40年前。ABUアンバサダー5500Cは、店内奥のガラスケースに収められ、その威容を誇っていた。値札は3万円台前半。ガラスケースには鍵がかけられていて、商品を手に取って見ることはできなかった。高校生になったばかりの私は、何度となくその前に立ち、妖しげな光を発するそのリールを、食い入るように見つめていた。それが買えるだけの金はまだ溜まっていなかった。それでも電車で1時間半かけて、その店に通った。ひとつには値上がりしていないかを確認するため、そしてなにより、眺めているだけでも心が満たされたからだ。
ガラスケースの中には、ほかにも、同じABUのカーディナルやアブマティック、500シリーズ、ミッチェルの300番、308番、ペンのスピンフィッシャーやセネターなどが並べられていた。どれも高価だった。磨き上げられて、キラキラ輝いていた。まるで宝石を見るような目で、私はそれらを見た。それぞれに欲望をそそられたが、私はぶれなかった。狙いは一途にアンバサダー。それ以外は考えられなかった。
そのころ、国産のリールで1万円を超えるものは、まだほとんどなかった。たしかダイワがミリオネアを出していた。他は知らない。国産品にはまったく興味がなかった。そのころの国産メーカーは、舶来品に似せた類似品を造っては、国内外で安く売っていた。ミリオネアもそのひとつだった。初期のミリオネアはアンバサダーの寸分たがわぬコピーであり、ユーザーを欺くようなダイワのそのやり方を、私は心から嫌悪した。手に入れるなら、どんなに高くても、本物だ。そう固く心に決めていた。
店で眺めるだけでは足りなかった。ABUの日本代理店だったエビスフィッシングに
所定の金額の切手を送り、カタログを取り寄せた。リールやロッドのシリーズ、ルアー、ライン、スナップスイベル、ネット、ギャフ、そしてカバンやスモーカーなどが載っていた。目玉はもちろんアンバサダーだったが、リールだけでは釣りができないことも自明だった。併せてロッドも手に入れなければならない。とても金が足りない。でも、もし買うならどれがいいか。そんなことを考えながら、うっとりととろけそうになって、長い時間カタログを眺めて過ごした。
中学生のころ、開高健の『フィッシュ・オン』に魅せられて、私はそれまで熱中していた投げ釣りをやめ、ルアー・フィッシングに転向した。アンバサダーを知ったのは、その『フィッシュ・オン』によってだった。ルアー・フィッシングを始めた最初は、オリムピックのぺなぺなのピストルロッドに、ダイワの金きらのスピンキャストリールを使って、釣り好きの級友たちと川でスピナーを引いた。私には釣れなかったが、級友の一人はオイカワを釣った。私はそれを、開高健がアラスカのナクネク川で釣ったキングサーモンと比べて、あまりの落差にげんなりした。それに加えて、もともとが海釣り派だったので、私には浅くて狭い川での釣りはしっくりこなかった。
いつかは開高健のように、アンバサダーを使って大物を釣り上げるのだ。そんなことを漠然とした目標に思い描きながら、模索を続けた。『ルアー・フィッシング入門』のような本で、基礎知識を旺盛に吸収した。どの入門書も一様に、対象魚の一覧、釣り方の解説、タックルやルアーの名鑑、釣り場の分布地図等で構成されていた。研究の結果、淡水でのルアー・フィッシングのターゲットは主に鱒の仲間であり、冷水を好む性質から、その釣り場は本州の中部より北に偏在することを知った。また、肝心の鮭については、日本国内では漁業権の関係で川で釣ることが禁止されており、おいそれと釣りができるものではないことも知った。
そのころ私は大阪府の南端に住んでいた。運転免許もクルマも持たない少年が自転車で行ける範囲には、残念ながら鱒のいる湖はなかった。ブラックバスの密放流が広がる前、もしくは広く認知される前のことである。状況は絶望的と言えた。しかし、海なら目の前にある。そこで今度は『海のルアー・フィッシング入門』という本を買った。そして主なターゲットがスズキであることを知ったのだ。著者は関東の人であり、紹介されている釣果写真も三浦半島あたりのものだったが、海ならすべてつながっている。大阪湾の南端にも、スズキならいるのではないか?
