今から40年以上の昔、開高健の著作『フィッシュ・オン』と出会わなかったら、私の人生は今とは大きく異なったものになっていたに違いない。ルアー・フィッシングは始めなかっただろうし、ABUアンバサダーも手に入れなかっただろう。すると“さよなら、アンバサダー”もなく、このSalBaiTaもなかった。そしてもちろん、ウェブ上でこんなことも書いていなかった。
本屋で『フィッシュ・オン』の背表紙を見つけたとき、当時中学生だった私は、きっと釣りの本に違いないと思った。表紙に描かれたイラストの人物は、イレブン・フィッシングの大橋巨泉に見えた。小学生のころから投げ釣りに夢中だったので、釣りの本であることを期待して購入した。確かに釣りの本だった。ただしルアー・フィッシングの。それにイラストの人物は大橋巨泉ではなく、著者の開高健だった。
それはひとことで言えば、世界を股に掛けての釣行記だ。アラスカのキング・サーモンに始まって、スウェーデンのノーザン・パイク、アイスランドのアトランティック・サーモン、西ドイツのブラウン・トラウトと続き、ナイジェリア、フランス、ギリシャ、エジプト、タイを回って、最後は日本、銀山湖のイワナで終わる。1971年に朝日新聞社から刊行され、1974年に新潮社によって文庫化されている。私が読んだ新潮文庫のそれは、光沢のある真っ白な紙が使われていて、写真は全部カラーの、とてもきれいな本だった。
繰り返し、繰り返し、何度も読んだ。私の一番のお気に入りは、やはりアラスカ、ナクネク川のキング・サーモン編だ。ABUのピストル・ロッドにアンバサダー5000Cを駆使してキング・サーモンを釣り上げた開高健は、何と言ってもかっこよかった。そしてまた文章がいい。ほんのわずかなページ数でしかないにもかかわらず、あの中で開高健は、完結するひとつの物語を見事に描き切っている。私はそこにしびれた。虜になった。
それ以来、すっかり開高健にのめり込んだ。彼の著作は、手に入るものすべて読んだ。彼の作家としてのピークは、『ベトナム戦記』(1965)、『輝ける闇』(1968)、『夏の闇』(1972)の連作のころだ。ことに『夏の闇』は開高文学の金字塔と言われている。私もそう思った。『フィッシュ・オン』のときもそうだったが、その文体のかっこよさと主人公のダンディーなふるまいに憧れた。自分もこんな男になりたいと強く思った。
高校時代はとにかく開高健の真似をした。投げ釣りからルアー・フィッシングへ転向した。ABUアンバサダーを手に入れた。陰でこっそりタバコを吸うようになって、ライターはイムコを使った。高価なモンブランの万年筆を買った。無理して原稿用紙20枚の短編小説を書いて、出版社に送った。志望の大学は、迷わず開高健の母校を選んだ。あの頃はすべてにおいて開高健が絶対の基準だった。その一色で塗りつぶした。
出会いから40年あまり。そうでありながら、今では開高健は私の好きな作家ではなくなった。かつてはあれほど憧れたのに。夢中で彼の後ろ姿を追ったのに。私自身の様々な人生の体験を経て、彼の思想、行動、文学が、すっかり色あせて見える。かといって、嫌いになったわけではない。また、他に好きな作家がいるわけでもない。
好きでも嫌いでもない。父親に対する感情と似ている。幼いころにはあんなに大きくて輝いて見えた父親が、いざ自分が大人になってみると、ありのままに平凡な男だったのだとわかる。その存在はあまりに身近過ぎて、好悪の対象ではない。私にとっての開高健も、年月を経てそのようなものとなった。父も開高健もすでに死んでしまったが、私の中で同化した一部として生き続けている。
