初めてのスズキの記憶

 いつのころからかスズキはかっこよく“シーバス”と呼ばれ、いまや海のルアーフィッシングで最もポピュラーなターゲットとなった。海のアングラーが最初に親しむのは、たいていこの魚だ。淡水のブラックバスと並んで、このスズキを釣るためのタックルは非常に充実している。いまこの時代にスズキを狙い始めるなら、多少の運を必要とはしても、それほど大きな困難は伴わない。海のルアーフィッシング入門、と言ったところか。
 しかし40年前はそうではなかった。タックルのことはおいておこう。別にスズキ専用のタックルでなければ釣れないわけではなかっただろうから。それよりも決定的に不足していたのは、知識やノウハウの類だった。どんな習性なのか? どこにいるのか? 釣れる季節はいつなのか? 釣れる時間帯は? どんなルアーがいいのか? その引き方は?
 当時はインターネットなんかなかった。グーグルで検索なんてない時代だ。そして海のルアーフィッシングの黎明期。普通の釣り道具屋にはルアーは売っていない。海に行ってもルアーマンには出会わない。釣り雑誌にもルアー釣りの記事は掲載されない。父から子へとか、先輩から後輩へとか、技の伝承もない。あの海域では私たちが海のルアー第1世代だから。独力で、生の体験を通じて、ひとつひとつ学んでいくしかなかった。
 本当にルアーなんかで魚が釣れるのか? 小学校から中学校時代まで慣れ親しんだ投げ釣りの感覚からすれば、ルアーのフックはいくら何でも大きすぎると感じた。こんなものが本当に魚の口に入るのか? 夕食の食卓に、焼いたサンマやアジが並べられると、部屋からルアーを持ってきて魚の口にフックをねじ込もうとしてみたものだ。しかし、フックが大きすぎて、魚のおちょぼ口にはとても入らない。こんなの、釣れるわけがないじゃないか。
 いまならフィッシュイーターがいかに貪欲に餌を頬張るか知っている。スズキの口はがばっと開くと、3/0の特大フックでも簡単に入ってしまう。80cmのスズキが30cmのイナを追いかけているのを見たこともある。ユーチューブには、自分とほぼ同等の大きさの魚を飲み込もうともがくノーザンパイクの動画さえ投稿されている。フィッシュイーターは、金魚やグッピーとは餌の食い方が違うのだ。しかし40年前の私はそのことを知らなかった。

 16歳の誕生日にアンバサダー5500Cを手に入れ、ターゲットをスズキと定めてから、初めてのスズキを釣り上げるまで、実に7年もかかった。あの年月は、自分自身の先入観との相克だった。釣れるわけがない。今日もボウズに決まっている。懲りもせず海へ行ったが、正直言って、石に噛り付いてでも釣ってやるんだという熱い気持ちではなかった。ほかに道を知らないから、とぼとぼ歩いているだけだった。それは私に染み付いた負け犬根性だった。
 釣りをするときはいつも自転車で近所の海に行った。ごろた浜の突堤、漁港、ヨットハーバー、工場裏の防波堤といった、それまで投げ釣りをしてきた場所だ。ときには電車に乗って大河の河口にも行った。さすがにその河口は超有名ポイントで、早期から開拓者がいたが、他の場所では誰もルアーでスズキなんか狙っていなかった。こんなところにスズキなんているのか? そんな疑念がどうしても拭えなかった。
 そんな私を見て、父がそっけなく言った。「あんなところに大物なんかいるもんか。やっても無駄だからやめとけ」。私は反論できなかった。しかし今になって思う。なぜ父は息子に「頑張れ」と言わなかったのだろう? なぜ父は息子に「自分を信じろ」と言わなかったのだろう? なぜそれとは反対の、息子の努力を無にするようなことを言ったのだろう? なぜ? その答えはわかっている。親子と言えども他人だからだ。父はすでに死んでしまったが、私たち親子の間には血のつながり以上の絆はなかったのだ。
