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レバーブレーキのリール

 数日後の会社帰り、私は決意をみなぎらせて釣り道具屋へ行った。奥さんが店番していた。私はガラスケースに飾られたレバーブレーキつきのリールを指さし、「このリールが欲しい。そして使い方を教えてほしい」と言った。
「いまちょうど主人が外出していて、困ったわ。ねぇ、○○君。レバーブレーキの使い方わかる?」
 奥さんはガラスケースからリールを取り出しながら、店内にいたスーツ姿の若い男に言った。私はてっきり他の客だと思っていたが、その男はラインメーカーの営業担当者だった。
 私はあの日のできごとを詳細に説明し、なぜレバーブレーキのリールを必要としているかを伝えた。すると男は厳かに言った。
「それはメジナですね。しかも大物。そう思いたいじゃないですか。実のところはわからないんだし」
 その瞬間、私はその男を「むむ、こいつはできる」と思った。大して意味のない言葉を巧みに操り、私の心を心地よく羽根で撫でた。
 男は言った。「レバーブレーキはドラグとは違って、竿を立てるためのものなんです。伸された竿を立て直すために、とっさに糸を出すのがレバーの役割です。竿を立てなきゃ魚は浮いてきませんから。ドラグと同じようにレバーブレーキで魚に負荷を掛けようというのは間違った使い方です。それならわざわざレバーブレーキでなくても、ドラグでいいわけですから」
 そして男は私に訊ねた。「ハリスは何号を使っていますか?」。私は「1.2号です」と答えた。「道糸は?」「2号です」。すると男は「ハリスも道糸も細すぎます」ときっぱり言った。
 私が「1.2号の竿だから、1.2号のハリスを使うのではないのですか?」と訊ねると「竿とハリスの号数は別です。1.2号の竿なら3号までのハリスが使えます。この地方の磯で釣るのなら、根が荒いですから、道糸3号にハリス2号が最低ラインです」と言った。そして道糸とハリスの自社製品を店のカウンターにそっと置いた。私はもう催眠術にかかっていた。レバーブレーキのリールと彼の選んだ道糸とハリスを買って店を出た。

トライソ3000HLBD

 このレバーブレーキって、誰が考案したんだろう。すごいよ、これ。こんなものよく製品化できるな。まず、レバーブレーキのオンとオフができる。オフにすればまったく普通のスピニングリールだ。ひとたびオンにすれば、ハンドルが逆転できるようになり、そこにレバーでブレーキがかけられる。レバーを強く握ればロックできるし、緩めれば完全にフリーになる。無段階にブレーキが加減できる。しかも、逆転時のブレーキとは無関係に、正転時にはブレーキは働かない。どんなラチェットを使っているんだろう? 買ったのはダイワの一番安いトライソだが、シマノにもレバーブレーキのリールがある。日本のメーカーはつくづくすごいな。このシステムって、世界に誇っていいんじゃないか?

 一刻も早くこの新しいレバーブレーキを使ってみたかった。だから私は禁を破り、若い友がやってくるのを待たず、独りで磯に行った。そこから先は歯止めが効かなかった。ヒラマサもヒラスズキもそっちのけで、私は毎週餌を買って磯に通うようになった。

餌釣りとルアー釣り

「おれたちって、もうルアーマンじゃないよね」「えっ、私たちルアーマンでしたっけ?」。そんなふうに若い友と茶化しあった。少なくとも私は餌釣りにはいいイメージがなかった。磯へ行けばメジナ用の粉餌の袋があちこちに捨てられている。マルキューだ。私の餌釣りのイメージはそれだけだった。それがいまや私自身がマルキューの製品を購入している。
 ごみは絶対に捨てない。餌の袋は丸めてポケットに押し込む。そんなことをするとどうなるか? 餌釣りの特徴は、まずはこの臭さだ。手、ジャンパー、ジーンズ、車。みんな臭くなる。でも、魚釣りはそもそも臭いものだ。以前ワラサが大漁で、キープすると言ったら、付近のアングラーが皆私に魚をくれた。私は7〜8本のワラサをクルマに運んだが、どれも80cmを超えていたから、クーラーには入らなかった。やむなく助手席に置いて車を走らせたら、ワラサたちはウンコを垂れ流した。その臭いこと、臭いこと。その匂いは1年以上取れなかった。それと比べればオキアミの腐った匂いはまだかわいい。
 あるいはまた、餌釣りを始めて、釣り道具屋がいかに餌で儲けているか、よくわかった。こんなの年金生活のお年寄りがやる釣りじゃない。カネがかかってしょうがない。ルアーしか買わない客だったころと比べると、私に対する釣道具屋の愛想がてきめんによくなった。磯釣りが数ある釣りの中でも最高峰というのは、釣趣によるものだけではない。それだけの利益が業界にもたらされるからに違いない。バークレーがアブを傘下に置いたのも、これと同じ理由だろう。悔しいが、当面はこの釣りの虜だ。
 餌釣りにはルアー釣りにない魅力がある。たくさん釣れてチャンスが豊富だから、努力が必ず実る。運の要素はなくはないが、様々な場面で実力がものを言う。そしてそれは1日ごとに完結する。さらに、結果が形となって表れやすいから、自分の上達が明確に実感できる。勤勉な日本人向きの釣りなのではないだろうか。やっぱり自分も日本人なんだなと思う。

