第9章

(1)

 過ぎ去って行ったその年の秋は、士郎にとって実りある季節となった。執筆ははかどり、原稿の完成が近づいていた。士郎はジグソーパズルの断片を探すように、隙間を埋める表現を探し求めた。もはや迷いは苦痛ではない。それは原稿の完成へ近づく曲がり角のひとつと思えた。そしてもういくつかの曲がり角を過ぎれば、いきなり視界が開けそうな予感があった。あとひと月か、ふた月。遅くても春には完成するだろう。その期待に軽く興奮しながら、士郎は休まず進もうとしていた。
 ここに至るまで、書けば書くほど士郎の心は軽くなってきた。胸の中の霧が晴れ、澄んだ気分が訪れていた。記憶に刻まれた傷が乾き、かさぶたとなって剥がれ落ちつつある。書いてよかったと実感できた。あの6年間の苦しみが、今、インクの微かな刺激臭となって、昇華しようとしている。
 ここから再出発なのだ、と士郎は思った。これを書き終えたら、人生をやり直そう。古い記憶は全て忘れて、新しい人生を生きるのだ。いや、忘れてはならないものもある。卯木との友情は忘れられない。終生の友として大切にしよう。それに冬子のことも。何と言っても、人生の最も濃密な時期を共に過ごした、かけがえのないパートナーだ。実際、冬子がいなければ、こうやってあの6年間にけじめを付けることなどできなかった。おそらく、卯木が退職後の2年間をそう過ごしたように、その後の人生を悶々として生き続けなければならなかっただろう。
 では、田宮や早川のことは許すと言うのか? そう自問してみた。すると明確な答えがそこにあった。許すのではない。断ち切るのだ。もはや彼らのことを思い出すことさえなくなるのである。そう考えただけでも爽快な気分になる。もう少しで肩の荷が下ろせる。それがゴールである。それは間近に迫ったこの作品の完成であり、トランザクション株式会社への入社から数えて7年間の行き着く先なのである。士郎は1歩、また1歩、そのゴールに向けて進んでいた。
 その頃、冬子と出会って、そろそろ1年が経とうとしていた。これは記念日となるだろうか。2人で祝えば、冬子は喜ぶのか。何月何日とは覚えていない。冬子は覚えているかもしれない。女はそういうことを大切にする。今夜冬子が帰ってきたら、率直に「何月何日だったか」と訊いた方がいいかもしれない。士郎がそんなことを考えたのは、ようやく原稿の完成が見通せるようになったからだった。心にゆとりが出てきたとも考えられる。憎しみに心が煮えたぎっている時に考えられることではなかった。
 その夜、冬子は珍しく遅かった。いつもなら9時には帰ってくるのに、10時を過ぎても帰ってこなかった。
 その日は空いっぱいに分厚い雨雲が垂れ込め、外の空気に湿った匂いが立ち込めていた。まだ昼過ぎのうちから、士郎は部屋の明かりを点けて原稿を進めていた。暗くなると、やがてゴミ捨て場のビニール袋が小さく破裂するような音を立て始め、すぐに土砂降りになった。それからずっと降り続いた。
 士郎は時々オメガの腕時計に目をやり、冬子を案じた。傘を持って行っただろうか。いや、この雨だ。傘を持っていたとしてもびしょ濡れになってしまう。それにしても遅い。駅かどこかで雨宿りでもしているのか。
 11時過ぎにアパートの駐車場に車が止まり、赤いブレーキランプが部屋の窓を染めた。ひと言、ふた言、微かに女の声がした。そして車は乱暴に走り去った。駐車場から出てゆく時、エンジン音とともに、濡れたアスファルトをタイヤが滑って掻きむしる音がした。
 冬子が帰ってきた。珍しく酔って赤い顔をしていた。
「濡れなかった?」
 と士郎が訊くと
「タクシーを降りてから濡れたわ。土砂降りよ」
 と言って冬子はすぐにシャワーを浴びた。
 冬子が浴室から出て来て、濡れた髪を拭きながら言った。
「今日ねえ、誰と飲んでいたと思う?」
 士郎は万年筆を走らせながら、気の入らない返事をした。
「さあ。おれの知ってる人?」
 冬子がすぐに答えないので、士郎は原稿を中断して目を上げた。冬子は髪を拭きながらにこやかに笑い、そばに来て士郎を見下ろしていた。
「あのね、早川眞紀さんよ」
 士郎は自分の耳を疑った。
「どんな人なのか見てやろうと思ったの。それで電話で呼び出しちゃった。加瀬士郎のフィアンセです。あなたと会ってお話ししたいって言ってやったわ」
 士郎は顔面から血の気が失せていくのが分かった。
 冬子は髪を拭き終え、隣の部屋に行って服を着た。そこから士郎に向かってしゃべっていた。
「でもね、会ってみると彼女、ちゃんとしたいい人じゃないの。あの人を恨むのは間違っていると思うわ。きっと何か誤解があるのよ。士郎さんのことも随分心配していたわよ。あの頃会社は大変な時期で、加瀬さんもさぞかしご苦労なさったんじゃないかって。よろしくお伝えして欲しいって。彼女、そう言っていたわよ」
