人事本部長に着任した村尾の行動は、士郎が思わず唸るほど迅速だった。さすがは若くして一部上場企業の役員になるだけのことはあると、士郎も卯木もその実力を認めた。
村尾はまず自分の右腕となる人事部長を採用した。笹本隼人というその男は、村尾よりもひとつ年下で、卯木と同年齢、士郎よりもひとつ年上だった。パソコンメーカーの人事部にいたというこの男は、焼き固めたような笑顔を浮かべながらも、目が少しも笑っていない、危険な感じのする男だった。
卯木はすぐにそのことを指摘した。
「笑っているようだけど、あれは目を細めて本当の表情を隠しているんだ。危ないぜ、ああいう人間は」
しかし、士郎がそのことに同意するのは、ワンテンポ遅れてだった。その数日後、笹本がまれに見る饒舌な男だと知った時、ようやく士郎もこの男は危険だと気づいた。
士郎は言った。
「彼はぺらぺらとよくしゃべるね。さっきも『ぼくは営業もやったし、人事もやった。何でもやったから幅広い知識がある。それがぼくの強みで、そこを買われてトランザに引き抜かれた。このぼくの指導で、君たちを一流の人事マンにして見せる』なんて言ってたよ。今おれはかなり要約しておまえに伝えてるけどね」
士郎がそう言うと、卯木は呆れたように顔をしかめて言った。
「その『君たち』ってのは、おれとおまえのことか? 余計なお世話だってんだ。おまえ、それを黙って言わせたのか? 『そんなもの、このトランザでは何の役にも立たない』って、言ってやればよかったぜ」
「黙って聞いていたよ。うん、うんって頷きながら。おかげで首が疲れたよ」
「けっ。お人好しだな」
「しかし、とりあえずは認識した。ああいう男は駄目だよ。口先だけで世の中を渡っていけるものと思い込んでいるようだね。がっかりだよ。しかしね、今はまだ田宮と闘っていかなければならない身だ。あんな笹本でも、田宮よりはましだろう? ここは笹本部長に田宮からしっかりと引き継ぎを受けてもらって、田宮の残した負の遺産を一掃するのが先決だよ」
すると卯木は不満そうに言った。
「物分かりのよ過ぎるところが、おまえの欠点かもしれないぜ」
「そこは認識の違いさ。おれはまだ田宮との闘いは終わっていないと考えているんだ。やつが大人しくこの人事部を離れるわけがない。何か爆弾を仕掛けていくはずだよ。警戒が必要なんだ。だから、笹本部長に果たしてもらわなければならない役割は、おまえが思っている以上に大きいと、おれは見ているよ」
卯木はその時「ふん」とだけ言った。
士郎が笹本に対して抱いていた苦渋の期待は、しかし、笹本の行動様式が明らかになるに連れて消え去って行った。笹本は不快な情況からはさっさと逃げた。ほんの些細なきっかけで、笹本は田宮からの引き継ぎを完遂しなかった。
その頃笹本は自席から、ご自慢のネットワークとやらに、転職挨拶の電話をかけることに余念がなかった。
「うん。今度ね、トランザクション株式会社にお世話になることになってね。うん。IT関連、一部上場、社員数5,000人の会社だよ。そう。人事部長だよ。だからさ、これからもよろしく。そうだね。きっとお役に立てることもあると思うよ」
こういった他愛もない電話を、半日かけて延々とかけ続けた。
田宮はその間、引き継ぎを中断して、笹本の電話が終わるのを待っているしかなかった。ただでさえ面白くない引き継ぎをしなければならないことに加え、田宮は以前から部下が社外の人物と親しくすることに対して極度の嫌悪感を持ち、士郎や卯木に対して事実上社外との電話を禁止していたほどである。笹本は素知らぬ顔でそのタブーに風穴を開けたのだ。士郎や卯木はそれを楽しんだが、田宮が愉快に思うはずはなかった。ドスの利いた声で唸った。
「笹本さんよ、いい加減にしなよ」
士郎たちは一触即発のこの情況に、本能的に笹本に加勢する体勢で身構えた。
その時、笹本は予想外の行動を取った。受話器を置いてすっくと立ち上がり、例の顔に貼り付いたような笑顔を浮かべて、フロアから出て行ったのである。その日1日、とうとう笹本は席に帰っては来ず、どこでどう過ごしたのか不明に終わった。
卯木は苦笑した。士郎も同じである。
「笹本のやつもなかなかやるもんだね。ああいうやり方があるのか。田宮の前で直立不動、長々しい説教に耐えてきたおれたちはいったい何だったんだ?」
と、卯木は感心半分、軽蔑半分で言った。
しかし士郎はその後、懸念の方が勝った。あれでは引き継ぎがうまく行かない。田宮があちこちに仕掛けたブラックボックスは、様々な形で今後の業務の妨げになってゆくに違いなかった。その時が来れば顕在化する、それは時限爆弾にも等しかった。
案の定、その翌日以降、田宮から笹本への引き継ぎは中断された。田宮はへそを曲げて笹本を相手にせず、笹本の方でも涼しい顔をして例の挨拶の電話に余念がなかった。
「2人とも子どもみたいだぜ。ばっかじゃねえの」
卯木は屈託なく笑ったが、士郎は相当に気を揉んだ。
冬の賞与の作業が始まった時、田宮はもはや笹本に引き継ごうとはせず、助手として大阪から早川係長を呼び寄せた。東京本社へ出張してきた早川は優雅に田宮に寄り添い、険しい目で士郎をしきりに牽制した。
「村尾取締役はいかがですか?」
早川は村尾に対する嫌悪感をにじませて言った。
士郎は戦勝気分で答えた。
「ああいう人が上に立ってくださると、仕事がやりやすいですよ。いろいろ相談もできますからね」
すると早川は皮肉を込めて言った。
「まあ、どんなご相談をなさるのですか?」
「ふふん。いろいろですよ、いろいろ」
士郎にはこの時の早川の肚の中が手に取るように分かった。士郎が村尾と手を組んで田宮を追い落とそうとしていることを察知して、必死で探りを入れてきているのだ。士郎は取り澄ました早川の仮面の下で、自分の男を守ろうとする女の情念がうごめいているのを感じて、言いようのない嫌悪感を覚えた。
かつて士郎がまだ入社したての頃、早川に「田宮部長は部下に無駄な時間を費やさせ過ぎます。ちょっとした報告に膨大な時間がかかる。些細なことは田宮部長への報告抜きに、2人で進めちゃいませんか?」と誘いをかけたことがあった。その時早川は電話の向こうで露骨に士郎を蔑み、舐め切った関西弁で言ったものである。
「おもろいこと言いますね。上司に報告するのは当たり前ですよ。どんなに時間がかかろうとも、報告するのが部下の務めなんと違いますか」
その頃は士郎はまだ田宮と早川の関係を信じてはいなかった。しかし2人の関係がただならぬものと知っている今、早川のにじませる態度は滑稽でさえある。要するに、士郎が村尾と親密に物事を相談するのが気に食わないと言うのだ。もっとも、士郎が村尾と組んで、田宮を追放しようと画策しているのは事実ではあるが。
例によって、早川が東京に出張している間、田宮は毎晩早川を送って同じホテルに泊まった。田宮がエスコートして2人でホテルへ向かう後ろ姿を、士郎と卯木は無遠慮に哄笑しながら見送り、坂木と水島は初めて目の当たりにして呆気にとられた。卯木は、田宮と早川の関係を村尾と笹本に暴露して、溜飲を下げた。
「ばっかじゃねえの、あの2人。下半身の疼きが強過ぎて一刻も早くホテルへ行ってやりたいんだろうけど、あれじゃあ自分でスキャンダルを暴露するようなもんじゃないか。ま、やつらが早々にホテルへ引き上げてくれるから、こっちは早く帰れていいんだけど」
士郎と並んで駅に向かいながら、卯木は大いに笑った。
しかし士郎は懸念を口にした。
「これじゃあ、駄目なんだよ。笹本部長が引き継ぎを受けないんなら、田宮からの引き継ぎはおれたちの手でやらなければならないよ」
「おい、おい。どうしようって言うんだ?」
卯木はまだ笑いを堪え切れず、真顔の士郎を振り返った。
士郎は真剣だった。
「パソコンだよ。田宮の使っているノートパソコンだ。あれを差し押さえなければならないと思うんだよ。あの中に重要な情報が詰まっているはずなんだ」
「パソコンを?」
「そう、パソコンなんだよ。あれさえあれば、引き継ぎなんて、とりあえずどうでもいい。田宮なんて糞くらえだよ。田宮がこの人事部にいるだけで害がある。しかし、あのパソコンだけは別だ。何とか田宮が出て行く前に、あのパソコンのデータをせめてコピーしたい。パソコンそのものを差し押さえられれば、もっといい」
士郎が力説すると卯木もようやくその気になって、笹本が田宮からろくに引き継ぎを受けようとしないことに危機感を覚え始めた。
冬の賞与計算が終わると、田宮はその週末に荷物をまとめ、東京本社から引き上げることになった。村尾の話では、田宮は一旦大阪の人事課に戻り、来春の給与改定を最後の仕事にして、人事部から外れることになっている。
大阪の人事課の若い男子社員からは愉快な苦情が来た。
「変なもん本支店勘定で送ってこんといてくださいよ」
即座に卯木は言い返した。