ときどき私の中の開高健と対話する。そこでの開高健は私だけのものであり、私と彼の対話は何ものにも妨げられない。それは、時空を超え、閉ざされた空間での、二人だけの、遠慮のない対話だ。実在していた開高健は、時流に乗って成功した半面、時代の制約も大いに受けていたが、そんなことはお構いなしだ。私は容赦なく、彼のまとう伝説めいた名声を、時の流れをヤスリのように使って、削ぎ落としてしまう。そうやって今もなお私は、開高健に対する理解を深めているのだ。
世間からは、とうに忘れられたように見える。彼の著作は20世紀の古典とはなりえず、すっかり本屋から消えてしまった。私の住む田舎町には3軒の本屋があるが、書棚に開高健の著作は1冊もない。注文すれば取り寄せることが可能かもしれないが、店内に在庫していないのは、要するに売れないからだ。一時期はあんなにもてはやされた開高健も、死後、時代を超えて脈々と読み継がれる作家ではなかったということだろう。
それでも、一部には今なお熱狂的なファンがいて、「大兄」とか「巨匠」とか呼ばれているようだ。彼は生前、会う人、会う人、ことごとく魅了したというから、そういう人たちが今なお彼の伝説を語り継いでいるのだろう。偉大な作家であった、一流のアングラーであった、ダンディーな男であった、と。しかし、私の中の開高健は、それとは少し違う。
18歳、春。私は志望どおり、開高健と同じ大学に入学した。その当時すでに創立百周年を迎えた歴史ある大学だった。道路を挟んで、教養キャンパスが古く、専門キャンパスが新しかった。これが開高健の吸った空気か? 深呼吸して、くくくと笑った。しかし私は同じ空気を吸いつつ、図らずも開高健とは異なる道を歩み始めることになった。
大学生ともなると一気に視界が開けた。これが大学生になるということか? いくつも歳の離れた上級生が新入生相手に論争を吹っかけてくる。「意識が先か、存在が先か」。なんだ? 開高健もそんなことを言っていたぞ。新入生だからと気後れなどしない。意見が対立し、やり込められようとするが、それに負けじと応戦する。すると上級生は別れ際に「これを読め」と言って、岩波文庫の、古典とされる書物を私に手渡した。「えっ、これがあの有名な?」
わくわくしながら読んでみると、まさに目から鱗だった。意外に難しくない。世間で言う古典の解釈の方がよほど難解だ。ははぁ、さてはもったいぶった学者ども、解説にかこつけて原典を歪めてきたな? それに引き換え、生の古典の世界というのはなんと若々しく、ストレートで、力強いことか。やっぱり古典は自分で読まなければだめだな。
翌日、待ち合わせの場所へ行く。「読んだか?」「はい読みました」「どうだった?」「理解しました。次に読む書物を紹介してください」。
読んだ、読んだ。20世紀を導いた古典の数々。私の精神は生まれて初めて無限の自由を感じた。目の前で扉が開いた気がした。世界が今までとは違って見えた。
「おれたちで世界を変えるんだ」と先輩は言った。昨日まで高校生だった18歳の新入生相手に、そんな大それたことを言うのか? 昔の大学生は天を畏れていなかった。そういう自由でバンカラな校風。その校風はほとんど失われていたが、私が入学した時にはまだかろうじて残っていた。
私の中で開高健の存在がしぼんでいった。彼は細部を延々と描写するのは巧いが、物事の本質を捉えるには繊細すぎてダイナミズムに欠けるうえに、斜に構えて低俗だ。文体は独創的で語彙は豊富だが、その思想はありきたりに貧弱で、戦後の高度経済成長期に形成された厚い中産階級に根差し、保守系リベラルの紋切り型から決してはみ出そうとしなかった。そのおかげで彼は時流に乗り、大いに成功することができた。けど、それって本当にかっこいいか? むしろ相当かっこ悪いことなんじゃないのか?
