
「分刻み、秒刻みの仕事、してる?」
「全く問題ないね」
「もう士郎さんはサラリーマンをすることは2度とないはずよ。好きな時に起きて、好きな時に眠るのよ」
「本が売れれば、だろう?」
「売れるわよ、きっと」
「まだ書き終えてもいないのに?」
「捕らぬ狸の何とやら」
「今が一番楽しい時だよ。編集の段階になるともっと苦しむ」
 冬子は士郎の身体の下で大きく伸びをした。そうすることで2人の身体はぴったりと密着し、士郎に心地よい快感をもたらした。
 2人は暗闇の中で溶け合った。士郎はその最中も腕のオメガは外さなかった。風呂へ入る時以外この時計は外さないことにしたのだ。冬子の耳の下で、オメガは微かな音を立てていた。