 士郎が黙っているので、冬子は
「ねえ、聞いてるの?」
 と言った。そして続けて言った。
「私、あの人とはいい友達になれそうな気がするの。だって、今まで私が知っている人たちとは違う、ほんとに大人の女性っていう感じがするんですもの。私にはもう友達と呼べる人はいなくなっちゃったけど、友達を作るんなら、ああいう人がいいわ」
 冬子が汚れた衣類をスーツケースに仕舞い終えた時、目を上げると、そこに士郎が仁王立ちになって冬子を見下ろしていた。
「ねえ、どうしたの? そんな怖い顔をして。ねえ、怒ったの?」
 その時の士郎はもはや怒りを突き抜け、我を忘れた状態で立っていた。蒼白な顔をして、唇が痺れたように震えていた。士郎の目に映った情景は、まるでスローモーションの映像でも見るように生気を失い、とてもこれが現実とは思えなかった。
「そこまでだ」
 と、士郎は言った。
 全身の筋肉が血液を吸い込んで怒張していた。士郎は冬子の腕を掴み、乱暴に引き立たせた。
「ねえ、痛いわ。いったい何なの? ねえ、どうしたの?」
 それは本能のほとばしりだった。粉々にプライドを砕かれた男の、それが最後の砦だった。
「お願い、ちょっと待って。落ち着いてよ」
 冬子がそう懇願するのも構わず、士郎は冬子を引きずって部屋を突っ切り、玄関の扉から雨の降る屋外へ放り出した。冬子は裸足でよろよろと後ずさりし、水溜まりのできたアスファルトにしりもちを突いた。
「いやっ。お願い」
 冬子は絶叫した。しかしその声も土砂降りの雨の中にかき消された。
 士郎は部屋の中へ戻ると、冬子のスーツケースを運び出し、そのまま力任せに放り投げた。スローモーションのように鈍く転がったスーツケースは、冬子のそばで止まって倒れた。そこをめがけて、冬子のハイヒールを片方ずつ叩き付けた。
 士郎は腕のオメガを見た。まだ終電に間に合う時刻だった。いやそれよりもと、ポケットのセリカのキーを、しりもちを突いて呆然としている冬子の膝に放り投げた。そしてオメガを腕から外し、冬子の座り込んだ地面に叩きつけようと、腕を振り挙げた。
 その時、冬子は空を掴み、身を乗り出すようにして絶叫した。
「だめっ」
 冬子は頭から冷たい雨粒を浴び、髪をべったりと顔に貼り付かせていた。
 それでも士郎は容赦なくオメガを叩きつけた。濡れた地面に打ちつけられたオメガは、一度身をよじるようにして弾み、スーツケースに当たって止まった。
 士郎はひと言も発することなくドアを閉め、中から鍵をかけた。そしてしばらく部屋の中で立ったまま震えていた。これは怒りだろうか、絶望だろうか。それとも夢なのだろうか。
 これが士郎の見た悪夢だったら、どんなによかっただろうか。目が覚めて、隣に、罪のない冬子の寝顔を見ることができたら。しかし時間が経っても目覚めることはなかった。時間が経てば経つほど、もう元の鞘に収まることはないと思えた。
 心の中が全くの無音だった。外の雨音のひとつひとつを聞き分けられるような気がした。冷蔵庫のモーターが小さく唸った。部屋の蛍光灯が周波数の高い音を出していた。扉の外に冬子の気配は消えていた。
 そう言えば、駐車場から出てゆくセリカのエンジン音を聞かなかった。それもそのはずだ。冬子はペーパードライバーで、オートマティック車しか運転できないと言っていた。だからきっとタクシーを拾って駅へ行ったのだ。それでも朝になって士郎が外に出た時、駐車場にあの白いセリカを見ることはないと思えた。全てが幻だったように、その痕跡を消すものと思えた。
 そう、幻だったんだ。みんな幻覚だったんだ、と士郎は自分に言い聞かせた。雨の降る音だけがその延長のように、ずっと消えなかった。
 その時急に現実感が襲ってきた。彷徨った魂が勢いよく士郎の身体に戻ってきた感じがした。改めて部屋の中を見渡した。たったあれだけのことで、冬子の痕跡がなくなったことに士郎は気づいた。そして、呆気ないもんだな、と思った。その途端に士郎の心はバランスを失った。キーンとすさまじい耳鳴りがしていた。
 ふらついて椅子に座った。すると机の上にモンブランの万年筆がごろりと転がっていた。それはまるで冬子の存在を誇示するように、確かな質感を持って士郎の目に飛び込んできた。
 士郎の心の中でわずかばかりのプライドが必死の反撃を試みた。
 なぜ冬子はよりによって早川なんかと仲良く飲んできたんだ。しかもいいお友達になれそうだと? そんなことをしてこのおれが喜ぶとでも思ったのか? おれと早川の間を取り持とうとでも? あるいは本気であの早川をいい人だなんて思っているのか? 早川を恨むのは間違っていると?