「元々そっちのものなんだから、返しただけだぜ。たっぷりと利息を付けてやるから、喰らいやがれ」
いよいよ田宮が目の前から消えてくれる。士郎はもちろんそのことの解放感を感じてはいたが、それ以上にパソコンの行方が気がかりだった。
トランザクション株式会社では通常、上司の転勤となれば、部下たちが総掛かりで荷造りを手伝う。しかしこの人事部で、いったい誰が田宮の荷造りなど手伝うものか。おそらく田宮は土曜日に自分ひとりで荷造りをするはずだった。士郎は卯木と打ち合わせて、この最後のチャンスに田宮のパソコンを差し押さえることにした。田宮の手伝いなど決してしないが、2人で立ち会って監視しようというのだった。
士郎は意気込んだ。それが田宮にとどめを刺すことになると士郎は正しく理解していた。考えてみればくだらない話ではある。あの田宮の最後の抵抗がパソコンの持ち逃げとは。しかしそれを許せば敵に人質を取られることとなる。見下げ果てたやつだと嘲笑うだけでは済まない。
士郎と卯木はその日は長丁場になると予測して、少しゆっくりめの午前10時頃に職場で落ち合うことにした。しかし結局、士郎はその30分前には自席についていたし、卯木もそれほど時間をおかずに現れた。
案の定、田宮は独りで荷造りをしていた。唇を頑固そうに真一文字に結び、しかし、どことなくおどおどした様子で、むっつり黙って作業を急いでいた。まるでこの場から一刻も早く逃げ出したいと思っているかのようだ。既に机の脇には段ボール箱がいくつも積み上げられ、予想以上に作業は進んでいた。きっと人目を避けて朝早くから荷造りを始めたに違いなかった。
トランザクション株式会社では、週休2日で土曜日は休みではあるが、半強制的な土曜出勤の風習はまだ残っていた。次々と何人もの社員たちがやってきて、異様な雰囲気の人事部にさっと視線を走らせて、通り過ぎていった。
士郎と卯木は何の仕事もせずに、それぞれの席で腕組みをして椅子の背もたれに仰け反り、恐ろしい形相で田宮の動きを監視していた。田宮のノートパソコンはまだ田宮の机の上に蓋を閉じた状態で置いてあった。士郎の視線はそこに集中していた。
田宮の荷造りは1時間もしないうちにほとんど片づき、最後に田宮の手が机の上のノートパソコンに伸びた。田宮は長い電源コードを本体にぐるぐると巻き付け、段ボールの中に仕舞い込もうとした。
その時勢いよく士郎が立ち上がった。
「田宮部長っ。そのパソコンをどうするおつもりですか」
士郎は最初から喧嘩腰だった。その時点で既に士郎の唇は怒りに震えていた。
卯木も自分の席から駆け寄ってきた。しかし卯木は無言だった。
田宮は士郎のあまりの剣幕に驚き、怯えたような視線を上げた。
士郎は続けてまくし立てようとした。しかし頭で考えるようには言葉は軽々しく出てこない。これまで蓄積された怒りの数々は、この時出口を求めて殺到した。
「そのパソコンは置いて行くべきでしょう。その中のデータは人事部のものであって、あなた個人のものではないはずです。きちんと引き継ぐべきだ。私物化しないでいただきたいっ」
田宮はこれまで部下が「べき」とか「はず」という言葉を使うことを極度に嫌い、そのたびに「そんな客観的なものの言い方をするな」と叱りつけてきた。しかしこの時の士郎の言葉には勢いがあって、田宮はそんな余裕も失っていた。
「あ、いや。まだデータの整理ができていないから、その、後で整理して笹本部長に引き継ぎするつもりだ」
田宮はしどろもどろになって、精一杯の言い訳をした。
しかし士郎も卯木も、田宮がそんな言い訳をするであろうことは、事前に予測していたことだった。
「やっこさんに主導権を渡しちゃ駄目だぜ。畳みかけるように言い負かしてやるのさ。何か少しでも言い訳してみろ。こう言ってやるぜ。『異動の内示があってから今までいったい何日あったんだ。引き継ぎのスケジュールは立てたのか。スケジュール表を見せてみろ』ってな」
事前の打ち合わせでは卯木はそう言っていた。だから士郎はそこでひと呼吸置いて待った。うろたえて視線の泳いでいる田宮に、卯木の言葉が機関銃のように浴びせかけられるのを。その言葉がどれほど胸の空く思いで心の呪縛を解き放ってくれることか。その役割を士郎は卯木に譲った。
しかし卯木は沈黙していた。田宮に対して攻勢に立ち、一気に畳みかけるにしては、少し間が空き過ぎた。士郎が振り返ると、卯木は茫然として、真っ青な顔をして突っ立っていた。その表情には生気がなく、士郎の視線にも反応しなかった。明らかに正常ではなかった。
士郎は目の前の田宮につばを吐きかけてやりたいのを堪え、卯木を抱きかかえるようにしてフロアから連れ出した。
士郎は卯木に外の空気を吸わせようと思った。卯木は身体をがくがくさせながらも、士郎の誘導に従ってエレベータに乗った。そして一階についてエレベータの扉が開いた時、息を吹き返したように言った。
「もういい。もう大丈夫だ。ひとりで立てる」
2人でエレベータホールを抜けて通用口からビルの外に出た時、士郎にはまだ田宮と向き合った興奮が残っていた。今になって士郎の手は小刻みに震えていた。
「少し休もう」
卯木は黙って士郎に付き従い、裏通りの喫茶店に入った。
「いったいどうしたんだ? おまえ、真っ青だったぞ」
席に着くなり、士郎が言った。
それに対して卯木はゆっくりと首を振った。
「自分でも分からない。だが、きっと、すまん、プレッシャーに負けたんだ。おれは自分で思っていたほど強い人間ではなかったのかもしれない」
その後、士郎は一切その話題には触れなかった。士郎は恐ろしくなった。あの時既に卯木の怒りは卯木自身を蝕み、心に深くトラウマを刻み込んでいたのである。それは卯木だけのものであるはずはなかった。多かれ少なかれ、その後の士郎の身にも現れるに違いなかったのである。
士郎は早速笹本部長に進言した。
「あのノートパソコンを早い段階で差し押さえないことには、後々厄介なことになりますよ」
しかし笹本は迷惑そうな顔をした。
「ぼくはね、人事本部の部長なんだよ。人事部の部長じゃないんだ。田宮部長からの引き継ぎはね、今度入社してくる人事部の新しい部長の仕事なんだよ」
笹本のこの言葉を聞いて、士郎の顔によほど蔑みの表情が浮かんだらしい。笹本は不快な要求を突きつけられたと感じ、むっとして黙りこくった。
笹本がこの時口にした新しい部長がやってくることは事実であった。その日のうちに村尾から正式に発表があった。それによれば、笹本を補佐する役割で新たに部長を採用し、2週間後に入社してくるとのことであった。
しかし、これには卯木が毒舌を吐いた。
「今はまだ影も形もない、2週間後に入社する新部長とやらが、既に部長の席を去った田宮の業務を引き継ぐだって? おいおい、あいつ、ばかじゃないのか」
この時には卯木は自分の言葉を取り戻していた。しかし士郎には、卯木が無理に毒舌を吐いているようにも思えて、かえって痛々しく思えた。
士郎は言った。
「それにさ、これは気を回し過ぎかもしれないけど、田宮が消えて替わりの部長が2人というのも、なんだかな。これじゃ、まるで田宮が2人分の仕事をしていたように見えるよ」
それに対して即座に卯木が付け加えた。
「あるいは、笹本と今度来る新しい部長が、2人合わせて一人前ともな。実際やつらは半人前なんだろうけどよ」
「随分手厳しいね」
「しかし、そうだろう? 『ぼくの仕事は君たちの能力を伸ばすことだ』なんて、いい上司のつもりで言ってるんだろうけど、ばかも休み休みに言ってもらいたいぜ。余計なお世話だってんだよ。『それよりおまえ自身はいったい何をするんだ?』って言ってやりたいぜ」
卯木の言うように、笹本は何かというと『ぼくの仕事は君たちの能力を伸ばすことだ』とか『君たちが仕事をしやすいようにお膳立てするのがぼくの役目だ』とか、耳触りのいいことばかりを言った。だから、田宮が部下を締め上げることしかしなかったのと比較して、人事課の面々は一挙に笹本になびいたのである。実際、士郎は他の部署の者から「今度来た新しい部長は優しくてよかったじゃないか」というようなことを何度も言われた。
田宮との比較でというのも分かる。しかし士郎も卯木も、田宮に懲りて、容易に人を信頼しなくなっていた。2人に言わせれば、笹本という人物は「口先だけで世の中を渡ってきた俗物」ということにしかならないのだ。
2人のこの笹本に対する評価は、決して間違ってはいなかった。殊に士郎に対して、笹本は本性を剥き出しにして接するようになった。田宮が持ち去ったノートパソコンのことを士郎に突きつけられたことで、笹本はよほど気分を害したと見える。即座に反撃が仕組まれた。
士郎が村尾に会議室に呼び出された時、何の用件だろうと士郎は訝しんだ。しかし村尾が次のように言った時、即座に笹本の顔が頭に浮かんだのである。