目標、40cm

 夏が来る前。梅雨グレといって、そのころ、メジナ釣りのピークのひとつを迎える。もうひとつのピークは寒グレだ。これからの梅雨グレのシーズン、どれくらいのサイズが釣れればいいのか、釣り道具屋に訊いた。
「寒グレの時期の方が大きいのが釣れるんですよ。これからの梅雨グレは数が出ます。でも大きいのはなかなか釣れません。しかも食味も落ちる。30cmぐらいが平均でしょう」と言いつつ、店主の目は店の壁や天井の魚拓に泳いだ。どれも45cm以上。それを釣ったら一人前だ、と彼の目は言っていた。
 私も若い友も、30cm台前半はときどき釣った。でも私たちは35cmの壁を超えることができないでいた。目標は40cm。その前に立ちはだかる35cmの壁。梅雨グレのシーズンを迎えるころには、私も外道は卒業して、本気で35cmを超えるメジナを釣りたいと思っていた。

メジナ平均サイズ

 若い友の影響で、私もユーチューブで磯釣りの動画をよく見るようになった。シマノのファイアーブラッドの一連のプロモーションビデオだ。もうそのころには、私たち二人を魅了したあの上物師が使っていた赤い竿は、実はファイアーブラッドではなかったことに気付いていた。ファイアーブラッドの竿なら、近くの中古屋で、6万円でずっと売れ残っている。若い友と二人で、いつかはいい道具が欲しいと話した。若い友はファイアーブラッド、私はがまかつの竿に興味があった。
 そのころわかったことがある。若い友と私の磯釣りは、スタイルが全然違う。私は浮力の強い2Bの浮きを使い、道糸にはしっかりと錘を載せ、ハリスにもガン玉をうつ。そして溝や根際の底付近を狙い、当たりはしっかりと浮きでとる。
 かたや若い友は、浮きの浮力は極力抑え、軽い仕掛けを潮に乗せて遠くまで流し、撒き餌と刺し餌の同調を重視する。浮きは遠くでもう見えない上にしばしば潮に引き込まれて深く沈むから、当たりは浮きではなく竿先でとる。
 私はストラクチャー狙い、若い友はカレント狙いだ。「私の釣り方は地元の釣り人の間では主流なんだけど、メーカーのインストラクターやテスターはあまりやらないよね。ストラクチャーVSカレントみたいな議論ってないの?」と私が言うと、若い友は「ストラクチャーという言葉は使わないみたいですけど、瀬際の釣りっていうのがそれにあたると思います」と言った。

悪い癖

 7月3日。35cmの壁を先に破ったのは、若い友だった。その日は磯が大荒れで竿が出せず、やむなくひと気のない漁港に避難し、そこで37cmの尾長グレを釣ったのだ。彼は私の師でもあるので、悔しくはなかったが、羨ましくはあった。私も早く35cmの壁を破りたいと願った。

 ところがそのころから私は病気のようなものに取りつかれていた。竿の穂先がポキポキ折れるのだ。最初にアドバンス・イソを折った。まだ1年保証が効くので修理に出し、その間にプロマリンの安い竿を買って使おうとしたのだが、その竿も買って初めての釣行で穂先が折れた。やがてアドバンス・イソが修理から戻ってきたので、それを再び使い始めたら、2回目か3回目の釣行で穂先がまた折れた。もう保証は効かないぞと修理をあきらめ、穂先を短く詰めて使っていたら、それもまた折れた。
 穂先が折れる直接の原因はわかっている。浮きが沈んだ時、道糸のたるみをとるためにリールを巻きながら、竿をあおって合わせるからだ。竿先が揺れたときに道糸が穂先に絡み、そのままリールを巻いて、穂先が折れるのだ。
 ではなぜ道糸が執拗に穂先に絡むのか? 道糸に撚れが生じているからだ。またこの問題か。スピニングリールはこれだから嫌なんだ。せっかく買ったレバーブレーキのリールだが、ここでお別れだ。もう何度目なのか、わからない。またしてもスピニングリールとの浮気は終わりを迎えた。

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