 許せない。これではまるで士郎の心の中に土足でずかずかと入り込むようなものだ。冬子は士郎を汚し、卯木を汚したのである。せっかく心の傷も癒えたと思ったのに、またもや傷口から血が流れ、ずきずきと痛んできた。
 冬子はかつて自分と士郎は同じ体温を持っていると言った。士郎はその言葉を素直に喜んだ。しかし実際にはそうではなかったらしい。それどころか、物事の根本的なところで相容れなかったのだ。
 冬子にはがっかりだと思うと、新たな怒りが湧いてきた。やがてその怒りが核となり、周辺の事物を吸い込んで大きくなった。そして自ら熱を発し始め、士郎の心の中に充満した。それは激しく煮えたぎる底なしの感情だった。士郎はそれによって激しく消耗し、自分自身をこれでもかと痛めつけているかのようだった。
 しかし、やがてその揺れ戻しが襲ってきた。それは氷のように冷たく士郎の心を凍えさせた。
 士郎自身も鈍感だったのだ。卯木は何度も士郎に警告した。早川にだけは気を付けろ、と。あの忠告は、心底、卯木の友情によるものだった。卯木はそれを何度も根気強く士郎に説いた。しかしその忠告を、結局、士郎はないがしろにし続けたのだった。その結果、士郎は自分自身に泥を塗り、卯木に対してどんなに恥じても足りないほどの負い目を負ったのだった。それをあの卯木は一度も責めはしなかった。士郎が自ら学ぶのを、前に立って待ち続けたのだった。そうやって卯木に許されている自分に、冬子を責める資格があるのか。
 その次の瞬間、士郎の脳裏をよぎったものは生活のことだった。士郎はこの数ヶ月を冬子に頼って暮らしてきた。その生活費をどうやって穴埋めするかだ。ひと月やふた月を凌ぐくらいの貯えはある。しかしそれが半年、1年となると話は別だ。執筆を一時中断してでも、明日からは職探しをせねばなるまい。しかし今さらどんな仕事にありつけるというのだろう。それどころか、最低限の仕事が見つかるまで、場合によっては何ヶ月もかかるかもしれない。
 えーい、くそっ。やっぱり食わねば生きられないか。人間だって生き物だからな。明日から職探しだ。そう思うと、怒りさえ萎えた。むしろ制約の中でじたばたしている自分が情けなくなった。
 それからどれぐらいの時間が経っただろうか。雨は多少小降りになったようだが、それでも振り止まず、深夜の静寂の中に雨音を忍び込ませていた。
 士郎は部屋の外の濡れた気配を感じながら、五感が冴えわたるのを感じた。感受性が剥き出しになり、そのことに恍惚を覚えた。その時一転して心の奥底から妙な自信がわき上がってきた。何とかなる。いや、何とかするんだ。何も家族を養うわけではない。この身ひとつで生きていけばいいのだ。
 かつて卯木は、士郎の心の中に働くこのメカニズムを察知し、目の前の現実に追従して自ら破滅を招く危険な傾向と警告した。その通りだ。物事が破局に向かおうとする時、士郎の心は軽い興奮状態に囚われる。それを回避しようとしたり、保身を図ろうとするよりも、まるでするすると吸い寄せられるように危機に向かって進んでしまう。今回のことだってその現れのひとつと言えるかもしれなかった。
 しかし卯木よ、と士郎は心の中で呼びかけた。おれはどうすればよかったんだ?