「加瀬君、いったいどういうつもりなんだ。君は職場で堂々と転職活動をしているそうじゃないか。これからこの人事部を立て直そうという時に、がっかりするじゃないか」
この時村尾は以前のような親しげな態度ではなく、表情に無機質な厳しさを浮かべていた。
「そんなこと、していません」
士郎は驚いて否定した。しかし村尾の疑いの理由が薄々分かってもいた。
「では訊くが、インタレストから電話があったそうじゃないか。いったい何を話していたんだ?」
やはり、と士郎は思った。あの電話が理由だ。
その日、確かに士郎はインタレスト株式会社からの電話を受けた。しかしその電話が総務部から士郎に回されてきた時、士郎自身が不審に思ったほどだった。インタレストといえば人材紹介もしくはスカウトの大手企業である。士郎には全く心当たりがなかった。むしろ採用担当の人材開発部に回すべき電話ではないのかと思った。ところが、士郎が電話に出て相手の話を聞いた途端に、すぐに謎は解けた。相手は言った。インタレストでは、これまでの人材紹介業とは別に、新たに給与計算の請負業務を始めた。ついては挨拶に伺いたいので、話だけでも聞いて欲しい、と。それなら話は分かる。士郎がトランザクション株式会社での給与計算の責任者なので、その電話が総務部から回されたのだ。
士郎は村尾にことの子細を話した。すると村尾はたちどころに表情を緩め、親しさを取り戻して言った。
「何だよ、脅かすなよ。そうだったのか。まあ、今ここで辞めたらせっかくの苦労が無駄になるから、そんなはずはないとは思ったんだがね。安心したよ。それより君には期待しているんだ。笹本部長も『加瀬君は田宮部長の下でずっと割を食ってきたから、ぼくの下で大いに伸ばしてやりますよ』と言っているしな。期待に応えて頑張ってくれよ」
しかし士郎は「分かりました。頑張ります」とは言わなかった。激しい怒りが突き上げてくるのを感じ、無言で村尾のもとを去った。
その何時間か後、士郎が階段で笹本とすれ違おうとした時、笹本は踊り場で立ち止まり、馴れ馴れしく士郎の肩に手を回した。そして囁くように小声で言った。
「脅かすなよ、加瀬君。ぼくはてっきり君がトランザを辞めようとしていると思ったよ。だけど安心した。これからも一緒に頑張っていこうよ」
笹本が立ち去った後も士郎はしばらく踊り場で呆気にとられていた。かえって怒りは湧いてこなかった。むしろ笹本を哀れに思った。彼はこのトランザでは到底生き抜けない。いつか無様な姿を晒して逃げ出すことになるだろう。自分はその時に備えて、間違っても田宮が人事部に舞い戻ってこないように、その穴をしっかりと塞いでおかなければならない。田宮はこのまま引き下がるような男ではない。きっと反撃があるだろう。その時笹本は当てにならない。自分と卯木の2人でやり抜かなければならないのだ。そう思うと、士郎は溜息を吐き、肩をがっくりと落としたのだった。
士郎からその話を聞いた卯木は、豪快に笑った。
「何なんだよ、そりゃ。ほんとにばかなやつだな、笹本も。全く愚かとしか言いようがない。善良な人間としては中途半端、かと言って悪いやつとしても中途半端。所詮は二流の人物なんだぜ」
「おれもそう思う。だから、もう、真剣に相手をするのは止めようかと思うんだよ」
「ああ、それがいいぜ」
士郎と卯木はそう意見が一致したのだが、この2人の言葉に反して、その後笹本は何かにつけ2人にしつこくまとわりついてくるのだった。
「皆さんが取り組んでいる人事部の日常業務の中で、今、まず真っ先に手を打たなければならない問題点は何ですか?」
会議室で村尾は笹本を横に座らせ、梅本、士郎、卯木の3人に対してヒアリングを行った。村尾の口調は、自分の部下ではありながら5つばかり年上の梅本に対して、いくらかの礼儀を含んだものだった。
3人は先ほどまで、村尾と笹本から新体制の下で繰り出されてゆくこれからの人事諸制度を聞かされ、圧倒されていた。成果主義、目標管理制度の導入、管理職への年俸制の導入、ストックオプション制度の導入、等々。どれも華々しく聞こえる、流行の魔法のような人事制度だった。
梅本は、年下の村尾から流行の人事諸制度を華々しく聞かされたことが悔しく、村尾を生意気な小僧と感じて露骨にふてくされた。
卯木はたった今聞かされた夢のような諸制度の華々しさに萎縮して、持ち前のストレートさでは言葉が出てこなかった。
士郎だけが村尾の問いかけに答えた。しかも憤りを感じて、村尾の手を払いのけるかのような勢いで、即座に答えたのだった。士郎の憤りとは、いくら形だけの制度を導入したところでトランザの本質は変わらないのに、というものだった。だから士郎は敢えて泥にまみれた日常の事務作業の中から問題点を抽出した。夢を語るような先ほどまでの村尾の話と比較すると、それはみすぼらしく明らかに見劣りがした。
「最大の問題点は時間精算です」
士郎がきっぱりというと、村尾と笹本は一瞬お互いの顔を見合わせ、同時に聞き返そうとした。笹本が途中で遠慮し、村尾だけが最後までその質問を口にした。
「時間精算っていうと?」
「時間外手当の、うちの会社独自の計算方法のことです」
士郎は時間精算について、村尾と笹本に簡単に説明した。
トランザクション株式会社では、年次有給休暇、欠勤、遅刻早退等が、全て時間外勤務と相殺され、残業手当を削り取る口実にされている。さらに休日勤務は代休に振り返られ、その代休は、取得すればこれも時間外勤務と相殺され、取得しなければ2年間で消滅する。これらのことは就業規則にも給与規程にも規定されておらず、いわば田宮が勝手にルール化し、社員に押しつけてきたものだった。そのことを正確に知るのは限られた者だけであり、社員にも労働組合にも明らかにされていない。中には理不尽に気づいて抗議する社員もいるが、その声は人事部が発するさまざまな圧力によって揉み消される。
士郎の説明に対する村尾の理解は素早かった。
「なるほど。精算の中に残業手当の不当なカットが仕込まれていて、公正な処理がされていないというわけだな?」
「そうです」
士郎はそう答えながら、村尾の理解の早さと的確さに舌を巻いた。それと比べると、笹本は士郎の説明をぼんやりと聞き過ごしただけであった。
村尾はせっかちに訊ねた。
「で、どう解決すればいいんだ?」
「計算式を変えるだけですみます。ただし、労働基準法に基づいて正しく計算すれば、会社の利益の優に半分が吹っ飛びます。そこまでの覚悟を持ってしなければ、この問題を是正することはできません」
士郎は「大阪コネクション」を意識して言った。
「しかし、今のままでは明らかに違法だな。コンプライアンスを重視していかなければならないというのが、これからは会社の基本方針となってくるんだ。いつまでも成り上がりの同族会社では駄目だ。社長は名実ともに一流企業を目指すつもりでいると言っている。で、さっきの話に戻るんだが、今のままじゃあ有給休暇の意味がないだろう? 有給休暇と言いながら、給与は払われていないのと同じじゃないのか?」
「そうです、その通り。より正確に言えば、有給休暇を取得した時には所定の給与は支払われるけれども、後で時間精算の際にしっかり取り返されることになります」
士郎が説明の不足を恐れてくどくど言おうとするのを遮り、村尾は目から鼻に抜ける聡明さで質問を繰り出した。
「では、ちなみに欠勤した場合は? 有給休暇とどう違うんだ?」
「同じです。時間外勤務から相殺されます」
「すると、有給休暇と欠勤が同じ扱いを受けているということか?」
村尾がそう言った時、初めて笹本が口を開いた。
「そりゃあ、酷い。そんなのは違法だよ。今までよく放っておいたよね」
士郎は一瞬顔をしかめ、即座に反論した。
「違います。有給休暇と欠勤の扱いが同じなことが問題の本質ではありません。欠勤にしたって、既に月々の給与で欠勤控除を受けています。再び時間外勤務と相殺するのは、2重の制裁です。両方とも不当なんです」
村尾は士郎の説明にたちどころに理解を示し、うーむと唸って指先で下唇をさすった。
笹本は士郎の言うことが理解できず、ただ士郎が反論したことが不愉快でむっとしていた。結局笹本はその後も時間精算のことが問題にされるたびに「有休と欠勤が同じ扱いなんておかしい」とわめき散らし、いたずらに士郎をいらいらさせた。
村尾はその場では結論を出さず、時間精算の是正については何の指示もないまま解散した。
士郎は村尾が結論を出さなかったことに不満はなく、むしろ説明し切ったことにすがすがしい気分を感じていた。村尾が問題を理解したことは間違いがないのだ。今日結論を出さなかったのは、例えば、一旦じっくり考えてみるつもりなのではあるまいか。
会議室を出たところで、卯木が士郎の袖を引っ張った。