ベトナム戦争の取材は、開高健にとって創作活動の転機となった重要な体験だった。そのベトナム戦争に対する彼の見方は次のようなものだった。お人好しのアメリカは、図らずもフランスによるインドシナ植民地政策失敗の尻拭いをさせられるはめになり、共産主義の脅威から東南アジアを守るという大義を掲げて、南ベトナムの内戦に介入した。ところが、肝心の南ベトナム政府が無能と腐敗のためにあてにならず、またアメリカ政府と軍首脳が現地住民の心情を理解するデリカシーを欠いていたため、善良な米軍兵士たちの意に反して南ベトナムの人々の離反を招き、気が付いたらベトコンとの戦争の矢面に立たされてしまっていた。抜けるに抜けられなくなってアメリカはいたずらに戦局を拡大し、とうとう北ベトナムとの戦闘にまで突入するという泥沼にはまり込んでしまった。もとよりこの戦争には何の意味もなく、アメリカ、南ベトナム政府、ベトコン、北ベトナム政府が、本来ベトナムの主役であるはずの農民たちそっちのけで、それぞれ勝手な思惑に基づいて参戦している。その結果、あまりに貧しくてなすすべのない農民たちを苦しめているのであり、この戦争で誰が勝っても農民たちにとっては不幸となる。あぁ、なんと哀れなベトナムの農民たちなのだろう。
開高健は本当にベトナム現地での取材を通じて農民たちの惨状を目の当たりにし、そのような結論に達したのだろうか? あるいは自分の書いたルポから一切のイデオロギー色を排除するために、敢えてそのような表現にとどめたのだろうか? それともそれは最初から用意されてあった落としどころで、そこへ導くために取材の対象を選び、取捨選択して書いたのだろうか?
きっと取材前からのコンセプトなり、約束事があったに違いない。世界を自分の都合のいいように操ろうとするアメリカに対する根本的批判は避け、遠くアジアの小国に軍を派遣して介入することの是非は不問とする。南ベトナム解放民族戦線を肯定的には描かず、どんなに好意的に描いても、ベトナム政府の失策やアメリカによる過度なおせっかいのせいで、ベトナム農民たちをみすみす解放民族戦線の側に追いやることになった、まで。解放民族戦線に加わったベトナム農民に同情はしても、決して共感はしない。そういったことを、中立を装った保守系リベラルの視点で書く。目線はできるだけ低く、ベトナム人と生活を共にしながら、体験を交えて・・・。
それが『ベトナム戦記』であり、さらにそれを一層洗練された文学に練り直したのが『輝ける闇』だった。彼はオーダーに応え、見事にやってのけた。開高健は朝日新聞と組んで南ベトナム政府軍に従軍して取材したのだが、それとは対照的に、毎日新聞の記者はいち早く北爆下の北ベトナムに乗り込んで、ハノイ政権の側からもベトナム戦争を取材した。その中のひとつが米軍による病院爆撃の記事だ。毎日新聞のその記事はアメリカの逆鱗に触れ、駐日米国大使からの名指しの非難を浴び、外信部デスクが左遷され、最終的には退職に追い込まれた。開高健は虎の尾を踏まないように上手くまとめたので、そのような追及はなかった。
これらのことは、私がリアルタイムで見聞きし、知ったことではない。世代が違うので、書かれてから私が読むまでには、10年前後の開きがある。しかも、読んですぐの感想でもない。さらに10年、20年の考察を経ている。だから後の時代の無遠慮な目で、他人の過去を厳しく批判することになりがちだ。それに対して開高健は、死後、私の中で反論している。「人はどんなにあがいても、自分の思うようには生きられない。時代の制約の中で、明日の飯の種のことも心配しながら、今日をあくせく生きるしかないのだ」と。今の私は思う。そのとおりだ。
結局のところ小説家開高健も、戦後の高度成長期とその終焉を背景に、出版社やマスコミ、映像会社によって担がれた、時代の偶像に過ぎなかった。彼は根っからのコピーライターであり、自らもクライアントのオーダーに応えようと必死になった。それを「ブンガク」だと彼一流のダンディズムで見得を切る一方で、時には自嘲気味に真情を吐露しては、そこからの脱出を夢見た。彼が好んだラブレーの言葉「三つの真実にまさる一つのきれいな嘘を」は、そんな彼の矛盾を覆い隠す気の利いた護符だった。
彼はきっともがき苦しんでいたに違いない。彼の背負った苦しみは、双極性障害の精神疾患だけではなかったはずだ。そしてもちろん、彼の死後、浅薄な友人たちが騒ぎ立てたように、稀代の悪妻によるものでもなかった。私は思う。開高健はもっとたちの悪い泥沼に足を突っ込んでいて、そこから抜け出せずにいたに違いない。サントリーや朝日や文芸春秋どころではない、もっと恐ろしいクライアントに羽交い絞めにされていたのではないのか。あるいは自らその庇護のもとに入ったのか? つまり悪魔に魂を売ったと?
