RAPALAからK−TENへ

 初めてのスズキを釣るのに7年もかかったが、不思議なことに、その後は堰を切ったように釣れ始めた。行けばたいてい釣れた。ほとんどボウズなし。今までの苦労は何だったんだと思った。それまでちぐはぐだった諸条件が、ひとつの成功をきっかけに、噛み合いはじめたに違いない。その中のひとつは間違いなくラパラだった。私はラパラに絶対の信頼を置くようになった。
 最初はカウントダウンの11cmを使っていたが、この定番ミノーにはひとつ問題点があった。バックラッシュしてしまったとき、それをほどいている間に底に沈んで根掛かりしてしまうことだった。反面、フローティング(オリジナルフローター)では軽すぎて、アンバサダー5500Cではうまくキャスティングできなかった。私は解決策を求めた。もっと重量のあるフローティングミノーが欲しい。私はそれを店頭で見つけた。ラパラのフローティング・マグナムだ。バルサよりも硬い木で作られていて、頑丈であることも好感が持てた。
 フローティング・マグナム11cmではずいぶん釣果を重ねた。多少ずんぐりとしたシルエットで、リップに特徴があり、重量は十分にあった。アンバサダー5500Cで難なくキャスティングできた。なによりもきびきびしたその動きは、さすがはラパラと思わせるものだった。それでも私はよりよきものを求めて模索を続けた。そうやって行き着いたのは、ラパラ・フローティング・マグナム14cmだった。
 11cmから14cmに替えた意図は、より重量のあるルアーで快適なキャスティングがしたかったこと、そして大きなルアーでより大きな魚を釣りたいという2点だった。しかしフローティング・マグナム14cmは、同じフローティング・マグナムの11cmよりもいくぶんアクションが大ぶりで、かなり深く潜った。それは好ましくないことのように思えた。だから私は少しリップを削って、チューニングを施したうえで使った。それによって11cmと同じアクション、同じレンジで使うことができた。
 14cmものルアーは大きすぎやしないか? スズキが釣れずに苦しんでいた長い期間、釣れないのはルアーが大きすぎて魚が食えないからなのではないかと懸念を抱き続けたが、いざ釣れ始めるとそこには何の問題もなかった。フィッシュイーターは想像以上に獰猛なのだ。むしろ大きなルアーを使っていても、小型の魚を排除できない。それどころか、小さなルアーよりも目立つからなのか、大きなルアーでも小さなルアーと同等以上に小さな魚が釣れてしまう。ただし、あのころはマイワシが主要なベイトフィッシュだったからであって、後の時代の異なる状況下ではこれと同じことは言えないのかもしれない。
 フローティング・マグナム14cmこそは、スズキ釣りに関して、私が最終的な答えとするルアーだった。色は黒銀。もうそれ以外のものは必要ないと思った。スズキ釣りに行くときは、いつもポケットにフローティング・マグナム14cmの予備を1個だけ入れていた。ルアー・ローテーションは一切しなかった。今でも多くの場合、私はそれをしない。のちにその無精・怠慢が、私のスズキ釣りの腕が伸び悩む原因となった。ともあれ、ルアーにはほとんど金がかからなくなった。
 スズキが苦もなく釣れるようになってくると、さまざまなテクニックを身につけるようになった。とりわけ熱中したのは、スズキのトップウォーター・ゲームだった。キャストしたラパラ・フローティング・マグナムを海面に浮かべておいて、わずかにロッド・ティップを煽り、ちょんちょんと水面でお辞儀をさせ続けると、水面を炸裂させる派手なバイトが味わえた。一部のバサーがトップウォーターに強くこだわるのもうなずける。それをスズキでやったら、バス以上に迫力があって、心臓に悪い。この時代はまだ魚はスレておらず、アングラーの数は極めて少なかった。ポイントをひとり占めして、自由自在、やりたい放題に釣れた。
 しかし、釣れば釣るほど、満足が得られなくなっていった。スズキは引かない魚だ。とりわけ内湾の冬のスズキは引かない。フッキング直後は多少えら洗いするが、リールを巻けばよたよたと寄ってきて、足元で下に突っ込んだり、横向きざまにひらを打ったりするものの、水面に引っ張り上げればそれで終わりだ。開高健が「鈍なやつ」と言ったパイクに似ている。キングサーモンのように華麗でタフなファイトができないものか。今でこそ、外洋に面した海域のスズキ、あるいはまだ水温が比較的高い時期のスズキは侮れないと知ってはいるが、このとき私はスズキをなめ切っていて、もう卒業しようとさえ思った。