「なあ、おい。おれ、正直に言うけど、まだ時間精算ってのがよく理解できないんだよな。以前にも説明してもらったんだが、もう一度わかりやすく説明してくれないか?」
士郎はにやりと笑った。
「席に戻ろう。いつか日の目を見ると思って、時間精算の問題点を資料にまとめたものがあるんだ。パソコンに入っているから、プリントアウトするよ」
人事課の自分の席へ戻ると、士郎は卯木を横に待たせておいて立ったままパソコンを操作し、図表入りの分厚い資料を印刷した。印刷が終わるのをプリンターに手をかざして待ち受けながら、士郎は、こういったことは田宮が人事部にいた頃には考えられなかったことだと思った。もうこそこそする必要がないというだけのことが、これほどまでに自由な気持ちにさせてくれるとは思ってもみなかったのだ。
士郎は小声でなく、普通の声で言った。いや、いく分誇らしげな、大声でと言った方が当たっていた。
「これを見れば田宮がどんなにあくどいことをやってきたか、よく分かると思うよ。言っとくけど、さっき村尾さんに説明したことはハイライトであって、全てじゃないからね。この資料の中に田宮の時間精算の全てが入っている」
士郎が2度も田宮と呼び捨てにしたので、人事課の空気は一瞬張りつめた。しかしびくっと首を縮めて士郎を見た者たちも、もう田宮はここにいないということを思い出し、苦笑しながら再びそれぞれの仕事に向き直った。
卯木は資料をぱらぱらとめくり、最後のページを見た。そこには結論として1億2千万円という金額が大きく記載されていた。つまりそれがこの1年間の間に、時間精算というごまかしの方法で、田宮が削り取った社員たちの残業手当の総額であった。それを見て卯木の顔が曇った。
「要するにこれは、真っ当な方法では、これだけの人件費が増えるということだろう?」
「そう、その通り」
士郎は微笑みさえ浮かべて答えた。
「あのけちな社長が、この金額を認めるかだぜ。1億2千万円といえば、去年の経常利益の約4割だ。あの社長のことだから、1億2千万稼ぎ出して『田宮よ、よくやった』ってこともあり得るぜ」
「まあね。そこが社長の判断のしどころだよ。社員の給与を違法なやり方で削り取って利益を上げようとするか、遅ればせながら真っ当なやり方で社員に支払うか。どんな判断が下るのか、楽しみだね」
その数日後、士郎は村尾の席から呼ばれた。村尾は小声で士郎に言った。
「例の時間精算の件だけどさ。社長に話したら、実情を次の役員会で報告しろって言うんだ。何とか今週中に資料を用意できないかな」
士郎は即座に答えた。
「いいですけど、かなり込み入った内容になりますよ。つまり分厚い資料に」
「いや、簡単なものでいい。できるだけ早く作って欲しいんだ」
「今すぐお渡しできますけど」
士郎は内心、準備しておいた資料が意外に早く日の目を見そうなことに、小躍りして喜びながらも、とぼけた表情で言った。
「あるのか?」
「今、お持ちしましょう」
士郎は一旦席に戻ると、先日卯木のために印刷して引き出しに仕舞ってあった資料を取り出し、こんなものでいいならという表情で村尾に手渡した。
村尾は「さすが、さすが」と歌うように言って、その資料を受け取った。
村尾はその日、じっくりと時間をかけてその資料を眺めていた。自分の席からその村尾の様子を盗み見て、士郎は興奮した。その資料は士郎の渾身の力作だった。田宮が人事部から消えた後すぐに、まるでパソコンの画面上で田宮と一騎打ちをする勢いで、1週間かけて作成したのだ。士郎は村尾が示した手応えに満足していた。
その日の夕方になって、村尾は1枚の紙片を持って、自ら士郎の席にやってきた。
「さっきもらった資料なんだけど、力作だよ。しかし役員会に出すには詳し過ぎるし、ボリュームがあり過ぎる。だから要約させてもらったんだ。見てくれないかな」
村尾は微かに疲れた表情でそう言うと、紙片を士郎に差し出した。
士郎はそれを読んで舌を巻いた。それは見事な要約であった。20ページ以上あった図表入りの詳しい資料が、たった1枚の紙片に要約されていた。しかも箇条書きと矢印だけで、士郎が苦労しながら表現しようとしたものが、十分にわかりやすく表現されていた。士郎は感心した。きっと村尾は持ち前の明晰な頭脳と要領のよさで、今までやすやすと世の中を渡ってきたのだ。士郎よりも2つ年上なだけだが、士郎は係長、村尾は取締役人事本部長、その差は歴然としている。
士郎は素直に認めた。
「そういうことです。見事な要約です」
役員会はその半月後に行われた。
総勢20名に上るトランザクション株式会社の役員たちが、上の階の役員会議室でどのような議論をしたのか、士郎には知るよしもなかったが、村尾はその結果だけを士郎に伝えた。
「社長ははっきり言ったよ。『わしはこんなこと、田宮に指示した覚えはない』ってね。これで2回目だから、田宮さんももうお終いだな」
村尾が言う2回目というのは、田宮が空出張まがいのやり方で自分の懐に出張旅費をかすめ取っていたことに次いで、という意味だが、士郎には社長が本心でそう言ったとはにわかに信じられなかった。田宮も結局トカゲの尻尾のように切り落とされる運命にあるのかもしれなかった。かと言って、もちろん田宮に対する同情はない。むしろ胸の空く思いだった。
しかし、村尾が続けて言ったことには、士郎は満足できなかった。
「とは言っても、1億2千万円もの金を今すぐ支出することはできないから、今年度の業績を見ながら、来年度から改めてゆくことになったよ。その大前提としては、人海戦術で安易に残業させずに、全社で効率のよい業務推進体制を構築すること。それがマネージャーの役割だとね。いずれにしても、ゴーサインが出たらいつでも改正できるように、準備だけは進めておいてくれないか」
士郎は苦笑いした。この辺りがあの社長の限界だろう。責任はマネージャーにあると言うわけだ。しかしそのマネージャーたちがくせ者である。マネージャーたちを牛耳っているのはあの川島であり、時間精算という独自の方法で残業手当のカットを作り上げた田宮のバックも、結局はその川島なのだ。田宮がどんなにこわもてを気取ったところで、言ってみれば女系一族の婿養子みたいな存在に過ぎない。その頂点の川島は、かつての社長の愛人であると噂され、今なお絶大な権力を握っている。これでは狼に羊の番をさせるようなものではないのか。士郎は大いに矛盾を感じた。
しかし、士郎はこの時重要な情勢の変化を見落としていた。この時既に風向きは変わっていたのだ。川島を凌ぐ新勢力が社内で着実に力を付け、川島を追い落とそうとしていた。社長はその時点では両勢力の均衡の上に自分の権力を維持していたが、やがては社長自身も新勢力の側に自分の権力を委譲してゆくつもりではあったのだ。その新勢力とは「ジュニア」と呼ばれる副社長、すなわち社長の息子であった。
だから、社長が時間精算の不正の責任をマネージャーに押しつけようとした時、その矛先は川島に向いていると、士郎は気づくべきであったのだ。そうすればその後のいくつかの空回りを、士郎は避けることができたかもしれなかった。
その後、ある事件が浮かび上がり、士郎は新たな試練に耐えなければならなかった。年度末決算に向けた準備作業の中で、約15万円もの大金が人事課内で紛失していることが判明したのである。
その事実は最初奇妙な形で士郎の耳に入った。経理部の鷹山係長から、人事課の未払費用に、15万1,250円のマイナスの残高があると指摘されたのである。
本来、未払費用という勘定科目は、費用が支出されるまでの中間項であり、マイナスの残高が生じるはずがない。そこにマイナスの残高が発生したということは、給与計算額に対して相対的に支払額が過剰であるということを意味する。
士郎はいくつかの仮説を立てた。
@ある社員の給与計算伝票が漏れている。したがってそれを起票すれば解決する。
Aある社員に対して重複して給与が払われた。返却してもらわなければならない。
Bある社員の給与計算結果を取り消したが、現金を経理に入金していない。その現金はどこへ行ったのか、探さなければならない。
士郎は3つの仮説に沿って検証作業を進めた。できれば@であってほしいと願った。Aでもまだましだった。Bの場合は、最も厄介な問題を抱えることになる。検証作業は、卯木と2人がかりで、難航を極めた。
嫌な予感は最初からあった。かつて田宮が士郎たちを困らせるために、すぐに伝票に印鑑を押さないのは日常茶飯事であった。一方で社員に給与を支払うためには、遅くとも給与支給日の午後3時までに銀行へ駆け込まねばならない。その時よほど間に合わないとなったら、手持ちの現金を使い回しするか、自分で立て替えてでも社員に給与は支払ったのである。もちろん数日後には経理から金は出るから、立て替えたと言っても一時的なものに過ぎない。しかし時には伝票を通すのを諦めて泣き寝入りすることもあった。そういった金額は士郎が給与計算の責任者を務めた4年間の間に数十万円に上った。期日までに必ず払う。それが士郎の担当者としての意地でもあった。田宮がどんなに妨害しても、社員に対する給与の遅配だけは避けたい。それは士郎にとっては、自分を持ち堪えさせる最後の一線だった。