私の中の開高健は、そのことを否定しない。「どうせ長いものに巻かれなければならないのなら、せめて飛び切りかっこよく」。彼はそう言って、ぺろっと舌を出している。死んで苦しみから解放された、屈託のない笑顔で。
1989年、私は26歳。開高健が死んだとき、そのことを私に告げたのは母だった。「あんたの好きな開高さん、死なはったでぇ」。私は「えっ?」と言ったが、それは彼の死にショックを受けたからではなかった。自分がかつて開高健のことを好きだったことを忘れていたからだ。熱が冷めていた。彼の死そのものには何の感慨もなかった。そのときはまだ開高健は、私の中に入り込んではいなかった。
狂乱のバブルが終わったころ、私は東京で働いていた。そして30代前半で転職に失敗した。とんでもないブラック企業に入社してしまった。正しい判断のできる賢い人なら、すぐに見切りをつけて再転職しただろう。しかし私は賢くはなかった。それに、あまり器用なほうでもないから、そう幾たびの転職もままならない。あるいは、このまま行けばどうなるのか、怖いもの見たさのような気持ちも働いた。私は決断力のない茹で蛙だったのだろうか? 6年間、屈せず耐え抜いた。
異常な上司だった。住居が大阪で職場が東京。月曜に大阪からやってきて、土曜日に大阪へ帰る。会社はそれを出張扱いして、1週間ごとの往復の交通費、毎日のホテル代、そして日当までもが支給されていた。彼は受け取ったホテル代をまるまる浮かせて懐へ入れるために、毎日会社に寝泊まりしていた。そして部下たちをもそれに付き合わせたのだ。終電の時刻が近づいてくると、ネチネチと説教が始まった。1時間、2時間、上司の前に立たされる。突如として激昂し、机を叩いて怒り狂う。部下としてはなすすべがない。耐えるしかなかった。
死の行軍。月曜の朝9時に出社すると、びくびくと上司の顔色をうかがいながら、連日連夜午前2時、3時まで仕事させられ、その間会社に寝泊まりで、土曜の夜まで家に帰してもらえない。そのすべてがサービス残業。そしてしばしば昼食抜き。恐ろしく長時間の勤務だが、業務の効率は極めて悪く、日々シシュフォスの徒労で、成し遂げる成果はごく僅かのものでしかなかった。あれはいったい何のためだったんだろう? 資本主義とは、極限まで生産性を高めることが至上命令ではなかったのか? それともあれは、何か強制収容所かカルトのようなものだったのだろうか?