 その頃、ルアーマンの間で新たなターゲットが話題になり始めていた。メジロ(関東でいうワラサを関西ではこう呼ぶ)だ。食材としては昔からなじみのある魚ではあるが、ショアから狙って釣れるようになったのは今から30年ぐらい前からで、それまではショアからのターゲットではなかった。一説によると、バブルのころにグルメ・ブームがあり、天然ものに比べて味の劣る養殖ハマチの価値が下がったがために、養殖業者たちが廃業してモジャコを獲る者がいなくなり、数が増えてショアから狙えるようになったのだという。あるいはまた、それまでも時々は釣れていて「養殖場から逃げ出した魚だ」と決めつけられていたが、実はそれは天然ものだった、とか。また別の説によると、タックルの進化によってルアーの遠投が効くようになり、ショアからのキャスティングで届くようになったのだとも。
 確かに、この時代のタックルの進化は目覚ましいものがあった。ロッドも、リールも、ルアーも。そしてみな高くなった。ラパラの並行輸入品が多く流通しだして値崩れが始まったときに、優れた国産のルアーがそれよりもはるかに高い価格で発売された。私がK−TENを知ったのはその頃だった。
 メジロ狙いであるポイントに参戦したとき、アンバサダー5500Cに自作のトラウトロッド、そしてルアーはラパラ・フローティング・マグナムの私は、大いに苦戦した。それでもヒットはさせたのだが、メジロの強烈な引きに耐えうるタックルではなく、突っ走られた挙句、根擦れでラインブレークした。それを見ていた上級者たちから笑われた。「スズキの感覚で言うたら、今の魚、どんな大物なんやと思うやろ? 釣りあげてみたら45cmぐらいやで」。その人たちは気さくに様々なことを教えてくれた。「ルアーはK−TENの一択や。潮目まで飛ばせるのは他にあれへん。14cmと11.5cmの両方買うとけ。色はこの色、青アジカラーや」。
 私は言われたとおりにラパラからK−TENに乗り換えた。左右にスライドしつつ、ブリブリと激しく身を震わせる派手なアクション。K−TENのアクションはラパラの自然でタイトなアクションとは持ち味が異なった。ラパラは天然のバルサ素材だから波動がどうのこうのという説は、私は信じてはいない。ルアーの動きは素材ではなくて、形状と比重と重心で決まるはずだ。プラスティック製のK−TENも、そのような観点からの設計がなされた結果、こういうアクションなのだろう。これはこれで正解なのに違いない。
 K−TENのマグネット・重心移動システムは画期的だった。重心移動システムこそは、ベイトキャスティング・リールのキャスティング性能を解き放つ鍵となった。それまで使っていたラパラの場合は、強めのサミングでルアーの飛行姿勢をコントロールする必要があった。まだPEラインが普及する前の時代において、サミングは指との摩擦でナイロンラインを傷める原因となった。重心移動のミノーは、サミングの必要性を低下させてくれた。ただし、K−TEN創世記のモデルであるブルーオーシャンは、その後の進化と比べて重心移動がいくぶん控えめなため、風向きによっては飛行中にくるくる回ってしまい、失速することがあった。だから強めのメカニカルブレーキが必要だった。メカニカルブレーキを強めに設定しさえすれば、サミングなしでのフルキャストが可能だった。
 メジロの引きは強烈だった。スズキなんかの比ではない。スナップスイベルが伸ばされた、フックやスプリットリングが伸ばされた、20ポンドのナイロンラインが引きちぎられた、というような話があちこちで持ち上がった。私はそのようなターゲットをこそ待ち望んでいた。キングサーモンに匹敵する魚、それはスズキではなく、ブリだった。
 その海域は、ルアーの射程内の位置に、極端な駆け上がりがあった。ブリ級の魚を掛けると、無理に巻けば魚の剛力によってラインブレーク、走らせれば駆け上がりの上端で根ズレのラインブレークという、どうしようもないジレンマに悩まされていた。細くて強いPEラインのまだなかった時代の話である。かと言って、太いナイロンラインを使うには、スピニングリールは向いていなかった。そこでこそ私は、ベイトタックルで有利に釣ることができた。
 ナイロンラインのリーダーシステムは、ビミニツイストにオルブライトノットと相場が決まっていた。その結び目は他の結び方と比べてスムーズだとは言え、やはりスピニングタックルではキャスト時にラインが暴れてガイドに引っ掛かるらしかった。スピニングタックルのアングラーの多くが、ロッドのトップガイドを大口径のものに取り換えていた。当時、対メジロ戦の最良のロッドであったシマノのファイティング・ソルトウォーターは、トップ付近のガイドの口径が小さいのが難点だと、親しくしていた友人は嘆いていた。
 また、スピニングリールの場合、太いラインを使うにも限度がある。ナイロンラインなら16ポンドぐらいまでだろう。それ以上太いと、長時間のキャスティングで、ラインに撚れが掛かってちりちりになってしまう。ラインの太さを16ポンドに抑えたとしても、無駄なキャストは避け、できるだけラインに撚れが掛からないように気を遣わなければならない。だから多くのアングラーはメジロのボイルが発生するまで、ロッドを肩に担いで待っていることが多かった。