 ベッドに横になった。とにかく今日という日を終わらせなければならなかった。しかし眠れそうになかった。明かりを消した暗い部屋の中で、ぼんやりと遠く感じる天井を眺めていた。
 その時窓の外の駐車場に、1台の車が減速してゆっくりと入ってきた。車は微かなブレーキの音を立て、士郎のアパートの前に止まった。高い位置で赤いランプがくるくると回っていた。士郎の部屋の曇りガラスが、光を受けて赤く点滅した。
 車のドアが開いて、男の話し声がぼそぼそと聞こえた。そしてしばらくすると士郎の部屋の呼び鈴が鳴った。
 深夜である。士郎は胸騒ぎに囚われた。回転する赤いランプはパトカーのものに違いない。すると呼び鈴を押した者は警官だ。何か事件が起こったのだ。もしかするとそれに冬子が関係しているかもしれない。いや、しかしパトカーはサイレンを鳴らしていなかった。とすると緊急を要する事件ではない。つまりそれは深刻なものではないのだ。冬子の身に何か起こったというものではなさそうだし、士郎が逮捕されるようなものでもなさそうだ。士郎は大きく息を吸い込むと、ドアの内側に立った。
 覗き窓から息を凝らして見ると、警官が2人立っていた。
「はい」
 と士郎は低い声で応えた。すると警官はドアに顔を近づけ、やはり低い声で言った。
「警察ですが、ちょっと開けてもらえませんか」
 士郎はわざとゆっくり鍵を開け、ドアを押し開いた。
 警官のうちひとりは年輩で、もうひとりはまだ若かった。年輩の警官が一歩進んで穏やかに言った。
「ご近所から通報がありましてね。夫婦喧嘩をされているようなので、仲裁して欲しいと言うんです。しかし警察はそこまで介入できませんのでね。ご夫婦のことはお2人で話し合って解決していただくしかないわけで。しかしこの雨の中ですから、まず奥さんを中に入れてあげていただけませんか。ずっと雨に濡れていたのでは風邪を引きますから」
 士郎は虚を突かれた。そして士郎が冬子の姿を探すと、士郎の視界に冬子の姿が入るよう、若い方の警官が身をかわした。
 冬子は雨に打たれてぐっしょりと濡れ、水たまりのできたアスファルトに尻餅を付いたまま、子どものように泣きじゃくっていた。
「ほら奥さん、お立ちなさい。旦那さんがドアを開けてくれたから。もう中にお入りなさい」
 年輩の警官がそう言うと、若い警官が冬子に手を貸して立ち上がらせた。
 冬子は何も言わずに泣き続けながら、士郎を押しのけ、肩を怒らせてどすどすと大股に奥の部屋へ入った。若い警官が冬子のスーツケースとハイヒールを部屋に運び入れた。
「旦那さん」
 と年輩の警官は両方の手のひらを士郎に見せながら言った。
「私はどちらの味方をするわけでもありません。ただ、穏やかにお願いしますよ。よく話し合ってください。じゃあ、これで失礼します」
 その間、若い警官が士郎の部屋の表札を手帳に書き写していた。
 2人の警官は敬礼し、去って行った。パトカーのドアが閉まり、エンジンの音とともに、くるくる回る赤いランプも遠ざかった。
冬子は濡れた服のまま頭から布団をかぶり、ベッドの中で泣き続けた。
 この現実の前に、士郎の意志は介在の余地がなかった。割り込んできた事実を受け容れ、追認するしかなかった。半分は苦々しい思いだった。しかしもう半分は、白状すれば、ほっとしたのだった。
 冬子にベッドを占領された士郎は、仕方がないのでホットカーペットのスイッチを入れ、猫のように丸くなって、服を着たまま床で寝た。

(2)

 翌朝になって士郎が目を覚ましたのは、午前10時頃だった。布団を敷かずに直接床に寝ていたので、起きあがると背骨がみしみしと音を立てた。目の奥に鈍い痛みがあった。腹の中に溜まった無臭のガスが肛門から大量に出た。士郎は苦笑した。トランザクションに勤めていた頃は、毎朝こんなふうにして会議室の冷たいテーブルの上で目を覚ましたものだった。それはもう思い出したくもない不快な朝だった。
 台所へ行って湯を沸かし、コーヒーを入れた。そして立ったままコーヒーをひと口すすり、落ち着かない気分で部屋の中をうろうろした。すると昨夜の騒ぎが甦った。冬子はまるで何か悪さをして父親に家から閉め出された子どものようだった。泣き叫び、そして強情だった。それと実際の冬子の年齢とのギャップに、士郎は思わず舌打ちした。
 その時、奥の部屋で乾いた咳が聞こえた。士郎はまさかと思ってベッドを見た。冬子の身体の膨らみがベッドにあった。再び咳がして、膨らんだ布団が微かに震えた。
 土曜日でも日曜日でもない。それに窓の外の明るさはどう見ても、もはや早朝ではない。部屋の外では人々の靴音が聞こえ、車が行き交い、平日の活気が感じられた。いつもなら冬子はとっくに出勤していなければならない時刻だった。