 私がもたもたしている間に、世間ではルアーによるスズキの釣果が上がり始めていた。釣り雑誌に紹介されることが増えた。ときには特集記事までが組まれるようになった。後にメーカーのフィールドテスターとなったような、先駆的でコアなアングラーたちが、盛んに記事を書いていた。そのころには、少し大きな釣り道具屋なら、ルアーが買えるようになっていた。そしてちらほらシーバスロッドが店頭に並び始めた。ダイコーのシーバスティック、ジャクソンのケイロン、そしてウエダの数々。田舎の小さな町だったから、大都市よりも数年遅れだったのではないか。
 ルアーで狙うようになる前のスズキは、夏の夜に青イソメを房掛けにして、電気ウキで狙うものだった。食味の旬もそのころだ。食材図鑑によれば、夏の代表的な白身魚とされている。タイやヒラメと並ぶ高級魚で、旬のスズキはたいそう美味だとも。だから古くはスズキは夏に釣る魚とされていた。しかし、ルアーで狙うようになると、産卵前の荒食いを始める11月から12月にかけてが釣期とされるようになった。その時期のスズキは小魚を狙って浅場にやってくる。そしてルアーへの反応がすこぶるよい。食べることが主要な目的ではない、スポーツフィッシングならではの釣期の変遷だといえる。私はそのことに気付くのが遅れ、長い間、スズキは夏の魚だと思い込んでいた。しかしルアーで狙うスズキの釣期はむしろ冬だったのだ。これが第1の鍵だ。
 スズキが汽水域を好むというのも、それ以外の場所では釣れないということを意味しない。スズキが接岸するのは、その季節にイワシなどの小魚が接岸するからであり、産卵を間近に控えてその小魚を荒食いするためである。とすると、海水の塩分濃度よりも、餌の存在の方が優先的な要因となる。ポイントの最優先の条件は、小魚の集まる場所。とすれば、休日に家族連れがサビキでアジやイワシを釣るような、身近な場所がポイントとなりえるのだ。これが第2の鍵だ。
 初冬のスズキが餌となる小魚を求めて浅い場所にやってくるのなら、何も深い場所をめがけてルアーを遠投する必要がなくなる。すると重量があって空気抵抗の少ないスプーンやジグでなくても、軽くて空気抵抗の大きいプラグでもよいということになる。その時期のスズキが食欲でルアーにアタックしてくるのなら、シルエットが小魚に近いプラグの方がむしろよいとさえ言える。そこで、ラパラが使える。その年代になると、ラパラなら多くの釣り道具屋で手に入った。ただしフローティングでは軽すぎて、ベイトタックルでバックラッシュせずにキャストすることが難しい。そこで私が選んだのは、カウントダウン11cmの黒銀だった。重さは16gあって、なんとか5500Cでキャストできた。スプーンやジグよりも、プラグ。これが第3の鍵だ。
 私は次々に鍵を見つけた。しかし、最後の鍵が見つからない。そのためにジグソーパズルが完成しない。それはスズキの釣れる時刻だった。これは大きな問題だった。今では克服したが、若いころの私は暗闇を極度に恐れた。独りで暗闇の中、海辺に立つなんて、とてもできなかった。寂しくて、怖くて、心臓をキューッと絞られたような気になる。それでもやはり夜でなければならないのか? スズキは夜行性だから、日のあるうちは釣れないのか? 釣った人たちはいったい何時にヒットさせたんだろう? そのことを釣り雑誌の投稿記事から読み取ろうとするのだが、どの記事もはっきりと書いていない。どんなルアーを使ったかははっきり書いてあるのに。ラパラ、ソルティーブラウニー、レッドフィンが当時の御三家だ。それは秘密ではない。なのにヒットした時刻は極秘なのか? そうとなれば写真から読み取るしかない。投稿者が釣ったスズキを高々と差し出している。背景は真っ暗ではない。朝か? 夕方か? それとも夜に釣った魚を、明るくなってから撮影しているのか?