それと同時に「これはまずいな」とも士郎は思った。自分の金で社員に給与を払うこともさることながら、会社の金と自分の金が混ざり合うことを士郎は恐れたのである。こんなことを続けていては、やがてわけが分からなくなる。トータルでは自分の財布から金を出しているとはいっても、個々に見れば会社の金を自分の財布に入れている事実もある。万一疑われた時に説明が付けばいいが、そのうちわけが分からなくなって説明が付かなくなる。
結局、その破局を招く前に、田宮を叩き出すことに成功した。大きな混乱には陥らずにすんだのだ。しかし、たった一件、その15万1,250円を除いて。
突然、卯木が伝票を指で弾いて、士郎を驚かせた。
「こいつだっ」
15万1,250円の原因が見つかった。卯木の説明はこうである。ある社員の給与計算に何らかの疑義があったため、その社員の給与は自動振り込みにはせずに、現金払いにしておいた。その後計算結果に訂正が生じ、いったん給与計算結果を取り消し、修正後の金額で伝票を切り直した。その金額を経理から出し、給与支給日の当日、銀行のATM振込によって支払われた。しかし修正前の金額で準備しておいた現金が、経理に返却されていない。
士郎の顔から血の気が引いた。これは仮説のBである。最悪の結果だった。その現金はどこへ行ったのか。今度はそれを解明しなければならない。
士郎はまず自分を疑った。もしその15万円が気づかぬうちに自分の財布に入り込んだのだとしたら? いや、それはあり得ない。15万円といえば大金である。少なくとも今、財布の中にその残滓は残っていない。そこから遡って考えて、既に使い込んでしまったということはありえるか。あの頃、自分の生活はそんなに膨らんだか。どの月もぎりぎりの生活をしている。だからどう考えても、それは全く身に覚えのないことだった。それでは、ほぼ同じ金額を泣き寝入りし、その一方であの15万円を自分の財布に入れたのだとしたら? それなら財布は膨らまない。しかし、するとそれは誰の分だ? その場合は取り消し伝票だけが残り、再計算伝票は見つからないはずだ。しかしそのような事実は残っていない。
そこで士郎は自分の財布を疑うのを止め、紛失を疑ってみた。毎月毎月、給与計算といえば、田宮の嫌がらせに耐えながら徹夜を重ね、体力のぎりぎりのところでやってきた。現金の扱いはさぞかしぞんざいになっていただろう。もしかすると現金がそのまま書類の間に挟まって、そのままどこかに眠っているということもあり得る。そう思って自分の机の引き出しや地下の倉庫を家捜ししてみるのだが見つからない。いったい15万円もの大金がどこへ消えたというのか。
数週間にわたる解明作業の中で、士郎は徐々に口数が減り、出口のない堂々巡りに陥っていった。
部下を疑うのだけは避けた。田宮に虐げられ、長年に渡ってそれに耐え、その結果が横領の容疑では、あまりにむごい。最終的には全責任を自分がかぶらなければならない。士郎は覚悟を決めた。
卯木はむしろ鷹揚に構えて、士郎をいらいらさせた。
「考えてもみろよ。15万円もの大金がなくなるわけないぜ。きっとどこかから出てくるさ」
士郎はくらくらしながら力無く答えた。
「そうは言っても、もう見当が付かないよ。自分の財布も疑った。引き出しの中も探した。地下倉庫にも何度も行った。見つかりっこないのに、何度も何度も探した。こうなったら、もうゴミと一緒に燃やされてしまったと思うしかない」
それでも士郎は息を詰めて、独り作業を続けた。そして1週間ほど経って、もはやどうしようもなくなった時、部長の笹本に報告した。
笹本はにこにこしながら士郎の報告を聞いた。そして言った。
「村尾取締役には、ぼくから報告しておくよ」
その翌日には村尾が厳しい口調で、詳しい報告を求めてきた。士郎は憔悴し切って話した。村尾は士郎を責めた。
「見つかりませんではすまないんだよ。これがどういうことか分かっているのか? あと1週間やる。もう一度徹底的に探せ。ただし最初に言っておくけどな、自分の財布から出して、はい見つかりましたなんて真似をするんじゃないぞ。いいな」
士郎は絶望し切って、その言葉を聞いた。それですむなら、自分の財布から出したいぐらいだった。
もう見つからないと分かっていながら、士郎は毎日地下倉庫へ降りた。もはや本気で探している状態ではなかった。疑われてもしようがない。どうせ、おれを疑っているんだろう。士郎は自分の居場所がないと感じて、時間稼ぎをするかのように地下倉庫に逃げ込んだ。そしてそこで腕組みをして、何時間も放心して過ごすのだった。
もしかすると本当に自分の財布に入れたのかもしれない。自分自身に対するその疑惑は徐々に広がった。頭の中には自分が犯したかもしれない罪に対する言い訳さえ思い浮かんだ。来る日も、来る日も、会社に泊まり込まされた。慢性的な寝不足だった。まともな神経など、とうに失っていた。だからこんなことになったのだ。しかし、自分に対する不払いの時間外手当と比べると、こんな金額、微々たるものじゃないか。そんなことを考えている自分にはっと気づいて、いたたまれなくなった。こんなことなら、笹本なんかに報告する前に、さっさと自分の財布から出せばよかったのだ。
だから、それから数週間経って、この金の一部がひょっこりと見つかった時、士郎は「真犯人」に対する怒りを通り越して、ただひたすら自分の「無実」に胸をなで下ろしたのだった。
4月、新年度に入って、全社一斉に昇格人事が発表される時期だった。
士郎は人事担当者として、各部署からの候補者推薦受付に始まり、昇格試験問題の作成、試験監督、採点と合格者の選別、そして辞令の作成に至るまで、その全ての作業に携わった。その仕事はかつて田宮が担当していたものだが、結局新部長への引き継ぎは行われず、村尾の指揮下で直接士郎が担当したのである。田宮の後任という新部長は、確かに一旦は入社した。しかし大阪人事課の田宮から、まるで鉄のカーテンのような情報封鎖の目に遭わされ、先行きの不安に耐え切れず、ひと月も保たずに辞めた。だから田宮の業務は士郎が引き継ぐことになったのである。
昇格の作業を終えて、士郎はつくづく思った。上司が替われば、仕事なんてこうもたやすく進めることができるのか。それは確かに全社的な規模の大がかりな仕事であり、それを前任者からの引き継ぎ無しに初めて取り組むと言っても、たかが事務作業に過ぎなかった。
実務を担ったのだから、士郎は発表前に昇格人事の内容はあらかじめ全て知っていた。しかしもちろん人事担当者である限りは、そのことについて貝のように黙っていた。盟友の卯木に対してさえ、堅く口を閉ざし、決して明かそうとはしなかった。
だから卯木は勘違いしたのかもしれなかった。しつこく士郎から聞き出そうとした。
「おい、おい。おれにまで隠すことはないじゃないか。おまえ、今度の昇格で課長になるんだろう? それに相応しい十分な働きをしてきたじゃないか。みんな、それを認めてるぜ。会社の上層部でもそんなことは分かっているはずだ。これでもしおまえが課長に昇格しなかったら、天地がひっくり返るぜ」
卯木は何度もそのことを話題にした。固くそう信じて疑わなかったのだろう。あまり卯木がしつこいので、士郎は業を煮やして言った。
「おれが昇格試験を受けたか? あれを受けないと昇格はないんだよ」
卯木はぽかんとした。
「受けてないのか?」
それはまるで士郎が自分の意志で受験しなかったかのような言い方だった。
「おれが今口にできるのはここまでだよ。内容については一切言わない。どのみち来週になれば発表されるから、それを見てくれよ」
「信じらんねえ」
卯木は心底憤慨して言った。
「おまえが昇格しなくて、誰が昇格するって言うんだ?」
士郎は答えなかった。しばらく気まずい沈黙が流れた。
「いや、すまなかった。おれはてっきり…」
士郎は黙っていた。
「じゃあ、来年だ。来年こそは、おれはおまえを課長にして見せる」
卯木は興奮気味に言った。
それでも士郎は黙っていた。
「今夜はおれにおごらせてくれ。『ラ・マルセイエーズ』だ。ワインを飲んで、加瀬士郎を励ます会をやろう」
卯木のうわずったようなその誘いを、士郎は穏やかに辞退した。
「止めておこう。おれはそんなに気落ちしちゃいないよ。第一、課長になりたいなんて思ってもいない。この会社で出世しようなんて、悪魔に魂を売るようなものだと、むしろおれは思っているよ」
士郎のこの言葉は、翌週になってようやく卯木の理解するところとなった。貼り出された昇格者の掲示を見て、卯木は激しく憤った。