「休むのか?」
 士郎は布団の膨らみに向かって言った。
 冬子は布団をかぶったまま頷いた。
 士郎は冬子に構わず、すぐに執筆に取りかかった。気分の高揚はなかったが、淡々と文章を書き連ねた。クライマックスを過ぎた下り坂だったから、それでも勢いには乗った。
 数時間の集中した作業の後、士郎は空腹を感じた。時刻を確かめようとして、腕の時計がないことに気づいた。そうだ。昨夜、士郎はオメガの時計を冬子に向かって投げつけたのだった。代わりに携帯電話を取り出して、画面に表示された時刻を見た。午後2時前だった。どの店に行っても昼の混雑は終わっている。士郎の昼食にはちょうどよい時間だった。
「食事はどうするんだ?」
 士郎がベッドに向かってぶっきらぼうに言うと、冬子は顔をそっと布団から出して天井を見た。そして微かに首を横に振った。その視線が虚ろである。喘ぐようにはあ、はあ、と口から息が漏れていた。
 士郎が冬子の額に手をやると、火であぶったような高熱があった。
 その士郎の手に、冬子は無言でオメガの腕時計を通した。オメガは冬子の体温に熱せられて、士郎の手首を熱く焼いた。
 時計のケースと風防にはざっくりと刃物で削ったような傷があった。ブレスレットにもあちこちに深い擦り傷が付いていた。それでも文字盤の9時の位置にある小さな秒針は動いていた。耳に当てると、ゼンマイの動力を制御する小刻みな音が聞こえた。時刻も携帯電話のディスプレイと一致していた。試しにクロノグラフのボタンを押してみたが、針は異常なく動き始め、ストップもリセットも正常に作動した。
 あれだけ強く地面に叩き付けたのに、大したものだと士郎は思った。そしてその時計を買った時の店員の言葉を思い出した。
「NASAのテストは時計にとってそれは過酷なもので、まるで時計を壊すためのテストかと思われたほどです。そのテストに唯一合格したのが、このオメガのクロノグラフでした」
 あれは嘘や誇張ではなかったのだ。
 士郎は近所のラーメン屋で食事をすまし、薬局へ寄って風邪薬を買った。その時薬局の薬剤師がこの薬は食後に呑むようにと言ったので、何か食べさせなくてはと思い、スーパーでプリンと蜜柑を買った。
 部屋へ戻ると、冬子は頭から布団をかぶり、眠っていた。士郎は買ってきた薬と食物を黙ってこたつの上に置き、執筆を再開した。一旦作業に熱中すると、数時間は瞬く間に過ぎた。その間、冬子は死んだように眠っていた。食事も摂らず、薬も呑まず、そこに寝ている気配さえ感じさせなかった。
 再び空腹のために集中力が切れた時、冬子と同じ空間にいることに士郎は気詰まりを感じた。冬子はまるで無言のハンガーストライキを実行しているように思えた。そんな憎々しい冬子に食事を作ってやろうなどとは微塵も思わなかった。だから士郎は夕食もひとり外ですませることにした。
 夜、疲れ果てて執筆を終えた時、士郎はベッドを冬子に占領されていることに閉口した。そこで再びホットカーペットのスイッチを入れて、床に丸くなって眠ろうとするのだが、すうすうと隙間風が入ってくると震えが走る。仕方がないので士郎は眠るのは朝になってからと決め、再び起きて夜の間は作業を続行することにした。
 深夜になって気が滅入ってくると、原稿用紙を持ち出して、ファミリーレストランのデニーズへ行った。そこで士郎は明け方まで作業に没頭した。深夜のデニーズは客もまばらで、独りで長時間テーブルを占領しても遠慮が要らず、作業は大いにはかどった。士郎のコーヒーカップが空になると、折れそうに痩せた若いウェイトレスが、鹿のような身のこなしで、何杯でもお代わりのコーヒーを注いでくれた。
 午前3時頃、近くの飲み屋が閉店になるのか、酔った中年の男が豪勢にホステスを何人も引き連れてやってきた。男は中小企業の社長といった感じで、精力がみなぎり、だみ声で吠えるようにしゃべった。ホステスは皆片言の日本語をしゃべるフィリピン人だった。
 2人で深刻そうな話を延々と続ける若いカップルもいた。女が男をなじり、男は黙ってタバコを吸うかコーヒーを飲むかして、女の機嫌が直るのを待っていた。男は絶望し切ったかのような遠い眼差しをして、女の背後をぼんやりと眺めていた。
 士郎だけが場違いな感じで、酔いもせず、しゃべりもせずに、一心にペンを走らせていた。ウェイトレスが、そんな士郎をさりげなく気に留め、時々カップのコーヒーの残りを覗きにやってきた。明け方になって、ウェイトレスが交替する頃、士郎も店を出た。
 部屋に帰ると冬子は相変わらず頭から布団をかぶって寝ていた。布団の中で眠っているのか覚めているのか分からない。きっと眠っているのだろう。士郎がこたつの上に置いた食物も薬も手つかずのままだった。