いま振り返ってみれば、異常なのはその上司だけではなかった。会社全体が異常だった。コンプライアンスも業務効率も無視。恐ろしい勢いで社員が辞めてゆき、それと同じか上回る数の新たな犠牲者たちが流れ込んでくる。一見成長著しいIT系の一部上場企業だったから、求人すればいくらでも採用できた。それを見て私は理解した。ブラック企業はこう考えている。社員は痛めつければ痛めつけるほど、きりきり頑張る。労働条件が劣悪であればあるほど、必死になって働く。人は「生きろ!」と励ますよりも、「殺すぞ!」と脅した方が、必死になって生きようとする。長くは保たないにしても、洗脳が解けるまでの間なら、それは成り立つ。そうやって、次々と人を使い捨てにして回転させた方が、長く大切に育てるよりも、結局は安くつく。そんな奇妙な理屈の他には、あの仕打ちに説明がつかない。
私たちは耐えただけではない。抵抗もした。気の遠くなるような持久戦だった。そして最終的にはその上司を職場から叩き出すことに成功した。しかし私は自らも会社を辞めた。勝ったのか負けたのかわからない。心身ともにぼろぼろだった。これからどうやって生きていこうか、途方に暮れた。
一刻も早くまっとうな人生を取り戻そうとしたとき、再び手に取った開高健はすっかり骨抜きになっていた。開高文学の最高峰だと思っていた『夏の闇』を読み返してみても、読後感は「だから、なに?」のひと言だった。どんなにあがいても這い上がることのできないどん底の経験を経て、私の感性は大きく変化した。開高健の描く世界はふわふわとしていて、生活感がまるでなかった。茫然自失の私がなんとか地に足の着いた生活を取り戻そうとするとき、求めたものは世の中にもっと強く切り込んでゆける、何か怒りのようなものだった。地中深くから噴出するマグマのような、強い感情に身を委ねたかった。開高健には、それはなかった。
なぜ高校時代の私は、こんなものに熱中したんだろう? だが今振り返って、わからなくもない。初めて読んだ時の感想は、とにかく「かっこいい」のひと言だった。高校生には「魂の地獄と救済」とか言われてもわかるはずがない。それよりも、「信ずべき自己を見失った」という主人公の行き着くところは、むしろぎりぎりの自己肯定だと映った。食べて、眠って、セックスに耽る。あとはごろごろぶらぶらして過ごす。主人公の本能の欲求と営みが保つ微妙なバランスが、いくらか自嘲的に斜に構えながらも、知的に冷徹に自己分析される。そこに男のダンディズムを感じずにはいられなかった。ただし疑問はあった。これの一体どこに「闇」があるのだろう?
「かっこいい」は、私が開高健を読んで一番に感じるキーワードだった。開高健はあの華麗な文体を駆使して、ダンディーにふるまうことに長けていた。その深部に発作性の精神疾患の病魔が潜んでいたとしても、それさえ作品上の洒落たアイテムにしてしまう。それはいわば身体を張った確信犯。彼は自分自身を高く売るすべを知っていた。世間を知らない高校生だった私は、その皮相のダンディズムに、いちころで心酔してしまったのだ。
十分に年齢を重ねた今では、開高健を読んでいっとき酔ったところで、醒めれば跡形もなく消えて失せることを知っている。現実の世界では小心者の小市民でしかない男が、その中ではダンディズムを気取る作り物の世界。読者は夢見心地で、そこに自分を重ねる。それは後に残らない美酒のようなものだ。血や肉にはならない。毒にも薬にもならない。これが文学? 果たして文学とはそのようなものだったろうか? もし細部をこれでもかと描写することが文学だというなら、人間の頭脳にはいったい何のために想像力が備わっているのか?