「嘘だ。何で早川なんかが課長に昇格なんだ? 田宮の女なんだぜ。村尾さんのやつ、いったいどうしちまったんだよ」
士郎は慌てて卯木の脇腹を肘で突き、黙らせた。そして小声で言った。
「今夜『ラ・マルセイエーズ』で話そう。今夜はもう黙る必要はない。全て話すよ」
ところが、卯木の憤りがまだ冷めやらぬうちに、追い打ちをかけるような発表があった。
その日の午後一番で、村尾が人事部の全員に会議室に集まるように指示した。卯木はふてくされた。
「はい、はい。そんなことしなくても、もう十分分かってるさ。早川係長は課長に昇格します。へえ、そうですか」
士郎と卯木が最後に会議室に入ると、村尾は全員の着席を見渡してから、厳かな口調で口を開いた。
卯木はうつむいて、どうせ早川の課長昇格のことを言うのだろうと思っていた。ところが村尾はこう言ったのだ。
「大阪人事課の田宮部長が、健康保険組合へ事務長として転出されることになりました。また、梅本課長が今週いっぱいで退職することになりました。後任として、大阪人事課の早川係長を新課長に迎えることになりました。早川係長がこの1日付で課長に昇格したのは皆さんもご存じの通りですが、同時に東京本社に転勤していただくことになりました。では、梅本課長、退職のご挨拶をひと言お願いします」
挨拶に立ち上がった梅本は、士郎の目にはすっかり観念したものと映った。
梅本がありきたりの挨拶を終えて着席した時、卯木は士郎の方に身を寄せて小声で言った。
「このことも知っていたのか?」
士郎は黙って頷いた。
「けっ」
卯木は怒りのために顔が真っ白になっていた。
その日の定時後、士郎と卯木は早々に会社から抜け出した。レストラン「ラ・マルセイエーズ」の席に座ると、まだオーダーもすませないうちから、卯木は士郎を責め立てた。
「ちっ。ようやく田宮が人事部から放り出されて、課長になったのが早川じゃなくておまえだったら最高だったのに。いったいどうなっているんだ? なぜ黙ってる? なぜ怒らないんだ? それともすっかり骨抜きになっちまったのか?」
士郎は黙っていた。そこへウェイターがやってきたので、士郎はグラスの赤ワインと白身魚のフライを頼んだ。
卯木は士郎が自分の質問に答えないので、怒りを再度沸騰させた。
「おまえ、この会社で出世するのは悪魔に魂を売るようなものだなんて、随分と格好のいいことを言っていたが、実際はどうなんだよ。わずかな給料のためにプライドまで捨てて、生涯この会社にぶら下がって、大人しく生きていこうなんて思っているんじゃないだろうな? おまえがそういうつもりなら、おれは今夜限りでおまえと縁を切るぜ。はっきりさせろ」
士郎は目をつむって卯木の言葉を受け止めた。そしてひと呼吸おいて答えた。
「怒りで気が変になりそうだよ。おまえに思い出させてもらわなくてもね」
士郎はさらにひと呼吸おいて続けた。
「しかし、どうしようもないんだよ。これが目の前の現実なんだ。ならば受け容れるしかあるまい。あるいは子どものように駄々でもこねようか? そうすればおまえは満足するのか? それとも何か? おれはおまえに釈明しながらでなければ、怒ることもできないのか? 私は怒っています、と」
卯木は士郎の意外な迫力に押されて、たじろいだ。
そこへウェイターが赤ワインと白身魚のフライを運んできた。
士郎は卯木とグラスを合わそうともせず、いきなり一気に飲み干した。そしてウェイターを呼んで言った。
「こいつをボトルで」
そして卯木に向き直った。
「怒りなら自分で受け止めたよ。しかしここは我慢するしかないのさ。他ならぬこのおれが、田宮の抜けた穴を埋めるんだよ。それが闘いの本質だ。村尾や笹本のやり方は横っちょの問題に過ぎない。やつらのやったことが田宮と闘うことではなくて、結局は取り引きに過ぎなかったとしても、そういう人間だっただけのこと。もはや味方とは思わない。裏切り者だよ。いや、最初から味方なんかじゃなかったんだよ、ああやって高給であっちの会社からこっちの会社へと自ら渡り歩いてゆくようなやつらは。やつらは無節操なプラグマティストで、あれぐらいの取り引きは朝飯前なんだよ」
卯木は自分のグラスを見つめながら士郎の言葉を聞いていた。そして士郎が黙ると、おもむろに一口ワインを飲み下して言った。
「何だよ、その取り引きって?」
士郎は卯木を睨み付けるようにして答えた。
「実は、まだおまえの知らない事実がある。梅本課長は退職勧奨なんだよ。村尾と笹本から辞表の提出を迫られて、事実上、辞めさせられたんだ」
「別にそれを聞いても驚かないぜ。あんなやつ、辞めさせられて当然さ。本当に何にもしなかったんだからな。それにあいつの実家は雑貨屋らしいから、食うには困らないんだろうぜ」
「なあに、次の仕事ならもう決まっているらしいよ。やつらの指示でずっと転職活動をしていたからね。うまく潜り込めた先は外資系の商社らしい。しかし、あんなのでやっていけるのかと思うけど」
「で、取り引きというのは? もう仕事しないで転職活動してもいいから、自分から辞表を出してくれっていうのが…」
士郎は卯木がまだ言い終わらないうちから首を横に振った。
「そうじゃない。取り引きは村尾と笹本、田宮と早川の間で行われた」
「どんな?」
「責任は全て課長の梅本に押しつけて詰め腹を切らす。部長の田宮にはこれ以上の責任追及はない。着服した空出張の出張旅費とか、部下の虐待とか、一切不問だよ。そして愛人の早川は課長に昇格。この条件で、田宮は暴れずに大人しく人事異動に従えと」
それを聞いて卯木は眉を顰めた。
「まさか。村尾や笹本って、誠実な正直者とは決して思わないが、そこまでやるか?」
「取り引きなんてものには、2通りがあるんだよ」
士郎は一瞬悲しげな表情を見せた。そして続けた。
「露骨に言葉に出して互いの利害を確認し合うのも取り引きなら、無言で腹を探り合って追認し合うのも立派な取り引きなんだよ。この取り引きがどちらの形態か分からないがね。いずれにしても外から見れば不愉快な裏取り引きだよ」
「ああ、そうだな。確かにおれもなぜもっと田宮の責任を追及しないんだと思うぜ。それに、もしかしたらあの消えた15万円にしたって、その取り引きの一部か何かなのかもな。あいつら、全てを担当のおまえの責任にして、自分たちは知らん顔だ。そんなことが通用するか? 梅本や田宮の責任はどうなるんだ? どう考えてもおかしいと思うぜ」
その時、士郎はにやりと笑った。
「あの金なら、出てきたよ」
卯木は真顔になった。
「どこから?」
「梅本が持ってた。退職を前に机の中を整理していたら、ひょっこり出てきたんだとさ」
「おまえ…」
言いかけて、卯木は絶句した。
士郎は言った。
「のし袋に入っていたと言うから、上半期の表彰か何かに使い回しをしたんじゃないかな。あの頃、田宮は本当に出金伝票にハンコを押さなかったからね。まるで嫌がらせのように何かしらけちが付いた。困ったおれたちは、手許にある金をいろいろ使い回しをしていただろう? おかげで後の伝票処理に四苦八苦だよ。もうわけが分からない。で、結局表彰に使わずに残った金が、梅本の引き出しに8万あった。残りの7万余りも何らかの形で使い回ししたんだろうね。そしてそれっきり。もう迷宮入りだな」
卯木が士郎の顔を覗き込むようにして言った。
「どうするんだ? この落とし前」
「ふ、どうもしないよ」
「おい、おい。そのために、おまえ、あんなに苦しんだんだぜ。それでも泣き寝入りする気なのか?」
「まだ事実の全部が明らかになったわけじゃないさ。あの15万円の一部が出てきたに過ぎない。それにこれはもうおれの責任じゃない。梅本がどうするのかを見ていればいいんだよ。あの時おれはのし袋を突き返して言ってやった。『あなたの問題でしょう。なぜ私に報告するんですか?』ってね。しばらく見ていようよ。梅本があの金をどうするか。事情を話して会社に返すのか、それとも知らん顔して自分の懐に仕舞い込むのかさ」
「全く、ここまで腐ったやつだとは思わなかったよ。この1ヶ月、おまえが半狂乱で探してたってのに、その上司が自分の引き出しに仕舞い込んで知らん顔してるなんて」
「全くだね。しかし、最後には出したじゃないか」
卯木は「かはっ」とひとつ咳をして、ワイングラスを置き、目を剥いて言った。
「信じられないお人好しだな。どれほどの目に遭わされた? それでも庇うのか? 悔しくないのか?」
士郎は微笑みさえ浮かべて言った。
「悔しいし、憎い。八つ裂きにしてやりたい気持ちはある。しかしさ、おれはそれ以上に嬉しいよ」
「嬉しい? なぜ?」
「あの金、おれの懐に入れちまったんじゃないかって、自分を疑った。その疑いが晴れた」
「当たり前だろう。自分がやっていないことぐらい、前から分かっていたじゃないか」