 スズキを狙い始めて7年が経っていた。私は大学生最後の年となり、すでに翌春の就職先も決まっていた。やり残したことはたったひとつ。スズキを釣り上げることだった。
 その年の晩夏のことだ。午後5時ごろ、海の様子を見にヨットハーバーへ行った。防波堤の外側、テトラポッドの斜面を降りると、海中をキラキラしたものがざーっと流れているのを見つけた。目を凝らすと、大群で泳ぐイワシの鰓蓋が光を反射して輝いているのだった。右から左へ、左から右へ、行ったり来たりしていた。帯をなして、まるで川が流れるように。全長20cmぐらいのマイワシだった。現在ではカタクチイワシがベイトフィッシュの中心だが、当時はそのポジションにはマイワシがいた。約30年周期のレジームシフトによって、優勢となる魚種は変わるのだ。
 直感的に私はチャンスを感じた。スズキのシーズンにはまだ早い。しかしこんな状況なら何が起こってもおかしくない。日没までラパラをキャストしたが、その時はノーヒットだった。しかしその体験は鮮烈で、私はその場所を来るべき決戦の場に選んだ。
 防波堤の外側のテトラポッドの斜面。その対岸約30mにも沖一文字の防波堤があって、少し傾いで向かい合っている。その水路でハの字型に潮流が絞られ、そこだけ波を立てて強く流れている。何かが起こりそうな雰囲気。なのにそこには誰も立たない。投げ釣りでは対岸の防波堤が邪魔になって遠投できない。浮き釣りでは流れが速過ぎて仕掛けがなじまない。他の釣り人たちから敬遠されて、いつでもそこは空いていた。ルアーマン専用のような場所。私はいつもそこに立ってキャストした。
 秋になってシーバスロッドを買った。ダイコーのシーバスティックだった。10フィートの2本継、ダブルハンドのスピニングロッドだった。そいつのリールシート裏側にトリガーを取り付け、簡便にベイトロッドに改造した。ガイドはあまり足の長くないタイプだったので、そのままで使うことにした。これでラパラがキャストしやすくなった。投げ竿やシングルハンドのルアーロッドではこうはいかなかった。キャストが決まる。サミングが決まる。するとラパラ・カウントダウンは姿勢を保ったまま、まっすぐに飛んでいく。風が吹くとだめだ。くるくる回って、失速する。それでも飛距離は十分だった。
 これで準備はすべて整った。アンバサダー5500C、シーバスティック、ラパラ・カウントダウン11cm、そして決戦のフィールド。10月に入って、これから12月まで頑張るぞと思った。
 7年間の成果は思いがけなくやってきた。まだ10月の、最後の週。その日も日の出前からいつもの場所に陣取った。朝マズメが過ぎ、昼が過ぎ、夕方になった。いっこうにヒットはなかった。そのころは若くて体力があったから、いくつかの菓子パンと缶ジュースで、丸1日キャストできた。そして迎えた夕マズメだった。
 イワシの川が流れ始めた。雰囲気濃厚。しかしそこでヒットするなんて思ってもみなかった。竿先に異変を感じてぐりぐり巻いたら、魚がついていた。足元まで巻いてきたら、魚はぐいと向きを変え、横向きざまにひらを打った。強く引かれて、私はもたついた。近くでカニを獲っていた子どもが叫んだ。「あっ、スズキや!」。
 覚えているのはそこまでだ。その後魚とどんなやり取りをしたのか記憶には残っていない。ロッドはどれほど曲がったのか。ドラグは出たのか。スズキはエラ洗いしたのか。どれぐらいのファイトタイムだったのか。確か、カニ獲りの子どもが持っていた網で、誰かがすくってくれたようだった。それを持って私はテトラポッドを駆け上がった。鮮明に記憶に残っているのは、そのときスズキ特有の脂臭い匂いが、ぷーんと辺りに立ち込めたことだった。そうか、スズキが釣れるとこんな匂いがするのか。
 サイズは65cm。美しいプロポーションの、いかにもスズキらしい魚体だった。天を仰いで歓喜した。7年間は長かった。しかしそれがこの一瞬に凝縮した。いきなりのことだった。あっという間だった。魚の引きを十分に味わえなかった。あんなに釣れなかったのに、釣れるとなるとあっけなかった。
 リリースはしなかった。釣れた証拠として持って帰らなければならなかった。背中のデイパックに押し込んだら、魚体が丸まってすっぽり収まった。背中にずっしりと重さを感じながら、自転車をこいだ。家に帰ったらそのままの形で魚体が硬直していた。それをぐいと伸ばして、父が帰ってくるのを待った。
「お、釣れたのか」。帰ってきた父はそう言った。そっけなかった。しかし私に不満はなかった。アングラーとしてようやく自分の脚で歩き始めた。もはや父には何の期待もなかった。親から独立すべき時期が来たのだ。1986年10月。そのとき私は23歳。翌年は社会人になるのだった。