 今冬子がどんな気持ちでいるのか、士郎には理解できなかった。冬子はまるで避けているように、士郎に顔を見せなかった。士郎の方でも、冬子の顔など見たくもなかった。だからその時も心の中でふんと思って、ホットカーペットのスイッチを入れてごろりと横になった。
 次に目を覚ました時、この明るさは午後の光だ、と士郎は思った。多分、2時頃。そう思うと士郎は本当の時刻が知りたくなった。腕から外して机の上に置いてあった時計を見ると、午前9時過ぎだった。
 そんなはずはあるまいと思った。そして時計が止まっていることに気づいた。士郎は冬子との約束を思い出していた。
「死ぬまでこの時計を止めないでね。毎日ちゃんとゼンマイを巻いて、ずっと動かし続けてね」
 それに対して士郎はこう言ったはずだ。
「ああ、絶対止めないよ。それどころか、死ぬまで腕から外さない。風呂に入る時以外は、起きている時も、寝ている時も、この時計を腕から外さない」
 士郎はその約束を破った。まず一昨日の夜にこの時計を外して、冬子に投げつけた。では昨日はいつ外したのだろうか。そうだ。深夜にデニーズへ行く時に、携帯電話があれば腕時計など必要ないと思って外したのだ。そしてその間一度もゼンマイを巻かなかった。だから止まった。
 文字盤の「Ω」のマークが誇らしげなその時計は、士郎が投げつけたために傷だらけになり、冷たくなって死んでしまったようにさえ思えた。士郎はまるでそれが本当に死体であるかのように怖々と摘んで、机の引き出しに仕舞った。オメガは、卯木からもらったダンヒルのライターの隣に、無言で横たわった。
 携帯電話の画面を見ると、時刻は午後1時45分だった。
 まず士郎は風呂を沸かして入った。そして部屋の簡単な掃除と洗濯をすませた。その時点で時刻は午後3時を少し回っていた。それから原稿用紙を抱えて部屋を出た。その日1日を、喫茶店とファーストフード店で原稿を書いて過ごした。それは意外に快適だった。何度もコーヒーをお代わりしている以上、どれだけ長時間そこにいても店員は文句を言わなかった。それに腹が減ればそこで何か食べればよかった。同じ席での作業に飽きてきたら、思い切って店を変えた。そうすることによって集中力を持続することができた。午後7時までの間、士郎は効率よく作業に没頭することができた。
 部屋に帰ってきてからは、深夜まで机に向かった。そして再び原稿用紙を抱えて部屋を出ると、明け方までデニーズで執筆を続けた。士郎はそうやって執筆に没頭することによってしか、自分の居場所を確保することができないような気がした。

(3)

 いく晩ホットカーペットで丸くなって眠っただろうか。十分に疲れが抜け切らない。目を覚ました士郎は重い身体を無理やり持ち上げた。時刻を確かめようとして携帯電話の画面を見ると、その日が土曜日であることに気づいた。だから街は混んでいるはずだ。今日は原稿を持ち出して外で仕事をすることができない。仕方がないので机に向かったが、部屋の中にはどうしようもない陰気さが立ち込めているようで、気詰まりだった。仕事に集中することができない。万年筆のキャップを外しもしないで、ぼんやりと原稿用紙を眺めて過ごした。
 冬子は相変わらず布団をかぶって寝ていた。あの晩から数えてもう何日になるのだろうか。4日か、それとも5日か。そう思った時、士郎は冬子がその間何を食べていたのだろうかと訝しんだ。何日か前に士郎が買ってきたプリンと蜜柑は、こたつの上にそのまま手つかずで残っていた。では士郎が部屋を空けている間に、何か自分で作って食べたのだろうか。それにしては台所にその形跡がない。冬子はずっと飲まず食わずで寝ていたのだ。それどころか、風邪薬の箱さえ開封した形跡がなかった。
 ここ数日を思い返してみても士郎は冬子が一瞬でもベッドから抜け出したのを見たことがなかった。突然のように胸騒ぎがし始めた。まさか。しかしもしそうだとしたら? いや、いくら何でも。しかし、やはり…。
 士郎は慌てて机を離れて隣の部屋に立った。そしてベッドを見下ろした。冬子の形に布団が膨らんでいる。しかしその膨らみは、じっと見ていても、息をしているようには思えなかった。動きが全くない。士郎は恐ろしくなった。
 士郎は息を止め、耳を澄ませた。冬子の呼吸の音がない。恐る恐る布団をめくった。
 冬子はミイラのように痩せこけていた。目の周りが落ちくぼみ、眼球が瞼を異様に膨らませている。頬の肉が落ち、骨が高く突き出て、内側の歯の並びがくっきりと浮き出てさえいる。