「いや、そうじゃない。あの頃おれたちは、来る日も来る日も深夜まで会社に残って、出口の見えない、気の遠くなるほどの残業をしていた。そこから解放されるのは夜中の2時か3時。田宮は自分の席でいびきをかき始める。おれたちは会議室の冷たいテーブルの上で死体のように眠った。家に帰れるのは土曜の夜か、下手をすれば日曜の朝だった。こんな生活を続けていて、おれたちは正気を失っていたのかもしれない。もしかしたらおれは自分でも気づかないうちに、あの15万円を自分の懐に入れてしまったのかもしれないと、ずっと自分を疑っていた。その疑いが晴れた。おれは嬉しい。あの地獄のような日々の中で、正気を失わなかった。おれたちは健全だったんだ。そう胸を張れる」
士郎の言葉に、卯木も深く頷いた。
「そうさ。あったりめえじゃねえか。おれたちは健全だった。おれたちは闘い抜いたし、最後には勝った」
「いや、まだだ」
士郎がぴしゃりと言い放ち、卯木はむっとした。
「なぜだ?」
「村尾は当てにならない。ああやって信念を持たず、取り引きで世の中を渡っていくやつはね。おれたちの手で、田宮が抜けた穴を埋めるしかない。それができないうちは、まだ勝ったとは言えないんだよ」
「なぜそこにこだわる? いったい何の穴のことを言ってるんだ?」
「人事考課、給与改定、賞与、そして時間精算だ。この大仕事をおれたちでやる。そして田宮の残したブラックボックスを解明する。そうすればこの大仕事も単なる事務作業になる。もはや誰にでもできる。そこまで行けば、もう田宮が人事に舞い戻ってくる余地はない。おれたちの勝ちだ」
卯木は納得しなかった。
「そこまで行かなければ勝ったと言えないのか? おれたちはこの手で田宮を叩き出したんだぜ。そのためにどれだけ苦しんだ? それでも勝ったと言えないってのか? まだ足りないってのか?」
士郎は頷いた。
「一昨日だったか、その前だったか、村尾と笹本に呼ばれたよ。その時梅本の退職のことも、早川の異動のことも聞かされた。その時村尾がこう言ったんだ。給与改定の大仕事を待たずに田宮を人事部から出すことにした。ついてはおまえが頼りだからしっかりやってくれ、とね」
卯木は憤った。
「それこそ取り引きじゃないか。ほんの少し田宮を早く追い出してやる代わりに、この理不尽な昇格人事に納得しろってわけだ。しかも、当てにしていた新部長に逃げられ、口先だけで中身は空っぽの笹本には実務はできそうもないから、おまえに田宮がやっていた仕事を押しつけようってんだぜ。そんな都合のいいやつらの取り引きに、おまえは応じるのか?」
「村尾は取り引きのつもりで言ったのかもしれない。しかしおれはそうは思っていないよ。これは生き様の問題なんだ。村尾は『したたかにやるんだ』とか言いながら、結局は他人のふんどしで相撲を取っているに過ぎない。しかしおれたちは違う。生身のこの身体で闘うんだ。最後の最後まで。それがおれたちの生き様なんだよ」
沈黙が流れた。卯木はもう何も言わなかった。
数日が過ぎ、早川眞紀が大阪支社から東京本社に赴任してきた。
その日の昼休みに卯木はあらん限りの言葉で毒づいた。
「どの面下げてのこのこ東京へやってくるのかと思ったら、しれっとした顔しやがって。女は恐ろしいぜ、全く」
「ああ、こういう時は男よりも女の方がしたたかだね。しかし聞いてくれ。これからの時期、早川の協力は必要なんだよ。田宮はろくな引き継ぎもせず、まるで雲隠れするように健康保険組合の事務長に収まったよな。その時、資料の一式はおろか、例のパソコンさえ持ち逃げした。あれははっきり、おれたちに対する嫌がらせだよ。やれるものならやってみろっていうつもりなんだろう。そしておれたちが転ぶのを見て、やっぱり自分でないと人事は務まらないとか言いながら、舞い戻ってくるつもりなんだよ。それだけは許しちゃいけない。何があっても絶対にね。そのためには早川は必要なんだよ。彼女は田宮の腹心の部下だったんだ。今やそのノウハウは彼女が握っている」
そう言って士郎は卯木をなだめた。しかし卯木は決して納得しなかった。
「そこがおまえの甘さなんだよ。いいか、田宮はこの人事部に火を放って逃げ去った。そこへ早川がやってきて火を消してくれると、おまえは期待する。しかし、こういうのを何て言う? マッチポンプだよ。最悪の欺瞞だよ。やつらは2人でセットなんだ。田宮は火を付けたから犯罪者で、早川はそれを消してくれるかもしれないから救世主か? そんなふうに思っているとしたら、おまえはもうやつらに絡め取られようとしているぜ。田宮が人事部から叩き出される直前に、まるでねじ込むように早川を課長に昇格させたのを忘れたのか? おまえが言ったんだぜ、あれは田宮と村尾との間の取り引きだって。うかうかしてると、おまえ、両側から食われるぞ。片方からは田宮と早川がおまえを食いかじり、もう片方からは村尾と笹本が食いかじる。おれはおまえのそんな姿を見たくはないぜ」
士郎は卯木の言葉に心の底から感謝した。しかし口では卯木に反論せざるを得なかった。
「他に道がないのならば、文句を言わずに歩くしかない」
すると、そんな士郎の胸の内を見透かしたように、卯木は言った。
「そこがおまえの欠点だと思うんだ。こんな言い方をしてすまない。友人であるなら、こんな突き放した言い方はしたくない。でも、分かってくれよ。おれはやがてはこの会社からいなくなる。もうわずかもない。だから敢えて言い残すんだ。いいか、おまえの欠点は現状を追認する方向へぶれることなんだよ。苦境にあって持ち堪える強靱さは誰もおまえに敵わない。しかしそれをあらかじめ避けて迂回する方法だってあるんだ。何もばか正直に物事に自分から突っ込んでいくことはないだろう。たまには駄々をこねてみろよ。あるいは高みの見物を決め込んでみろよ。何もいつも自ら火中の栗を拾うことはないんじゃないのか」
卯木の指摘はずばりと的を射ていて、士郎を慌てさせた。しかしそれでも士郎は反論した。
「分かってるよ。全部承知の上だよ。われながらばかだと思うさ。しかしね、これは意地なんだよ。理屈じゃない。おれは田宮と正反対のことをやる。あいつがこの人事部に揺さぶりをかけて自分の利益が転がり込んでくるのを待っているんなら、おれはここに踏みとどまって持ち堪えてやる。それをやってのけて、おれはこの闘いを終わりにするよ。おまえがいなくなってひとりになったら、もう闘い続ける意味もないしね」
すると卯木はにやりと笑った。
「ま、さっきはああ言ったが、おまえが妙な立ち回りをやらかして、あれやこれやの取り引きに算盤はじく姿なんか、端から想像できないけどな。しかしおまえも損な性格だぜ。じゃあ、おれも、もうしばらくおまえに付き合ってやるとするか」
そう言うと、卯木はぽんと士郎の肩を叩いた。
その数日後、早川の歓迎会が近くの小洒落た居酒屋で催された。人事本部の総勢20数名が集まり、異例の盛況となった。
当初は梅本の送別会も兼ねる予定ではあったが、梅本はそれを固辞し、最後にほんの少しだけ意地を見せた。
卯木は「歓迎会なんか糞食らえだ、ボイコットしてやる」と毒づいた。
「いいじゃないか、歓迎会くらい出てやっても。心から歓迎してやろうなんて思っているわけじゃない。いわばこちらの存在を示してやるんだよ。それにあの女がどの面下げて挨拶するのかも見物だろう。穴の開くほど見てやろうじゃないか」
そういうふうに士郎が説得して、やっと卯木は参加することに同意した。
しかし、役者では早川の方が一枚上手だった。自分が手を染めてきた不正のことなどおくびにも出さず、肉付きのいい白い顔に笑顔を浮かべ、そつのない挨拶をして皆の喝采を浴びた。
士郎も卯木もふさぎ込んでいた。とりわけ士郎は無理やり卯木を引っ張り出してきた手前、やっぱり来るんじゃなかったとは言えず、苦虫を噛みつぶしたような気分だった。
そこへ部長の笹本がビール瓶を携えてやってきた。
「おーい。2人とも暗い顔をしているねえ。せっかく早川課長が大阪から赴任してきてくれたのに、そんな暗い顔をしていたんじゃ申し訳ないじゃないか。さ、飲めよ」
いやなやつが来た、と士郎は思った。
卯木は相手にせず、そっぽを向いた。
笹本は自分が快く思われていないことに気づかないのか、上機嫌で士郎のグラスにビールを注いだ。
「しかし加瀬係長もほんとに間が悪いよね。あの15万円のことさえなければ、君が課長に昇格していたかもしれないのにね。まあ、今回は諦めるんだね」
その時士郎は卯木の眼球がぎろりと動いたのを見た。士郎は笹本が一刻も早くその場を立ち去ってくれるよう念じた。しかし笹本はしつこく士郎に絡んだ。
「君たちも田宮さんには随分酷い目に遭わされたんだよね。しかし、何、ほんの数年間足踏みしただけだよ。これからはぼくが君たちを一流の人事マンに育ててあげるからね。だからしばらくはリハビリだと思って、しっかりぼくについておいでよ」