そのころ私はまだスズキを見たことがなかった。スーパーの鮮魚売り場に並ぶような大衆魚ではない。それにあんな大きなもの、丸ごとの状態では店頭に並べられないだろう。もしかしたら切り身等で売っていたのかもしれないが、それとて私は見たことがなかった。だから想像してみるしかなかった。
しかし本で読むスズキは、まるでキングサーモンではないか。汽水域を好んで生息している。成長すれば体長1メートルに達し、獰猛なフィッシュイーターである。針にかかると猛烈にジャンプして、果敢にファイトする。開高健が釣ったキングサーモンは、針にかかった後、2度ジャンプしたと『フィッシュ・オン』には書いてあるが、それならスズキはまさにキングサーモンに勝るとも劣らない好ファイターだ。私は嬉しくなった。ターゲットをまだ見ぬスズキと定めた。目標ができて、俄然やる気が出てきた。
とすると、アンバサダーを海で使うことになる。『海のルアー・フィッシング入門』によれば、海の場合は淡水での場合よりも、ルアーを早くリトリーブしなければならないらしい。淡水では徒歩、海では自転車ぐらいの速さだ、と書いてあった。いまではスズキに関する限り、そんなばかなと思うが、当時の私はそれを真に受けた。ABUのカタログとにらめっこして迷った。どっちのアンバサダーにする? 開高健が使ったのと同じ5000Cか、それともギア比の高い5500Cか?
5000Cは黒でとても渋いが、5500Cの色はグラファイトグレーと表現されていた。これはこれでとても洗練されていた。どちらも同等に美しく、気品があった。私は、海で使うからには5500Cにすべきだ、と決断した。
高校生になった時に、月々の小遣いを、それまでの3千円から、5千円に上げてもらった。それによって貯金は加速した。夏、16歳の誕生日に祖母から1万円の小遣いをもらって、目標の金額を達成した。その日のうちに、3万3千円を財布にねじ込み、南海電車に乗って、あの釣具屋に向かった。
店内を勇ましくずんずんと進み、いつものガラスケースの前に立った。ところが、アンバサダー5500Cはちょうど売れてしまって、ガラスケースから消えていた。私は大いに落胆した。私の視線をたっぷりと吸ったあの5500Cが欲しかった。ここまで来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかなかった。その辺り一帯は釣具屋が集まる問屋街だった。アンバサダーを置いている釣具屋は他にも知っていた。そして2軒目の釣具屋で、5500Cを購入することができた。ただしそれは後で厄介なことになる、ブルーカードのない、並行輸入品だったのだが。
ともあれ、こうして私はアンバサダー5500Cを手に入れた。1979年8月13日のことだった。その夜はうれしくて眠れず、枕元に5500Cを置いて、夜中に何度も部屋の明かりをつけては、くるくるとハンドルを回した。
リールは手に入れたが、ロッドとルアーはまだそろっていなかった。当面ロッドはそれまで使っていた3.8mの投げ竿を流用するとしても、ルアーの入手はまだ簡単ではない時代だった。そのために、またもや電車で1時間半かけて、問屋街の釣具屋をめぐるしかなかった。その当時、コンスタントに手に入るルアーは、ラパラとトビーぐらいだった。オークラやダーデブル、スティングシルダなどは、見つけたときに買わないと、次にいつ入荷するかわからなかった。
ルアーを扱っている釣具屋はまだほとんどなかった。その釣具屋がルアーを扱っているか否かは、店舗に入れば匂いですぐに分かった。ルアーの扱いがあれば、店内にワームオイルの甘い香りが充満していた。そのころワームはまだパッケージに入っておらず、大ざるに山盛りにしてあるのを、割り箸でつまんで購入するのだった。私はワームは使わなかったが、あの匂いを嗅ぐと気持ちが安らいだ。