 士郎は冬子の胸に耳を当てた。しかし士郎自身の胸の音が邪魔をして、よく聞き取れない。その時、思いがけず冬子がしゃべった。
「生きてるわよ」
 士郎はぎくりとした。しかしそれはしわがれた弱々しい声だった。生きていることは分かったが、その姿は不気味だった。
「生きてるわよ。死んでしまいたいと思ったけど、まだ生きてるわよ」
 冬子の目は半分開き、生気のない、虚ろな眼差しが天井を見上げた。そして、こんなに干からびているのにと、意外に思えるほど大粒の涙が耳へ落ちた。
 士郎は冬子の額に手を当てた。熱は下がっていた。いや、むしろひんやりと冷たかった。
 とにかく死なせてはならなかった。士郎は部屋を出て、コンビニで梅干の入ったおにぎりを2つ買ってきた。それを鍋で煮てお粥を作った。煮詰まった鍋の中で海苔が溶けて、煮液はどす黒く濁り、無様な姿になった。まるで嘔吐物のようだ。それを茶碗に入れ、スプーンを刺して冬子に与えた。
 冬子はしきりに匂いを嗅いでいた。茶碗の中のものは決して食欲をそそるような代物ではなかった。冬子は口を付けずに茶碗を置いた。そして荒く息をしながら、言った。
「もういいのよ。死んでしまいたい。お金なら士郎さんにあげるわ。通帳と印鑑があるから、好きなように使って」
 士郎は無言だった。
「士郎さん、いつか言ったわよね。覚えてる? 私って、男に貢いじゃう性格なんだって。でも、それは違うのよ。巻き上げられるのと貢ぐのとは、全然違う」
 士郎にはそんなことを言った記憶はなかった。いや、そんなことを口にするはずがなかった。冬子はあの男を憎んでいる。冬子から800万円もの金を巻き上げたあの男を。それを冬子自らが貢いだなどと、口が裂けても言うべきことではない。
「おれ、そんなこと言っていないよ」
「じゃあ、私の妄想だとでも言うの? 一番言って欲しくない言葉を、私の耳が勝手に聞いたと言うの?」
 その冬子の言葉に棘はなかった。
 士郎は絶句した。そして考えた。本当に自分が言ったのだろうか。もし言ったのだとすれば、おそらく何の気なしに言ったに違いない。しかし酷いことを言ったものだ。
「でも、もういいのよ。士郎さんを責めてるんじゃないの。私を許して欲しいの。私も、あの日はどうかしちゃってた。何であんなことしたのか、分からない」
 士郎は無言だった。何か言おうとしても、言葉は素直に喉を離れそうになかった。実に嫌な気分だった。心に砂を撒かれたようだった。
 夜に冬子は激しい咳をし始めた。息ができずに苦しそうな咳き込み方だったが、本人は「熱が下がって楽になった」と平気だった。そして日曜日には自分で布団を干し、シーツと布団カバーを洗濯した。
 月曜日に冬子はマスクをして会社へ出勤した。夜になって会社から帰ってくると、またもとのように隣の部屋で猫のように大人しく、買ってきた雑誌を読みふけるのだった。

(4)

 その頃の士郎の冬子に対する感情を何と呼べばいいだろうか。少なくとも愛情ではなかった。かと言って憎悪でもない。もっと冷ややかな感情だった。憐憫とでも言えばいいか。それは何ら具体的な内容を持たない、何かのかけらのような代物だった。冬子によって士郎の心が動くことはもはやあり得なかった。
 そのことを、冬子自身が感じ取っていた。
「もう、お終いだわ」
 冬子はそう正しく理解していた。士郎という男は、冬子がどんな方法で解きほぐそうとしても、決して心を開こうとはしないだろう。その士郎の頑なさは、まるで灼熱の高温で焼き固めたようだった。それは士郎が長い年月背負い続けた思いによるものなのだ。「負けて堪るか」。おそらくはそう思い続けて、闘ってきたのだ。冬子自身にとってそうであったように、あるいはそれ以上に、士郎の6年間は長かったのである。
 なぜあんなことをしたのだろう。冬子はそう思った。何も早川眞紀に会うことなどなかった。そのことを心から後悔した。しかし、冬子自身は会いたくなどなかったのだ。そうではなくて、無理をして会いに行ったのである。どきどきする胸を押さえながら、取り澄ました声色を使って電話し、立ち止まりたくなる気持ちに鞭打って、待ち合わせの場所に出向いたのだ。驚いたのは、早川はそれ以上に取り澄まして突然の冬子の電話に対応し、会って話せば冬子にさわやかな笑顔を振りまきさえしたことだった。冬子はそんな早川と張り合った。勇気を振り絞るようにして、士郎と早川の間に割って入ろうとしたのである。そうしようと思ったのは、女の直感としか言いようがない。士郎の早川に対する激しい憎しみの陰に、何か冬子に脅威を感じさせるものがあったのだ。