今でも時々読み返す開高健の作品は、もはや『フィッシュ・オン』だけとなった。しかも冒頭のアラスカ、ナクネク川のキング・サーモンの章のみ。他を削り落としたとしても、あれだけは残る。私の原点。今ならはっきりこう言える。結局、最初の出会いのあれが最高だった。あの中での開高健こそがかっこいい。他はダメだ。わざとらしくて、かっこ悪い。
開高文学に興醒めしつつも、特別に『フィッシュ・オン』に価値を置いているのは、私がアングラーだからだ。しかし同じ釣行記でも、それに続く『オーパ』はもういただけない。『フィッシュ・オン』が1971年、『オーパ』が1978年。その間に『夏の闇』が入る。7年間の間に、開高健は贅肉をつけて太った。文章はまるで砂糖水で薄めたようだ。『オーパ』を読むのは文字通り苦痛だった。休み休みでなければ、読み続けることができなかった。そして、のちにテレビで放映されるようになった一連の釣行ものは、それはもう我慢がならないほどのしろものだった。
少し想像力を働かせればわかることだ。映像が開高健の姿を近くにとらえているとしよう。視聴者は自分が開高健を直接見ているかのように錯覚する。しかしそこから少し引いて見れば、カメラマンが機材を構えて彼の間近に立ちはだかっている。彼は釣りに没頭しているわけではなく、カメラを意識してポーズをとり、いかにも気の利いたセリフを口にしているわけだ。その姿はもう「役者」であり、どんな冒険も「やらせ」としか思えない。アイドル歌手の写真集やイメージビデオみたいなものか。
実際、彼の「冒険もの」にはスタッフが随行し、プロたちが効率的に仕事をしている。ということは、ロケハンが入念に行われて、もしかすると現地のガイドや通訳も雇われ、お膳立てが整ったところで主役が登場するという段取りだ。ところで、それだけのプロを動員できる資金はどこから出ているのか? もちろん最終的にはスポンサーからだ。とすると最初から高く売れるものを企画するようになり、腕利きのプロデューサーが采配を振る。開高健の役割は、小説家としての知名度と、ところどころで吐く気の利いたセリフだけ。そんなもの、一流の文明批評だとほめそやしたところで、裸の王様も甚だしい。
あれだけの映像がそんなに簡単に撮影できるわけがない、あれはそんな安直な作品じゃないという反論があるなら、それはむしろ私に対する賛同だ。そう、そのとおり。だから私はげんなりしているのだ。手の込んだそのわざとらしさに。だったらアングラー役は開高健でなくてもいい。シマノやダイワ提供の釣り番組で十分だ。自分で自分を汚すような真似はもうやめてくれと、私は心の中で叫んでいた。
たけどね、『フィッシュ・オン』は違ったのだ。カメラマンを1人同行させてはいるが、共にベトナムの戦火をくぐり抜けた戦友で、開高健と主従の関係にはない。カメラマンも主役そっちのけで釣りに熱中して、開高健がキング・サーモンをヒットさせたときには、はるか遠く2キロ先で釣っている始末。だからこのとき、キィキィとたわむ釣竿も、2度の魚のジャンプも、写真には収められていない。慌てたカメラマンが釣竿をかなぐり捨てて走ってきて、息を切らしてぜいぜい喘ぎつつシャッターを切ったというのがあの写真、川原に横たわるキング・サーモンとそれを釣り上げたタックルだ。
プロのカメラマンとしては間抜けかもしれない。それでも私はあの写真が大好きだ。そして開高健はその写真と同等かそれ以上の臨場感で、ヒットの瞬間からファイトの完結までを文章に再現している。そういったところがあの作品の魅力だった。最高の文章に最高の写真。荒野はまさに荒野だったし、川に刺さった1本の杭は本当にそうだった。やらせなし。筋書きなし。読者やスポンサーへの媚びもいっさいなし。あるのは読者の脳裏に深く刻み込まれる筆者の生の体験だけ。余計なものは一切足さなかった。そのスタンスを離れ去ったことに、開高健7年間の変質がある、と私は思った。
とは言ってもねぇ・・・。それから長い年月を経て、私自身が『オーパ』の開高健と同じくらいの年齢に達したころ、なんとなく彼の気持ちもわかるような気がした。そりゃ、チャンスとなれば手を出すよな。自分がやらなければ、他の誰かにさらわれると思って。誰が言ったか、実は彼はノーベル文学賞が欲しくて陰で相当運動していたという話も、その延長線上で理解できる。あるいはまた、期待した称賛が得られないと、相当機嫌を悪くしたという話も。かっこ悪いとまでは言わない。ありきたりな普通の男だったんだなと思う。
私自身、他人のことなんか言えたもんじゃない。何度も頓珍漢な企てをして、赤面するような失敗を重ねてきた。自分のことを無欲で清廉だなどとはとても言えない。そう思った途端に、私の心の中で開高健が生きていることに気づいた。もはや虚勢を張らず、苦しみから解放された、等身大の姿で。ぺろっと舌なんか出して。私はふっと笑って、「何だよ、そこにいたのか」みたいな、そんな感じだ。