ルアーを買うたびに、ご満悦でウムコのタックルケースに収めていったが、釣りに行くたびにいくつも失った。そのころの私はまだ下手くそで、重いルアーでなければバックラッシュするし、遠投しなければ魚が釣れない、スズキは深い海の底にいると思い込んでいたものだから、スプーンやジグを頻繁に根掛かりで失った。またキャスティング時に背後のテトラポッドにぶつけて、プラグを破壊したりもした。そうやって失くしたルアーは、ラパラ、トビー、オークラ、ダーデブル、スティングシルダ、キラー、ハイロー、ルーカス、エゴン、シャイナー、等々だ。あのころ、ルアーはどれもとにかく高かった。今の貨幣価値でいうなら1個3,000円から5,000円ぐらいに相当するのではないだろうか。高校生の小遣いでは月に1個買えればいいほうだった。だから私のウムコのタックルケースは、悲しいまでに、いつもスカスカだった。
投げ竿に替えて、ようやくルアーロッドを買ったのは、高校3年生のときだった。欲しかったABUのロッドは高くて買えなかった。比較的安くて信頼の置ける、ダイコーのルーズ・フジ・スピードスティックを買った。5フィート3インチのワンピース、ビンビンのカーボンロッドだった。それを自転車に括り付けて、海へ行った。海ではたった5フィートのロッドは厳しかった。しかし、シーバスタックルなどまだなかった時代の話だから、それで満足するしかなかった。
スズキはいっこうに釣れなかった。来る日も来る日もボウズだった。そしてそのころ、駆け出しのルアーマンの多くが陥る、お決まりの不信感に取りつかれていた。そもそもルアーで魚が釣れるということが信じられなかった。こんなものに魚がどうやって食いつくのか? こんな大きな針が魚の口に入るのか? 投げ釣り時代の経験を振り返ったり、水槽のグッピーが餌を食うのを観察してみても、魚がルアーに食いつくのをまるで想像できなかった。フィッシュイーターがルアーを小魚と思って襲い掛かるときは、どのような行動に出るのだろうか? そっと近づいて匂いを嗅ぎ、これは餌ではないと気付いてそっぽを向くのだろうか? それとも猛然と突進してきて、いきなりパクリと飲み込むのだろうか? うんともすんとも、当たりさえないというのは、もしかしてこの海域にはスズキがいないからなのではないか?
アンバサダー5500Cに誓って、もう餌釣りはしないと心に決めていた。それは開高健の教えだった。彼は著書『フィッシュ・オン』の中でこう言った。「自然の分泌物に自然がとびつくのはあたりまえである。ただのことである。いくら釣師が仕掛けや合せの呼吸に心魂をそそいだところで餌という決定的な一点では石器時代である。知恵もなく、工夫もなく、また、あまりに容易である。そもそも芸術とは反自然行為ではなかったか。釣りを芸術と感じたいのなら自然主義を断固としてしりぞけなければならない。釣りを生業とする漁師なら話は別だが、遊びで釣りをする“芸術家”なら、もっと次元の高い、むつかしい道に愉しみを発見しなければならない、少なくとも魚と知恵くらべ、だましあいをして勝敗を競うようでないといけないのではあるまいか。(新潮文庫『フィッシュ・オン』P84より)」
おそらくあの時代の多くのアングラーが大いに影響を受けたであろう開高健のこの言葉は、ルアーマンの排他的な宗派性と餌釣りに対する敵愾心の発端となった。しかし、それだけではなかった。私たちはたびたび、釣り場で多数を占める餌釣り師から、少数派ゆえの理不尽な迫害を受けてきたのだ。ルアーをキャストしていると、初めてルアーを見るクロダイ師から、「そんなことをやるんなら、よそでやれ」と、ひとつまみの餌を投げつけられたものだった。どんなに頭にきても、黙ってその場を去るしかなかった。「これはルアーと言ってね、これでスズキが釣れるんだよ」などと説明するのも面倒だった。なにより私自身がそう信じることに揺らいでいた。
その反感は、私たちルアーマンを、反餌釣りで凝り固まらせた。釣り場にはゴカイの空容器や粉餌の袋が散乱していた。「餌釣りのやつらはこれだから嫌いなんだ。ルアーマンならこんなことは絶対にしない」。今ではすっかり怪しくなったルアーマンのマナーのよさも、当時は餌釣りと一線を画すために自らを律した結果だった。少数派であるがゆえの選民意識のようなものが、私たちの中に育っていった。