 かたやベイトタックルなら、ラインの太さも、リーダーの結び目も気にすることはなかった。私は20ポンドのラインを使い、休む間もなくK−TENをキャストし続けた。とは言っても、だからスピニングのアングラーより私の方がよく釣れたとまでは言えないのだが。しかしその年の仲間内での最大魚を釣ったのは私だった。ブリ83cm、5.75kg。とは言ってもそれはアンバサダー5500Cではなく、7000Cにリーダーなしの30ポンドライン通し、ヒットしてから終始スプールを親指で固定して、ガチンコの引っ張り合いっこで獲った魚だった。獲ることは獲ったが、最後はロッドが折れ、K-TENのスプリットリングはほとんど伸び切っていた。それを見てぞっとした。あとほんのわずかでフックを引きちぎられるところだった。
 実はそれがK-TENの弱点のひとつだった。使用されているスプリットリングが華奢で、ガチンコのファイトをすれば伸びやすい。だからメジロ狙いのアングラーの中でも準備周到な者は、スプリットリングをハンダ付けして使っていた。その話を聞いて、私もさっそく実行してみた。そのとき、どれほどの効果があるのかと思って、ハンダ付けしたものを無理に引きちぎってみたが、強度は確実に上がっていた。そうすると、今度はスプリットリングを取り付けるアイの部分が気になり始めた。これってボディーの中でワイヤーが全部つながっているのか? それともそれぞれ別に埋め込んであるだけなのか? これも実験してみた。豆電球を使って、通電するかどうかを試してみたところ、当時の国産プラスティック製ミノー御三家のうち、K−TENとTheFirstは豆電球が点灯したが、アスリートは点灯しなかった。K−TENはしっかりと1本のワイヤ―が貫通していたのだ。

 私はテクニカルなアングラーではなかった。どちらかというと運まかせの釣りをして、運がよければそれを喜びと感じた。自分のテクニックを磨くよりも、季節の移ろいを感じる方が好きだ。あるいは緻密に組み立てられた予定調和のゲームよりも、予想外の展開があるドラマをこそ好んだ。だから、いるのがわかっているのに口を使わない気難しい魚よりも、いればほぼ確実に釣れる回遊魚の方が好きだった。私はスズキを見限って、メジロに熱中した。それ以降は、ルアーに関しては、ラパラからK−TENへと乗り換えた。
 K-TENにはもうひとつの欠点があった。塗装の弱さだ。本当に塗膜がはがれやすい。まだ魚を釣ってもいないのに、塗装がみすぼらしくなって、買い替えることが多かった。しかし次もK−TENを買っておけば間違いないのだ。ある時期、私のルアー購入費はK−TENだけに費やされた。一種類のルアーへの出費としてはかさんだが、ルアー代全体で見ると全く無駄遣いがなかった。
 K−TENは現在、ジェネレーション2という新世代へ移行している。重心移動はますます洗練されて、本当にぶっ飛びのミノーになった。塗装の弱さも改良され、堅牢な塗膜が施されている。しかし私はそれをあまり使わない。私にとってはブルーオーシャンこそがK−TENだ。中古屋で程度のいいのが安く見つかれば、必ず購入する。町の小さな釣り道具屋で在庫が安く放出されていた時には、全部買い占めたこともある。
 しかし、私のK−TENとのパートナーシップも、やがて終わりを迎える。新たなターゲットであるヒラマサへの挑戦のためだ。私がK-TENを相棒にヒラマサに挑むも、ずっと苦戦してヒットを得られずにいるとき、心からの友が見かねて「これを使え」と宅配便で送ってくれたルアーがあった。ダイワのドラドスライダー18cmだ。そのあまりのでかさに、最初は笑った。しかし私は気づいたのだ。私はまたもやルアーが大きすぎて魚が食わないという先入観に侵されていた。実際、ドラドスライダーを使ってみると、そこからヒラマサのラッシュが始まった。しかも60センチの小型のヒラマサでさえ、18cmのルアーを丸飲みせんばかりの勢いでくらいついてくる。できればターゲットを80cm以上に絞りたいのだが、それができない。
 いつだったか、ヒラマサ狙いで磯を歩いていると、すれ違った若いアングラーが私のタックルを見て、おずおずと訊いてきた。「やっぱりトップがいいのですか?」。私は答えた。「目立ったもの勝ちだと思っているから」。若いアングラーは「ありがとうございます」と言って、通り過ぎた。彼の目に私はどう映っただろうか? 確信に満ちたベテランアングラー? 違うよ、それは。成果が出せずにしょぼくれていた時、友に救われた迷える子羊さ。

 今でもK−TENブルーオーシャンを見れば、まだ若かった昔を思い出す。そして同時に、封印したはずの記憶がよみがえる。それはメジロへの熱中とヒラマサへの挑戦との間に横たわる、私にとっての「失われた10年」だ。