 2人の間に割って入れば、士郎の心をもっと占有できる。そう考えたのが、そもそもの間違いのもとだった。浅はかだった。士郎の心にくすぶり続ける憎しみが、かつてどれほどの勢いで燃えさかっていたのか、もう少し想像してみるべきだった。そうすれば、それが触れてはいけない士郎の聖域であると、容易に理解できたはずなのだ。結局、士郎の心を、冬子は分かっていなかったのだ。あんなに愛していたのに。
 そう考えて、はっと冬子は思考を止めた。本当にそうだったのか? 冬子は士郎を愛していたのか? 心の中にもやもやしたものがある。自分に正直になって、冬子は考え直してみた。すると答えは違った。冬子は士郎を愛していたのではない。ひたすら士郎から愛されたいと願っていたのだ。それが自分の幸せなのだと信じ込んでいたのだ。
 士郎は冬子を愛することよりも、原稿を完成させることを急いでいた。その衝動力は、かつての上司と早川への憎しみだった。だから冬子は、士郎の心にくすぶり続ける憎しみが、冬子への愛を妨げていると感じたのだ。いわば士郎の憎しみに嫉妬したのだ。何と愚かなことだったろう。
 しかし、そう思った途端、もっと愚かなことに気が付いた。それは愛されたいと願ったことだ。もはや自分は誰からも愛されない女だと、ずっと思い込んでいた。そこへ士郎が現れたものだから、愛されたいという欲求に一気に火が点いたのだ。これは落とし穴だった。そこへものの見事にはまり込んでしまった。
 そして同じ失敗をしたのだ。あの7年前と同じ失敗を。金を巻き上げられたか、自ら貢いだかが問題なのではない。思い返せば、あの男に800万円もの大金を差し出したのは、他ならぬ自分である。何もあの男が勝手に冬子の預金を引き出したのではない。自分の意志で差し出したのである。それを巻き上げられたと言えるのか。そう言うのであれば、このまま士郎から捨てられた後、今度は士郎を恨んで生きていかなければならない。利用されたとか、踏み台にされたとか。すると今度は何年かかって士郎を呪うのだ。10年か。それとも15年か。その時、自分はいったいいくつなのだ。45歳? それとも50歳? 考えただけでもぞっとする。いったい何のために生きているのか。
 男と女は難しい。冬子はつくづく思った。会社の若いOLたちが恋愛に夢中になるのも、今となっては理解できる。ある意味では、それが彼女たちの修行であり、闘いなのだ。そのために彼女たちは夢中になってメイクを試し、髪型を気にし、ダイエットに励む。そしてファッション雑誌を読み漁り、流行の服で身を飾り、徒党を組んで男の心理と行動を研究する。そして時々休戦するかのように、女同士で海外旅行に行くのである。そうやって彼女たちは恋愛の仕方を学ぶのだ。何のことはない、女の世界はそうやって成り立っている。それを冬子は十分に経験しないまま、ひたすらひとりの男を恨んで6年間もの時間を費やしてしまった。冬子が訓練不足なのも当然であり、応用問題に直面して、男の気持ちを読み誤るのも無理はなかった。
 だから今回は士郎を恨まずに消えよう、と冬子は思った。でも、いつ? 士郎が原稿を完成させ、それが本になったら、その時、そっと。言い訳もせず、恨み言も言わず。でも、本にならなかったら? その時士郎が自分を必要としたら? それはあり得る話である。今、士郎には収入がない。冬子が見放せば路頭に迷う。どうすればいいか。お金を置いて行けばいい。預金通帳と印鑑を。口座にはまだ700万円ほど残っている。それだけあれば、士郎ひとりなら、2、3年は暮らせるだろう。その間に士郎が自分で何とかすればいい。次の作品か、その次の作品で、士郎が自分の手で成功を掴めばいいのである。
 でも、期待もあった。士郎が原稿を完成するまでの間に、時間が解決してくれることはあり得ないだろうか。士郎の怒りがやがて収まり、冬子を許すということが。しかしそのためには、冬子の行動が悪意から発したものではないことを、士郎に理解させなければならない。その方法が見つからない。話せばいいのだろうか。でも、それは逆効果かもしれない。かえって士郎の心を逆撫ですることになるかもしれない。これも冬子には難しい応用問題だった。答えは見つからない。今の冬子にできることは、声を出さず、音も立てず、ただひたすら時間が過ぎるのを待つことだけだった。
 来る日も、来る日も、冬子は隣の部屋で猫のようにうずくまって、時間を過ごした。しかしそれは苦痛ではなかった。それが最善の方法と分かっていたからだった。出会いの1周年も、クリスマスも、冬子からは何も言わず、士郎からも何の言葉もなかった。冬子の誕生日も、元日も、バレンタインも、冬子はひと言も口にしなかった。それは冬子にとって、静かではあったが、苛烈な日々だった。それがその時期の冬子の、士郎に対する向き合い方だった。