だからというべきか、私はルアーで釣ることに意地になっていた。それに、いったんスズキを狙い始めたら、今さらカレイやアイナメのような小物釣りに戻ることはできそうもなかった。ルアーでのスズキを諦めるくらいなら、いっそのこと釣りそのものをやめる。そんな覚悟を決めていた。
大学生になった。まだ1匹のスズキも釣っていなかった。私が海のルアー・フィッシングを始めたのはその地域で最も早い時期だったにもかかわらず、釣果を得るのはとことん遅れていた。そのうちに世間ではスズキのことを「シーバス」などと呼び始め、釣り雑誌でもルアーでの釣果が話題になり始めた。ラパラの代理店のツネミがシーバスダービーを開催して、雑誌に掲載された入賞者のド迫力の釣果写真に驚かされた。メーターオーバー。なんてでかさだ。でっぷりと垂れ下がった腹。こんなのが釣れるのか? 私は大いに焦った。悔しかった。そして劣等感に苛まれた。自分がスズキを釣り上げる姿を想像してみることさえできない。いまのままの延長線上にはゴールはない。自分の何かを変えなくてはならなかった。
とはいっても、大学時代はそれなりに学生生活を謳歌していた。必ずしも釣りが関心の一番ではなかった。しかし、1年留年して5年がかりで大学を卒業しようとするとき、すでに就職も決まっていて、最後にやり残したことは、やはりスズキを釣り上げることだった。そのころ、近所の釣具屋にもシーバスロッドが並び始めた。当然ながらベイトモデルなどはない。すべてスピニングロッドだった。それをくるっとひっくり返してトリガーを付けたら、ベイトロッドにならないか? 試してみる価値はあった。
買ったのはダイコーのシーバスティックだった。2本継で、長さは確か10フィートだったと思う。スピニングロッドにトリガーを付けるためには、リールシートのフードは下側が固定されていて、上側から締めるタイプでなければならなかった。ダイコーのシーバスティックはちょうどそのような仕様だった。木を削ってトリガーを作り、リールフードの裏側に接着剤で固定し、集結コルク材を削って、グリップに傾斜を設けた。それはいわば擬似オフセットの原型だった。それにアンバサダー5500Cを装着すると、ごきげんなほど具合がよかった。こうして私は初めてベイトのロングロッドを手に入れた。
ロッドを替えたことで、大きな変化が現れた。とりわけプラグをキャストしやすくなったのだ。投げ竿と比べると、プラグの重さがしっかりとロッドに乗る。バックラッシュしない。これならジェット天秤との併用でなく、プラグ単体でも飛ばせる。シングルハンドのショートロッドと比べるなら、飛距離が格段に伸びた。それまでバックラッシュを嫌い、飛距離を稼ぐためにスプーンに頼ることが多かったのだが、これからは躊躇なくプラグも使える。ということは、ラパラが使えるということだ。さすがに軽いフローティングは5500Cでは厳しい。しかしカウントダウンなら、十分いける。シーバスロッドとの組み合わせで、アンバサダー5500Cが本来のキャスタビリティーを発揮し始めた。
ラパラ。結局それが決定的な要因となって、その年のうちに、初めてのスズキを釣ることができた。10月最後の週の夕暮れ、カウントダウン11cmの黒銀に、ズンと来た。美しいプロポーションの、65cmだった。天を仰いで歓喜した。その出来事は私の世界を一変させた。努力はいつか実るものなのだと、人生で最も大切な真理を学んだ。そしてそれ以降「粘り勝ち」は私の必勝パターンになった。
あの日、5500Cを手に入れた16歳の誕生日から数えると、実に7年が経っていた。その後も、今に至る40年近くにわたって、アンバサダー5500Cは私の愛機となった。私はただの一度も、浮気をしたことがなかった。(うそ。ほんとはちょっとだけした。)