士郎はその言葉を聞いて、とっさにテーブルの下で卯木の手首を掴んだ。卯木の身体は小刻みに震えていた。どれほどの怒りが卯木の身体を突き抜けたのか、士郎には痛いほどよく分かった。だから卯木の手首を掴む手にいっそうの力を込めた。
士郎は卯木の耳元で囁いた。
「頼む。ここは堪えてくれ。今ここで暴れたら、今までの苦労が水の泡になりかねない。こんなやつでも、田宮が戻ってくる穴を塞ぐ蓋ぐらいの役には立つんだから」
士郎は必死になって言った。
笹本は2人が何か揉み合っているのを見てただならぬ気配を感じたのか、まだへらへらと笑いながら、ようやくその場を去った。
陽気に騒ぎながら2次会へと向かう同僚の集団から、士郎は卯木を引き離した。そして黙ってしばらく2人で歩いた。
「よく耐えた。すまなかった」
高架下の狭い公園で、士郎は卯木に詫びた。
「いや」
卯木は短く答えた。それ以上は何も言わなかった。その怒りは不気味なほどだった。士郎は思った。卯木の気がすむのなら、朝までだってこうして付き合ってやりたい。
酔いはとっくに醒めていた。4月にしては寒い夜だったはずだが、士郎には冷気さえも感じられなかった。
何分が経っただろうか。卯木はしゃべり始めた。意外に落ち着いた澄んだ声だった。
「いつか、おまえも言ったよな。おれたちは健全だったからこそ、最後まで闘い抜くことができた。違うか?」
「ああ、その通りだ」
「リハビリなんか、必要か?」
「いいや、全く」
「おれは思うんだが、これは、言葉の綾なんかじゃないぜ。おれたちの人としての在り方に関わる根本問題だ。おまえはどう思う?」
「ああ、まさにその通りだよ。完全に同意するよ。今のおまえの言葉は、そっくりそのままおれ自身の言葉でもあるよ」
「じゃあ、おまえはなぜ怒らない?」
「そう見えるか?」
「違うのか?」
「ふ。はらわたが煮えくりかえっているよ。しかし天秤にかけたのさ。田宮と笹本とどっちを憎むべきか。おれの天秤は田宮の方がより憎いと出た。お調子者の笹本なんか、取るに足りない存在だよ」
卯木はすうっと大きく息を吸った。
「そうか。分かった。帰ろう」
卯木はそう言うと、ぽんと士郎の背中を叩き、駅に向かって歩き始めた。身を翻す一瞬、士郎には卯木が笑っているように見えた。怒りを通り越した者がもし笑うことがあるとすれば、きっとこんな笑みになるはずだった。
それから数日後、「ラ・マルセイエーズ」のテーブルで向かい合った士郎と卯木の間に、もはや互いの意志の力ではどうしようもないやりきれない空気が漂っていた。それぞれが男としての意地を心に秘め、抜き差しならなくなっていた。
「やっぱり辞めるのか?」
「ああ。既に退職届を出したよ。今月末だ。あといく日もない」
卯木は数日前の歓迎会の夜とは違って、すっかり落ち着きを取り戻していた。
「寂しくなるな」
「すまない。おまえとの約束、結局果たせなかったよ」
「あ?」
「おまえを課長にすると約束しただろう?」
「ああ、あの時もこの店のこのテーブルだった」
「そうだったな。2人で入社してからもう4年になるのか。長いようで短かった。短いようで長かった」
「いったいどっちなんだ?」
士郎は喉の奥で乾いた笑いを発した。
「ここまでやってこれたのが信じられないぐらいだぜ」
「ああ。おれたちはやったよ。田宮を人事部から叩き出した」
「しかし勝ったとは言え、何なんだろう、この惨めな気持ちは? おれは今、おれたちのあの闘いはいったい何だったんだろうって、思ってるぜ」
「そうだね、悔しいね」
「本気でそう思っているのか?」
「もちろんだよ」
「だったら、なぜ残るんだ? おまえほどの男なら、転職先はいくらでもあるだろう。どこへ行っても通用するぜ」
「そうでもないさ。おれは大切な男の30代をトランザで空費したと思ってるよ。確かに挫けなかったし、やり抜きはしたさ。でも、そんなもの、他の会社では評価されないよ。特殊な環境だった。他では通用しない」
「じゃあ、まるで無駄だったと思ってるのか、おれたちのやったこと?」
卯木の静かな問いに、士郎はしばらく沈黙した。士郎の脳裏をあの笹本の言葉がよぎったのだった。笹本は「君たちにはリハビリが必要だ」と言った。士郎も卯木も、それを必死になって否定した。その2人の気持ちはぴたりと重なった。おれたちは健全だったからこそ、最後まで闘い抜くことができた、と。だから士郎は言った。
「あの4年間を無駄だったなんて言うやつは、人の一生なんて死ぬまでの時間潰しに過ぎないと言うに等しい。紛れもなく、あの4年間はかけがえのないおれたちの人生そのものだった。このことは誰にも譲らない」
「ああ、そうだな。しかし、それならいっそう不思議なんだよ。おれたちは、いや、おまえはトランザで誰にも真似のできないようなことをやってのけた。そのおまえがあんな村尾や笹本みたいな薄っぺらな連中の下でいいようにこき使われるのは忍びないんだ。おまえも一生をトランザで送ろうと考えているのでなければ、見切りを付けるのは早いに越したことはないと思うんだがな」
士郎は卯木の言葉を心からの友情の証として嬉しく思った。しかしそれでもなお士郎は卯木の心を刺し貫くような厳しい言葉を吐いた。
「まだやり残していることがあるとおれは思ってる。田宮の開けた穴をおれが埋める。身をもってこのおれが埋める。やつが人事部に舞い戻ってくる芽を、おれが摘み取る。ろくな引き継ぎをしないのも、データの入ったパソコンを持ち逃げしたのも、全て計算ずくなんだよ。自分がいなくなることで人事部に大穴が開く。大混乱だよ。その開いた大穴を埋めるために、再び自分にお声がかかると期待しているのさ。けちな野郎だよ。しかしそうは問屋が卸さない。その穴、このおれがきっちり埋めてやるよ。そのために村尾や笹本にいいようにこき使われたとしても構わない。そこまでやり通して初めてこの闘いは終わるんだよ。いいか、それをやらずに今ここから去るのは、おれは敵前逃亡だと思うんだ」
そこまで言うと士郎は口をへの字に曲げ、腕組みをして宙を睨んだ。
そう言われて、卯木は一瞬悲しそうな顔をした。卯木は珍しく抑制が効いていて、いつものように激昂して反論してはこなかった。
「ああ、その通りだよ。救援ヘリを呼んだ。おれは逃げる。おまえを戦場に置いてね。その不名誉は甘んじて受ける。おれには田宮と心中するつもりもないし、村尾や笹本に尻尾を振るつもりもない。何よりもおれは自分の事業をやるんだ。2年の親父との約束が倍の4年になっちまった。これ以上、時間を空費するわけには行かない。だから許して欲しいんだ。おれは逃げる。救援ヘリに乗る」
これには士郎が肩すかしを食らった。士郎は卯木の激しい反論を期待して、むしろ挑発したつもりだったのだ。だから士郎は慌てて詫びた。
「すまん。そんなつもりじゃなかったんだよ。おまえを責めたんじゃない。むしろおれの決意表明のつもりだったんだ。田宮が専らひとりで抱え込んでいた仕事と言えば、昇給昇格だの賞与だのっていう大がかりなものばかりだ。しかもこれらのことは普通の会社でやってるのとは違って、何かにつけて物事が真っ直ぐ進まないトランザ独自のやり方なんだ。それを思うと今から身の毛がよだつ。それにやり残した時間精算。あれだって今まで不当に削ってきた億単位の人件費をどうやって経営陣に認めさせるか、今から頭を抱えているんだ。そんなこんなの前にひとりでで立ち向かわなければならない。足がすくむ思いだよ。だからさっきのはおれが自分自身に対して言った決意表明なんだよ」
「ああ、分かってるよ。立派な決意だと思う。それでこそおれが見込んだ男だぜ。そしておれがそこから逃げ出すんだということも十分承知の上だ。それに関しては弁解の余地はない。しかしこれだけは信じてくれ。おれはおまえの成功を祈ってる。おまえのその決意が後悔に変わらないように、おれは祈ってる」
「ああ、ありがとう」
「ついでにもうひとこと言わせてくれ。これから別の道を歩むんだ。もはや同志としての言葉にはならないが、それでもこれだけは聞いてくれ」
「何だ、そんな水くさい言い方をしないでくれよ」
「早川眞紀のことだ。あの女にだけは気を付けろ。彼女が今後もおまえにとって有益な存在とは思えない。おまえの言うように、田宮がいなくなってこれで一件落着じゃないとすれば、なおさらだ。前からおまえはあの女に甘かった。いや無防備にいろんな情報を流し過ぎだ。それは全て田宮のもとに筒抜けだったと考えて差し支えない。田宮の復権があり得るとすれば、その引き金は間違いなくあの女になるだろう。だから気を付けろ。くれぐれも気を付けろ」
それが卯木が士郎に言い残した最後の言葉となった。
それから2年後に士郎がトランザクション株式会社を退社するまで、2人は会わなかった。電話もしなかった。互いに相手のことを思いやりながらも、遠くから成功を祈るばかりだった。